明けて82年は演奏会で生徒のアウエルンハンマーと2人による2台ピアノのための協奏曲変ホ長調(K365)を演奏したりしていたが、7/16に妨害工作を振り払うヨーゼフ2世の一声で、ついにジングシュピール「後宮からの誘拐」(K384)が初演された。ヨーゼフ2世は、すでに自らの改革の一環としてイタリア語によるオペラ・ブッファなどが上演されていた貴族御用達の宮廷劇場を1776年に自ら直接監督下に置き、何たることか2つの劇場のうちケルントナートーア劇場での上演を廃し、オペラブッファの組織を解散させて、ブルク劇場を「ドイツ国民劇場」と呼ばせ、ドイツ語の台詞作品上演の場として見せたのである。これによってドイツ語高揚を図ると同時に、オペラやバレーへの出資を押さえようという作戦だったが、イタリア語オペラをステータスとして好んでいた貴族達の反感を大いに買った。余りの行きすぎに、翌年ドイツ語オペラを上演する組織を再構成して、もっぱら歌と台詞の交替によるジングシュピールを上演させることとしたのだったが、こうした皇帝の制作の延長線上にあったのがこのジングシュピール「後宮からの誘拐」だったのだ。初演するやいなや大成功を収めた。この「後宮からの誘拐」は、実際は誘拐と言うよりは救出物的なストーリーを持ち、コンスタンツェとその侍女ブロンデ、さらにブロンデの恋人ペドリッロらが船で難破してトルコ太守セリムに奴隷として買い上げられた城に、冴えない王子役(つまり中途半端な救出で見事にしくじる)ベルモンテが登場するところで始まるのだが、ドイツ語の会話と歌の部分を交互に挟み劇を進行するジングシュピールというもので、全部が歌われるオペラとは一応区別されている。想像を絶するみずみずしさを獲得した序曲や、太守の城を守る中年番人オスミンの印象的な導入リート、ついうっかり2人で歌い出してしまうバッカスの讃え歌、随所に見られるトルコ風音楽の印象など、聞き所満載のこの作品は、結局逃走にしくじって4人揃って打ち首獄門となるべきところで、ザルツブルク大司教のように寛大なトルコ太守が、この桜吹雪が見えねえか、と肩をまくって円満な解決を迎えるというストーリーを持っている。このような高貴なる第3者による解決が行なわれる当時の救出劇的なパターンは、今日でも当事者同士の問題に首を突っ込み解決を図る水戸黄門のドラマにも息づいているようだ。(・・・今回はそうくるか。)上演に列席していた皇帝ヨーゼフ2世が、モーツァルトに「すばらしい、すばらしいよ君。しかし少しばかり音符の数が多すぎないかね。」と問いかけると、モーツァルトが「いいえ閣下、ジャストフィットでございます。」と答えたという逸話はオーストリアでは学芸会に上演される、定番の一こまだ。(だから嘘を書くなって。)ヴィーンに出て親しくなったクリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-87)も「誘拐」に大層感激し、モーツァルトはグルックにお呼ばれして共に食事を取ったりしているが、この「誘拐」は非常な成功を収め、ヴィーンでは対トルコ戦争でトルコ熱が冷めるまで上演が繰り返され、1788年までに39回も行なわれ、他にも各地で上演されている。
そんな82年は夏に唯一の短調セレナードであるセレナーデ第12番ハ短調(K388[384a])を作曲したり、ホルンの名手イグナーツ・ロイトゲープのためにホルン5重奏曲変ホ長調(K407[386c])や、ホルン協奏曲ニ長調(K412[384a])が作曲されたりした。またザルツブルクの知り合いハフナー家の息子が爵位をゲットされた式典のために6楽章のセレナードを作曲したが、この作品は忙しくて慌てて作曲したら、気が付けば傑作が出来ていたので自分で驚いてしまったという円熟期伝説が残されている。