こうして恐らく700年頃に形を整えたローマ式典礼は、定められた聖歌と共にフランク王国に採用され、王国が広大な土地に影響力を持っていた事もあってフランク版として各地に再発信され、権威を持った典礼と聖歌として広まっていった。特に重要な事は晩年トゥールにあるサン・マルタン修道院長に就任して数多くの修道士を送り出したアルクィンの弟子達が、フランクを中心にヨーロッパ各地の修道院に赴任し正統である典礼聖歌伝統と、新しい教育機関の伝統を伝え広めた(ほんとに?)。アルクィンの推し進めた聖職者養成学校における基礎教養学としての自由7科(ゼプテム・アルテス・リベラーレス)と聖歌の学習は、各地の修道院に飛び火し(アルクィンのお陰なのか?)、特にザンクト・ガレン修道院、ライヒェナウ修道院やサン・マルシャル修道院などが、聖歌における重要な中心地の役割を果たしていく。一方、依然として各地の方言的は典礼と聖歌は継続し、特に大帝の影響力の及ばない土地ではそうだった。さらにフランク王国に伝わったローマ式聖歌自体が、その後何度も改変の荒波を乗り越える事になる。教会旋法に当てはめる為に大量の聖歌が改変された可能性はマッキノン氏によると低そうだが、その後音楽理論が発展し、特に譜線付きの譜面に書き表すようになると旋法の曖昧なものは、お優しく改変されたりした。また導入の新しい聖歌は改変を続け、この時期大量に取り込まれた新しい聖人のための祭日に、次々に新しい典礼聖歌が誕生しても居た。またベネディクト会修道院だったザンクト・ガレン修道院やライヒェナウ修道院は、アルクィンの弟子達により指導的修道院となり、フランク版ローマ聖歌が継承されていく(?)が、しかし続く教会改革の情熱を燃やした修道士達が登場すると、自ら正統と信じる精神に従って、典礼や聖歌を改変することも行なわれた。そして一番手に負えない(オリジナルに近づくためにはの話だが)のはこうした自負を持った改変だった。特に広範な改革の影響力を行使したのは、12世紀半ばのシトー派修道士達だったが、彼らはベネディクト派から正統と禁欲を掲げて独立し、正統な聖歌を資料から構築できないと悟ると、改変した聖歌を自分達で編み出そうとしたのである。彼らは正格と変格を厳格に適用するためはみ出た音域の旋律を改変し、さらに聖歌音域を10度に限定するなどの改変を行なった。さらに続く修道会などもそれぞれ当地の習慣を受け入れそれぞれの典礼を正統としたが、こうして時代と地域や会派ごとに典礼と聖歌は少しく異なり、しかも絶えず変化を受ける。中でも重要なものは、ローマの北にあるアッシジに生まれたフランチェスコ(1182-1226)が開いた新しい修道会であるフランチェスコ会で、もともとはベネディクト会から独立したものだが、彼らが独自の考えに基づき典礼と聖歌をどのぐらい変更したのかは知らない。しかし、やがてローマ教皇庁の典礼とこのフランチェスコ会の典礼が1220年代に統一される事になり、かつてフランク王国に伝播した後もローマで継続使用されていた、700年代のローマ典礼が当地で500年以上を経て幾分か変質した「古ローマ聖歌」と一緒に、古いローマ典礼書が廃止された。これは見方を変えれば、結局各地に多くの地方的聖歌を抱えながらも、フランクとローマの帯状に繰り広げられる修道院運動などによって、フランクに旅だったローマ聖歌のなれの果てがローマに里帰りを果たと見る事も出来る。つまり細部を無視して枠組みを見れば、他の地方典礼に比べればよっぽど同一性が保たれている訳ぞなもし。
・さて、一方地方典礼について見てみよう。ローマ式をいち早く導入したガリアでは、5世紀頃登場し6,7世紀頃発展を遂げたガリア聖歌が禁止され、ローマ式に統一されたが、それでも11世紀に記された南フランスの写本が今日に残されている。スペインで6世紀頃から開始し7,8世紀頃発展したモサラベ聖歌も、1080年のブルゴス公会議でモサラベ式の禁止とローマ式採用が定められ、モサラベ式はトレドの6つの聖堂でだけ許されることになったが、トレド式も次第に変化していったため、11世紀以前の姿はよく分からないようだ。ただしミラノ大司教アンブロシウス(c339-97)が始めたとされる、アンブロシウス聖歌は、東方からの伝統を取り入れて互いに歌い合う交唱がいち早く開始したと云われているが、ある種の権限を与えられることによって、今日までミラノ大聖堂で行なわれている。