迷妄愉快の精神で突き進むから、注意して下さいな。私は世界史の知識酷く不十分ですから。つまり本の知識を継ぎ接ぎして迷妄で結びつける方針ですが、この時代の音楽となるとニューグローブぐらいは参照にしないと問題外なのですが、ニューグローブなんて生まれてこのかた見た事もないので、信用できないと用心してから読んで下さい。
300年代はキリスト教にとって重大な年代だった。305年に譲位するまでディオクレティアヌス帝はキリスト教徒に弾圧を加えていたし、その後の内乱期には帝国自体が幾分混迷を見せたが、目出度く勝利を収めたコーンスタンティーヌス帝が313年にミラノ勅令でキリスト教を公認宗教とすると、キリスト教の伝道布教と教会整備は急激に進行した。コーンスタンティーヌスは同じ313年のうちにサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会をローマ大司教ミルティアディスに贈り、同じ頃ローマに8つの教会が誕生した。地下墓地カタコンベの隠れた埋葬は地上での墓地埋葬に代わり、首都周辺に幾つもの墓地が生まれた。コーンスタンティーヌス自身は後に、首都をビザンチオンに移してコーンスタンティーノポリスとし、ローマを離れる事になるが。やがて西ローマ帝国も崩壊したのち西側教会の中心人物であるローマ教皇となるのは、この地の大司教に他ならなかった。
・さて、3世紀後半に始まったエジプトやパレスティナでの修道院運動と詩編連唱の大流行は、次第に修道院聖務日課を誕生させながら、修道院制度自体と共に西方に流れ込んで来た。この詩編唱を伴う聖務日課を持つ修道院運動の波を被りながら、この時期始めて迫害もなく各地教会の代表者が集まり会議を開き、時に皇帝自身がキリスト教義について決定を下しながら、やがてキリスト教公認の聖職者達による大聖堂のミサと聖務日課が形を整え、詩編唱を歌う事を日課の中心と置くようになった。この聖務日課に関しては、以前は朝と晩の祈りがあっただけだったが、修道院運動の影響から、日中の3時課、6時課、9時課(それぞれ9時、12時、15時)の祈りが4世紀中に整備されていった。やがて、530年頃に聖務日課を初めとする修道士の規則ごとを記した「戒律」を残したベネディクトゥス(c480-543)は、ローマより南東にあるモンテ・カッシーノに修道院を開き、ヴェネディクト会の開始を告げる事になるが、彼の時代には教会でも修道院でも聖務日課は8つの伝統的な形にまで辿り着くことになる。こうして典礼の大きな枠組みはある程度出来上がったが、各地の典礼の統一を図るより前に、帝国は傾きながら崩壊したため、再び光が差す8世紀以降に各地地方聖歌が一斉ににょきん出て見える不可解な現象を引き起こす事になった。
・今日残されたキリスト教に関する著述などを見ると、4世紀以前キリスト教における音楽の使用は、夕べの信徒達の会食に多く見られるが、他の時に歌っていなかった保証は無い。分かっている事だけを述べると4世紀以後では、確実に公的な教会での聖体拝領の儀式の中に、聖歌が取り入れられるようになって行った。4世紀の間に、現在のミサと聖務日課の原型が、そして西洋音楽史の初めに登場する典礼聖歌の大枠が登場する事になったのである。それに合わせてこの時期カントール(カントル、独唱歌手というか第1の歌い手というか)という役職が4世紀後半初めて姿を表わした。改めて眺めると面白い話だが、ミサで聖歌を歌う儀式と詩編唱を歌うという儀式自体は、ユダヤ教の伝統の中からキリスト教の誕生を介して、遙か西のヨーロッパまで人工的に移植される事になったのである。その後ついにテオドシウス帝(在位379-95)は、300年代最後の392年の勅令によってキリスト教以外の宗教を異教とする国教化に乗り出すのであった。今やキリスト教であることは出世の条件となり、数多くの特権と名誉の与えられる教会の役職は、清く正しいキリスト教の新鮮なイメージもあって、多くの貴族達の憧れのポストになった。この時期の皇帝達は軍人達からすぐれた人材を見つけては公的役職に当らせていたが、この職にはかつて元老院議員だけを指していたセナトールの称号が与えられ、その新しいセナトールの階級はキリスト教徒で満たされる事になったのだ。
・もし帝国が瓦解せず勢力も衰えず皇帝の権力も絶大なまま、さらに数百年続いていたら、あるいは皇帝の威信の下に、東西教会すべての統一した典礼方法と典礼聖歌が誕生したかも知れない。しかしそうはゲルマンが許さなかった。(ローマが弱った以上は、ゲルマンでなくても許さなかったのだろう。)教会公認の後、多くの公会議が催され、キリスト教の重要な事柄について決定がなされていったが、特に東方教会はキリスト生誕地にも近く自らの正統意識が強かったから、聖歌も典礼も西方とは異なる独自の伝統を守り続けた。この東方教会のあった地域では、地域ごとに独自性を持ちながら、またローマ帝国分裂後の様々な変遷を辿りながら、最終的に今日まで独自の聖歌伝統を温存している。もちろん当時の音楽の形がどの程度反映されているのか分かったものではないが、音楽史にご登場する聖歌名称だけ(典礼全体から切り離して聖歌だけを取り上げても問題外という噂もあるが)上げておく事にしよう。
「すなわち、交唱が始まったとされるシリア聖歌、アルメニア聖歌、コプト聖歌(エジプト)、アビシニア聖歌(エチオピア)、そして東ローマ帝国御用達ビザンツ聖歌がそれだ。」
