2-7章 新しい典礼聖歌

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再度注意

 調べながら書きだから、非常に剣呑です。間違い多発警報発令中。さらに向こうの地位の日本語訳として五等爵(ごとうしゃく)(五爵)による公、候、伯、子、男の5階級が使用されているのだが、これは中国周時代に天子が諸侯に与えた官職だそうだ。基準点が今一よく分からないし、調べる気力も尽きた。(実はすでに音楽史の名を借りた西洋史もどきに飽き始めていたりして。)

カロリング朝を抜けて

 さて、カール大帝の20人の子供のうち大帝が亡くなったのち健在だった第3子のルートヴィヒ1世(フランス風発音でルイ1世、敬虔王)(在位814~840)が大帝の後継者となり、教会修道院を保護し教会改革を推進、敬虔王を名を得るほどだったので幸いと文芸復興も継続されたが、彼は817年にフランク王国をロタール(のちロタール1世)、ピピン、ルートヴィヒ(後のルートヴィヒ2世)の3人の子供に分配する法を決定。同時に帝国の分裂を防ぐための法も整備した。しかし信仰豊かなルートヴィヒ1世は政治の方はどんなものか、829年に再婚して生まれた子供シャルル(後の禿頭)のために、領土を再分配しようとして、息子達に煙たがられ、リア王のごとく「おじちゃんおじちゃん」と道化にからかわれながらでも無かろうが、我が息子への攻撃にしくじり833年一端廃位されると勢力は地に落ち、840年に亡くなるやいなや、結局帝国は内乱を迎える事になった。カール大帝が即位したときも兄弟で分け合った王国が再びカール大帝の手に入りカールの帝国が誕生したのを見たが、この兄弟への分割相続とその後の権力闘争による領土の奪い合いは、よほど根強いゲルマン伝統だったのかメロヴィング朝のクローヴィスから一貫して繰り返されている。
 こうして領土奪い合いの再開したフランク王国では、1世の4人息子のうちピピンは早くに亡くなり、長子のロタール1世(在位840~855)の進出に対し、次子のルートヴィヒ2世(在位843~876)と末子のシャルル2世(禿頭(とくとう、つまり、はげあたま)王、酷いニックネームだ)(位843~877)が結んで841年にロタール1世を破り、843年にヴェルダン条約によって王国分割を承認させた。これに負けたロタール1世はそれでも長男だからカール大帝が頂いた皇帝の称号と中部フランク(今日のフランスとドイツの国境付近に広がる)とイタリアを相続し、それに対して次男のルートヴィヒ2世は東フランクを、末っ子な禿頭シャルル2世は西フランクを獲得した。こうしてまたしてもゲルマンの慣習法による分割相続の原則が保たれてしまったのである。
 その後中部フランクのロタール1世がショックのためでも無かろうが3人兄弟の中で一早く亡くなると、855年にロタール1世の領土は、またしても争いの元凶か、ちょうど3人の息子達である長男ルイ(イタリア風読みならルドヴィコ)、ロタール、末っ子のシャルル(またシャルルか)が生存していたので、中部フランクとイタリアが3人により3分割。長男がルイ2世(在位855-875)としてイタリアを獲得し、長男だけにまたしてもローマ皇帝の肩書きを相続すれば、一番北側の領土を得たロタール2世(855-869)の土地は、やがて彼にちなんでロートリンゲンすなわちフランス語でロレーヌ地方と呼ばれるようになった。末っ子シャルル3世?(855-863)はブルグンディアとプロヴァンスという2人の中間を領有したが、863年に亡くなると彼の領土は残りの2人に相続され、さらに869年にロタール2世が亡くなると、最後にかつてのロタール1世の土地はすべて目出度く長男ルイ2世の手に収まった。となれば、旨く収まったのだが、丁度イスラーム軍との戦闘で手が離せないルイ2世を見て取った、叔父さんコンビのルートヴィヒ2世とシャルル2世が、かつてロタール1世を破ったときのように同盟を結んで(仲が良かっただけなのかしら?)、870年のメルセン(メーセン)条約で、ルイ2世が始めに相続したイタリア以外の中部フランクを、自分達で均等分割して、「叔父さんの国に編入しちゃおうかなあ」とげらげら笑いながら東・西フランクに併合してしまった。
 その後イタリアでは、父親を打ち負かしたペアにまたしてもして遣られたのに衝撃を受けたか、切ないルイ2世の死によって875年にカロリング家が断絶。その後イタリアは諸侯や都市が分立し、北イタリアは東フランク、さらに962年からは名称変わって神聖ローマ帝国や、西からのビザンツの介入を受け、一方南イタリアはイスラムやノルマン人の侵入を受ける分裂状態を満喫して次の時代を迎える事になった。