もちろん音楽自体は当時の伝統がどのような経緯で変遷、発展したかは見当も付かないが。10世紀を超えると次第にローマ教皇の影響力が強まり、ローマ・カトリックに集約する心持ちがしてくると中央への重心が高まって、各地でローマ式が採用され、その地の地方聖歌伝統が典礼と共に終わりを告げたり、ローマ式の中に取り込まれたりしながら変化を被る事になった。しかし、イングランドでは実質上カトリックから分離する頃まで一貫してセイラム・ユースと呼ばれる独自の典礼が存在したし、結局すべてを統一するなど叶わないまま、そのうち宗教改革運動でカトリックと新教が分離し、その危機感の中に開かれたトレント公会議(1545-63)の決定を含んだ、1570年の「ミサ典書 Missal(ラ)ミッサーレ」が教皇ピウス5世によって発行され、1614年にはパレストリーナも関わった公式聖歌本の改訂版メーディチ版「グラドゥアーレ集(ミサ聖歌集)」が登場するが、この時にはすでにカトリックの聖歌を歌わない新教大勢力が存在し、要するに西側ヨーロッパはたった一度も完全な統一典礼などなしえないまま分裂したようなものだった。(逆にそれは方言の違いであると見て、ローマ=カトリックの大枠での典礼統一と見なす事も出来るが。)さて、このメーディチ版では人文学者アネーリオやソリアーノの研究に基づきテキストが改変され、旋律も結局は当世風に改変されたが、このように自覚的に新しい事を遣ろうとしている時こそ、かつての伝統がもっとも改変を被ることになる。また、これによってセクエンツィアは4曲を除いて廃止され、トロープスは一つ残らず抹殺されてしまった。
・しかしフランスで王権神授説を説いたお騒がせなボシュエ(1627-1704)らが推進した「新ガリア主義」などの影響で、またしても修飾三昧のきらびやか聖歌がローマ教会から独立気味のフランスで沸き起こるので、「これはあかん、どないなっとんねん。」と思った良心的な一派によってまたしても正当性の復興が叫ばれ、以前のグレゴリウス聖歌見直し作業が始まった。19世紀後半からフランスのベネディクト会に属するソレーム修道院がジョゼフ・ポティエ修道士を中心として、正当性の熱意を持ってトレント公会議以前の伝統に則った現代譜をまとめ、1883年にはミサのための固有文聖歌集「リベル・グラドゥアリス」を出版。とうとう1903年になってから教皇ピウス10世によって彼らの成果が公式ヴァティカン版として正統の典礼となった。面白い事に、今日のグレゴリウス聖歌は遠過去が先に復興され、近過去であるメディチ版聖歌が蔑ろにされているので、古楽が復興して来ると、メディチ版グレゴリオ聖歌が出てくるという現象が起こる。きっとその後は19世紀版などが復興してきたら面白いが、そこまで誰が付いてくるのか疑問も残る。
・まだ続きがあった、第2次大戦戦後の第2ヴァティカン公会議(1962-65)においては、「今や正統典礼どころじゃない、お優しくないと信者が居なくなってしまうじゃないか!」の危機感から、各国言語によるミサが奨励されて、ラテン語による統一的式典を廃し各地の現代語をもってよしとしたため、「それじゃあ、ラテン語は止めようか」と、急速に自国語ミサがそこかしこに沸き立ち、ラテン語が公用語で聖歌が公用音楽であるという伝統は恐ろしく後退し、今だ正統な典礼の言葉と聖歌であるというお墨付きはもちろん貰っているものの、幾つかの修道院と大きな教会でしかラテン語聖歌は歌われなくなってしまった。教科書によると文化自体をヨーロッパに大分捨ててきたアメリカでは更に低調であるそうだ。まあマクドナルド相当なところだ。
・ところで近代的単旋聖歌記譜法では4本線を使用し、ハ音の位置を表わすネウマ記号(ト音記号と同じような役割を果たすわけだ)と、ヘ音のネウマ記号で基準位置を表わし、今ではネウマneumeとだけ呼ばれる音符を使用して音を記入していく。最近の非典礼的なCDなどでは当時の典礼や聖歌の歌い方を復元したり、様々な試みがなされているが、ラテン語聖歌自体は悲惨の状況に追い込まれた時期に、グレゴリオ聖歌のブームが到来したのは面白い。いずれ、教会のお墨付きが半ば外された以上は、今日ラテン語によるグレゴリオ聖歌を癒しのヒーリングミュージックとして演奏し視聴する態度も、非宗教的立場で視聴する事もなんら冒涜にはあたらないのである。(嘘を付くな。)