・東ローマ帝国に関して云えば、お騒がせ皇帝ユスティニアヌス1世(在位527-65)時代になってコンスタンティーノポリスの典礼と音楽が再編され、さらに財政破綻とササン朝ペルシアやイスラーム軍との激突に明け暮れる600年代に入ると、ラテン語からギリシア語に公用語が変化し、この頃からギリシア文化の影響色濃い独自の文化を生み出し始め、ビザンツ聖歌はギリシア語の自由宗教韻文詩を中心に聖歌を発展させ、西方のラテン語詩編による発展とは異なる方向を歩むようになった。(あるいは初めから歩いていたのかもしれないが。)ついでに加えておくと、東ローマ帝国とは言っても、彼らは自らをローマ帝国と名乗り続けたし、ビザンツ帝国の名称もまた、コンスタンティーノポリスが以前ビザンチオンと呼ばれていた為に生まれた名だが、当人達は使用しなかった。後代の歴史的見地から7世紀のヘラクレイオス1世以後、ギリシア文化を大きく取り込んで、西と異なる文化を生み出した以降を、ビザンツ帝国とする向きもあるややこしい名称だ。
・このギリシア語韻文詩は讃歌(ギ)ユムノスを中心として、3つのタイプに分けられるそうだ。特に4,5世紀に栄えたトロパリオンは詩編の句間に挿入された短い応答が発展しているうちに、独自の聖歌に上り詰めもした。一方5世紀末から始まった有節的なコンタキオンは、聖書の句をパラフレイズして作られた詩に音楽を付けたもので、教科書によると「図抜けた第一人者は、改宗したシリアのユダヤ人で6世紀後半にコーンスタンティーノポリスで活動した歌唱者聖ロマノス」だったという。しかし7世紀にカノンが作られるようになると、コンタキオンを凌駕した。9つある聖書のカンティクム(新約旧約聖書の中に含まれる詩編以外の箇所の讃歌)にちょいとばかり手を加えてこね直した9つの(ギ)オーデに曲を付けたカノンは、それぞれが異なった韻律と旋律を持っている。それぞれのオーデは9節ぐらいの詩を持ち、各節は1番目の韻律と旋律の繰り返しで行われる。まあ面倒だから、同じ詩のリズムで9回同じ旋律が繰り返すと思っておけばいいでしょう。名称としてはその他にも、聖務日課の詩編の詩句の間に歌うトロパイオンをスティケロン、とくに聖母賛美のトロパリオンをテオトキオン、皇帝来賓の歩きに合わせて部下が順番に歌う世俗トロパリオンをガッダマルキア(・・・嘘ですそんな世俗トロパリオンなんてありゃしません。疲れてきたので、つい出来心で。)
・ビザンツ聖歌は単声のまま進行し(と云うか祈りの歌をポリフォニーで歌うという発想の方が遙かに異常事態だ。発展と云うより迷妄だ。迷妄。お陰で今日があるわけだけど。)、音と言葉が1音節で進行するシラビック型を基本に置き(典礼用の歌だから、メリスマ的であるよりシラビックである方が正常だろう)、沢山のストックされた旋律型を組み合わせ、組み替えていく方法に特徴があるそうだ。ビザンツの音楽理論として中世になだれ込んだ8つのエコス(オクトエコス)については、実際は開始音終止形や特有の音程進行を持った旋律の8つの類型で、4つの正格エコスと4つの変格エコスがあり、この8つのパターンのいずれかにそれぞれの讃歌が分類されるというものだった。そしてこの8つのパターンは8週間に対応され、第1週の典礼には第1旋法、第2週には第2旋法と対応するものだったが、ギリシア音楽理論を誤りながら取り込んだように、このエコスも誤りながら(というより美味しい所だけ?)取り込んだフランク王国の学者達を経由して、目出度く教会8旋法が誕生する事になった。つまり彼らによって(完成は11世紀頃になるが)エコスは音程関係と開始音、保続音、終止音よる旋法として再構成される事になった。一方世俗音楽では、ローマ帝国以来の大祝祭儀式音楽が継続され、ユスティニアヌス帝の頃には戦車競技なども継続どころか大いに沸き返っていたぐらいだが、案の定その音楽はすっぽり消え失せてしまった。
・しかし教会典礼や制度が整えられる頃、すでに375年には騎馬民族フン族に追い立てられたゲルマン民族の雪崩が始まっていたのである。これにより東ゴートの一部はドナウ地方に逃げ延び、翌年には西ゴート族も黒海地方から追い立てられて、トラキア地方に移動。東ローマ皇帝はこれを撃退できず定住を許可し、ゲルマンを領外に留め置く政策は見事に破綻した。その程度のものかと思ったかどうか、ローマの商人達の薄汚い遣り口に腹を立てた西ゴートがたちまち反乱を企て、これを鎮圧に出かけた東ローマ皇帝ウァレンスは378年アドリアノープルの戦いでうっかり戦死。新しい安息の地を求めた西ゴートは格好(かこ)いい名前のアタナリック、アラリック、アタウルフの3代、約40年を掛けて帝国内の放浪と略奪を繰り広げる事になる。皇帝を失って大いに慌てた東ローマの都コーンスタンティノポリスでも攻めれば、世界史も変わっていたかも知れないが、西ゴートに限らず、ゲルマンの皆さんには北アフリカに理想郷でもある幻想を持っていたものか、それとも背後に控えるフン族が恐ろしかったのか、西ゴートもまずイタリアに突入して大いに荒らし回り、410年のアラリック(羅アラリクス)に至っては3日間ローマを荒らし回って大いに略奪を欲しいままにした。旧ローマ略奪(旧サッコ・ディ・ローマ)である。この切ない略奪の410年、遠く離れたブリテン島ではローマ兵の撤退が決定されていた。こうしてブリテン島のローマ帝国内商業活動も420年代には終わりを告げるのである。さて、アラリクスに対抗するために、すでに406年にライン最前線の軍隊をイタリアに引き戻していたため、見事に防衛ラインは影も形も無くなって、ゲルマンの皆さんの通り道が出来上がっていた。この406年、ゲルマン人は一斉にライン川を越えて部族ぐるみの進入を開始するのである。その頃イタリアで暴れ回る西ゴートの方は、かつてのカルタゴの地チュニジア当たりを夢見て、船団を組織するが、嵐のため船団は壊滅しあえなく断念、反転してアルプスを越えてフランス南西部アキテーヌ地方と流れ込み、次のアタウルフ王はローマから奪ってきた国王テオドシウス帝の娘であるガラ・プラキディアと結婚を演出して、ローマ帝国と和解したのだと大いに威張って見せ、ゲルマンの中で一際抜きんでた存在をアピール、遂に次の王ワリアの元で418年にトゥールーズを首都にゲルマン人の西ゴート王国を建国した。ローマにはもはやこれを止めるすべを知らなかったのである。
