さて、ギリシアでは古くから肉体能力と文章能力と音楽能力のバランスが教育の重要な要素と考えられていたが、プラトーンが紀元前387年に設立し幾何学と天文学を中心に置いたアカデメイア(Akademeia)はアカデミーの言葉の語源にもなり遙か529年まで存続したし、アリストテレースのリュケイオン(Lykeion)は、歩きながら学問を討論したため逍遥学派(ペリパトス派)と呼ばれたが、こうした教育機関を経てギリシアでは「体育」「文法と修辞学、算術と科学」「音楽」という6科目がスポットを浴びるようになっていった。これがローマ帝国での「文法・修辞学・弁証法」「幾何学・算術・天文学」「音楽」「医学」「建築」という高等教育の9科目を生み出し、貴族階級の子供など知識人達の高等教育機関の学科とされるようになったが、このような教育を受けながら、キリスト教に改宗してキリスト教を学問的立場で考えようとする人々が登場し始め、やがて教父と呼ばれるようになった。
教父とは2世紀頃から8世紀頃までの影響力の強いキリスト教の著述家思想家のことで、特に直弟子的使徒から直接教えを受けたものを使徒教父といったり、弾圧下に知性を持ってキリスト教の正当性を訴えた教父を護教教父と言ったりするが、4世紀になるとローマ帝国下の教育機関で優れた能力を持った知識人のエリートの中から、キリスト教の教父達が現れてくるようになった。彼らの多くは、若い頃古典文法や文章法、そしてもちろん古典文学そのものを習得して、成人して聖職に就くと古典的技術を用いて聖書を解釈するが、古典文学自体からは「恥多き人生を歩んで参りました。」と反省しつつ足を洗い、後には文学自体は異教文化のあだ花として憎みさえした。このような関係は、音楽解釈や音楽理論にも見られ、理論自体はギリシア伝統の考え方を取り入れながら、実際の享楽的音楽は排除する傾向を強めた。しかし、幸か不幸か丁度この時期のギリシア音楽理論は、実践音楽とは関係の薄い、音程や音階の数比関係を論じたり、ネオプラトニズムの思想もあって(プラトーン自身は実際の音楽に即して音楽の役割を述べていたのだが)、もはや実際の音楽とは関係なくあるべき理想を解き明かす事に生き甲斐を見いだしていた。このことが、恐らく現実のローマ的音楽を徹底的に嫌った教父達が、平然と当時の理論をキリスト教内に持ち込む事を容易にしたのだろう。彼らは、2世紀のエジプトで活躍したギリシア人学者クラウディオス・プトレマイオス(85-165頃か)や、アリュピオス、アリステイデース・クィンティリアーヌス(300年代)らの音楽理論からギリシアの音楽理論と考え方を吸収し、無頓着に自らの思想と理論の源泉とした。特にアリストテレースの弟子とされるアリストクセノスの「ハルモニア論」と「リズム論」は、当時もっとも体系的な理論書であるが、幸い今日まで断片が残されている。こうした理論書で音楽を学習した教父達のうち、例えばアウグスティヌスには「音楽論De musica(デー・ムーシカー)」というリズム論について扱った6巻からなる音楽書がある。最初の5巻は387年にキリスト教洗礼を受ける前に書かれ、最後の改宗後の第6巻では古典詩の替わりにアンブロシウス聖歌の讃歌が例として用いられるが、キリスト教的著作とは言えたものではない。ただし彼の意見は以前の音楽理論をまとめたものに過ぎず実践に対する思弁の優位が際だち、そのお陰でギリシア音楽理論をキリスト教音楽に適用する事に違和感が無かったのだろう。彼は後年旋律を扱うハルモニア論を補足して、自らの著述を音楽大全に仕立てる積もりだったらしいが、410年にアラリックがローマで狼藉を働くのに気を悪くして「神の国」を著述。司教を勤める北アフリカのヒッポがヴァンダル族に包囲される最中の430年に、「ヴァンダルってとっても悪い!」と嘆(なげ)きながら切ない最期を迎えた。いずれ、こうしたギリシア音楽理論の採用はともかく、実際の典礼聖歌に当ってはキリスト教教父達の意見は、音楽は宗教心を起こす以外の目的で使用されてはならず、言葉以上に音楽自身の力で魂を揺さぶられるのは危険だと考えられた。中にはアウグスティヌスのように「ついうっかり感動してしまいました。」と告白する律儀者もいたが、大概の教父達は例え心を揺り動かされても口を漏らしたりはしなかった。彼らは情動を無闇に沸き起こし、言葉と無関係に魂を揺さぶる器楽を恐るべき異教の邪悪なる道具として退け、公式の礼拝から追い出したが、信者が非公式に賛歌を歌う場合のリラの伴奏などは認めていたそうだ。この頃旧約聖書の詩編などに多く見られる、プサルテリウム、ハープ、オルガンなどの実際の楽器名は、ことごとくが比喩として処理され、プサルテリウムは「舌」の事で、オルガンは「体」の事だと決められていった。こうした思想は、後に思弁的音楽ムジカ・スペクラティヴァと実践的音楽ムジカ・プラクティカが分離気味になり、グイド・ダレッツォが理論を弁えた音楽家であるムジクスと、演奏だけの愚か者カントルを区別し、ムジクスだけを理想とし、カントルを野獣として軽蔑するような伝統となって11世紀にも幅を利かることになるのである。