さて、ここまで見ておいて教科書のままローマ聖歌とローマ式典礼の形を大ざっぱに表わしておこう。もちろんトレント公会議以前、音楽史に教会音楽の占めるウェイトが多い頃の慣習をベースにして書き表すのだが、この態度自体たまらなく不可解の千万無量だ。
典礼liturgy
・一つの勤行(ごんぎょう!)service(時間を定めて主の前で教義・聖典を唱えること・その儀式)を形成するひとまとまりの詞と式を指し、キリスト教においては最初期から最後の晩餐の儀式を殻に形成されていった。キリスト教自体がユダヤ教下のイスラエルで誕生した事から、集団で祈り詩編を歌う行為がユダヤ教の伝統から取り入れられることになる。この祈りのためのそれぞれの聖歌を
単旋聖歌plainchant
・といい、これは音楽付きの祈りであり、高揚した語りであり、旋律と歌を規定するのはもちろん聖書などからとられたり、新たに創造された宗教的な言葉・詞である。単線聖歌のもっとも単純なものは、単一音高上の朗誦に他ならない。
・典礼を1年周期の枠組みで送り出す典礼暦には、降誕祭クリスマス(12/25)を中心とするものと、復活祭イースターを中心とするものが1年間の2つの重心を築き、各種祝祭日が配置されている。このイースターは固定した日にちではなく、「春分の日の後の満月後の最初の日曜日」という日本人には馴染みのない祭日設定になっているが、一度春分の後に満月を見上げて「兎美味し」と呟きながら「ああ、この後遣ってくる日曜日がイースターだったか、久しぶりに鹿鍋にでもするか。」と心に留め置けば、まず忘れる事はない。この典礼歴に至っては気力切れでトレント以前も以後も関係なく、たまたま目に付いた資料で送り出す。
待降節(Advent、アドヴェント)
→誕生を待ちわびる時期、降臨祭4週間前から開始。
12/24(降誕祭前夜、Christmas Eve)
→哀れ日本では年末商戦のため広まったかクリスマスイブ
12/25(降誕の祝日、Christmas)
→キリスト誕生日(ほんとは全然違うけど)クリスマス
25日からは降誕節(Christmas-tide)
1/1(主の命名日、Name of Jesus)
→主の割礼または命名祝日
1/6(主の公現・顕現の祝日、Epiphany、エピファニー)
→つまり東方三博士が来訪したのが世界にキリストが姿を見せた記念となったもの。シェークスピアの泣きたくなるほど優しい喜劇「12夜」は、何時の間にやら12夜つまり12/25から12日目のこの日が題名となっている。
1/9(主の洗礼祝日、Baptism、バプテスム)
→洗礼者ヨハネから洗礼を受けた記念
2/6(変容の主日、Transfiguration)
→キリストが山に登ってペカペカ光って変身しちゃった記念
・イースターが変動するのに合わせて、すべて毎年変動する
前四旬節(Pre-lenten)
→イースターの9週間前の日曜日から
四旬節(lent、レント)
→イースター46日前の灰の水曜日から開始、キリストの40日の断食に掛け合わせ主の休日である日曜日を除く40日間が四旬節となる、当時は肉を食べないで節制などがあったので、この直前にどんちゃん騒ぎを繰り広げる民衆の祭、謝肉祭つまりカーニバルが取り入れられた。もちろん教会歴には存在しないけど。
灰の水曜日(Ash Wednesday)
→重罪人に灰を被せる儀式が廃れた10世紀頃に一般の人の罪を取り除く意味で誕生したとか
枝の主日(Palm Sunday)
または受難主日(Passion Sunday)
→復活祝日の1週間前の日曜日。イェルサレムにキリストが入るとき人々が棕梠(しゅろ)の枝を打ち敷き詰め歓迎した祝日だが、近年では十字架での受難を一緒に行なう事が。
聖週間(続いて聖月曜日、聖火曜日と続いていく)
聖木曜日
→洗足の木曜日、最後の晩餐で弟子達の足を洗って上げた記念
聖金曜日
→受苦の金曜日、十字架でなくなられた追悼
聖土曜日
→復活前夜祭
復活の祝日(Easter、イースター)
→またはPascha(パスカ)、蘇ってみた記念
復活節(Eastertide)
→復活の以後50日間続くが、40日目の昇天の木曜日でクライマックスを迎え、精霊が使徒達に降臨した精霊降臨祭の日曜日で終わる。
主の昇天祝日(Ascention、アセンション)
→復活したキリストが再び天に帰っていった祝日。