そんなわけで400年代は激動の時代だった。すでに軍隊引き上げの少し前の400年頃から、ローマは財政の重圧に耐えかねてライン川、ドナウ川付近に張ったゲルマン民族に対する防衛線リーメスの政策を断念、代わりにローマの建設した都市(キウィタス)を城壁で囲い、都市防衛を固める事によって国境を守る政策を打ち出していた。周辺を取り込んだゆとりのあるはずの都市は城壁で閉ざされ、密集空間に移行。なんだかローマの防衛ラインはすっかり手薄になってしまった。一方で西ゴート族がいち早くローマを荒らし回っているとあっては、俺たちも後れを取ってなるものか、とでも思ったか、それともフン族が怖かっただけなのか、ライン防衛の軍隊が消えた途端に406年、ゲルマン人達は各部族それぞれにローマ側に流入を開始した。戦争のための兵士が進入するのではない、部族ごとに新たな定住地を見つけるべく大移動を行っているから手に負えない。かつてのローマ帝国の領地は次々にゲルマンの新しい王国に塗り替えられていった。後に破壊行動主義をヴァンダリズムと命名するに至った、ヴァンダル族もこの時ライン川を越え、まずスペインに突撃隊を試み、アンダルシアの土地名にヴァンダルの名前を残しながら、西ゴート族との戦に敗れ、429年北アフリカに活路を見いだすべく18万のヴァンダルの民はジブラルタル海峡を渡り、結果として西ゴートの果たせなかった北アフリカ入りを実現させ、10年という長い月日を掛けて嘗ての夢の都カルタゴを首都に王国を建設するに至った。この時包囲されたヒッポの司教アウグスティヌスが告白の中で、あるまじき破壊主義のヴァンダルと恐れたヴァンダル王国の誕生である。一方ブリテン島にはローマ兵消えた後ケルト民族であるブリトン人達の勢力争いが開始していたが、北海沿岸のゲルマン民族が400年代半ばに上陸を開始。ケルト人とローマ人の血を引くブリトン人の貴族アルトゥリウス(アーサー王のモデルとも)が迎え撃つが、次第に勢力を拡大するゲルマン勢は、500年代初めにはアングロ・サクソン族同士が7つの王国を立て争う7王国「ヘプターキ」時代に突入して行くのである。
そのゲルマンの後ろにはフン族のアッティラ大王が跡を継ぎ、金目の部族を虎視眈々と狙っているから恐ろしい。ゲルマン達もローマに進出しているんだか、逃げているんだか分かったもんじゃない。東ローマ帝国の方では、西ゴートが漸く消えたかと思ったら、今度はフン族に攻めたてられて、西の情勢に構っている場合じゃなかった。首都コーンスタンティーノポリスでは、447年に進入を行うフン族に立ち向かうべく固めた城壁が、大地震で1月中に崩壊し、市民1万6千人を動員して「負けたら奴隷」を合い言葉に奇跡の3ヶ月工事で城壁を回復、フン族には大量の金貨を支払って、ようやくお引き取りを願う始末だった。フン族は「それじゃあ今度は西方で美味しい獲物を獲得しようか」と西に進出を開始、これは奇跡の大連合ローマ軍と、西ゴート、ブルグントの兵が一丸となって451年のカタラウヌムの戦いで何とか撃退し、まだまだ力任せに翌年ローマに向かって怒り来るフン族を、教皇レオ1世(在位440-461)が何とか説得してお帰り頂くことが出来た。このアジア遊牧民による動乱は、453年にアッティラ大王が亡くなると、フン族自ら急激に崩壊の道を歩み歴史から消えていくが、この時アッティラ大王の残した呪いの言葉、「千年後に帝国の息の根を止めに来る」の一言は1453年の東ローマ帝国滅亡となって現実のものとなった。
こうしてゲルマン人達はあちこちに王国を建国した、というか、定住した後で、皇帝からお墨付きを貰って皇帝の配下として博を付けると、たまらなく良い心持ちがするのだった。すでにローマの地方行政機関は崩壊し、地方都市などでは新しく整備されていた教会施設が都市行政の肩代わりをする傾向にあったが、今やキリスト教世界全体の統一的教会など遠い夢物語に思えてきた。476年、西ローマ皇帝に使えていたゲルマン人傭兵隊長オドアケルはクーデターでロムルス・アウグストゥルスを王座から追い出し、西ローマ帝国はついに滅亡してしまうのである。彼は他の部族と同じようにローマにゲルマンの国を作り東ローマ皇帝に承認を貰うことにした。ゲルマン人から見れば、これで十分にローマ帝国の一員なのだった。実在の西側ローマ帝国は、ゲルマンの王達がそれぞれ自らをローマ帝国の一部だと自認している間に、いつの間にかどこかに消えてしまったようなものだ。東ローマ皇帝が認めてくれれば別に良いじゃないか。オドアケルもそう思ったが、やっとフン族の脅威も取り除かれた東ローマ皇帝は、フンの束縛から解放された東ゴート族の王家の血を引き帝国首都に留学するテオドリック(羅テオドリクス)を東ローマ帝国の軍最高司令官、続いて執政官に任命し、オドアケルを討伐するべしとの指令を下した。こうしてオドアケルはあっさりテオドリック(羅テオドリクス)に滅ぼされ、しかしテオドリック(羅テオドリクス)はいよいよ隠した野心を表わして、イタリアにとどまり、493年にラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建設した。