話を戻して、アウグスティヌスとほぼ同じ頃やはり北アフリカで活躍したギリシア学問の学者にマルティアーヌス・カペッラが居る。彼は「文献学とメルクリウスとの結婚」(5世紀初め)という百科全書的な意味合いを持つ知識の集大成を目論み、プラトーンの「国家」やアリストテレースの「政治学」にすでに概念の表わされている自由学芸的な考えと、そこで学ばれるべき様々なジャンルの学問を順に紹介した全9巻の書物を書き表した。最初の2巻で学問を表わす文献学と雄弁を表わすメルクリウスの結婚式が描かれ、残りの7巻でそれぞれの学科が新婦の次女のスピーチを告げるという形で、自由学芸をそれぞれ説明している。この本の楽しいストーリー性と、そこに書き記された内容が安直明瞭で理解しやすかったためか、自由7科の伝統として中世に受け継がれる事になった。この自由7科septem artes liberales(羅セプテム・アルテース・リーベラーレース)は学生が基礎教養として学ばれなければならない7つの学問の事で、中世の修道院付属学校・教会付属学校などでは後になると、
土台となる言語を学ぶ3科(トリヴィウム)
→文法Grammatica・修辞Rhetorica・弁証Dialecticaを学び、その上位として数により世界の秩序関係を解き明かす
4科(クアドリヴィウム)
→算術Arithmetica・音楽Musica・幾何Geometrica・天文Astronomiaを学ぶ事とされていた。上位4科はすべて数の学問であり、完全な数比関係こそ神の秩序の考えにふさわしいものだったが、ピュータゴラースの数比的思想やプラトーンの考えが時代を経て変化したネオプラトーン的なローマ学問の思想が、この考え方の土壌を形成している。つまり、ここで云う音楽はつまり音と音の比率などの学問で、実際に歌ったり爪弾いたりする音楽ではまったくなかったわけだ。そしてこの7つの教養をクリアした上で、己の教養を動員して神学を修める事が、キリスト教教育機関としての理想の姿とされた。ただし実際には特に大都市の教会付属学校などではともかく、多くの修道院付属学校などでは実践的な聖歌を歌って典礼に参加させるためのトレーニングに重点が置かれていたようで、この学問大成はかなり理想的な意味合いを持っていた。もちろん当時も限られたエリート達は、こうした学習が可能な機関に入り、一定の知的水準階級を生み出していたのもまた事実だ。
さて、5世紀中に西ローマ帝国は崩壊したが、先ほど見たように穏和な東ゴート王テオドリック(527没)のもとで、ローマの最後の残り火が燃え続け、テオドリックの宮廷に居たボエティウス(524頃没)とカッシオドルス(580頃没)は、中世音楽理論に大きな影響を残す事になった。そのうちカッシオドルス(580頃没)の記した「聖書および世俗的学問の綱要(こうよう・主要な所)」では、前半で聖書を理解のための古典の考え方が説かれ、続く世俗的学問の部分は自由7科の各学科に関する短い巻からなっていた。音楽の章は短くギリシア音楽理論の基礎的部分すら省略されているが、セビリアで活躍したイシドルス(イシドール)(560-636頃か)の著作と共に、カロリング朝で音楽理論が模索される9世紀頃に音楽に対する考え方の基礎を与え、音楽理論を学ぶ事の重要性を認識させたという。これが元になって、10世紀頃になると、もう一人の東ゴート王国時代の著述家ボエティウスの作品が消化され初め、10世紀後半には音と音の具体的な比率や音程関係の理論が理解されるようになっていったという。グイード・ダレッツォの「ミクロログス」(1025/26)はその最初期の例なんだそうだ。
ローマの貴族でラヴェンナに首都を持つ東ゴート王国のテオドリック(羅テオドリクス)大王に使えた政治家・思想家であるアニキウス・マンリウス・セヴェリヌス・ボエティウス(524頃没)は、幾何・算術・天文・音楽をニーコマコスの考えを引き継いで4科(羅クアドリウィウム)と呼び、ギリシア理論家の著作に基づく各科目の書物を記し、残されたものは中世ヨーロッパに多大な影響を与えることになった。またプラトーンとアリストテレースの著作のラテン語訳を完成させるつもりだったらしく、完成せずお亡くなりたが、中世初期のアリストテレースの考え方は、ほとんど彼の残したラテン語訳を通じてプラトーンの影で命脈を保っていた。つまりアリストテレースの4つの理論書をラテン語に翻訳し、これはまとめて「(ギ)オルガノン」(道具)として中世に伝えられたのである。また音楽史に登場する「音楽教程」に対して、数学の歴史ではお馴染みの「算術教程(アリトメティカ)」は、ニーコマコスの数学理論書を元に数と数比の理論、から各種図形、立方数などピタゴラス派の数理論などを解き明かしている。彼は、東ゴート転覆の陰謀に参加したか、あるいは他のもの達の陰謀に巻き込まれて無実のまま投獄され、その時に哲学書「哲学の慰めConsolatio philosophiae(羅コーンソーラーティオー・フィロソフィアエ)」を書き残して524年頃、「何時に死(524)んでも、ローマ亡き後」という辞世の詩を残して処刑されてしまった。一説によるとこのボエティウスの処刑によって、東ローマ皇帝ユスティヌスと東ゴートの関係が悪化したという。