聖霊降臨の祝日(Pentecost、ペンテコステ)
→復活から50日目、異教徒伝道に備えるべく教会を発足した弟子達に精霊が小さな炎となって舞い降りれば、すなわち各国語を話し出すという、クリスマス、イースターにならぶ、キリスト教の3大祝日。
三位一体の主日(Trinity、トリニティー)
→精霊降臨の1週間後の日曜日に「三位一体すごっくいい!」(とりにっていい!)と讃える。
後は省略、他にも細かい祝日がちらほらと
・この他に、カロリング時代以降ますます増加する各種聖人を礼拝するために年間に多くの日が設定。後になると莫大な数を数え、各地域、職業団体など自らの守護聖人のためにも聖人祝日を祝った。この聖人祝日はカロリング時代には典礼暦の年周期に加え入れられていただけだが、最終的に切り離され独立したもう一つの周期を作るようになり、聖節(temporale)つまり季節固有節と、聖人祭日(sanctolare)聖人固有節の平行進行する2つの暦が誕生することにあった。2つの祝日がぶつかる場合は、普通聖節が優先されるが、重要度によって逆になる事も場合もあった。
・まず、教科書の分類に沿って聖歌の種類と形式をまとめておくと、典礼文は大きく聖書の詞(ことば)から取られたものと、創作された聖書以外の詞によるものがあって、それぞれが散文の場合と、韻文かによって分けられる。
聖書散文
→聖書の大部分は散文であり、これに基づく聖務日課の読誦・朗読、ミサの書簡や福音書朗読などがある。
聖書韻文
→旧約聖書のダビデ王に帰される(実際は大部分違うが)150の詩編はユダヤ教で初めから歌われるために作成された歌詞を持っていて、キリスト教徒の聖務日課の中心を形成することになった。また、詩編以外の新約旧約聖書の韻文による歌に適した部分をカンティクムと云い、例えば「マニフィカト」は聖務日課の晩課で使用されるカンティクムである。
聖書以外散文
→「神であるあなたを私どもは讃え Te Deum(ラ)テ・デーウム」、や多くのアンティフォーナ、4曲のマリアのアンティフォーナのうち3曲など
聖書以外韻文
→キリスト教のための賛歌、それからカロリング朝以来盛んに作られ出した韻文典礼聖歌であるセクエンツィア(後の韻文のもの)など。
交唱的antiphonal
→ミラーノでいち早く導入されたアンティフォーナが元々合唱同士で歌っていた事により、合唱同士の歌の掛け合いを指すことがある。
応唱的responsorial
→独唱者の朗読などに会衆が一定の言葉で答えていた習慣から、独唱者と合唱隊の交代を指す事がある。
直行唱direct
→交替無し
音節的(シラブル的)syllabic
→大ざっぱに一つの発音文字(または発音グループ)に対して1つの音が。日本語だったら「4杯はすぎるぞなもし」の11字が11音符で表わされる感じだ。初期キリスト教時代から作られ始めた讃歌(イムヌス)などは、後のコラールなどの賛美歌と同様の性質をもち、シラブル型で詩句に合わせて作られたものが多い。
メリスマ的melismatic
→一つの母音などを伸ばしながら、旋律を奏でていくような遣り口。キーリエで、「エ」のところで延々と旋律が進行していくのを聞いたことがあるだろう、あれがメリスマ型である。
ネウマ的neumatic
→誰が生み出したものやら、あまりにもこじつけがましいネーミングだが、メリスマ的とシラブル的の狭間の遣り口を指す言葉として、教科書に載っている。
・もちろん旋律線にはラテン語発音法が大きく反映し、目安としては高低アクセント法で強勢音節に高い音が、また数多い音符が当てられたりする。しかし華麗な聖歌では旋律重視のため、かえって弱い音節である、アッレルーヤやキーリエ、ドミヌスなどの最後の音が華麗に旋律を奏でる。
・歌詞の単語、語群の繰り返しなどはほとんど無く、旋律は詞のリズムやアクセントなどによるが、情緒や絵画的遣り口はあまり見られない。もちろん詩句ごとに同一の音楽を繰り返すものから、大きく2つの楽句になるもの、有節歌曲の形式を持つ聖歌に、自由な組み合わせによるとりとめのないもの(または組み合わせによって拡大されたもの)など様々な聖歌があるため、音楽は単旋律ながら多様である。
