さて、グレゴリウス2世が亡くなった1年後、次第に勢力を強化するフランク王国では、中南部フランスに当るアクィタニア付近を治めるオドー伯が王家から独立気味に勢力を持っていたが、すでにジブラルタル海峡を渡った(そうではなくて、本当はイスラームの部将タリクの上陸地点だったギリシア人達の言う「ヘラクレスの柱」が「ジャバル・アル・ターリク(ターリクの山)」と呼ばれ、それが訛ったものがジブラルタルなんだそうだ。)ウマイヤ朝のイスラーム軍隊に対して、内乱しながら立ち向かった偉大な(頃もあった)ゲルマン族の勇姿西ゴート王国が、へレスの戦いに敗北し711年に滅亡する大事件が、このアクィタニア付近を震撼させていた。案の定、732年になれば雪崩(なだれ)を打って迫り来るイスラームのウマイヤ朝(661-750)の軍隊に怯えたオドー伯は、悲鳴を上げて「私はしょせん嫡流(ちゃくりゅう)では御座いません」と本家に助けを求め、宮宰(マイヨール・ドムス)のカール=マルテル(c668-741)が出向いてこれを撃退。後に「イスラムの波に(732)鉄槌トゥール・ポワティエの戦い」と呼ばれる勝利を収め(ただし実際にピレネーよりこちら側のイスラーム進軍を止めたのは851年だとか)、へたれ気味だったメロヴィング家の国王に対し優位に立った(実際は遠の昔に立っていた)。息子の小ピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)は遂に名目的国王を廃し、自らが王ピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)3世(在位751~768)となるとカロリング朝(751-987)が開始、すでに482年クローヴィスがアタナシウス派キリスト教に改宗(つまりローマ=カトリック派ということに)していたので、北にロンバルド、東に東ローマ帝国控えるローマ教皇はフランク王国との関係を深めて行く。教皇ザカリアスはクーデターを承認したばかりか、司教ボニファティウスがサン・ドニでの即位式に際してピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)に国王承認塗油の儀式を行い、キリスト教会に任命された国王が誕生した。これより以前、ローマ教皇がカール=マルテルにロンバルドを滅ぼしてくれと頼んだときはお断りを食らったが、このカロリング朝成立後、ついにピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)3世は(754-755)年に息子カール(後の大帝)をイタリアに進軍させ、ラヴェンナをロンバルドから奪い取り、この地を恭(うやうや)しくも教皇様に寄進した。俗に言うピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)の寄進である。この密接な関係から、すでにトゥールやザンクト・ガレン修道院などに伝播して設置されていたスコラ・カントルムが754年に国王承認の元で王国に設置され、一方彼は東ローマ皇帝とも接触を保ち、757年には皇帝からオルガンを贈られたと年代記に記されている。オルガンは紀元前3世紀にアレクサンドリアでクテシビオスが発明したとされ、次第にローマ帝国の祝祭などで使用されていた(ホルンのようなタイプの楽器コルヌーと一緒に描かれたモザイクなどもある)が、東ローマ帝国では恐らく改良も加えながら継続して使用されていたのだった。
続くピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)の跡を継いだ子カール(シャルルマーニュ)(742-814)こそが異例のご長寿を全うし、親父と己の才覚で一種時代錯誤的とも思えるほどの大帝国が君臨したかのような錯覚を抱かせたかのカール大帝である。この時代もゲルマンの分割相続伝統は健在で、ピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)の後王国はカールと弟に分割された。そこで鬼か知略かゲルマン伝統か、彼は弟を牽制するためにランゴバルト家の娘ゲルペルガを嫁に貰い、弟が亡くなり運良く全領土が転がり込んでくるやいなや、彼女を祖国に送り返し、気兼ねなく進軍し773年にはランゴバルト国王王妃共々修道院に幽閉、ついにランゴバルト王国を滅ぼした。こうしてローマ教皇領を除く北イタリア全土が彼の領土になった。ザクセン人の土地にも足を伸ばし、バイエルン人最後の首長タッシロは788年カールに服従、一方現代のタッシロは警察に捕まった。東方でアヴァール人も打ち払い、778年にはピレネー山脈も越えイスラム教徒と戦い、後に801年にはスペイン辺境領を設けるほどだったが、778年の戦闘では帰還途中にピレネー付近の原住民バスク人の襲撃に合い、後ろの部隊が玉砕するのに大帝きびすを返してバスク人を打ち破り配下に納めたのもこの時の事だ。この時の様子は玉砕シーンの美しいシャンソン・ド・ジェスト「ロランの歌」となって今日にまで残されている。ラストシーンの主人公ロラン伯が「た、大帝!」と助けを求めると、大帝が無線で「無駄死にではない、これは無駄死にではないのだ。」と敵陣突入を見送る一言は現代のアニメにも多大な影響力を与えた。(こら。)こうして転戦を続けるカール大帝だったが、790年にウォルムスの王宮が火事になったのをきっかけにアーヘンでの王宮建設に着手、ラヴェンナから大量のローマ遺跡の柱をパクッて意気揚々と建設されたアーヘンの施設は、最終的に木造中心の王宮と石造りの礼拝堂のうち、礼拝堂だけが今日でも残され観光の名所となっている。王宮の方は794年(つまり、「鳴くよ、うぐいす」の年だね。ドイツだから、ナイチンゲールつまり、夜鳴きうぐいす、または小夜鳴鳥(サヨナキドリ)などと訳すから、まあ「鳴く夜(794)うぐいすアーヘン宮廷」とでもしておこう。)には完成し、大王と共にしばしば離宮を移動していた知識人達もアーヘンで活動を行う事になった。カール大帝の人材登用政策により、各地から集められたラテン語知識人達によって、カロリング朝は大いに文化水準高まったが、その中心人物であるアルクィン(羅アルクイヌス)(c732-804)も781年には遣ってきていたし、ランゴバルド滅亡時にも学者を登用し、799年にアルクィンが大帝に当てて「新しいアテネがフランキアに生まれるかも知れません」と書き送るほどの華やぎを見せた。カロリング・ルネサンスと呼ばれる文芸復興が花開いたのである。もっともアルクィンはすでに、796年からサン・マルタン修道院院長として大帝の側近から足を洗ってトゥールに向かっていた。一説によると礼拝堂を指すラテン語カペッラは、聖職者のマントであるカッパを収納する場所の意味だが、このサン・マルタンのカッパ収納堂から始まったとも云われているそうだ。その頃ローマ司教(つまり教皇)に就任したレオ3世が799年にローマで襲撃を受け、逃げ延びてパデルボルンという所にいたカールを頼って泣きついて来たので、「しゃあねえな、このうすのろめ」と優しい声をお掛けになった大帝は教皇様に護衛を付けてローマに送り返し、翌年800年ローマに赴き事件に対処したところ、クリスマスのサン=ピエトロ大聖堂に引き出され、教皇レオ3世が投げつけた冠がカール大帝の頭にぽこりと乗っかったのが、後にカールの戴冠と呼ばれる西ローマ帝国復活的精神的象徴として取り上げられた。「西ローマ皇帝だ、皇帝の復活だ!」と民衆が叫んだかどうかは知らない。これによって東との関係はなんだか妙だったが、812年には親父同様東皇帝からオルガンを贈られたという記述も残されている。