ノルマン人(ヴァイキング)の大移動

 遙か昔、我々の一つ前の人類であり、幾分言葉のコミュニケーションに声帯などにおけるハンディのあったネアンデルタールの頃から、何度も何度も民族が流れ込むヨーロッパ。例えばゲルマン人以外にも6世紀にはスラブ人がイタリアに侵略を加えたり、ブルガリア人がドナウ川を渡って住み着いたり、アヴァール人がカール大帝に押さえ込まれるまで何度もフランク王国に侵略をするだけでなく、イスラーム教成立後はイスラーム国家が侵略を試みるし、東ローマ皇帝も西を眺めているし、9世紀末から10世紀にかけてはアヴァール人と同じ、東方より来たる騎馬民族のマジャール人がイタリアとドイツ領域を駆け回っていた。このマジャール人はハンガリー人の祖先と云われているが、こうした民族大移動の荒波は、8世紀後半から元々ゲルマン人の一派だったデーン人、スウェーデン人、ノルウェー人の北欧3民族がご一緒に「ヴァイキング」(入り江の民)と自ら叫びながら、大規模な略奪的遠征を本格的化させ、恒常的に行うようになると、民族大移動による現代に繋がるヨーロッパ形成のクライマックスを迎えようとしていた。つまりこの「ノルマン人の大移動」以降ヨーロッパ世界は大ざっぱに対外進出と勢力争いの第2段階へ移行するのである。
 さてすでに793年ノーサンブリア王国のリンディスファーン修道院がヴァイキングの略奪に合い、アルクィンが「リンディスファーンの破壊」を詩を残したのを見たが、こうした略奪を目指す荒くれ達のヴァイキングな時代は800年代から本格化し始めた。何も略奪だけを目的に来た訳ではなく、ある者達は商いのために北欧から遣ってくるなど、北欧の膨張機運の高まりが関係していて、これは恐らくこの頃から北欧それぞれの民族内で進行していた王国の成立発展とも関係しているのかも知れない。デーン人が最終的にイングランド東部のデーンローと呼ばれる地を我が手中に収めたのは前の章(アルクィンの所)で見たが、今日デンマークのある北に突き出たユトランド半島では、デーン人達がデンマーク王ゴドフレド(ゴズフレズ)の元でシュライ湾に都市を築き、土塁を築いて南からの侵略に備え、ゴドフレド王の死後は内紛の関係か王家と対立する貴族が国を逃れ、ルートヴィヒ1世の宮廷に保護を求めたり、834年にはデーン人がライン川下流のドゥールステーデを攻撃したり、フランクの方では保護を求めたデーン人を使ってそれを押さえようとしたり、政治的にも複雑に絡み合いながら、885-86年には約3万人ものノルマン人(ノルマン人は北方人と云った意味でフランク側がヴァイキング達に付けた名称)にパリを包囲され、陥落寸前の憂き目にあうほどだったが、奴(やっこ)さんパリ包囲を止めたと思ってほっとしたら、今度はセーヌ川上流の方に向かい、898年ぐらいまで西フランクの東フランクと近いセーヌ川上流一帯を荒らし回る「略奪襲撃で獲得しちゃうぞ。。」のヴァイキング活動が繰り広がられた。侵略するヴァイキング達に取っては、フランク王国内の川沿いの修道院や都市は絶好のお宝発見の舞台だったのだ。