・教科書には12世紀の理論家(ラ)ヨアンネス・アッフリジェメンシス(ジョン・コットン)の引用例がコラムになっていて便利だが、「旋律は詞の句や段落に対応して、言葉にも「点」や「丸」による切れ目があるように、旋律の切れ目や段落に分かれている。」と云っている。また今日の聖歌集では垂直線が加えられて分割を明らかにしているそうだ。
①朗唱定式
・書簡や福音書を読む方法で最も語りに近い。ただ一つの朗唱音reciting note(または保続音テーノルtenor)からなるが、時に上下に1音が導入され強調する。朗唱音の前にイニツィウムinitium(ラ)[始め]と呼ばれる2-3音の定型的導入が置かれることもあり、各行や段落の終わりには短い旋律からなる終止形が来る。と説明するとかえって面倒だが、試しに一定の音程に声を保ちながら一定のリズムで新聞でも読んでみると自動的に話し言葉のリズムと抑揚から歌のリズムと抑揚に変化した心持ちが幾分かするから遣ってみるといい。これをラテン語で遣ると、それだけで非常に音楽的に聞える事になる。(日本語はこの方面の音楽性ははっきり言って非常に薄いが、それは想像を絶するほどのシラブル型言語に成り下がった標準語のなせる技である。)次に出だしの音程を導入的に上から下から開始して、朗読音程に導いて、途中要所要所で音程を上げ下げしてみた前、つまりそれが朗唱定式だ。
②詩編唱式psalm tone
・聖務日課の詩編唱を歌うための方法で、8つの教会旋法にそれぞれ1つずつあり、これを覚えておけば詩編唱の方は歌う事が出来る。しかも詩編唱の初めの詩句以降はすべて同じ旋律を繰り返して、詩句だけ次に進んでいくために、1つの詩編唱式自体長くない。ただしそれ以外にも圏外唱式tonus peregrinus(ラ)トーヌス・ペレグリーヌスという例外もあるから油断していると先輩聖職者から杖が飛んでこないとも限らない。この詩編唱を歌う習慣は、もともとユダヤ教で重要な宗教的立場を担っていたものが、後にキリスト教に流入したもので、旧約聖書の歌詩のまとめられた「ダヴィデ詩編」の部分を歌う儀式は、ユダヤ教でも例えば「あかつきの牝鹿の調べに合わせる」などと詩編に書き込みがあり、これが歌われるべき旋律定型の指示になっていた。
・教科書に載っている歌い方の例として、聖歌隊が2つに分かれて前半と後半を歌い合うアンティフォナール(交唱による)な歌い方の詩編唱を上げてみよう。ただし当時どのように歌われていたかは分かったものじゃあない。
・まず第1詩句の開始部分をカントルが一人きりでイニツィウムと呼ばれる導入音型で始めると、続いて聖歌隊の半分が詩句の前半部分を保続音テーノルを中心にして唱え進行し、前半部分の締めくくりの旋律メディアツィオ(すこし音程を動かしフレーズ感を出す)に到達する。続いて詩句の後半はもう一方の聖歌隊が保続音テーノルを中心にして唱え、詩編の締めくくり旋律テルミナツィオに達する。これで一つの詩句が歌い終わるが、これを次の詩句、次の詩句と、詩編の最後の詩句まで繰り返して該当詩編を終えると、通常最後の詩句の後に、小栄唱doxologia(ラ)ドクソロジアが唱えられて目出度く一つの詩編を歌い終わる。
小栄唱doxologia(ラ)ドクソロジア
「Gloria Patri,et Filio,et Spiritui Sancto.Sicut erat in Principio,et nunc,et semper,et in saecula saeculorum,Amen」
・カタカナで呪文のように覚えて下さい
(ラ)グロリア・パトリ、エト・フィリオ、エト・スピリトゥイ・サンクト、シークト・エーラト・イン・プリンチピオ、エト・ヌンク、エト・センペル、エト・イン・セクラ・セクロールム、アーメン
・意味
「父と子と精霊に栄光がありますように。初めにあったように、今もこれからも続きますように。アーメン」
・聖歌集では省略して「euouae」と書かれている。
③アンティフォーナ(交唱歌)antiphona