・オルガンを貰うまでもなく、大帝は文化政策に乗り出していた。かつてイングランドに渡ったアングロ・サクソン族は、アングロ・サクソン語つまり古英語を使用し、ハープなどで詩を歌う伝統を持っていたらしいが、こうした詩と音楽は当然大帝の宮廷でもフランク人の歌と音楽があり華やいでいただろうし、世俗的復興の側面も持つ彼の文化政策が、華やかな音楽を奏でなかったとも思えないが、残念ながら典礼聖歌でさえようやく非音程ネウマが顔を見せたばかりで、音楽そのものはすっかり行方知れずになってしまった。しかし他の文芸においてはイングランドのアルクィンを筆頭に、詩人のテオドゥルフやら歴史家やら、美学者メイテー(そんな奴は居ない)やらを集め、各地に修道院付属学校・聖堂学校を設置し、聖職者や宮廷人の教養向上を目指し、芸術的完成よりも、当時ほとんど顧みられなかった知的なるものの再発見、教育文芸復興をほとんど大帝独自の才覚(または親譲りの才覚?、東ローマ皇帝的な意識とか?)によって、ゲルマン人漲るヨーロッパに沸き起こした意義においてこそカロリング・ルネサンスであり、結果として話し言葉と書き言葉が分裂する事になったものの、文字と一緒に文法的に乱れきったラテン語を再構築させ(ローマ帝国時代ケルト系などの影響をこの地のガリア方言的話し言葉系ラテン語は、大移動な時代にラテン語とローマで使用する文字(アルファベット)が採用されるようになり彼らのフランク族ゲルマン語とラテン語が混じり合った土着のラテン語を生み出してカール大帝の時代に至っていた。このようにラテン語が根底にあるため、フランス語はイタリア語、スペイン語と並んでロマンス語と呼ばれ、ゲルマン系強いドイツ語や英語とは区別されるそうだ。)、イングランドやアイルランドで命脈を保っていたローマ文化の遺産たるラテン語古典作品を見いだし羊皮紙の写本に残す作業が無かったら、数多くの古典作品が失われていただろうとも云われている。アルクィンが大帝に「第2のアテネ」と書いて送ったように、まさにこれはギリシア・ローマ文化見直し運動の第1弾という意味でルネサンスだったのであり、ラテン語文化の再興を目指したもので、早すぎた一人歩きがまるで無駄死に見えても、やはり多大な影響力を後生に残したのだろう。そして大帝のラテン語文化の再発見と再構築に向けられた情熱は、音楽においてはすでにピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)3世がいち早くフランク王国にスコラ・カントルムを組織し、地元のガリア式典礼を撤廃してでも定着させようと目論んだ、ローマ式典礼の導入を完成させることになった。カール大帝は抵抗のあったガリア式典礼の廃止に対して、789年に「すべての聖職者はローマ式典礼を採用すること」と宣言文を出したのである。さらに宮廷人たる教養よりも武勇に走りがちなゲルマンの臣下のために宮廷付属学校まで設立した大帝は、やはりこの年に「学生は文法、算術と詩編唱・聖歌を学ぶように」と指示も出している。典礼聖歌はよほど重要な立場を与えられていた。
さて、聖歌は、音程が記入される以前は記憶から記憶に伝えられていたのだし、非音程ネウマがこの時すでに知られていたとすれば、聖書の伝播はかなり安定して行なわれていたと見る事も出来るが、恐らく強力な指導者である大帝の元で、この時期のローマ式典礼は、地域的な距離によって変化されながら伝達したと言うよりは、全体としてはローマ式典礼が型くずれを起こさずに、フランク王国の中心的教会に根を下ろしたと考えられる。こうしてフランクでローマ式典礼聖歌集が編纂され各地に送り出されると、同時にアルクィンら修道士達によりグレゴリウス1世の名前が付されるようになり、何時しかグレゴリウス聖歌と呼ばれるようになっていく。さらに、アルクィンの弟子達の流れを組む、フランク王国圏内にある修道院の後の活躍などにより、大きな枠組みとしてのローマ式典礼は広範な地域に影響を及ぼしたと思われる。ただし、850年頃にメッスのアマラル(羅アマラリウス)が、同一だと信じていたフランクでの典礼がローマと異なるのを発見し、驚き慌ててローマに確認に出かけてみたり、地方教会におけるガリア式典礼が以後も長い間命脈を保ったり、地方習慣による遠心力もまた強力なものがあった。