 さて810年にお亡くなりたデンマークのゴドフレドと、その息子ホリク王によってデンマーク王国が開始するが、それに対してノルウェーでもハーラル1世(美髪王)(c860-933)が沿岸部を統一して国王を名乗り、ノルウェー王国(そういえば今日も立憲君主制の現ノルウェー国王はハラール5世だった)が誕生。この時多くのノルウェー人が故郷を捨て見つけたばかりの氷の島、すなわちアイスランド(そのためこの地は13世紀にノルウェーに併合された)などに渡ったと云われているので、もしかしたら王家との対立などの構図があったのかもしれない。やがてノルウェー人の首長ロロが一族引き連れセーヌ川の河口付近に陣取って、その後で西フランク国王シャルル単純王(898-923)に「臣下として従うの礼」を行い封土を受け取るという形で、ノルマンディー公国(13世紀フランスに併合)が誕生した。もちろん第2次大戦のノルマンディー上陸に繋(つな)がるこのノルマンディー地方の名称は彼らノルマン人に由来するのである。さらにこのノルマンディー侯国の部将達の一部は地中化方面にまで出稼ぎ(?)に出かけ東ローマ帝国の傭兵などとして活躍を見せたが、次第に南イタリアに領土を見つけて住み着き始めてみた。そして教皇からシチリア島のイスラム教徒討伐を仰せ付かった兄を助けシチリアを征服したルジェーロ(ルジェーロ1世)(1031~1101)は、シチリア伯の称号を貰い、南イタリアに領土を得た兄が1085年に亡くなると、彼の土地も支配下に納めた。そして息子のルッジェーロ2世(在位1130~1154)によって,南イタリアとシチリアをノルマン勢力の領土として独立宣言を行ないシチリア王となり、これを持って目出度くノルマン人による両シチリア王国が誕生した。1130年の事であり、ノルマン人はもちろん支配階級ではあるが、人口的には圧倒的多数がイスラーム教徒とキリスト教徒の現地民達であった。そのため、文化融和と異教徒共存の中央集権的な模索が進められ、シチリア王国は当時の社会にあって非常にユニークな王国だったという。
 一方スウェーデンも9世紀頃にはキリスト教が流入し10世紀頃に王国を形成したので、もしかしたらそれに関する紛争による民族的移動なども関係しているのか、それとも進出なのか知らないが(急にリサーチを中止して、また燃料切れですかい、君。)ルーシ族長リューリク(ルーリック)(~879)が自らの部族を引き連れ、ロシア最古の都市の1つであるノヴゴロドに入り、ノヴゴロド公国(862-1478)を建てた。と云うより北部ロシア地帯のスラブ人をすでに半ば支配していたノルマン人がノヴゴロドを首都に公国を成立させたと云うのが正しいのかも知れない。そしてこのルーシ族がルス族と呼ばれロシアの語源となったという噂もあるが、その後公国を継いだオレーグは、さらに南下しスラブ人を従えロシア中枢に進出、キエフを中心にキエフ公国(882-1240)を建国。東ローマ帝国、イスラームらとの貿易で大いに栄えてみた。一方残されたノヴゴロドも商業都市として自治を任されノヴゴロド公国として継続していくことになる。
 さらにヴァイキングの一部は極寒の北極方面にも船を進め、10世紀末にグリーンランドを発見し、今日も驚く、1000年頃には北米のヴィンランド(カナダ東部)まで辿り着いた。しかし一部が定住したものの、結局滅んでしまったそうだ。きっと壮大なドラマがいろいろとあったのだろうが、今は何も残されていない。こうして、ノルマン人の大移動のシーズンが幕を閉じると、これ以後は14世紀中頃バルカン半島に進出したオスマン・トルコを除いて、ヨーロッパへの大量民族起動のシーズンは終焉を迎え、東ヨーロッパでの民族配置の基本構図もほぼ同じ頃定まったそうだ。