一方元々すぐローマ帝国内ガリアのお隣に住んでいたフランク族は、実は3世紀頃のゲルマン部族内の大動乱の中から生まれたらしい、共通意志で混成されたゲルマン諸部族のまとまりで、フランキ「大胆なもの達」といった意味がフランク族の名称となっていた。彼らは元々ローマ文化に近い関係にあり、ローマの高位官職を担うものまで居た。しかも大移動をする必要もなく、後退するローマに合わせるように西に進出していった。特に482年にクロヴィスが王位に付くと、ローマ帝国の凋落に乗じて独立して王国を作っていたローマ貴族シャグリウスを蹴散らし、486年の大勝利を抜けてついにセーヌ川はおろかロワール川付近までを領土下に納めると、フランク王国として一層勢力を拡大、496年には3000人のゲルマン戦士と共にアタナシウス派キリスト教(つまりローマ・カトリック)に改宗しながら、とうとう南フランスの当たりに領土を張る西ゴート族と対決し、これにより西ゴートはアラリックも戦死して、スペインに後退し(というか東から見れば進出になってしまうが)トレドを首都に西ゴート王国を継続させた。面白い事に早くから帝国内に転がり込んでいた西ゴート、ローマ帝国健在時に関係の深かったフランク、そして東ローマ帝国との関係の中で鍛えられたか東ゴートでは、ローマ的な行政組織などに対する意識がある程度吸収され、フランクのクローヴィスはパリのローマ地方行政の人材を使用したし、西ゴートはスペインで行政組織形成を目指した。そして東ゴートはテオドリック(羅テオドリクス)のラヴェンナの王国で、もっともローマ組織と人材を保ち続けていた。官僚組織的行政の意識がかつてのローマ帝国の中心地イタリアでまず教会制度として組織され、国家的面ではフランスでいち早く始まるのは偶然ではないかもしれない。(迷妄迷妄、愉快愉快。)
このような民族転げと帝国崩壊の荒波に巻き込まれた行政官僚達や知識人達は、ゲルマン支配への反乱に身を投じるものも居たが、ゲルマン支配下の中で新しい組織要員としての模索を開始した。特に東ゴート支配下のイタリアでは、テオドリック(羅テオドリクス・・・まだやるか。)がコーンスタンティーノポリスでローマ人教育を受けた事もあり、ローマ法とローマ諸制度の伝統が守られ、公共事業が行われ、略奪は禁止され、ローマ市民達も反感を抱きながら、6世紀前半に至ってもまだローマが健在なのだと勘違いする事が出来た。西洋音楽史の理論的方面の一歩を踏み出すカッシオドルスとボエティウスの活躍は、この時代のことである。偉大なローマは、ローマはまだ死んでは居なかったのだ。力が漲ったボエティウスらローマ貴族達は調子が出てきたので、東ローマ帝国の策にも乗じて東ゴート打倒の陰謀を画策、見事発見され524年に処刑される最後となった。この戦う音楽理論家の勇姿は近々公開される映画「ボエティウス」で堪能出来るに違いない。(本当に見てみたいものだ。)しかし陰謀は破れたが、東からとんでも無い奴が現れた。若き皇帝ユスティニアヌスが東ゴートを認める方針を一転させ、テオドリクスの死後4年立った530年に西方進出を開始、勇将ベリサリウス将軍を北アフリカに向け、ゴート戦役が開始された。
「東(ひんがし)の野に炎(かぎろい)の立つ見えて、返り見すればユスティニアヌス傾(かたぶ)きぬ」
これは、時代錯誤的な統一ローマの夢を見たユスティニアヌス帝が、東方の帝国から進軍を開始したが、最後には彼自身の帝国財政が傾いてしまった事を皮肉ったカッシオドルスの晩年の句である。(・・・また、妄想病が。)彼は580年まで生き、イタリアがこの戦争で荒らされ滅亡状態に陥る様を悲しみの涙を讃え見詰めていたのである。このゴート戦役によりヴァンダル族は跡形もなく崩壊し、533年にイタリア侵攻が開始され、恐るべき30年戦争(旧30年戦争とも)によってついに東ゴートは滅亡した。しかし、このすさまじい荒廃によって、最後の命脈を保っていたローマ帝国の精神も栄光も、すっかり消え失せたのである。これを見た別のゲルマン族ランゴバルト族はロンバルディア地方の名称に名前を留めているように北イタリア一帯に進出。イタリアは南北に2分されてしまった。いよいよ都市という都市がことごとく崩壊し、地中海ローマ都市の住人や知識人が大量に東ローマに流出し、資料すらほとんど残されていない暗黒の時代が到来したのだ。しかも5世紀から7世紀にかけて、間氷期における氷河の巻き返しか寒冷と降水量の増大がヨーロッパを覆い、生命の源である食物調達に影響を与え、湿度増加と栄養失調がもたらす疫病の蔓延を日常化させたらしい。ローマは何たる事かアラリクス略奪前に80万あった人口が、552年の東ローマ帝国占領時には切ない3万人になってしまった。その後ランゴバルト難民を受け入れ人口が増加するが、6世紀後半は疫病、飢饉と呪われたかつての都は、城壁内部の市街地の大半を崩壊した瓦礫の山として無人地区「ディスアビタート」とし放置、わずかの住民は居住区「アビタート」を求めて、テヴェレ川の中州の島付近に、震えながら固まっていた。グレゴリオ1世(590-604)は「うた歌いません勝つまでは」(嘘)をモットーに、病床の身をむち打って食料水補給から貧民救済から、行政と教会の建て直しから、ランゴバルト族への防御から驚異的な精神力で采配を振るい、イングランドなど各地に修道士を送り込んで修道士達による布教を推し進めた。