あまり出来が良いので、翌年83年に4楽章の交響曲に改められたが、これこそヴィーン時代の傑作交響曲の筆頭を飾る交響曲第35番ニ長調(K385)、俗に言う「ハフナー交響曲」である。話を82年に戻すと、何度手紙を書いてもレーオポルトが返事をよこさないので、モーツァルトは8/3に例のコンスタンツェと結婚式を挙げてしまったという。ヴィーン中央にあるちくちくと尖塔が刺しそうなシュテファン教会においてである。コンスタンツェはまだ19歳であったから、モーツァルトの鼻の下が伸びに伸びたてルパン三世状態に陥ってしまった。決してアロイージアの恋の身代わりでは無いのだろう。あるいは結婚した後になってアロイージアとの恋愛セカンドシーズンが沸き起こってしまったのかもしれない。つまり、モーツァルトはご結婚の後にアロイージアとの素敵な関係が芽生えてしまったという説もあるらしいのだから。結婚の後にも、グルックとお食事を共にしてみたり、宮廷に仕える貴族ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(1734-1803)と知り合って、バッハやヘンデルの音楽に触れることになった。バッハ親子とヘンデルをもっぱら信奉するヴァン・スヴィーテン男爵は、外交官としてベルリンに居た頃、ヘンデルやヨーハン・セバスチャン・バッハの音楽を知り感銘を受け、また当時の当地のカール・フィーリプ・エマヌエール・バッハなどの音楽をヴィーンに持ち帰り、自ら管理を行なう帝国図書館で音楽会などを通じてバッハやヘンデルなどの音楽を広めていた人物だったので、モーツァルトは知ってしまった。彼の音楽の知識と演奏会や楽譜を通じて、バロックの心を知ってしまった。バッハやヘンデルの音楽、教科書ではない楽曲に生きるポリフォニーを知ってしまったのである。こうして自ら交響曲を作曲するほどのヴァン・スヴィーテンと知り合ったことが、この年フーガなどの習作を幾つも残し、後にバッハの平均律クラヴィール曲集」などのフーガを器楽用に編曲する原動力になったのだが、父親に送った手紙ではフーガは妻のコンスタンツェが「どうしてもフーガを作ってくれなくってはいやよ」とせがむのですなどと書いている。ソンなわけで12月に作曲された弦楽4重奏曲ト長調(K387)においても、対位法的な書法が楽曲に生かされているのだ。このフーガ的手法を織り込んだ最終楽章を持つ4重奏曲は、後に6曲にまとめられる「ハイドンセット」の1曲目にあたる傑作である。
歌手としてヴィーンで活躍中のアロイージア・ウェーバーのためにコンサート用のシェーナとロンド「私の憧れの希望よ」(K416)などを完成させた1月だったが、この手のアロイージアのための作品もこれから先作曲が続くことになる。前年作曲されたピアノ協奏曲3曲をアルタリア社から出版し、演奏会場にはグルックや、皇帝ヨーゼフ2世が見に来ていたりと大いに活気付いた。5月にはロイトゲープのためのホルン協奏曲第2番変ホ長調(K417)が生み出され、6月には自分の子供まで生み出されたので、この機会にザルツブルクを訪れて仲直りなど果たそうかと考えたモーツァルトは、生まれたてのラインムント・レーオポルトの面倒を頼んで、妻と2人でザルツブルクに向かった。3ヶ月の滞在で親子の間にどんな会話があったかは分からないが、モーツァルトはこの機会にかねてより考えていた結婚祝いのミサ献呈を果たすべく、10月26日に旧品流用も含めてザンクト・ペーター教会に献呈し、妻のコンツタンツェが堂々とソプラノパートを歌いきって見せたという。有名なミサ曲ハ短調(K427)であるが、残念ながら作曲が間に合わず、部分が旧品流用で間に合わされたようである。さらに、この滞在中に大酒飲みで有名な?ミヒャエル・ハイドンが病気で作曲の命令を果たせないのを見て、大司教のための作品を代わりに2曲ほど作曲してあげたりしていたが、コンスタンツェとレーオポルト、ナナールとの関係は結局しっくりいかないまま、大司教が自分を引っ捕らえに来るのではないかとびくついて帰途に就いた。