フランク王国その後

 さて、フランク王国と銘打ってさも中央集権的な組織が君臨して征服地を取りまとめていたかのように錯覚していた皆さま、ご苦労様でした。ゲルマンに限るとは言わないが本来直接取りまとめて勢力の及ぶ範囲に支配権を握る血族の長や、族長といった者達は部族全体の王に従い部族全体のバランスを取るが、同時に半ば独立的に直接支配下では中心的指導者として自立していた分けで、分権的要素を多分に持ち合わせているのが当たり前だったから、特に求心力に優れたカール大帝のような王が現われると求心力の比率が高まるものの、その後は定住した地域を納める領主としての地方勢力同士が独立的に存在する傾向が増加して、これが再び求心力によって国家の建設となるまでには、例えば一番早いフランスでも100年戦争(1337-1453)以降、イギリスでもその後のバラ戦争の後とも(安易な説明では)云われている。具体的に少し見ていけば分化傾向がよく分かるでしょう。もちろん音楽史架空講義(そういえば、そうだったっけ。だんだん怪しくなってきた。)なのでいい加減に進行しましょう。
 さて大帝の息子であるルイ1世の末っ子でルイ1世転落の原因となった禿頭でお馴染みのシャルル2世が、いち早く世を去ったイタリアのルイ2世の代りに皇帝の称号を獲得し、戴冠式で王冠と、ついでに禿頭に装着するカツラでも貰いに出かけようと、彼の亡くなる年の877年にイタリアに出かけるにあたって、キエルジーの勅令というものを発した。カール大帝時代すでに300もあった、地方行政官の肩書きで地方領主化したゲルマン部将貴族達に与えた官職「コーメス」(伯)は、慣習的に世襲が認められて居たが、どうにも彼らの勢力を統制できないで困っているところに、ノルマン勢力まで漲(みなぎ)ってくるので、泣きながらコーメスの世襲を勅令で公的に認める事にしたのである。これ以降、コーメスの自立傾向は一層促進されて行くことになった。すでにシャルル2世自身、大分昔に亡くなった自分の兄ピピンの息子が領有状態だったアクィタニア(中南部フランス、ガロンヌ川の北に広がるあたり)を直接支配下に置こうとして失敗し、ここは900年代後半に、アクィタニアより北方ロワール川の南方あたりを領土としていたプェトゥー(つまりポワティエ)伯グィオーム3世(麻屑頭王・・・・って何だ、麻色の髪の王か?)(915-963)が、改めて「ドゥックスのグィレム1世」と名乗って以来、完全な地方勢力に到達してしまった。ドゥックス(侯)は「コーメス・ドゥカートゥス」の略で軍隊指揮権を与えられた伯を指すが、この頃コーメスより上位の概念として捕えられるようになっていたらしい。またボルドレ(つまりボルドー)南方からピレネー山に掛けて広がる先住民バスク人の土地ヴァスコニア(訛って今日のガスコニア)も、フランク王国がドゥックスの称号を与えて自立を認めながら、王国に服する約束をさせていたが、この頃にはすでに独立国家も同様になってしまった。一方、ブルゴーニュ(当時はブルグーンという発音)地方は、先ほど見た885年のパリ包囲に続くノルマン人の「お宝発見」セーヌ川登りに対して、西フランク王がオータン伯リシャールに軍事権を与えドゥクス(侯)として、ノルマンの活動を抑えその領土を納める事を認められて以来、元々その地で王を名乗っていた兄貴の領土の西側を奪う形でブルグンディア侯と名乗った。東フランクもこれに対してソーヌ側東部分を慌てて併合し、こちらはドイツ語でブルグント王国となったが、ブルグーンもブルグントも要するにブルグンディアというこの地の名前だ。こうして至る所に独立部隊が勢力を拡大する中にあって、ノルマン人のパリ包囲の隙に、カロリング朝の無能な王を尻目にパリ防御に活躍したパリ伯ウードという者が、その後次第に勢力を強め、ウードの甥であるパリ伯にしてフランク侯(パリ周辺を治める)ウーグ(ユーグ)の長男であるウーグ=カペー(在位987~996)は、西フランク国王ルイ5世が亡くなりカロリング朝が途絶えると、妻の血縁から西フランクの有力領主などが選ぶ国王選挙(直系男子が途絶えた場合は選挙か?)に勝利して、987年晴れて西フランク王を獲得、ここにカぺー朝(987-1328)が誕生するが、地方勢力それぞれ漲る中にあって、すでに国王の勢力範囲はパリとオルレアン一帯付近などに限られてしまったので、実際は到底フランク(フランス)王国誕生とは云えないようなありさまだった。まあ、一応ここから西を使用しないでフランクから訛ってフランス王ということにしておきましょう。