このときイングランドに布教活動に派遣された(ミラノの有名な方とは別人の)アウスグティヌス以下40人の修道士達の布教活動は見事に功を奏し、彼はカンタベリー大司教となってキリスト教の土台を打ち据えた。彼らの中で崇拝高まる送り出し主のグレゴリウス1世(在位590-604)の名前が一人歩きし、フランク王国に逆輸入されるとき、何時しか西側典礼聖歌がグレゴリウス1世の名前に冠される事になるのである。しかし、実際の彼はスコラ・カントルムなど全く持って組織しなかったどころか、禁欲主義精神を持って歌う事に反感を持ってさえ居たかも知れないが、いずれにしろ聖歌の制定などしている場合ではなかった。そもそも彼は、教会聖職者よりも修道士達に共感して、聖職者養成の為に組織されたスコラ(教育機関。スコラは要するに英語のスクールで、元々はギリシア語で「余暇」の意味だったが余暇は知識を得るための時間と思われたからか「学ぶ所」を指すようになって、ラテン語のスコラとして中世になだれ込んだ。つまりキリスト教における聖職者の養成学校もスコラと呼ばれたが、ローマ帝国崩壊後はここだけがもっぱら教育機関となったため、スコラといえば教会の機関という結末を迎えた。そして時代が下って、教育機関が教会から独立していくと、様々な経緯があってスクールというわけだ。)とはむしろ折り合いが悪かったらしい。聖職者の地位を身近の修道士達に与え、死後も聖職者達から恨まれていたとも云われている。ジェームズ・マッキノン氏の語るところ到底スコラ・カントルムなど組織し得なかったそうだ。ただしこのことは聖歌の歌い方が教育されていなかった訳では全然無い。つまり公的名称を与えられるずっと以前から大学機関の成立が開始していたのと同様で、承認以前に同種機関は形を整えていたのだろう。さて、一方この時代の教会聖職者達はもちろん聖歌伝統を継続させ、ランゴバルトによって攻め滅ぼされ教会伝統もろとも自分達が消え去るかもしれない危機的精神の中で、教会での聖務日課と聖体拝領、伴う音楽を守り続けたのだろう。(妄想妄想、愉快愉快。・・・実はあまり愉快じゃない。どうも、からっきし、さっぱりしない。)グレゴリオ1世の踏ん張りは無駄ではなかった。ランゴバルトの侵略に屈せず、人口は増加に転じ、やがてランゴバルトをカトリックに改宗させる事に成功すると関係も少しく好転し、グレゴリウス1世の後1世紀を通じてローマは再び巡礼者の集まる、経済的に豊かな都に回復を始めた。すでに608年にはボニファティウス4世がローマ帝国の建築したパンテオンをサンクタ・マリア・アド・マルティレス教会(聖母マリアおよび殉教者たちの聖堂)として献堂し、しだいに混沌の暗闇は600年代を突き抜け、700年代にはローマに「レズルレクシ(私は復活した)」の狼煙が掲げられ、同じ頃ローマ的摂取の他より勝ったフランク族がカロリング朝に変わるとフランクの方も文化的な輝きを見せ始め、ローマとフランクは栄光の800年に向けて前進するのである。(疲れて大分ずぼらな記述になってきた。)ただし、資料的に保証されていない上に、ゲルマン族が宮廷的定住地を定めて居ないからと云って、それは慣習の違いの問題で、おまけに侵略地への柔軟な政策は元来多民族国家を旨く纏めていくうえでローマが身につけた統治上の手段だったのだから、略奪的である事を持って劣等の種族と見なす事も出来ないゲルマン民族達の、質的な違いこそが中世の暗黒時代を作り出した側面もあり、人数的には多数派の旧ローマ側の人間にとってはともかく、ゲルマンの皆さん含めてこの時代が暗闇の時代だったとは云えない。後進的だろうと何だろうと、ゲルマンにはゲルマンの音楽や物語伝統があって、それはそれで芸術的活動であり、知的活動なら、この時代にも文化芸術的活動が途絶えたとも云えない。とは言っても、以前より水準が下がれば、やっぱり後退現象じゃないか。(・・・君、しっかりしたまえ、いったい、何が言いたいのだ。)いや、だからゲルマン人にとっては暗黒じゃなかったんじゃないかって。(ほう、言い終わったらお引き取り願おうか。)あう。
・こうして古代末期450年頃の典礼聖歌状況を最後に、ローマ以後の暗黒時代へ向かうと、我々の拠り所にするべき記述資料の量が急激に減少し、ゲルマンの大移動と旧体制の崩壊と変質、経済重心の移動と物質的基盤の低下は、教育の低下による知識階級の衰退を招き、新たなシステム構成の模索が続けられた。ローマ帝国の国教としての教義統一と、帝国内教会の設置と典礼方法が、ローマ皇帝のリードする宗教会議により確定する最中に、帝国のシステム自体が崩壊を開始。450-600年の間はキリスト教会同士のネットワークさえもおぼつかない有様だった。アルル司教カエサリウス(542没)は詩篇唱が、自分の教区にようやく届いたと喜んでいるし、ローマ内ですら教皇ダマススが詩篇唱の習慣が守れらないと嘆いている。この時期には後に登場する年周期のそれぞれの特定祭日と特定聖歌の結び付きはまだ見られなかったらしい。分断された各地の教会は、有力都市を中心に、再び光りが指す時代を待ちながら、かつて帝国で定められたミサと聖務日課の伝統を、必死に温存し続け、ある時は外部からの流行が取り入れられ、またある時は占領者の意向が反映され、あるいは聖職者が集まり決定し、それぞれの地域での特質を持った典礼様式や典礼聖歌の歌い方を生み出したのかも知れない。(はったりじみている。)