・これはボエティウスがまだ20代の頃に書き上げたとされる(または途中で放ったらかされた)著作で、最初の4巻でニーコマコス(2世紀頃)の音楽理論の要約に基づく説明がなされていて、もっぱら数比に基づくピュタゴラス派の理論を中心にお送りして、5巻以降はプトレマイオス(没年161)の音楽理論「ハルモニア論」の説明が開始された途中で断絶している。そのうち初めの2巻が中世自由7科の教科書として音楽理論の導入手引きとなり重要な役割を果たした。ではここで、愉快にして得る事の多い、始めてルネサンス以前の音楽に足を踏み入れる人には最適の一冊、金澤正剛(かなざわまさかた)著の「中世音楽の精神史」(講談社選書メチエ126)を元に、その内容をいつも通りいい加減にこねくりながらお送りしよう。
・第1巻はまず前口上で始まる。
「我々の聴覚による音の理解は、高さと互いの響きの判断だけではない。愉快や嫌悪など情感と結びつき精神と関係する点が、4つの自由7科における数学的学問の中で、音楽だけを一際(ひときわ)高い地位に押し上げている。音楽だけが、思考と真理の探究だけでなく、道徳にも関わるからである。我々は快適な響きによって慰められ、不快な響きによって心を荒らされるが、これは宇宙を形作る数比関係が、同時に我々の中にも内在し、我々の感情や精神もまた、一種の数比原理の末端に位置しているからに他ならない。従って心やましき人はやましい調律による旋律に、荒々しい時はそのように調律された旋律に反響し、例えば特定地域の旋法を地名や民族名で呼ぶのも、同時に彼ら独特の精神的指向性を表わしている訳(わけ)である。かつてフリギア旋法の音に興奮したタオルミナの若者の心を、調律を変えるだけで沈めたピュタゴラスの話を忘れてはならないのである。すなわち音楽と私たちの精神との繋がりは明白なのであるから、これを知性の力で説き明かし、音楽は情感と耳だけで楽しんでいるように見えても、実際は音の比率の心地よさが重要な要因となっているのだから、これを理解し解明するこそが目下(もっか)の大事である。
ところで、宇宙を構成する整った数比関係自体が生み出す音楽から、我々の耳にする声や楽器の音楽にいたるまで、音の数比関係のもたらす一種の音楽は連続的に存在するが、そのうち我々が耳にすることが出来るのは弦や管、また我々の器具としての声帯など、道具を通して生まれた音だけである。そこでこの道具を通じて我々の耳にする事の出来る音の数比関係とそれがもたらす音楽をムーシカ・イーンストルメンターリス(羅musica instrumentalis、道具の音楽)」と命名しよう。これに対して、同様の数比関係の秩序が我々の霊魂と肉体の間にも保たれていて、それによって始めて我々の精神は一時的であれ肉体の容器に収まり完全に一体となる事が出来る。この魂と肉体の数比関係とその比率が生み出す音楽をムーシカ・フーマーナ(羅musica humana、人間の音楽)と呼ぶ。察しのよい諸君はもう思い当たったかもしれないが、こうした数比関係のうちでもっとも崇高にして神に近いものは、天空の動きや四季の移り変わり、我々を形成する4大元素の関係であるムーシカ・ムンダーナ(羅musica mundana、宇宙の音楽)であり、この3つのムーシカすべてを理解することが偉大な音楽を修めることになる。このうち最初に問題にするべきは、我々の耳で実際に判断出来るムーシカ・イーンストルメンターリスであるから、いよいよ具体的な数比関係について基礎原理を説明しよう。」
・これに続いて音と数比の話が開始されるので、ざっと見てみる事にしよう。まず音が生じるのは外的な力で道具(例えば弦)に動きが生じたときで、動きが速ければ音は高く、遅ければ低く聞える。この動きの連続(振動)が音なのであり、動きが速ければ振動が密集して伝わるため高く聞え、動きが緩やかならば振動が弛緩して音は低く聞える。2つの音を比べたとき、この動きの値が等しければ、同じ高さの音を出し、等しくなければ、異なる音の高さを出すが、この際2つの音高の値の関係は数比によって表わす事が出来る。
・続いて数比関係について高い音が小さい音の値の倍数の場合(an:n)をムルティプレクスと呼ぶなどの説明が続き、特に協和的な響きををもたらす比率が5つ上げられている。先ほど上げた(an:n)の関係にある
2:1 (ギ)ディアパソン(完全8度、羅ドゥプラ)
3:1 (ギ)ディアパソン・クム・ディアペンテ(完全12度、羅トリプラ)
4:1 (ギ)ビス・ディアパソン(2オクターヴ、羅クァドゥルプラ)
と(n+1:nでnは2かそれ以上の整数)で示される
3:2 (ギ)ディアペンテ(完全5度、羅セスクィアルテラ)
4:3 (ギ)ディアテッサロン(完全4度、羅セスクィテルツィア)
・この高い音と低い音の距離を「音程」と呼び、先ほど上げた協和音程であれば心地よく響き、それ以外の関係では不愉快に思われる。この関係はピュタゴラスによって見いだされたので、逸話を引用してみよう。