さらにこの時期典礼自体がまだ変化を遂げつつあり、数多くの新しい聖歌が生み出され、典礼も改変されることがあったことも忘れてはならない。アルクィン(羅アルクイヌス)やメッスのアマラル(羅アマラリウス)などのカロリング学者が、ローマ典礼(聖歌ではなく)にかなり手を加えたという話もある。結局、これ以上は私の踏み込む場所じゃないし、踏み込んでも落とし穴にことごとくはまって出られなくなるから、怠惰の心で諦めて潔く立ち去りましょう。(そう云うときだけ潔(いさぎよ)いやつ。)
・とにかく大帝はカロリング朝に移植された典礼をラテン語の文学同様羊皮紙に記し、同時に学者達はボエティウスなどのローマ末期の音楽学者や東ローマ帝国のエコスと呼ばれる8つの旋法組織を元に、後に教会旋法と呼ばれる8つの旋法体系を生み出し初め、これを聖歌に当てはめるようになっていくが、しかしその際にローマ型聖歌を大いに改変したという証拠は残されていないから、安易な発言は慎むが良かろうとのことだ。そして一説によると大帝が無くなる前、カロリングルネサンスの熱気の中から775-800頃には、音程の高さの相互関係(より高いか低いかだけ)を表わす非音程ネウマ(正しくはネウマは旋律そのものを指すから、旋律の記号nota neumarumが当時の名称だろうってさ)が実際の聖歌唱の為に登場したが、当然当初今日まで残されるような豪華な羊皮紙を使った装飾写本には書き込まれず、大量の写本と共に無くなってしまったのでないかともいう。いずれにせよ、最終的に非音程ネウマ付きで今日残された900年少し過ぎのフランク王国のまとまった聖歌集であるグラドゥアーレ集まで行けば、その後の音程ネウマと照らし合わせてもネウマの示す旋律の形に大きな変化が見られない。よって中心的な部分、確立されてから時間の経過している部分では、典礼も典礼聖歌も900年前にある程度安定していた可能性が高いそうだ。
・グレゴリオ聖歌と呼ばれるものと異なる聖歌にはローマで11,12世紀になってから作成された古ローマ聖歌(昔はグレゴリオ聖歌より古い時代の慣習だと思われていたもの)があるが、これはグレゴリウス2世らのまとめたローマ式典礼が北方に伝わり、フランクでまとまった写本として作成され広まっていく間も、ローマで行なわれ続けていたローマ式典礼が、300年以上の時を経て変化したものだといえるそうだ。カール大帝の死後、ヴェルダン、メルセン条約を経て帝国は細分化、これ以降に生まれたセクエンツァなどの新型聖歌には東西の違いなどが大きく見られるが、大帝のお陰をもってローマ式典礼聖歌の根幹はフランク王国内に驚くほど均質的に伝わり、一層重要な事は晩年トゥールにあるサン・マルタン修道院長に就任して数多くの修道士を送り出したアルクィンの弟子達が、フランクを中心にヨーロッパ各地の修道院に赴任し正統である典礼聖歌伝統と、新しい教育機関の伝統を伝え広めた。アルクィンの推し進めた聖職者を養成する学校での基礎教養学としての自由7科(ゼプテム・アルテス・リベラーレス)と聖歌の学習は、各地の修道院に飛び火し、ザンクト・ガレン修道院やライヒェナウ修道院などの次世代を文化的にリードする修道院でも推し進められて行く事になる。
・ここでアルクィンついでにイングランド(とりあえず島向こうをイングランドで呼んでしまうからご了承あれ)を眺め直すのも悪くない。
・ケルトの民が大陸から島に渡って何時しか「ブリテン人」と呼ばれるに至ったローマ人の云うところのブリタニア、帝国の繁栄期にはその南部一帯はローマ帝国の属領となり、ケルトの民はその配下で、または築かれた国境の城壁のさらに北部で生活を営んでいたが、帝国が廃れローマ駐屯兵が撤退する頃、北方ケルト部族の侵略やらケルト人同士の争いが始まり、ブリテン人の一部がゲルマンの民に援軍を求めてうっかりジュート族を招き入れたり、アングロ=サクソン族が意気揚々と進出してきたために、壮大な大根チェルト状態に陥(おちい)って、最後にはブリテン人達はスコットランド、ウェールズ、アイルランドなどに追いやられた。一部は海峡を渡りフランスのブルターニュ地方へ逃れ、そこがブリテン人の土地ブルターニュと呼ばれるきっかけとなったようだ。