ただし司教、聖職者に修道院代表も加わるようなキリスト教全体の公会議は、第1回公会議である325年第1ニカイア公会議から第7回公会議(787年第2ニカイア公会議)まで(325,381,431,451,553,680,787年)と東西一致して開催されていた。次の第4コンスタンティノポリス公会議では869年から870年に掛けてと879年から880年に掛けて開かれ、西方教会はそのうち前者を第8回公会議とするのに対して、東方は後者だけを第8回公会議とし、東西分裂が表面化し、以降公会議は東西に分裂した。まあ、各教会の情報網と大まかな方向性は帝国崩壊後も無くなったわけではなく、各地の典礼と聖歌は個々に発展しながらも、ある程度発展の指向性は共通意識が保たれていたのかも知れない。はっきりいって、よう分からんし、キリスト教史の文庫本があったはずだが、興味のある人が考えて下さい。とにかく資料ある時代が幕を開ける頃、暗黒と呼ばれる時代にそれぞれ発展した地域ごとの典礼が顔を覗かせる事になった。(文字通り暗黒だったら聖歌の発展すら見られなかったのでは?)えい、放っておいてくれ。
「とにかくガリア聖歌(フランク人達の領土で)、モサラベ聖歌(スペイン)、ヴェネヴェント聖歌(南イタリア)、アンブロシウス聖歌などがそれぞれ発展した形で姿を表わすのだ。さらにこれより遅れて発達したイングランドのセイラム・ユースと呼ばれる独自の方言的聖歌はルネサンス期にまで独自の影響力を持っていく事になる。」
・それはさておき、ここでアンブロシウス聖歌について加えておくと、これは元々西ローマ皇帝の居住地でありメディオラーヌムと呼ばれていたミラーノで発展した聖歌で、この地はビザンティウムなど東方との結びつきが濃かった。大司教アンブロシウス(c339-97)の頃に大聖堂聖歌が定められたとされ、アンブロシウスから洗礼を受けたアウグスティヌス(354-430)は「387年の洗礼の少し前頃、この教会では互いに歌を歌い合い励まし合う習慣が起こって、私たちは懸命に心と声を合わせ歌いあったのである。ちょうど東方教会から賛歌hymnusと詩編psalmusを歌う習慣が大聖堂に定められたのだから。」見たような事を書き記している(・・・見たようじゃ困るんだが。)他の資料からもおおよそアンブロシウスが交唱詩編唱や賛歌を導入してみたのがミラノ式の発端となった。つまり詩編唱では独唱者が詩句前半を歌い、会衆が後半を応答するんじゃなもし。この交唱詩編唱は教皇チェレスティーヌス1世(在位422-432)によってローマに取り入れられたとされるが、この時代はまだ西の帝国は存在していたわけだ。このミラーノは後にランゴバルト族の進出により、568-744の間ランゴバルド王国の首都となり、いろいろな経緯があるのだろうが、この間ローマとミラーノの典礼の関係はどうなっていたとか、俺はそんな事に頓着していられない。また、頓着しても資料も気力もないから、到底ものになりそうにない。もっぱら西洋の音楽と社会1「西洋音楽の曙」(音楽之友社)を手元に置いて教科書代わりに進行するから、詳しく知りたい人はまずグレゴリオ聖歌の種類と歌い方でもマスターしてから3800円を出してこの本を購入してくれ。ただし、音楽史と中世初期に対するよほどの好奇心がある人でないと、難解なだけでちっとも面白くないかも知れない。とにかく、その本には単純応唱詩篇唱が、専門家の登場で旋律がだんだん複雑化し、次第次第に高度な音楽に変質していき、やがて長大に引き延ばされた詩篇は1句をのこして省略され、聖歌隊による反復句レスポンソリウムと独唱句だけが残ったという、旧的な考えが迷妄迷妄愉快愉快と笑われ、比較的短い期間に教会歴の各日のテキストや歌い方が定められ、それに合わせて聖歌が選定されていったのだと笑っている。(笑っちゃいないか。)しかもこれはグレゴリオ1世の時代ではなく、グレゴリオ2世(在位715-731)の時代という事が力説されているのだ。
ランゴバルトの脅威への対処と、同時に駐屯する東ローマ駐屯軍の脅威もあり、東ローマ皇帝の影響力に脅かされ続けるローマ教皇だったが、ローマの復興と共に自立の精神漲り、次第に駐屯軍自体も西の守備隊の心持ちがしてきた所に、次第に教皇側と皇帝側の神学的対立が表面化してきた。そして遂に東ローマ皇帝レオン3世(在位717-741)が偶像崇拝を劣等とするイスラームとの隣接の影響もあり偶像破壊運動(イコノクラスム)を展開し、東ローマ帝国内の教会偶像を破壊(今日残されているものはもっぱらその後に撤回されて以降のもの)させれば、偶像無しでの布教など叶うものかと反旗を翻したグレゴリウス2世(在位715-731)が、727年に皇帝の布令を拒絶。事もあろうか軍事行為に打って出ようとした皇帝は、駐屯軍のローマ教皇への忠誠によって断念するに至った。北には一度敗北しているランゴバルト族がにやにや笑いながら覗いていやがるし、それどころか西に進軍して、東からイスラームが進出してこないとも限らない。イスラームは、「無惨に(632)亡くなるムハンマド」でお馴染みのイスラーム教創始者ムハンマド(c570-632)がアラビア半島のメッカで生を受け、シルク・ロードと紅海貿易の低下によるアラビア半島を経由する貿易の活発化の熱気の中で、貿易に携わる名門貴族ハーシム家のエリートコースを歩むが、貧富の差に心を痛めすぎて洞窟に入り瞑想にふけると、610年頃大天使ガブリエルから唯一なる神(アッラー)の啓示を受け、これを元に富の平等を説きだせば、たちまちメッカ商人から迫害され、メディナの地に逃れたのが、イスラーム歴の元年にあたる。