「ある時鍛冶(かじ)屋の前を通りかかったピュタゴラスは、職人の打ち付ける槌(つち)の音が互いに共鳴して心地よく鳴り響くのに心を奪われ、「はて、何度打ち付けても響き合う音高の、変化もなく差が一定なのはいかなる事か」と不思議に思い煩って、あるいは打ち手の性質が響きに作用するのだろうか考え、「御免御免」と扉をくぐり「ちょいとお前達、学問のためだから少し時間を呉れたまえ。」と鍛冶屋の中に足を踏み入れた。眼を丸める職人を尻目に親方と話を付けてから、鍛冶の打ち手達の槌を交代させて打たせてみたが、それぞれの槌は元の音程をそれぞれに発し協和の響きも変わらなかったので、「なるほど面白い、問題は槌の方だね。」と手をポンポン叩くと、ついに槌の重量の違いが響きをもたらした事を悟(さと)り、協和の比率を発見したのである。」
・槌の重力の違いは音程の比率にない事がルネサンス期のヴィンセンツィオ・ガリレーイ(c1525-1591)によって明るみに出たため、大分引用自体の格が下がったが、当時は誰もが知っている、お父さんは寝る子に聞かせるほど中世の教養人にとってはお馴染みのストーリーがこうして展開され、ボエティウスは続けて人間の声には話や朗読の時のシュネケース(連続的)と、歌うときのディアステマティケー(間隔的)なものがあると、話を続けている。つまりシェーンベルクのシュプレッヒシュテンメもシュネケースの具現化の一方針に過ぎないわけだ。
・続いて、いよいよ具体的な比率関係に話が進み、完全5度と完全4度の差は(ギ)トノス(全音)で、その比率は(羅)セスクィオクターヴァ(9:8)だが、これは不協和音であり、さらにこれを2つに分割してセミトヌス(半音)を得ようとしても、全体を均等に分割できない。つまり9:8の比率を2倍して18:16としても、真ん中の17(18:17:16)は音程の真ん中にならない。(もちろん今日的には真ん中が17で表せないだけにすぎないのだけれど。)したがって、全音を大半音(17:16)と小半音(18:17)に分割するしか道が残されていないのである。さらに、もう一つ半音がある、これは完全4度から2つの全音を取り除いた残りの音程である、(256:243)という先に挙げた小半音よりさらに小さな音程になるのである。こうして半音は3種類も存在する事になる。
・続いてギリシアの楽器キタラの調弦を例にギリシア音階構造が説明され、完全4度の間に4つの音を配置するテトラコルドを基準に、最大2オクターヴの大完全音階を組織する方法と、テトラコルドを組織するディアトニック、クロマティック、エンハーモニックの説明などが行なわれるが、一番普遍的なのはディアトニック音階なので、この音階によって話が進行していく。さて、ギリシア人は演奏の際にキタラーの高い音が下側に、低い音が上の方に来るので、ボエティウスもそれにならい最低音の名称を一番上に、最も下の弦を意味する最高音「ネーテー・ヒュペルボライオーン」を一番下においたが、高い音は上に思考する中世人にあって後になって大混乱を来した。
・続いてやはりテトラコルドに基づく小完全音階という別の音階を説明し、この小完全音階の低い方から7つの音の名称が、7つの惑星(月・水・金・太陽・火・木・土)に当てはまるだの、しかしキケローは7つの惑星を別の解釈に当てはめただの脱線し、ようやく第1巻の最後に「これこそがピュタゴラス派の考えだ」とまとめ、では本当の音楽家(ムジクス)とは何を指すのか、と疑問を呈(てい)し、自ら答えて、すなわち、「音楽家は音楽を理性で判断する人である!ボエティウス!!!」と結論付ける。そして最後に「音楽家には3種類有り、まず楽器を演奏する者、他に歌を作る者、そして3つ目が楽器の演奏や歌に対して理性で判断を下す者であるが、理性に頼らず技術と自然の直感に任せる野獣並みの初めの2つに対して、第3の人々こそが真の音楽家と呼ばれるのに相応しいのだ」と締めくくって第1巻を終える。
2巻以降
・続く第2巻は比率の算出方法と、続いて(x:y:z)のような中間を置く関係を定義して、さらに比率について話を進めていく。中でも幾通りある半音が再度取り上げられ、特に(256:243)の一番小さい半音を「リンマ」と呼ぶが、昔は「ディエシス」と呼んでいたなど半音の話が執拗に繰り返される。3巻ではさらに数値計算を詳細に進め、またしても半音が問題に取り上げられる。4巻では具体的に一本の弦であるモノコルドンを用いて音程を生み出す方法などが語られ、大完全音階を移動する事によってギリシア旋法の7種類が得られる事を説明、その際もう1旋法を加え8種類とするが、彼の著述ではプトレマイオスのようにオクターヴ内での音程配置は説明され無いまま、ニーコマコスの理論書による部分を終える。