一方皇帝ヨーゼフ2世が推進した「ドイツ国民劇場」によるドイツ語劇という筋書きは、この年見事に破綻をきたし、結局イタリア・オペラがブルク劇場で上演されるように、引き戻しが行なわれた。
途中リンツに立ち寄ると、演奏会を開きあっという間に作曲したと言われている交響曲ハ長調(K425)(通称「リンツ交響曲」)を演奏し、またこの演奏会ではミヒャエル・ハイドンの交響曲に演奏会で使用するため序奏を付け(K444)演奏した。(最近の説では、この序奏付けはヴィーンに戻ってからだとされる。)このリンツ交響曲はわずか4日で作曲されたとされ、後にトゥーン伯爵に献呈されているが、ヨーゼフ・ハイドンのシンフォニーなどの影響を咀嚼して書き上げた十全たる交響曲として、編曲物ではない真のヴィーン交響曲のデビュー作と云えるかもしれない。モーツァルトは序曲的意味あいの強いシンフォニーについてはヴィーン当初以前の作品を新作として演奏会に使用していたので、ヴィーンでの交響曲の作曲開始は意外と遅かった。さて、ようやく12月になってヴィーンに戻ってきたモーツァルトだったが、ランドンの説では12月の音楽家協会による演奏会で、始めてヨーゼフ・ハイドンに出会ったのではないかとされている。作曲作品についてはネットで検索するがいい。(とうとう面倒になったら)
この年モーツァルトは斬新なことに作品目録を書き留めることにした。一緒に始めた家計簿はあっさり事切れたが、この目録は死ぬまで継続的に記入され、これによって彼の後年の作品群は当人のお墨付きで作品年号と順番が分かるものが多い。栄えある1曲目は2/9完成のピアノ協奏曲変ホ長調(K449)であるが、これからしばらくはピアノ協奏曲を中心においたピアニストとしてヴィーン音楽会できら星のごとく活躍するわけだ。あまり売れっ子なものだから、「フィガロ・ハウス」(そして2006年1/27に、生誕250年に合わせて「モーツァルトハウス・ヴィーン」となり記念館を兼ねてリニューアル)と後に呼ばれる年間家賃460フローリン(=グルデン)(でも別の本では480グルデン約240万とある。)もする邸宅に移り住み、家賃に親父レーオポルトの副楽長収入とほぼ同じ額を当て、自家用馬車を持ち高価なビリヤード台まで購入。羽振りの良い生活を満喫してみた。
そんな彼、もちろん貴族邸での演奏会も多く行なわれたが、例えば毎週のように著名な音楽家を集めて演奏会を催し資金を払ってくれる新型パトロンの一人に、ディミトリ・ゴリツィン(ガリツィン)侯爵がいる。彼は62年から30年にもわたってヴィーンでロシア大使として宮廷を構えていたが、この頃モーツァルトは頻繁に彼の演奏会に顔を出したりしている。また数多きパトロン貴族の中でもトーン伯爵夫人・・・
「ナイン・ニヒツ・トーン!トゥーン、トゥーン」
わあ、何なんだ。とにかくそのトゥーン伯爵夫人とは親しいパトロン関係にあった。さらに予約者を募って行なう予約演奏会も相変わらず活発で、会員は174名を数えた記録が残され、多忙の中で夏を乗り切りつつ、ピアノ協奏曲やピアノの関係する楽曲を数多く作曲してみせた。例えばモーツァルトにしては大規模なピアノ・ソナータであるハ短調(K457)はテレーゼ・フォン・トラットナーのために作曲、勢い余って後のハイドンセットの1曲である弦楽4重奏曲変ロ長調(K458)(通称「狩りの4重奏曲」)まで完成させて見せた。ハイドンセットと言えば、この年4月にモーツァルトの手紙にヨーゼフ・ハイドンの名前が記入され、時代をリードする2人の作曲家は、この年の内にご対面を果たし、しかも年の離れたマブダチになってしまったという。その頃ザルツブルクではナナールが結婚式を挙げ、これに対してヴォルフガングの方は次男カール・トーマス(1784-1858)の誕生に喜んだ。
