モーツァルト時代のハプスブルク家

[Topへ]

ハプスブルク家の省略歴史

 さて、もともと分権傾向の強かったドイツ方面において、新旧宗教対立が発端となって国際戦争に発展した30年戦争(1618-1648)が行なわれた後、荒廃したドイツやボヘミアの復興が開始すると同時に、帝国諸侯の新たなバランス関係が浮かび上がってきた。ハプスブルク家はドイツ諸侯を従える神聖ローマ帝国皇帝の称号は持つものの、オーストリアやボヘミア、ハンガリーなどに勢力を持つカトリック諸侯の最有力の一つとして南方に腰を落ち着け、1683年に第2次ヴィーン包囲と呼ばれるトルコ軍の侵攻を、ポーランド王の助力などで何とか切り抜けた。これに対してやはりカトリックのバイエルン選帝など、もともと独立精力的だった各選帝候を中心に勢力図が形成され、また北方ではプロテスタントのブランデンブルク辺境伯だったホーエンツェレルン家が勢力を拡大し、1701年にプロイセン王国を樹立する。その同じ年、スペイン系ハプスブルク家の直系男子が途絶え、次期国王を巡ってかつてより争いの中心であるハプスブルク家とフランスのブルボン家を中心に、スペイン戦争が勃発する。結果はブルボン家のフェリーぺ5世がスペイン国王となり、ハプスブルク家が地団駄踏んで悔しがる頃、次第にマリア・テレジアの時代が近づいてくる。
 皇帝カール6世は考えた、息子の跡取りが出来ない、長女のマリア・テレジア他娘は沢山いるのだが、このままではスペインの二の舞になる。カールは決断した。1713年に女性にも相続権を拡大する旨(むね)を発表したのである。ハプスブルク家支配を快く思わず、自らの勢力拡大などを模索する、プロイセン、ザクセンなどの諸侯達は、もちろん反対する。こんな状況の中でマリア・テレジアはロートリンゲン・トスカーナ大公だったフランツ・シュテファンと相愛の上に結婚していたが、1740年にカール6世がお亡くなり、さっそく継承反対を唱える諸侯と反ハプスブルクのフランスが連合しハプスブルク分割を画策、プロイセン国王フリードリヒ2世がシュレージェンに進行し、「オーストリア継承戦争」(1740-48)の幕が切って落とされた。シュレージェンは石炭などに恵まれ、農業にも土地が豊かだったのだ。戦争は7年間続き、フランスと植民地問題で敵対関係にあったイギリスがハプスブルクに手を貸し、また戦争中にフランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝として即位する。こうして最終的に皇帝の称号はハプスブルクが獲得したが、奪われたシュレージェンは戻らなかった。こうしてこの時期の皇帝はフランツ・シュテファンであるが、事実上政治的権力を握っていたマリア・テレジアが一般的に「女帝」と言われることになる。当時から、その領土内では彼女は女帝として認知されていたのだった。
 その後ハプスブルク家は、外交を任せていた宰相のヴェンツェル・フォン・カウニッツ(1711-94)の交渉によって、イギリスと同名を結んだプロイセンに対して危機を感じるフランスが、どうも驚くことに反イギリスを貫くべく長年の敵対関係を解消して、ハプスブルクと同盟することになった。大声で「外交革命」と叫び声を張り上げれば、さらにロシアにも近づいて、今度は3方を囲まれるプロイセンがピンチにたたされた。大王の誉れ高いプロイセン国王フリードリヒ2世は、ポツダムのサン・スーシ宮殿で「備えあれば憂いなし」と呟きながらC・P・E・バッハのチェンバロ伴奏でフルートなど演奏してうさを晴らしていたが、しかし彼は演奏の時でも戦いのことを忘れちゃいなかった。哲学者の魂を愛しベルリン・アカデミーを再興して、ヴォルテールと親交を結ぶこの男は、同時に歴代プロイセン国王の血を引くいくさ人でもあったのだ。