ムハンマドはこの地で勢力を拡大し、周辺各地にイスラーム教を説きながら、ついにメッカを無血占領し、多神教神殿カーバの神像を破壊してイスラームの聖堂とした。さらに彼は死ぬまでにアラビア諸部族を統合し、アラビア半島はイスラーム半島と化した。このイスラームは彼の死後さらに勢力拡大を続け、内部抗争と対外進出を織り交ぜながら、絶大な勢力を築き始めていたのだった。こうなると、とかく憎たらしいのはイスラーム情勢を見て「ここまでおいで」と舌を出すローマ教皇だが、ついに軍事行動に打って出るには至らなかった。ほら見た事かとグレゴリウス2世は、新ローマの回復を高らかに宣言し、すでに719年にはフランク族に布教の為ボニファティウスを送り出すなど国外に目を向けつつ、ローマの復興に一層情熱を尽くすのである。この時代、教皇はルネサンスに先立ち芸術のパトロンとしての活動を担い、モザイク豊かなバジリカ建築などが建設され、ローマ市は日ごとに都市の栄光をある程度取り戻した。グレゴリウス2世は恐らく、日ごとの典礼式文を定め1年周期の教会歴に当てはめ今日の典礼の基礎を築いた7世紀後半からの事業に決定的な役割を果たし、これによってテキストと聖歌を任意に選択する方法は破棄され、聖歌も式文に固有の旋律と歌い方が定められ、600年代後半に組織されたと考えられる聖歌隊養成機関であるスコラ・カントルムの技(つまり聖歌)をまとめた聖歌集を作成した。このときの様子が最初期のグラドゥアーレ集(ミサ用聖歌集)の序文に「一族発祥の地で、最高の名誉を得た、行いと名において偉大な教皇グレゴリウスは、スコラ・カントルムの音楽の技をまとめたこの聖歌集を作成した」と書かれているが、実際はグレゴリウスの1でも2でも筋が通るものが、後にイングランドでグレゴリウス1世崇拝を高めたアルクィン(羅アルクイヌス)ら多くの修道士達が、フランク王国に出かけ「1世いい!すんばらしい!」と叫んでいるうちに、つい一人歩きして、入れ替わったものらしい。7,8世紀のローマではグレゴリウス1世の評価はほとんど無く、「教皇列伝」の記述は2世に対してほんのわずかの著述であるにも関わらず、少し後、すでに9世紀にはグレゴリウス1世はスコラ・カントルムを作った偉大な教皇となって、ついには(ラ)カントゥス・グレゴリアーヌスつまりグレゴリウス聖歌の名前が典礼聖歌に与えられることとなった。逆に両方グレゴリウスだから、1世が2世になっても名称は変わらないからかえって良かろう。(・・・そんな。)
「オルド・ロマヌス・プリームスOrdo romanus primus(第1ローマ典礼書)」という資料は8世紀前半のローマ式ミサを表わしたもので、大枠については後のローマ式典礼に続く典礼の形式が出来上がっているが、一方取り入れてから歴史の少ない典礼部分などに定着していない、流動性のある部分も持ち合わせている。聖歌についてもおそらく今日グレゴリウス聖歌と呼ばれるもののアウトラインはこの頃完成したとされるが、残念ながらまだ音程を表わす記号(ネウマ譜)すら使用されていないので、音楽について確かな事は分からない。当時ローマでは教皇が(7つの丘の教会も含めて)30あまりの教会を、行列を組んで参詣ミサを執り行いに出かけていく慣わしがあり、そのミサの執り行いについて書かれたものらしい。これを見ながら寒い時代を抜けて整えられたミサ式典について概観してみよう。なぜならフランク王国に伝わって、ローマ式典礼として取り入れられ、各地に発信された「ローマ式典礼」は、この時期完成したローマの典礼を北に移植したものだからだ。
・通常文主要聖歌は、もともとは会衆によって唱えられていた比較的簡単な合唱だったが、この時代には組織された聖歌隊スコラ・カントルムによる合唱聖歌として姿を現わす。前に見たようにローマ末期にはすでに今日の通常文を形成するサンクトゥスが登場している。元々は司祭が唱える聖体拝領の祈りの冒頭部分である叙唱praefatioに応答する会衆の喜びの呼びかけだったものが、やがて聖体拝領中での司祭と会衆の間で朗唱される対話の一つとして、4世紀初頭から末にかけて東西教会に普及したらしい。そして飛んで700頃の「オルド・ロマヌス1ローマ式典礼1」の中にはキリエ、グロリア、アニュス・デイの姿を見る事が出来る。
キリエ
・すでに598年にグレゴリウス1世が書いた手紙に、「キリエ・エレイソンを、私達はギリシア人達のように実践したことはないし、今だって行いません。ギリシア人の間では、皆で一緒にキリエ・エレイソンと言いますが、私達はまず聖職者によって行い、それに対して会衆が応答し、それに合わせて同じ回数だけクリステ・エレイソンが付け加えられます。一方この遣り方はギリシア人達は行いません。」とある。彼はコーンスタンティノープルの慣習を安易にまねる事に異議をとなえ、シラクサの司教ヨハネス(John)に向けて書簡を送ったのである。これを見ると、6世紀初めまでには、典礼書の一部はある程度完成していたかもしれない。一方それぞれ「キリエ・エレイソン」と「クリステ・エレイソン」再度「キリエ・エレイソン」をそれぞれ3回繰り返す今日の形は、典礼学者メッスのアマラリウスによって、831あるいは 832に初めて記録されている。彼は皇帝ルイ(大帝の息子)によってローマに派遣され、そこで典礼の実践その他のことについて報告しており、その時9度キリエが繰り返されていることを発見した。逆に見れば、この時代すでにその伝統は確立していたか。
グロリア