・その後七王国時代(ヘプターキー)には、ゲルマン諸部族が戦国時代のように争いながら、同時に国内文化政策や各種事業を行なって、建設的意味合いのある時代だったらしいが、まだ文献時代に突入していないため詳細は不明らしい。この時代に意気揚々とやってきたアウグスティヌスらの活躍で、7世紀半ば頃にはこれらのゲルマン部族も続々とキリスト教に改宗し、それに合わせて文字を残す新しい遣り口が遂に本格的に流れ込んだ。つまり言語をアルファベットで記述し始め、これが今日古英語と呼ばれるものである。こうして盛んに作られていた口頭詩が文献に残され、民族伝説などが記入される事になっていくのだが、キリスト教に改宗していないさらに北方のゲルマン族、つまりヴァイキング達が続々進入してくると国内はえらく荒廃してきた。つまり7王国の一つウェセックス(ウェスト・サクソン王国)のエグバート(ウェセックス王として在位802~839、統一後イングランド王在位829~839)によって7王国が統一された829年頃には、デンマーク付近に住んでいたヴァイキングであるデーン人達の進入が日常化していたのである。
これにより、次々にデーン人に領地を奪われていったイングランドだったが、ようやくエグバートの孫であるウェスト・サクソン王国の大王アルフレッド(849-899、在位871-899)が、ヴァイキング代表デーン人のグトルムとウェストモア条約(878年)を結び、国境を定め、デーン人のキリスト教改宗に成功してからは、国内動乱が一段落する事になったという。この時デーン人の領土となったイングランドの東部の地域は今日デーンロー地方と呼ばれている。アルフレッド大王はヴァイキング侵略時代に大分消えて無くなった古英語の書き物を嘆き、ラテン語文献の古英語翻訳や資料の再編成に力を尽くし、大陸のカール大帝同様、彼のお陰で古英語の文献が残されることになった。そこには聖書の古英語訳さえ見られるという。伝承が7,8世紀頃まとまったと考えられている古英語の叙事詩「ベオウルフ」(デンマークで勇者ベオウルフがヘオロット城に迫り来る巨人グレンデルやドラゴンを退治しまくりな物語)なども残存写本の最古の例は10世紀だが、このアルフレッド大王の元で編纂されたかも知れない。これをカール大帝のカロリングルネサンスに習って、アルフレッド・ルネサンスと・・・は聞いた事がないが。こうして栄えた古英語文化は、11世紀初めにイングランド王がデーン人の虐殺した所、大陸からのデーン人の大規模な上陸と進軍が起こり、 ついにデンマーク王の第2王子クヌート(またはカヌート)が国王と一緒にイングランドを制服、デーン朝(1016-1042)を開きイングランド王となった。デンマークの王となった兄が亡くなってからはデンマーク王(在位1018-1035)も兼ね、ノルウェー、スウェーデンの一部を侵略し一大デーン人の帝国を築くが、後3代であえなく滅亡し、ノルウェーに逃れていたウェセックス王国の生き残りにして、お母さんがノルマンディー侯の家系だったエドワード懺悔王(在位1042~1066)がイングランドに戻ってアングロ・サクソン族の王国を再建した。
さてエドワードが皇太子を残さず亡くなったか義弟のハロルドが即位すると、西フランク王国でノルマンディー侯を獲得して領主となっていたノルマンディー侯ウィリアムが、エドワード王の王位継承は俺にあるとばかりにイングランドに上陸、タピストリーが教科書などに載っているヘースティングスの戦い(1066)でハロルドを見事抹殺すると、イングランド王ウィリアム1世としてノルマン朝が開始する。この1066年のノルマンディー侯ウィリアムの上陸(ノルマン・コンクェスト、つまりノルマン人の征服)を持って、貴族騎士宮廷中心人はおろか聖職者までの大幅な入れ替えと、北部フランク語の言語の公用語化が、一般人の英語と支配階級の言語分裂を招くと同時に、急速に古英語が変容しフランク系列の言語が満載る状況を生み出し、これ以後目出度く(はないが)イングランドは中英語時代に突入していく事になった。フランク影響下のラテン語文化の流入と、ラテン語の法体系が流入し、アングロ・サクソン的文化が終焉を迎えるのである。