・続いて、第5巻でいよいよ本題である調和に対する哲学考察である「ハルモニア論」を、プトレマイオスの「ハルモニア論」を元に書き始め、「ハルモニア論とは感覚と理性を共に動員し音同士の関係の違いを考察する能力で、感覚と理性はハルモニア論の能力を生かす手段に他ならない。ピュタゴラスは理性を重んじ、アリストクセノスは感覚を重視したが、プトレマイオスがハルモニアを「感覚で評価し、理性で考察」すべきだと定義したように、目標は「2つの能力を調和(ハルモニア)させる」事にあると開始し、プトレマイオスの理論書に沿って先に進行している途中で、残念ながら中断している。
・純なる理想を追い求めて現実世界を理想世界に移行させようとするあまり、現実世界とお構いなしの理論に到達した末路のネオプラトーン主義的音楽理論(というのはプラトーン自身は現実と関わっているから)に対して、現実の把握と究明から導き出され構成されるべき理論としてのアリストテレース的な考え方は、すべてが失われた訳では無かったが、もっぱらイスラーム世界に流れ込み、十字軍の時代頃にヨーロッパに紹介され、新しく誕生を始めた大学などで活発に議論され、ヨーロッパ知性を新しい高みに押し上げて行く原動力の一つとなった。この知性復興のことを「12世紀ルネサンス」と呼んでいるが、この時期「恋愛革命」というのも起こっている。もう何とでも勝手にするがいい。
さて、カロリングルネサンスの頃になると、次第にビザンツ音楽理論やギリシア音楽理論を元に、旋法など実際の音楽への理論付けが次第に始まるが、それ以前に実践の為の理論の発展が遙かに急務だった。つまり単旋聖歌の記譜、読譜、分類、歌唱さらに元の聖歌に対して別の声部で歌うオルガヌムなどの初期多声音楽の即興方法や作曲方法に対して、ボエーティウスなど何の役に立たないため、ただ尊敬すべき理論書として神棚に括り付けて香だけたいて飾ってあった。(不意に投げやりになる。)
フランク王国にローマ式典礼が取り入れられた後も、教会歴での典礼式文の選定や付属する典礼聖歌の変更や、新しい聖歌の取り込みなどが続けられ、特に取り入られて日の浅い典礼部分は変化が激しかったし、教会歴のサイクルの2つ目を形成する各種聖人達の祭日などは、むしろこれ以降整備されていき、それに合わせて新しい典礼が誕生する事にもなった。しかし、それ以上に既存の聖歌に付け加える形で典礼に加えるセクエンツィアやトロープスと云った新しいジャンルの典礼聖歌を作成する大流行が、ビザンツの音楽伝統の影響もあるのか沸き起こり、9世紀半ばに起こったフランク王国の完全分裂に合わせて、各地域ごとに様々な形の新種聖歌が誕生する事になった。この時期、記譜法が誕生して急激に普及し拡大していくのには、これに対処する面もあったのかも知れない。また、修道院や教会の付属教育機関の発達が、記譜法と記譜に基づく伝達を促したのかも知れない。取りあえず、この時期の急務は、まず記譜法を確立することに向けられたようだ。800年代以前にすでに開始していた可能性のある非音程ネウマによる次の音との高いか低いかだけを表わす覚え書きだった記譜は、初めは保存のための筆写譜には残されなかったが、次第に教会内で市民権を得て、フランク分裂後各地のネウマ記号自体は多様なものになっていった(あるいはそれぞれ我が教会のネウマ記号を書き記す事がステータスにでも為ったか、ネウマ記号は異なるが、書かれた旋律自体は親しい類似性を持ったものが多い)が、900年頃に残された教会歴全体の聖歌をまとめたグラドゥアーレ集に置いては、すでに実際の覚え書きだったネウマが、写本に逐一書き記すだけの権威を身につけた事を示している。900年代のうちに、ネウマの高さを変え音高を分からせようとする試みや、アルファベットを付け音程を表わそうとする試みが始まったが、こうした音程関係への熱意の中から生まれた、最も有用な方法は、横に基準の高さとなる一本の線を引き、その線を基準に音の高さを表わすようにする方法だった。この音程ネウマの方法はその有用性からある時急激な発達を遂げたらしく、へ音を赤線で引いて初めの一歩が踏み出されるやいなや、直ちに黄色で表わす第2のハ音線が答えて、とうとう11世紀中には4本線がひかれるようになった。つまり1030年頃にグイード・ダレッツォ(991頃-1033以降)が主張した遣り方である。ついでに加えておくと、ネウマの形は異なった時価を表わしていた時期があり、9-12世紀は一定の長い時価と短い時価が用いられていたらしい。最近ではこの考えを元に、すべての音符の時価を同一とするソーレム式の慣習に反旗を翻す聖歌のCDも出回って、一生懸命殴り込みを掛けている最中だ。
フランク王国で整備を開始した可能性のあるもう一つの理論は、教会旋法トーヌス(つまりtone)であり、すでにサン・リキエ修道院の旋法と聖歌を結びつけた資料は8世紀の末にさかのぼるらしいが、800年代に記されたアウレリアヌスの「羅ムジカ・ディウキプリーナ」(音楽の教え)と「羅ムジカ・エンキリアーディス」(音楽の手引き)にも旋法に関する著述が登場している。旋法体系はフランク王国とビザンツ帝国の関係から、東方のエコスが注目され始めた可能性があり、8つの簡単な旋律定型で唱えられる詩編唱と前後のアンティフォーナの旋法を一致させるための聖歌集トナリウム(トナリウス)なども誕生し、発展の形跡を追うのは困難だが、およそ11世紀までに形が完成したとされている。