そしてこの年の12月、モーツァルトは例のフライマウレライ(フリーメイスン)のヴィーンにある「ツア・ヴォールテーティヒカイト」という団体に加盟したのだ。数多くの啓蒙主義っ子達が競って参加するこの団体は、身分や地位はない互いに「兄弟」の関係を持ち、後にフランス革命の原動力となった思想「自由」「平等」「友愛」を中心的な思想に持っていた。時の皇帝ヨーゼフ2世は、故マリア・テレジアのフリーメイスン禁止令を廃し、カトリックの中心ローマ教皇勢力への対抗の意味もあってフリーメイスンに大いに寛大だったので、この時期数多くの貴族達や知識人がこれに参加するようになっていたのである。モーツァルトがこれに参加しないはずはなかったぐらいだが、翌85年には結社のための作品が顔を覗かせ、「フリーメイスン葬送音楽」ハ短調(K477[479a])などが作曲されることになる。しかもフリーメイスンは「徒弟」「職人」「親方」という階層が設けられていて、順に上層の資格を獲得していく仕組みになっているのだが、彼は僅か半年ぐらいで「親方」に登っている。(よく知らんが有名人、著名な人々は皆すぐに親方になるようだから、特別なわけではないようだ。)一説には、自分で中心的に組織していたロッジの支部の経営者としての遣り繰りのために、後年かなりの収入があったのにもかかわらず、金銭遣り取りの手紙が書かれたという説もあるそうだ。
この年の1月15日にハイドンを呼び寄せたモーツァルト。82年の末から書き始められた6曲の弦楽4重奏曲を聞いて貰い、ハイドンですら驚きの作品群につい「すんばらしい」と声を高めるほどだったが、これは9月になって「貴方のすぐれた4重奏曲を父上とお慕いして懸命に生み出された子供達を受け取って下さい」とのハイドンへの献呈文が付けられて6曲セットでアルターリアから出版された。ハイドンの弦楽4重奏がそうであるように、素人の聴衆受けとは反対の技巧的に切磋琢磨した玄人好みの最先端の音楽は、好事家のジャンルとしての弦楽4重奏というジャンルが、すでにある程度確立していたことを表わしているのかも知れない。ついでにハイドンもフリーメイスンに引きずり込むことに成功したモーツァルト、しかし85年の最重要事件は次に控えている。
前のザルツブルク訪問もある程度の効果はあったのか、2月になると親父が尋ねてきた。ヴァイオリンひっさげて、親父がヴィーンにやってきた。ナナールに結婚されて、孤独になったレーオポルトが遣ってきた。ちょうどピアノ協奏曲ニ短調(K466)というすばらしい作品が予約演奏会で初演されたその日に、親父が町に遣ってきた。親父さんすっかり円くなったか、かつて最低野郎と罵っていたコンスタンツェの母にまで挨拶をして、息子の演奏会を渡り歩くハードスケジュールの売れっ子状態を内心嬉しく思い、その上モーツァルトの家での音楽会に来たハイドンから、「息子さんは私の知る音楽家の中で最も優れた作曲家です。」と言われ、うっかり「シャハトナー君、ぐすん。」と感動の一人芝居を演じてしまったかどうだか、息子に勧められてフリーメイスンにも加入して、まあまあ満足してザルツブルクに帰っていった。どこぞのへっぽこドラマなら、「これが最後の別れになろうとは、この時の2人には想像も付かなかったのである」とでもナレーションが入るところだ。