攻めこそ最大の防御とばかり、フリードリヒ2世がザクセンに進軍を開始、シュレージェン奪還をめざすハプスブルク家との間に、1756年に「7年戦争」(1756-1763)が開始したのであった。大胆な戦術で戦勝を尽くす大王に、ハプスブルクのマリア・テレジアはフランス・ロシアとの同盟を生かして単なる物量作戦に打って出る。これは正論だ。次第にプロイセンの領土はしぼみ始める。とうとうシュレジェンも奪い返して、女帝万歳も近いと思われたある日、ところがどっこいロシアの女帝エリザヴェータがお亡くなりて、またも驚くフリードリヒ2世を尊敬するピョートル3世が1762年に即位してしまった。このピョートル3世すぐに暗殺されてしまったが、ロシアとの連携乱れる中にあって、勢いを盛り返したフリードリヒ2世が息を吹き返すとあっては、マリア・テレジアも最後には泣きながらシュレジェンは諦めて63年に平和条約を終結することになった。
 内政に置いてはフランスを中心に大騒ぎの啓蒙主義的な時代の風を受けて、衣装の自由化とか、宗教に関してイエズス会の禁止などの政策を行なっていくが、後に65年にフランツ・シュテファンが亡くなった後息子のヨーゼフ2世(在位1765-90)が皇帝に即位、急進啓蒙君主を自認しながら急進的改革を推し進めようとすると、それにはついて行けず対立気味に事実上共同統治時代を迎えることになった。
 さて、そんなマリア・テレジアが1780年にお亡くなると、さっそくヨーゼフ2世は己の道を邁進する。翌年には農奴解放令を出し、農民は旗を振るが、貴族達は怒り狂う。宗教寛容令では、キリスト教宗派を問わずの平等を認め、同時に数多くの修道院を解散させつつ、その財産を国庫となし、貴族勢力の弱体化と商工業の復興に、中央集権の王政強化を図るが、元々貴族達の勢力が漲るこの地方に置いては、抵抗勢力たる貴族達との軋轢で改革は徹底せず、遂にフランスで革命が起きるのを横で眺めながら1790年にお亡くなる。その改革は企画は良かったが滑って転びまくりだったかもしれないが、実際は彼の理念はこの後に少しずつ政治に取り込まれていくことになるのだった。
 ヨーゼフ2世が亡くなると、神聖ローマ皇帝の座は弟であるレオポルト2世(在位1790-92)が継承する。彼は農奴制廃止令の廃止や、賦役の復活を行なうことによって空回り気味に行きすぎた改革を後ろに引き戻し、しかし僅か2年でお亡くなることによって、最後の神聖ローマ皇帝として知られる息子のフランツ2世(在位1792-1806)に道を譲る。フランツ2世はフランス革命軍の脅威に対抗すべく対仏大同盟に参加し、一方ではプロイセンとロシアと共謀して1795年にポーランドを勝手に分割。1772年から3回に渡る領土分割によって、この年独立国ポーランドは事実上消滅した。この他国支配の怒りの中にショパンが誕生してパリに向かってみるのは、これよりもう少し先のことである。そうなる前に、まずヨーロッパは巨人ナポレオンの登場によって、大いに右往左往する一時代を迎えるのであるが、フランツ2世もアウステルリッツの戦いでナポレオンとの戦いに見事に敗れ、1806年に神聖ローマ帝国皇帝の座を追われ、これを持って神聖ローマ帝国の名称は終了となったのだ。その後彼は、自らの支配地であるオーストリアとハンガリーを中心とするオーストリア帝国の皇帝フランツ1世として即位、ナポレオンが転げた後はヴィーン会議でメッテルニヒが活躍して、1835年には息子のフェルディナント1世(在位1835-1848)にオーストリア皇帝の座が移るのは、また先の時代のお話だ。

2005/04/27

[上層へ] [Topへ]