①本来はギリシア名ではなく第1旋法、第2旋法と呼ばれるのが正しい
②まずオクターヴ内での全音半音関係の異なる4つの正格(ラ)アウテンティクス(真正の)旋法があり、それぞれお優しく言えば鍵盤のレ、ミ、ファ、ソから開始する旋法が第1(ドリア)、第3(フリジア),第5(リディア)、第7(ミクソリディア)となる。歌うときの音域(ラ)アンビトゥスの最低音となる音階の開始音は、終止音(ラ)フィナーリスと呼ばれ最後に到達すべき音になる。その終止音の5度上に保続音(ラ)テーノルが置かれ、ここは旋律が途中で最もとどまる中心音となる。ただし第3旋法だけは(5度上のシの音が避けられ)6度上にテーノルが置かれる。
一方この正格旋法に対応して、終止音フィナーリスが音階の最低音ではなく、終止音の4度下に音階の最低音を置く、(つまり正格の終止音の4度下の音からそれぞれ音階が始まる)変格(ラ)プラガーリス(脇の)旋法があり、それぞれ第1に対応した第2旋法(ヒポドリア)、第3に対応した第3旋法(ヒポフリジア)、第5に対応した第6旋法(ヒポリディア)、第7に対応した第8旋法(ヒポミクソリディア)があるが、当然テーノルの位置も変化している。テーノルの位置は正格旋法側から見れば分かりやすく、対応する正格旋法のテーノルの3度下が変格旋法のテーノルになる。なおヒポを「ヒッポ」と発音するのは「ヒッポリュトス」や「ヒッピー」見たようでいただけない。
③音階の(F-B)の音は増4度になるが、この全音3つ分(トリトヌス)の著しい不況音程は非常に嫌われ、「悪魔の音程」と呼ばれるほどだったが、旋律が行き来し(F-B)の間でトリトヌスが響き渡るときには、それを避けるためにB音を半音低く歌う事が定められていた。第3旋法でテーノルが終止音の5度上ではなく6度上に置かれたのは、このトリトヌス関係を避けるためであった。
④ギリシア語の適用
・これは10世紀になってから、ギリシャのトノスとハルモニアーの名称に基づいて命名されたのだが、そのさい重大な勘違いがあってギリシア旋法体系とは一致しない、名前だけの借り物になってしまった。しかし今日では、元々のギリシア旋法体系なんて誰も知らないので、何の問題も起きやしません。これに対してA音(ラ)、C音(ド)上の旋法は、先ほどの遣り方でB音を半音下げて歌えば、同じものが出来るためわざわざ命名しなくても、8旋法内の半音下げによってまかなう事が出来たし、なによりビザンティウムの8エコス組織にはなかったため、漸く16世紀になってから、「12弦ドデカコルドン」(1547)の中で正格6つ変格6つの12旋法を提唱したグラレアーヌスによって命名された。このグラレアーノスが名前を付けた、後の長短旋法などを加えると、正格変格などお構いなしの今日の旋法の一般名称が出来上がる。今日では教会旋法としてよりもクラシック、ポピュラー、ジャズなどの旋法の武器庫として使用されているため、旋法の名称はあるものの実際は和声の上に繰り広げられる事になる。(ただしBからのロクリアと対応するヒポロクリアは、彼自身が旋法紹介としてヒペルエオリア、ヒペルフリギアを上げてはいるものの、名称はさらに後の代物だ。)
→ラ(つまりA音)から順番に(アルファベットは音名)
エオリア(ABCDEFG)
ロクリア(BCDEFGA)
イオニア(CDEFGAB)
ドリア(DEFGABC)
フリジア(EFGABCD)
リディア(FGABCDE)
ミクソリディア(GABCDEF)
となるが、その覚え方は悲惨である。冒頭の文字を取っていくと「エロい、ドフリミ」、ドフリミとは何だか知れないが、とにかくエロい奴がドフリミだと思った頃には、残念ながらもう記憶から無くなる事が無いという、強引な記憶術である。挙げ句の果てにドフリミが「どんぶりミー」と訛ったら、どんぶりが艶めかしい声でミーミーと鳴いている姿が目に浮かぶ・・・
_| ̄|○
・これらはすでにある聖歌を分類し典礼書に配列するための手段として形を整え利用されるようになったが、実際の曲には音域を越えるものもあり、また正格と変格を合わせた音域にまたがっているものや、2つの旋法の特徴を合わせ持つものなど断定できないものも数が多く全面的には合致しない。シトー派のような正当性の模索に生き甲斐を見いだす修道士達は、後に12世紀半ば頃音域と使用音を旋法に合わせようと典礼聖歌を改訂したりする例があったが、もともと聖歌は理論に合わせて作り出されて居た訳では全然無かったのである。