親父の居る間にもピアノ協奏曲ハ長調(K467)が完成初演され、「ハ短調ミサ」をロレンツォ・ダ・ポンテの詩によるオラトーリオとして編曲した「悔悛するダヴィデ」(K469)がヴィーン音楽芸術家協会で上演されたりしていたが、ピアノソナータハ短調の序奏として演奏されることの多いピアノ幻想曲ハ短調(K475)が完成し、6月にはヨハン・ヴォルフガング・ゲーテに曲を付けた唯一の歌曲である「すみれ」(K476)が書かれている。「それは優しいすみれだった」と一言加えて先に進めば、ピアノ4重奏曲ト短調(K478)や、ピアノ協奏曲変ホ長調(K482)がこの年の内に作曲され、10月からはロレンツォ・ダ・ポンテの台本によるオペラ・ブッファ「フィガロの結婚」(K492)に取りかかった。ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749-1838)というのは、ヴェネツィア付近に生まれたユダヤ人で、親父がカトリックに改宗したので、カトリック教徒として聖職者の道を歩み、次第に詩人に目ざめ、様々あって81年にヴィーンにやってきたら、運良くメタスタージオとお知り合いて、やがて皇帝に謁見することが叶った人物で、ドイツ国民劇場を諦めたヨーゼフ2世が捜していた、イタリアオペラの台本作家として認められたそうだ。1783年のことである。サリエーリやスペインから来た若手人気作曲家マルティン・イ・ソレルらとオペラを作曲しつつ、知り合ったモーツァルトと共同作業の意気投合してしまった。作曲に専念すれば当然一時的に収入が減るので、11月には出版業者ホーフマイスターに金銭援助の手紙を出している。モーツァルトの生活が、日常的に借金と高額収入が入り乱れる状態にあったことを理解しないと、晩年サラ金にでも追われていたようなイメージに捕われることになるかもしれない。
ヨハン・ネーポムク・フンメル(1778-1837)がお弟子となったこの年、春の演奏会のためには、最も有名なピアノ協奏曲2曲イ長調(K488)とハ短調(K491)が作曲演奏され、ついに5/1にオペラ・ブッファ「フィガロの結婚」が初演された。この作品は、フランスのカロン・ド・ボーマルシェ(1732-1799)の書いた戯曲3部作「セビリアの理髪師」(1775)「フィガロの結婚」(1781)「罪の母」(1792)の真ん中作品で、後にロッシーニがオペラ化した事で有名な「セビリアの理髪師」の続きにあたる作品だ。まず前作の粗筋として、「セビリアの理髪師」の内容を書いておこう。
・愛するロジーナと結ばれたいがため後見人バルトロの脅威を排除すべく、理髪師フィガロを雇ったアルマヴィーヴァ伯爵だったが、フィガロはそんじょそこらの床屋ではなかった。セビリアの何でも屋として幾多の修羅場をくぐり抜けた、智恵もの理髪師だったのだ。フィガロのすさまじい活躍により、一時バルトロとロジーナが婚約する危機的状況に陥るものの、見事必殺技でバルトロを打ち倒し、ついにロジーナを岩窟城から救い出した。(何か違うかな?)ロジーナと結婚できた伯爵は、自らの必殺技、つまり伯爵たる俺様が、配下のご結婚相手と先に一夜を共に出来ちゃうという阿漕(あこぎ)な「初夜権」を自ら封印し、正しい領主様を目指すことを夕日に誓って、幕が閉じるのだった。(・・・また事実とずれてしまったようだ。)
この作品はアンシャンレジームの矛盾に著しく批判高まり貴族社会の封建制を風刺した、革命前の熱気を持って生まれた戯曲だったが、この上演が非常に好評だったので、ボーマルシェは今日でもよくやるところの続き物の執筆に取りかかり、ついに「フィガロの結婚」を書き上げた。この戯曲を元にイタリア人の台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテが書いたオペラの台本に、曲を付けたのがモーツァルトの「フィガロの結婚」になる。ところがこのストーリーは庶民が貴族に勝利する要素を持っているから、貴族群がるヴィーンのオペラ界で上演するのは、非常に難しい要素があった。実際少し前には「フィガロ」を扱った劇の上演が差し止められたりしている。そんなわけで上演すら至難の業の「フィガロ」に思えたが、ダ・ポンテによるとモーツァルトの方が遣ろうと言いだして、2人はオペラ化を進め、こっそり作曲しておいてダ・ポンテが皇帝に直訴するような形で上演に漕ぎ着けたとある。