・さて実際の聖務日課では先ほど上げた詩編唱式の前後に暦ごとのアンティフォーナが唱えられる。つまりアンティフォーナ付きで始めて一人前の詩編唱になるわけだ。ただしこのアンティフォーナは先ほどの詩編唱が2つの合唱隊で歌われた事を指して言ってる訳じゃない、詩編部分の旋律とは異なるアンティフォーナと呼ばれる独立した聖歌が前後に食っ付いて、アンティフォーナと詩編部分がペアになって始めて一人前の詩編唱となっているのだ。このアンティフォーナの言葉はギリシア語のアンティフォーノス(対して歌うように、anti-は「反して」とか「対して」の有名な前頭語)の意味があるが、そもそも詩編唱導入の推進力となった荒野の詩編連唱は、1つの詩編が終わるごとに祈りを唱え、また次の詩編を唱えると云うものだったが、スペインの修道女エジェーリアがコンスタンティヌスがイェルサレムのキリストの墓とされる場所に建設したアナスタシス(復活)聖堂における暁課の様子を表わした400年頃には、ジェームズ・マッキノン氏の語るところ「この頃の詩編唱はもっぱら独唱で、各詩節の後に合唱によるresponsusu(レスポンスス、応唱句)かまたはアンティフォーナが付けられていた」という。レスポンススとは要するに「そやそや」と「アーメン」とか短い言葉を応答する独唱者に対する賛同や確認の言葉であるが、一方アンティフォーナに付いては、引き合いに出されるエジェーリアの記述から「詩編に、またアンティフォーナに応唱(レスポンスス)が付けられる」とあり、他にも「それぞれの賛歌あるいはアンティフォーナ」に続けて、それぞれ祈りが捧げられた。」と書かれている事から、ここでは完全に独立した聖歌のようにも思われる。さらに「アンティフォーナに応唱(レスポンスス)が付けられる」という記述を見ると、合唱による応答の意味も見て取れないようだ。むしろどちらも2種類の聖歌のうちの一方がアンティフォーナで、おまけにその後にレスポンススなどが加えられるとなると、詩編を補足する補足聖歌がアンティフォーナだとも言えないし、合唱聖歌だとも受け取れない。何が何だか分からないなら、最初から踏み込まなければ良かったと大いに反省して、今はただ大した資料もなく妄想の海を渡った己を深く恥じるばかり。とにかく聖務日課の詩編唱においては、詩編自体と同種の意味合いや補足の意味合いを持って互いに補強し合う聖歌がアンティフォーナで、このアンティフォーナが例えば詩編唱の前と終わった後に歌われて、一つの詩編が終わるのが整備後の聖務日課の慣わしだった。このアンティフォーナもごく初めのうちは詩編全体ではなく、1つの詩句が終わる度に応答するように唱えられていたのが、後に簡略化されたという話もある。聖務日課用の聖歌としてどの聖歌よりも数多くアンティフォーナがあるためか、聖務日課用の典礼聖歌集を「アンティフォナーレ」と云う事になった。今日の「アンティフォナーレ」には1250曲も収まっているそうだが、同一旋律を詩に合わせて少し改変しただけのものも多いとか。さらに簡略化進む現代では、アンティフォーナの冒頭だけを始めに歌い、全体は詩編の後に歌う事でスピードアップを図っているそうだ。そんなにもお嫌ならきっぱり止めてしまうがいい!まあ、ソナタ形式の提示部を繰り返さない精神も似たようなものか。さて、続々誕生する新型聖人と新しい祝日のために9-13世紀に掛けて数多くのアンティフォーナが続々作曲され、新作聖歌セクエンツィアや、トロープス、世俗におけるトゥルバドゥールやトゥルベールらの歌曲、さらに開始を告げる多声音楽などと共に当時の音楽状況を賑わせたていが、詩編に付属しない、行列、特別な機会のための独立したアンティフォーナもこの時期多く作曲された。4曲のマリアのアンティフォーナも典礼的には完全に独立した曲だ。
④レスポンソリウム(応唱歌)
・このレスポンソリウム、聖務日課においては、礼とうや聖書の短い文章の朗読前に、独唱者が歌いそれを聖歌隊が繰り返し、朗読が終わると、もう一度聖歌隊が繰り返して終わるパターンになっているが、もう語源を辿るのは私には不可能だ。教科書によると、元々はアンティフォーナのように朗読の各行の後で聖歌隊が復唱していたのだろう。気になる人はいっそ余所に出かけて調べてみてくれ。
ローマ式典礼の勤行を組織する典礼日はミサと聖務日課からなるが、そのうち3世紀荒野の修道士運動の熱気の中から大きな影響を被って完成した聖務日課を見ていこう。これは定時課とも言われ「聖ベネディクトゥスの戒律(ラ)レグラ・サンクティ・ベネディクティ」(520頃)で初めて成文化され、一定時刻に聖職者と修道会成員によって行われることになった。ベネディクトゥスの時代には全体でも4時間ほどですんだが、音楽の手が込んでくる9。10世紀にもなると平日でも倍の時間掛かるようになり、聖職者たる初期ヨーロッパ教養人は生まれてから死ぬまでほとんど聖歌を歌って生活ことになった。この聖務日課は礼祷、詩編、カンティクム、アンティフォーナ、レスポンソリウム、賛歌、朗読からなるが、中心はもちろん詩編の朗唱で1週間で詩編全体が唱えられる。(修道院で教会改革運動が高まると一日でほとんど唱えることが奨励されたりするが。)また朝課では聖書が長々と朗読される特徴があった。音楽は「アンティフォナーレ(聖務日課聖歌集)」という典礼聖歌集に納められた。