・さて799年、シャルルマーニュ宛に「学問に邁進することが、フランキアにアテネを生み出すのです。しかも、キリストの教えによってプラトンの教えだけのアテネを凌駕するのです、今すぐにです。」と送ったアルクィン。拡大帝国は様々な民族を統合し公用語としてのラテン語の重要性が高まる中、大王はヨーロッパ中から学識人材を集め、教育の顧問とし、知的エリートの養成に励んでいる内に、カロリングルネサンスと命名されてしまったことは述べたが、彼の文化政策の中で中心的役割を果たしたアルクィンについてもちょいとばかり書き残しておこう。
・すでに5世紀アイルランドにパトリック(羅パトリキウス)が、6世紀スコットランドにコロンバが宣教に派遣され修道院が設立され、そこを中心にキリスト教が広まりつつあったが、596年にはグレゴリオ1世が「ご苦労(596)だが一つ頼む」と声を掛け、アウグスティヌス(告白大好きヴァンダル嫌いなヒッポ司教とは別人)をイングランドに送り出し、カンタベリー大聖堂の歴史が始まってしまう事になった。その後、北部のケルト系列のキリスト教とローマ=カトリックの対立が問題になるが、664年のウイトビー宗教会議でカトリックに統一。その後もカンタベリーやヨークを中心にキリスト教化が進行し、8世紀にはキリスト教神学者として有名なベーダまでもが誕生する。
・アルクィンはカール=マルテルがイスラームを撃退するトゥール=ポワティエな732年頃、このアングロ・サクソン時代のイングランドを代表する聖職者ベーダがこの世を去る数年前に、ノーサンブリア王国のヨークに生まれ、聖職者となるべく修行を積み、767年にヨークの聖堂学校教師に就任。恩師アエルベルトと共に大陸を旅し見聞をすると、780年に再度大陸に渡った時、うっかり(じゃないが)イタリアのパルマでカール大帝と出くわし、彼の招きに応じて翌年781年から使えるようになったという。さてローマ時代から温泉で知られていたアーヘンは、ローマ時代に軍隊駐屯地としてアクィウグラヌムと呼ばれていた。これは水アクアと穀物神アポロ・グラヌスの合成だと云われ、これがドイツ語系だと水アクアがアーヘンとなり一方中世フランス語では「エス」または単に「エ」と呼ばれたので大帝自体は「エッ?」と呼んでいたかも知れない。元々親父のピピン(正しくはペピンと発音されたであろう)3世が礼拝堂を建てていたが、ここがお気に入りだった大帝によって791年アーヘンに宮廷が建設され始め、宮廷側は794年に完成。大帝は尊敬するテオドリック大王の騎馬像をラヴェンナから(パクッて)運びこみ設置してたまらなく良い心持ちがしたという。アルクィンはこの宮廷では詩作、とくに大帝を讃える頌詩などを数多く残したと云われ、ラテン語古典の作詞法を理解した上で、現代の言葉で現代の事を歌うこそ新しい文芸復興なのだと手紙に書き残している。すでに793年には故郷ノーサンブリア王国のリンディスファーン修道院で、ノルウェーなど北方ゲルマン人であるヴァイキングの最初のヨーロッパ攻撃ののろしが上げられ、大いに略奪を欲しいままにされたので、アルクィンはこれに対して「リンディスファーンの破壊」という詩も書いているそうだ。
・しかし、796大帝側近に別れを告げると、トゥールのサン・マルタン修道院長として死ぬまで、著述と修道院経営に専念。この地の修道士の弟子達の活動を通じて、次のキリスト教文化が花開いていく事にもなった。
2005/05/23
2005/05/25改訂