皇帝お気に入りの作曲家パイジェッロの書いた「セビリアの理髪師」の続編であることに効果があったか、あるいは皇帝ヨーゼフ2世の啓蒙主義っぷりが常軌を逸していたために(これは貴族達の見解だろう)、皇帝が上演のお墨付きを与えてくれたのかも知れないが、とうとう上演にまで漕ぎ着けたのである。そんな「フィガロ」だったから、初演こそ大喝采を巻き起こしたものの、恐らくいろいろな横やりも入ったのだろう、結局9回上演されてヴィーンでは打ち切りとなって、この年のヒット作マルティン・イ・ソレール作曲のオペラ「珍しいもの(ウナ・コーザ・ラーラ)」に呑みこまれて消えてしまった。ところがこの作品は、ハプスブルクのよそ者支配を内心快く思わない独立の魂を秘めたチェコのプラハで上演されると、大人気を博し、プラハ国立劇場から「ドン・ジョバンニ」の作曲を依頼される原動力となり、モーツァルトはプラハっ子達のヒーロー的作曲家と讃えられることになる。そんな「フィガロの結婚」のストーリーなどをビックリするぐらい大ざっぱに記しておこう。
・アルマヴィーヴァ伯爵の常雇いの使用人となったフィガロは、今では伯爵令嬢となったロジーナの小間使いスザンナと、意気投合いよいよ結婚することと相成った。ところがかつての純な伯爵はすっかりエロ親父と化して、ぐへへへとスザンナの初夜権を所望致したく考えているので、必殺技の封印解除はよくないぞとフィガロが戦いを決意。ところがそこには、かつて伯爵からロジーナを奪われたドン・バルトロや、女中頭のマルチェリーナといった第2,第3の敵が待ち受けていた。危うしフィガロ、そして恋多き魅惑の雑魚キャラ、ケルビーノがマルチェリーナにも聞かせたいと歌い逆上せ上がりながらうろちょろする内に、ストーリーは佳境に入っていくのだった。以下、次号を待て。
・・・・・これじゃあ何が何だか分からないが、とにかくロイド・ウェーバーのミュージカルみたようにヒットソングの連続だからぜひとも見た方がよいと勧めておこう。もちろんそれ以上のものだが、何時か細かく解説でも加える日が来ることを祈りつつ、今は先に進もうではないか。ちなみに、このフィガロ初演では、絶世の美女にして名ソプラノ歌手のナンシー・ストレース(1765-1817)というお方がスザンナ役を演じたのだが、この年の12月に作曲されたシエーナとロンド「どうしてあなたを忘れられますか/恐れないで、愛する人よ/ネウマ」(・・・すまん、ネウマは嘘です)(K505)には「ストレース嬢と俺の為に作曲だぜ」と、怪しい台詞が書き記してあるそうだ。
さて、この年の秋には子供がまた生まれたが、瞬く間にお亡くなりて、ロンドン行きの計画を模索するモーツァルトだったが、2人の子供を預かっておくれんかなと親父に手紙を書けば、ナナールの息子を我が子のように育てていたレーオポルトに、きっぱりと断られたことなどもあり、すでに英語の勉強なども始めていたのだが、取りあえずロンドンは止めにして、12月の演奏会のためにピアノ協奏曲ハ長調(K503)を完成させた。その間にもクラリネット3重奏曲変ホ長調(K498)など数多くの曲が作曲されたが、この3重奏曲はクラリネット、ヴィオラ、ピアノという変わった編成で8月頃に完成し、ボーリングみたいな球遊びであるケーゲルシュタットをしている間に浮かんだ作品という逸話が付いて、「ケーゲルシュタット・トリオ」などと呼ばれて親しまれている。他にも交響曲第38番ニ長調(K504)も12月には完成し、その12月にはプラハで「フィガロの結婚」が上演されて、先ほど述べたように圧倒的成功を収めたのである。