・さて、9世紀の「音楽の手引き(ラ)ムジカ・エンキリアーディス」には、2つ声部のディアフォニア(ギリシア語のディアフォーニアー、つまり不協和から)、もしくはオルガヌム(ギリシア語の道具、楽器から)と呼ばれる、同時に歌われる対声部の初期の例が書かれている事でも知られているが、こうした理論書や、同じ写本内の双子の「抄録(しょうろく)手引き(ラ)スコリカ・エンキリアーデス[要点抜き書きの手引き]」では先生と生徒の対話編によって理論が展開されている。このような理論書は聖職者のための学生を対象に作成されたもので、実際の所ボエティウスのような実践以上の思弁的学習は修道院付属学校などではなく、一部の大聖堂付属学校などだけで行なわれていた。まずは実践が最重要課題だったし、聖歌隊員の確保は何時の時代であっても大変なのだ。そんな分けで、自由7科を学ぶシステムが完備したところでは、ボエディウスの特に初めの2巻は学ばれるが、正直に申し上げますと、実際の聖歌の歌唱にはあまり関係がなかった。
ローマより北のアレッツォの町には彼の銅像が建っているが、恐らく990年代に生まれたグイードは遙か遠くフェッラーラの近くで生誕し、ポンポーザ大修道院で聖職者の活動を開始したが、聖歌隊教育と新しい楽譜の書き方の考案で名声を高めたとされている。それが修道院でのねたみを買ったという噂もあるが、やがてポンポーザを後にして1025年にアレッツォ司教テオダルドゥスの元に身を寄せ、聖歌隊指導を開始、やがて「ミクロログス」を司教に献呈したとされている。そののち時の教皇ヨハンネス19世(在位1024-33)に招かれローマを訪れるが、体調を崩しアレッツォ近郊の修道院に落ち着いたらしい以降は行くえが知れない。
・現在でも100近い写本が残されて、当時の教会修道院学校などでの教育に大きな影響力があったとされるこの小論は、聖歌隊員が聖歌を学ぶための実用的手引きである。モノコードの説明で開始し、実用的な話を展開した後で、最後にボエーティウスによるピュータゴラースの逸話を加え、数比を軽く説明した後、「数比についてはボエーティウスが数比を詳細に明らかにしているから、ぜひ呼んでみたまえ」と締め括っている。つまりそこから先はボエーティウスを学べということか。
・彼は幾つかの理論書と数多くの実践教育に置いて当時の指導的立場にあった。水平線による音符の記譜は彼の発明ではないが、彼の説明する4本の線による譜表による音程関係の把握と、その線に文字でf,c,gなどの記号を書いて基準線の音の高さを明らかにする解説は、一歩も二歩も抜きん出ている印象を与える。こうした記号は流れ流され今日のト音記号やハ音記号に到達した。
・彼はテトラコード(羅テトラコルドン)に基づく旋法説明より遙かに機能的なヘクサコード(羅ヘクサコルドン)(6音)音階を考案し、賛歌「貴方の僕(しもべ)たちがUt queant laxis(ラ)ウト・クエアント・ラクシス」を元にして、C音から始まる6音階を発明。視唱のためにソルミゼイションsolmizationを編み出した。ここで「貴方の僕たちが」を、金澤正剛著「古学のすすめ」より著者の翻訳をお借りしよう。(この本は、音楽全般に好奇心を持っている人はぜひ買った方がいいでしょう、ドレミ酒場の逸話だけでも読んでいて楽しいし。)
Ut queant laxis(のびのびと)
resonare fibris(胸いっぱいに響かせて)
Mira gestorum(あなたの驚くべき偉業を)
famuli tuorum,(しもべたちが語れるように)
Solve polluti(汚れたくちびるから)
labii reatum,(罪を取り除いて下さい、)
Sancte Ioannes.(聖なるヨハネよ。)
・この詞の各頭文字を取ると「ut-re-mi-fa-sol-la」(ウトレミファソラ)となるのだが、これに付けられたある旋律(一説によるとグイード自身が教えるために考案したとも云われる)では、ちょうど「ut-re-mi-fa-sol-la」の文字がそれぞれ音名の(C-D-E-F-G-A)の高さで対応して開始しているので、ここから(E-F)の間にだけ半音を含む6音の音階ヘクサコードを編み出し、いかなる聖歌の旋律の練習において、半音の位置に対応して(ウトレミファソラ)と歌わせる事にした。6音を越えて旋律が進行する場合は途中の音を新しい(ウト)に読み替えたりするムタツィオ(ラテン語で「変換」の意味)を行なって続けていけば、この6音の音階を覚えるだけで、すべての聖歌旋律が歌えてしまう。しかも半音関係が常に(ミーファ)の間にあり半音の位置を把握する事が出来るし、たとえば母音唱法と異なり言葉が付いているため、非常に旋律が覚えやすい。そしてムタツィオを容易に理解するために、証拠はないものの使用自体は本人が開始したかもしれない「グイードの手」が発明され、指に「ut-re-mi-fa-sol-la」を記入して置いて読替の手がかりとした。これはよほど教育上有効だったらしく、後の中世理論書の至る所に手と一緒に(文字通り)顔を出した。
・今日の「ドレミファソラシ」は、歌いにくい「ウト」が金澤先生いわく「ドミヌス」の頭文字「ド」となり、元の聖歌に7つ目の高さの音が無い上にトリトヌスが起こるので、グイードが取り込まなかった(B)音を、「Sancte Ioannes」の2つの文字の頭文字を取って「si」(シ)として付け加えたときに完成したのである。詞の書かれた当時JとIの区別がなかったから良かったものの、今日だったら「sj」では発音に無理があるので「sa」と呼ばれていたかも知れない。それは17世紀後半の事で、19世紀には開国して西欧文化を懸命に追い掛けたお優し民族ジャパニーズの知るところとなった。