・アンティフォーナ付きで詩編を歌う
・賛歌とカンティクムを歌う
・レスポンソリウムと呼ばれる音楽的応答を付けて読誦(lectioレクツィオ)[聖書の句]を歌う。
朝課(matutinumマトゥティーヌム)ー(島崎藤村じゃない)夜明け前
→すべての時課に含まれる詩編とアンティフォーナのペアはもちろんの事、聖歌のもっとも古い物が幾つか含まれ、聖書朗読とレスポンソリウムの交代も行なわれる。
賛歌(laudesラウデス)ー(印象じゃない)日の出
→ザカリアのカンティクム(ベネディクトゥス・ドミヌス)を含む
4つの小聖務日課
→讃歌、詩編とアンティフォーナ、小朗読、レスポンススからなる比較的時間の短い時課。関係ないが、9時課を繰り上げて昼頃遣っていたら、うっかりnonamからお昼noonが生まれてしまったという。
1時課(ad primamアド・プリーマム)ー午前6時頃
3時課(ad tertiamアド・テルツィアム)ー午前9時頃
6時課(ad sextamアド・セクスタム)ー正午頃
9時課(ad nonamアド・ノーナム)ー午後3時頃
晩課(ad vesperamアド・ヴェスペラム)ー日没
→カンティクム「私の魂は主を崇めMagnificat anima mea Dominum(ラ)マニフィカト・アニマ・メーア・ドミヌム」が歌われ、このカンティクムは早くから多声唱法が許されていたから重要だとか。
終課(completoriumコンプレトリウム)ー晩課の直ぐ後
→シメオンのカンティクム(ヌンク・ディミッティス)が歌われ、さらに後になると4曲のマリアのアンティフォーナが教会歴に合わせて季節ごとに変えられて歌われる習慣が生まれた。
「うるわしい救世主の母よ Alma Redemptoris Mater(ラ)アルマ・レデンプトーリス・マーテル」
「ああ、天の女王様 Ave Regina caelorum(ラ)アーヴェ・レジーナ・チェロールム」
「天の女王様、喜んでください Regina caeli laetare(ラ)レジーナ・テェーリ・レターレ」
「ああ、女王様 Salve Regina(ラ)サルヴェ・レジーナ」(さすが日本語版「新西洋音楽史」、我らの教科書だけあってどれもこれも大した訳だ。)
勤行(ごんぎょう!)serviceの結びの文、「お行きなさい、(集会は)解散するのです。Ite missa est(ラ)イーテ・ミッサ・エスト」からミサという名前が取られたという。これに対して、聖餐式Eucharist、典礼Liturgy、聖体拝領式Holy Communion、主の晩餐式Lord's Supperなどは各教会のミサの呼び名である。改めて現代までの歴史を雑書きしておこう。
・殉教者ユスティノス(165頃殉教)の有名な言葉でも分かるように、聖餐式についての最も初期の叙述に、言葉の典礼Liturgy of the Wordと感謝(聖餐)の典礼Liturgy of the Eucharistがあったことが分かっているが、感謝の典礼は、キリスト教徒達が主に感謝(ギリシア語で感謝をエウカリステインという)し、キリストが「パンは私の肉で、ワインは私の血だ」と弟子達にワインとパンを分け与えた行いの再現である聖体拝領を核として、共にキリスト教徒である事の確認がなされる部分だ。初期教会の頃から、弾圧にもめげずキリスト教に引かれて見習い教徒になった人々は、前半の書簡や聖書の朗読とそれにもとづく説教がなされる言葉の典礼までは参加が許され、相応しい魂と認められた後キリスト教徒として後半の聖体拝領の儀式に参加できた。432年頃教皇ケレスティヌス1世によってローマに取り入れられたとされるグラドゥアーレ詩編とコンムニオ詩編は、それぞれ朗読と説教を補足する意味と、聖体拝領を讃える詩編だったが、いち早くミサの中に取り入れられた。他にも様々な経過を経て、6世紀末までには、サンクトゥスから聖体拝領誦(コンムニオ)まで、つまりミサ典文Canon(ラ)カノンと呼ばれる部分の大枠が完成し、600年代すでにミサの中心部分であるカノンの実施には、かなりの統一が見られた。その後700年頃に完成したローマ典礼の手引きである「オルド・ロマノス・プリームス(第1ローマ典礼書)」の中で、今日に連なる全体の枠組みが姿を表わし、典礼聖歌についてもこの頃決定的な一歩が踏み出されたのだという。