1月17日にプラハに到着したモーツァルトは、継続上演中の「フィガロの結婚」が行われている国立劇場で自身の演奏会を開き、前年作曲した交響曲ニ長調(K504)を初演した。いわんこっちゃない、この交響曲は後に「プラハ交響曲」と呼ばれるようになってしまったではないか。調子が出てきたので22日には「フィガロ」の指揮までこなし、次のシーズンのためのオペラ依頼まで獲得してみせた。当地ではトゥーン伯爵?の館に滞在し、2月半ばにヴィーンに戻ったモーツァルトだったが、さっそくダ・ポンテから次のオペラの台本を手渡されて、オペラ「ドン・ジョバンニ」(K527)の作曲に取りかかった。すると親父のレーオポルトが病で重体だという。大いに気にやんで手紙を送ったりしているが、4月4日の手紙は、生死観を表した手紙として、よく紹介されている。もっとも直前年にはモーツァルトが親父に子供を見てくれませんか、ロンドンで一旗揚げたいのでと書けば、きつくお断りされるなど、晩年の関係が良好だとは云えなかったようだが、まあ、こんな感じの手紙だ。もちろんこれは、心持ちをくみ取ったいい加減なものさ。
・死は私たちの最後の目的地なのですから、私はここ数年この人間に寄り添う真実の友人とすっかり親しくなって、今ではもう彼の姿は私には恐ろしくもなく、むしろ安らぎと慰めを与えてくれるのです。だから、神が私に対して、死を最後の幸福への鍵だと教えて下さったこと(お分かりのことと思います)を、今は心の底から感謝しているほどです。私は、まだ随分若いつもりですが、それでももしかしたら、明日にはもう何か一大事があって、はや天上に旅立っているかもしれないと、そう思わずに眠りにつくことは一日もありません。それでも、私を知っている人は誰でも、私との付き合いの中で、私が不機嫌や憂鬱な態度を示したと思う人は一人もいないでしょう。
こんな手紙を書いていると、4/7には17歳になったベートーヴェンが己惚れさんよろしくボンからヴィーンにやってきた。若手ピアニストとしての腕試しを兼ねて、ケルン大司教すなわち選帝候によってヴィーンに送り出されたとされ、モーツァルトに演奏を聴いて貰って、ついでにレッスンなど所望致したくというところらしいが、残念ながら到着して2週間でベートーヴェンの母親の肺結核が悪化して、ボンに戻らざるを得なかったのである。そんなわけで、モーツァルトとベートーヴェンに関連があったとしても、せいぜい1回の挨拶程度で、演奏は聴いて貰ったかも知れないが、大した出会いでは無かったようだ。
さて、親父レーオポルトが重い病に掛ったので、ザルツブルク行きなど考えていたモーツァルトだったが、親子の絆の賜物(たまもの)か一心同体自ら重い病になってしまい、息子の方は何とか回復したが、レーオポルトはついに5月28日にお亡くなりた。不幸だの病だの良いことが無い87年だが、収入の方も減少に見舞われ、住居をラントシュトラーセの方に変えて年間50フローリンという「フィガロ・ハウス」と好対照の「ドン・ジョバンニ・ハウス」(とは呼ばないが)に引っ越した。この親父の病から死の時期には、ピアノのためのロンドイ短調(K511)や弦楽5重奏ト短調(K516)、弦楽5重奏ハ短調(K406{516b})(セレナードハ短調K388の改作)など短調作品が作曲され、また彼の死と前後して「音楽の冗談」(K522)と「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(K525)が作曲され、「音楽の冗談」、これは「駄目親父の駄目作曲の追悼なのだよ!追悼!」などとモーツァルト愛好家とやらが酷い冗談をぶちまかすことがあるそうだ。しかし実際は親父の死よりずっと早くから作曲されていたから、悪い解釈は差し控えたい。父の死後は、遺産相続のいざこざが少しあって、最終的に1000フローリンを受け取る事となった。これはヴィーンのミヒャエル・プーフベルク(1741-1822)に送られ、あるいはすでに抱えていた借金の返済として直接送られたのではないかとも、考えられるそうだ。