・もともとはギリシア語の朝の賛歌であるグロリアが歌われた最初の例は、教皇レオ1世(在位440-461)による説教(sermon)の中に見いだせるらしいが、何時の間にか典礼に正式採用された。オルド・ロマノス1では、キリエが歌い終わると教皇は人々の方を向いて、「Gloria in excelsisi」と歌い始め再び東の方へ向きを変える。などと書いてあるが、聖歌隊が後を続けるのかしらん。
サンクトゥス(+ベネディクトゥス)
・ローマ時代に顔を見せた唯一の通常文であるサンクトゥス(天使の賛歌)は当時会衆の応答だったが、この時代には聖職者達の合唱に変化している。またベネディクトゥスもサンクトゥスの一部だが、もっと後には半ば独立気味に扱われだした。ベネディクトゥスの言葉は詩編117から取られ、主のイェルサレム入城の人々の歓喜の言葉Hosanna in excelsisが含まれている。近年のロックオペラ「ジーザスクライスト・スーパースター」では「ホーザンナ、ヘーザンナ」と称えているが、あれはまったくの創作で根拠が薄い。もちろん「ザナザナ、ホーザンナ」と続くわけもない。
アニュス・デイ
・主の身体が切り裂かれるとき、つまり聖体拝領の儀式で聖職者の呼びかけに対して会衆が一定の応答を繰り返す祈りから、聖職者の典礼音楽に変化したのかしらん。
ただしクレドは
・一方クレドは西方では11世紀まで採用されず、特にローマ教会では異教に汚染されないローマで信仰告白は必要なしと自負されていた節があるが、1000年代に目出度くも採用になった。
・教皇ケレスティヌス1世が432年頃に「供儀の前に、パウロの書簡と福音書を朗読するだけじゃ飽きたらぬ。我々もダビデの150もある美しい詩編唱を唱えようじゃないか。」とミサ前半に、詩編唱を導入した事を定めたとされるが、ローマ帝国末期において詩編を使用したミサ固有文はグラドゥアーレとコンムニオだけだった。しかし、オルド・ロマノス1ではすでに1年周期ごとの固有文が確立され、イントロイトゥス、グラドゥアレ、アレルヤ、オッフェルトリウム、コンムニオが所定の位置に配備されている事が分かる。
イントロイトゥス
・中央通路を教皇一行が内陣に行進する間、祭壇前の教皇お抱え聖歌隊スコラ・カントルムによって行なわれる。第1の歌い手であるカントルが唱える一遍の詩編からなり、各詩節の後であまり長くない旋律的な合唱がアンティフォーナとして聖歌隊によって歌われた。
グラドゥアーレ
・オルド・ロマノス1ではレスポンスムと呼ばれているが、聖書の使徒書簡の朗読が助祭によって行なわれ、その後でカントルが朗読壇の階段の上で一遍の詩編を唱え始めると、詩編の各詩節の後にスコラ・カントルムの合唱ではなく、会衆の呼びかけ、あるいは応唱句レスポンススが繰り返されたていたらしい。しかし100年後のフランク王国の資料ではすでに独唱者の唱えるのは詩編の1節だけで、応唱句レスポンススをスコラ・カントルムが合唱で行なう形に変化し、900年少し後に作成された非音程ネウマで記譜されたグラドゥアーレ集では独唱部分が華やかな音楽を持っている事から、このオルド・ロマノス1の時期から900年少し後へ至る間に変化を被ったか、流動的に変化していったか。
アッレルーヤ
・グラドゥアーレにアッレルーヤの詞が応唱句の部分に使われる事はもちろんあったが、グラドゥアーレと別に存在するアッレルーヤという独立した詩編唱が取り入れたのは、7世紀後半から8世紀初頭の比較的ローマと東ローマ帝国の関係が良好でローマにおいてビザンツ影響の建築や美術が見られる頃に、東方起源のアッレルーヤがビザンツの影響で取り入れられたのかもしれない。恐らく最初から完成された典礼聖歌の方法として流入して、華やかな旋律の詩編から取られた独唱句を真ん中に挟み、前後にアッレルーヤがメリスマ旋律で華麗に修飾される伝統は、西では徐々に発達したと見るよりも、初めから形を整えて採用されたようだ。カントルは階段のまま、グラドゥアーレに続いてアッレルーヤを唱えるが、贖罪の時期には代わりにトラクトゥス(詠唱)を唱えることになっていた。特にオルド・ロマノス1ではアレルヤとトラクトゥスのどちらかを選択してと書かれるだけで、時間がなければグラドゥアーレだけで構わないとあるから、逆に取り入れられたばかりだったのだろう。他にも復活祭の期間にはグラドゥアーレを省略して、代りに2つのアッレルーヤを唱えるなど今日とは異なる方法が行なわれていた。
・これよりずっと以前にアウグスティヌスなどが述べているユビルスという歌詞を持たない旋律の記述は、一昔前アッレルーヤ詩編の誕生だと勘違いされていたが、「喜びの多きほど感極まりて言葉に表わせない魂の震えが歓喜となって揺れ動く」などと書かれているものは、アレルヤではなくユビラーレという言葉の注釈して「まるでユビルスを歌うときのように」の意味で使用され、このユビルス自体は仕事歌の一種であると明確に定義されているから、寓意的に使用されているのだろうとマッキノン氏が語っている。さらに多くのアッレルーヤの記述は、もちろん会衆の応答の言葉のアッレルーヤ(「ハレル・ヤー」つまりヤハヴェを讃えよと言ったユダヤ教の神に対する掛け声がキリスト教に取り込まれたもの)について述べたものだろうと。
オッフェルトリウム
・寄進の受諾、準備や、手洗式といった一連の儀式の間に聖歌隊(スコラ)が歌い、詩篇の2,3の詩節と1つの反復句からなって、900年代の記譜版では音楽は独唱聖歌に近い華やかさを持っていたとさ。
コンムニオ
・聖職者と会衆が聖体拝領時に唱える。イントロイトゥスのように一つの詩編全体と、アンティフォナからなっていた。
2005/05/19
2005/05/22改訂