・この6音階に基づく実践方法はグイードの死後さらに発展し、大成されたヘクサコード(6音音階)組織へ発展していった。教会旋法において音階と所定位置の音の名称は、長らくギリシア理論の影響を受けて居る。そもそもA音を基準音とするのはギリシア音楽理論から取り込まれたものだったが、ギリシアで音の名前に長い名称を与えているのはさすがに使用に耐えられない、中世では長らく代わりにアルファベットを使用していたが、ようやくグイードの頃には現在の形で音階上行に合わせて(ABCD……)と続けるのが一般化してきた。そして大譜表で表わせばへ音譜表最下の線のG音(ト音)から、ト音譜表最上のE音(ホ音)にいたるヘクサコード音階組織が出来上がり、だからこそ最下線と最上線にかかる音階の配置されたものが、今日の大譜表になっているのだろう(?)。ト音をガンマとして、その上から(ABcd)とアルファベットを振っていった。基準(A)の下に(G)の音を一音置いてガンマとしたのは、そうすることで(G-E)に至までにヘクサコルドの「ウトレミファソラ」が成立する事から置かれるようになったらしい。そしてヘクサコードの読み方を取り入れて、中世では音の所定の場所を表わす時、一番下ト音を[Γ・ut](ガンマ・ウト)と呼び、最上ホ音を[e・la]と呼んだ。一方所属するヘクサコードの沢山ある今日の一点ハ音(つまり鍵盤中心付近のC音)の場合は「c・sol・fa・ut」と呼ばれるから、まあギリシア名でも良かったぐらいだ。
・ヘクサコードは6音階だが、中世の音楽理論(変化記号がBbしか存在しないため、ピアノで云えば、音階構成音は基本的に白鍵でトリトヌスの関係からBbの黒鍵だけが使用される。)による音階構成音でも、C音からの(CDEFGA)とG音からの(GABCDE)が共にヘクサコードを形成した。このため例えばC音から1オクターヴを歌う場合はG音の所でヘクサコードを読み替えて、「ウトレミファソレミファ」と歌う事が出来た。さらに当時すでにトリトヌスを避けるために[F-B]におけるB音を半音下げる事が行なわれていたので、F音から開始してB音を半音下げて歌う場合にも、ヘクサコードが登場する事になる。当時の意識では、半音下げるのではなくB音には高いものと低いものが2種類存在して、共にB音だったというのが正解らしいが、やがてこのC音G音F音で開始する3つのヘクサコードは
C音→自然なヘクサコード(羅ヘクサコルドゥム・ナトゥーラレ)
G音→固いヘクサコード(羅ヘクサコルドゥム・ドゥールム)
F音→柔らかいヘクサコード(羅ヘクサコルドゥム・モッレ)
と命名された。この時C音開始ヘクサコードにはB音が含まれないので問題ないが、B音を含むG音開始ヘクサコードの高めのB音(つまりBナチュラル)は「四角のB(ラ)ベ・クアドルム」、これに対してへ音開始ヘクサコードの低いB音は「丸いB(ラ)ベ・ロトゥンドゥム」と呼ばれるようになっていった。これを理論書などに記入する際堅い方を角張ったbで表わし、丸い方を丸いbで記入して、異なる箇所での臨時記号として記入したりしている内に変遷して、最終的に角張ったものがシャープの形となり高める記号、丸い方がフラットの形となり低める記号、ナチュラルの形も記号としては角張ったものから変化したものである。ただし、今日的な意味での臨時記号におおよそ移行したのはバロック時代に入ってからだ。
・中世を抜けルネサンス期に入る頃になるとますます沢山の音が高めに低めに変更されて歌われる機会が増えていくが、今日なら臨時記号を書き表すような場所においても、多くの場合元の音のまま書き記され、変化を付けるのは慣習を理解した歌手達に任されていた。しっかりしたルールがあれば、記入する必要がなかったからである。こうした逸脱した音達の事を「musica ficta ムジカ・フィクタ」(偽りの音)、または「musica falsa ムジカ・ファルサ」(偽の音)と云い、今日の演奏家を恐怖のどん底にたたき落とし、あるいはやる気を漲らせるが、実際この偽りの音は当時も完全に統一的ルールが存在しない厄介者でもあったようだ。これに対して、音階の構成音(低いBを含む)は「musica vera ムジカ・ヴェーラ」(真の音)とか「musica recta ムジカ・レクタ」(正しい音)と理論家が命名している。
・おまけ、普通のB音を「はー」とため息交じりに発音するのはドイツとドイツ音楽を大量に取り込んでしまったお優しジャパニーズの皆さんぐらいだが、これは決して草津良いとこ「はーぁ」一度はおいで、ちゃいなちゃいな、と合いの手を入れやすくした為ではなく、ドイツで16世紀に音楽書出版が開始されたときに、四角いb音を似た活字であるhで印刷した「出来心伝説」の一種なのだそうだ。それが日本にも流入ですかい、道理で、ベートーヴェンが流行ると思ったよ。
2005/05/24
2005/06/20改訂