またこの年は数々の歌曲(リート)の名曲が作曲され、「別れの歌」(K519)や「ひ・め・ご・と」(K518)、「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いてしまったその時に」(K520)、「クローエに寄せて」(K524)などと共に、「僕が死んでも墓を拝んで涙を流してくれたなら」でお馴染みの「夕べの想い」(K523)が作曲されている。
この年は、親父様のほかにも友人の医者ジークムント・バリザーニやパトロン貴族のアウグスト・フォン・ハッツフェルトらが亡くなって、このお亡くなりの要素が「ドン・ジョバンニ」の中にも影を落としているという説すらあるくらい。短調作品が死への想いと結びつけられる意見もよくある記述だ。
しかし、87年も最後は「ハッピー!(手でハートマーク)」と叫んでしまう出来事が待ちかまえていた。まず完成した「ドン・ジョバンニ」をひっさげて10/1にプラハに向かったモーツァルトは、初演前日にコンスタンツェのおとぎ話を聞きながら序曲を完成させ、「一晩序曲」の名称を欲しいままにしつつ、10/29にプラハ国民劇場で「ドン・ジョバンニ」を初演。またしても大成功を納めてしまったのである。
・スペインの伝説上の人物だが、1630年にティルソ・デ・モリナが戯曲を書いたときに幾つかの伝説がまとめられたストーリーが骨格になって、これが各地に広まる原型となった。その粗筋は、スペインの放蕩色事師ドン・ファン(英語ドン・ジュアン、イタリア語ドン・ジョバンニ)が、貴族の娘さんを誘惑中に彼女の父親を殺してしまい、その後様々な色事あって墓地などを徘徊致しておると、かつて殺した父親の幽霊が出てきて「おおいおおい」と呼ぶ。ドン・ファン、無鉄砲にも「それじゃや宴会においで下さい」と招待したら、会場に石像が転がり込んで来てドン・ファンを地獄に引きずり込むというストーリーだ。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」では、騎士長の娘ドンナ・アンナを口説き落とそうとしていると、親父の騎士長が飛んできて剣を交えうっかり殺してしまい、しまったと飛び出したら前に捨てた女ドンナ・エルヴィーラが現われた。こりゃ大変だと、従者のレポレッロに彼女の調停を任せて逃げ出すドン・ジョヴァンニだが、婚約祝い中の農民娘ツェルリーナを見つけてさっそく「頂きマース!」と叫んだところで、ドンナ・アンナやドンナ・エルヴィーラが飛び込んで、場面混沌としてきたところで、最後には石像になった騎士長を晩餐に招待したばかりに、地獄に転落するという内容だが、この石像転げのシーンは古今東西の名場面として名高い。
モーツァルトに話を戻せば、ついに彼が長年望んでいた地位がこの年の最後の月に手に入った。ヴィーンの宮廷作曲家グルックがついにご老体から天上人に移行して、替わりに12/7モーツァルトに宮廷室内作曲家の地位が転がり込んできた・・・のではなく、グルックとは関係なく転がり込んできたのかもしれない。年給800グルデンの支給とあり、親父様が健在だったら泣いて喜んだであろうが、今は亡きレーオポルトに感謝の杯(さかづき)でも捧げながら、お祝いのどんちゃんさわぎでもしたのだろう。沢山の仕事をこなす宮廷楽長サリエーリの1200グルデンに対して800グルデンも貰ったうえ、実際の仕事は宮廷舞踏用の作曲をするだけという、ある意味破格の待遇である。しかもこれは宮廷常設役職ではなくモーツァルトのためにわざわざ用意された臨時の役職であったから、宮廷から相当に認められていたようで、晩年の忘れ去られた伝説は次第に影を潜めつつある。さて、これによって以後舞曲の作曲が目に付くようになるが、目出度い年末27日には4人目の子供テレージアが誕生し、初めての娘に大喜びのモーツァルトだったが、残念ながら彼女はわずか半年で天上に帰ってしまった。
2006/03/09