・修道院や大聖堂では普通3時課の後でミサが上げられた。修道院長あるいは司教がミサを取り仕切り、彼はミサ典文canonと、毎日異なる3つの礼とう文と叙唱だけが納められた典礼書サクラメンタリウムによって式を進めていく。いつでも同じ詞を使用するミサ通常文(オルディナリウム・ミッセ)と、日によって特定の典礼文が定められているミサ固有文(特定文)(プロプリウム・ミッセ)がある。ミサの固有文と通常文を納めた典礼書は「グラドゥアーレ」と呼ばれている。他に、聖務日課の「アンティフォナーレ」とミサの「グラドゥアーレ」からよく使用するものを集めた聖歌集に、「リーベル・ウズアーリス(慣用聖歌集)」がある。
イントロイトゥス(入祭誦)introitus
・固有文。もとはアンティフォーナを伴った詩編全体だったのが、短縮され「アンティフォーナー慣習的詩編の1詩句-アンティフォーナ繰り返し」の形になった。
キリエKyrie(通常文)
グロリアGloria(通常文)
コッレクタcollecta
・固有文。その日の典礼の祈りの文を唱える。(歌無)
使徒書簡朗読
・書簡集エピストラリウムを元に朗読台amboの上から朗読。
グラドゥアーレgraduale(ラ)昇階誦
・固有文。華麗な旋律を持ち、今日では短縮された応唱歌になっている。導入的応唱部または反復句の後に詩編の1詩句が続く。「反復句独唱→聖歌隊がそれを続け→詩編句は独唱者→最後の楽句で聖歌隊が加わる。」といった形で歌われ、一定のメリスマ定型の結合だけで成り立っている例も多く見られ、この定型の結合の事を「つづり合わせ法centonisatio(ラ)チェントニザツィオ」などと呼ぶ。
アッレルーヤalleluia
・固有文。アッレルーヤalleluiaのiaに長いメリスマ部分が付き、これは「ユビルスjubilus(ラ)歓喜」と呼ばれる。形としては「独唱者がアッレルーヤと歌う→合唱が繰り返し、iaでユビルスを続ける→独唱者が詩句を歌う→その最後で合唱が加わる→その後アッレルーヤが独唱者で歌われ、今度はユビルスの所だけ合唱隊が参加して終わる」というような形で、多くのアッレルーヤのメリスマ旋律は即興的であるより、注意深く作曲された感じを受ける。これは中世末期まで引き続いて作曲された。
トラクトゥスtractus(ラ)詠誦
・固有文。悔悛の季節(待降節と四旬節)や死者のためのミサ(レクイエム)において、アッレルーヤの代りに使用。詞が長く、メリスマ修飾で旋律も拡大され典礼聖歌中最も長い。
セクエンツィアsepuentia
・固有文。トレント公会議の決定までは、ここでセクエンツィアが歌われていた。
福音書朗読
・福音集エヴァンゲリアリウムを使用して、朗読台amboの上から。
説教
クレードCredo
→通常文。ローマでは導入が遅れたクレードだが、信仰宣言がなされて、感謝の典礼に向かう。
オッフェルトリウムoffertorium(ラ)奉献誦
・固有文。もともとパンと葡萄酒の奉献儀式の間に会衆と聖職者達が歌う非常に長い聖歌だったが、儀式の短縮化と共に短くなった。グラドゥアーレと似た旋律様式を持つ。
密誦secrata(セクラータ)
序誦praefatio(プレファッツィオ)
サンクトゥスSanctusとベネディクトゥスBenedictus
奉献の祈りの典文Canon(カノン)
我らの父よParter noster(パーテル・ノステル)を唱え
アーニュス・デーイAgnus Dei(平和の讃歌)
パンとブドウ酒にありつく
コンムニオcommunio(聖体拝領誦)
ポストコンムニオpostcommunio(聖体拝領後の祈り)
イーテ・ミッサ・エストIte missa est
・またはベネディカームス・ドミノBenedicamus Domino(羅.主を祝福しよう)でミサを終える。
2005/05/24
2005/06/15改訂
(ミサの最後を除く)