 一方東フランクだって、フランクフルトのあたり一帯を占めていたフランコニアが王国の中心的基盤だったが、その南方コンスタンツ湖付近は10世紀正式に伯から侯の治める土地となったスワビアや、その東に広がるバヴァリアも同じ頃独立性の高い侯領となった。フランコニア北方に広く広がるサクソニアも、800年代半ば地元のザクセン人のリュードルフに辺境伯を与えて、その代り北方から迫り来るデーン人や、スラヴ系ヴェンド人の侵略からサクソニアを守らせる事にしていたが、パリがノルマン人に包囲されている頃、やはりオットー辺境伯というやつが侯を名乗り始めた。彼の息子こそがザクセン侯ハインリヒである。一方955年に遙かアジアの血を引くウラル語族系東方騎馬民族マジャール人達をレッヒ河畔の戦い(レヒフェルトの戦い)で何とか打ち破った東フランクは、ローマ時代からあったウィンドボナの砦(つまり今日のヴィーン)あたりを東の辺境伯領オストマルクとし、フランコニア領主から出たバーベンベルク家にお任せしてみる。一方つまずいたマジャール人達はハンガリー付近に腰を下ろして、ハンガリー人としての生活を開始していく。と云うように、やはり各領主の分化傾向と独立化が一層促進されたが、すでに東フランク4代目のルートヴィヒ4世が911年に亡くなり、西フランクより早くカロリング朝が断絶してしまった。その後カロリング家と血縁関係だったフランケン公コンラート1世が一部諸侯達によってか国王となるが、実力のある真の「ドイツ王」を議決する諸侯の選挙が遂にザクセン公ハインリヒ1世(位919~936)を指名した。つまり血族の王家ではなく、地方諸侯が王を決定したのだった。彼はドイツ王国の名称を用いたため、これこそ事実上のドイツ誕生だと、ドイツ人の先生は今日でも歴史の授業で生徒達に向かって讃えてしまうそうだ。ハインリヒの死後、目出度く我が子のオットーが選挙によってドイツ王国の王となると、オットー1世(在位936-973)として即位、彼こそは先ほどマジャール人を撃退した王その人だった。
 オットー1世は、大諸侯を抑えるために血族を諸侯として各地に配置してみたが、血族は各地の部族勢力に取り込まれたりあしらわれたりして、結局目的を果たすことができなかった。それではこうしてみようと、教会や修道院領を王領として、その地の司教や修道院長の任命権を握り、これによって世襲のあり得ない聖職者を国王の官僚として、彼らを王権の支柱とする帝国教会政策という途方もない企てを開始し、その関係もありかつてのカール大帝を見習い、イタリアに遠征しロンバルディア地方を獲得してロンバルディア王を自称するなど3度のイタリア遠征を行なった。そして2回目の遠征によって、かつての大帝のように、教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の帝冠を授けられ、962年に「神聖ローマ帝国」(962-1806)(ただし正しくはこの名称は13世紀以降だとさ)が誕生する事になった。なまじ教皇からの戴冠の道を選んだばかりに、この後「神聖ローマ帝国」の皇帝達は教皇との関係が複雑になり、ドイツを放っておいてもイタリアに遠征したり政治に首を突っ込んだりするイタリア政策が行なわれる土壌が完成してしまった。(そこはかとなく、投げやりになってきた。)
 (この段は暇があれば後で調べ直す。)ついでにフランコニアより西モーゼル川流域から、ライン下流にかけてのロタリンギアも10世紀後半に上下に別れ、特にライン下流の下ロタリンギアは10世紀末からフランク王家の血縁から侯を出すようになったが、その下にか次々に伯を与えていったら、狭いところに分権目覚ましく大変なにぎわいを見せ始めた。(何のこっちゃ)。他にも、オランダの語源になったホラント付近はフリーセン人というのが早くから商業活動に精を出して、カール大帝からもお墨付きを得ていたが、デーン人来襲やらいろいろあって、次第にホラント伯がクローズアップされ、12世紀初めには文献に登場するとか、その南側にフランドル伯が登場だとか、各地想像を絶する伯や侯や血族関係や分家や結婚や戦略や戦争や続き続きいて中世は続いていくのであった。めでたしめでたし。として、そろそろ音楽史にバトンを渡しましょう。(領土分割と再統合の繰り返しによる分裂的傾向が全体に続くわけか。)

その後の聖歌の展開

 さて、カロリングルネサンスの情熱は修道院活動も盛んにし、各地に教会に大きな影響を持つような修道院の活動が開始され、もちろん典礼聖歌の中心地にもなった。中でも一番重要なのはスイスのザンクト・ガレン修道院であり、他にもライヒェナウ修道院やサン・マルシャル修道院など続々と聖歌発展のコロニーが現われてくる。聖歌は、恐らくローマ式典礼&聖歌がフランク王国に定着した後に、ローマ式ではない素材を用いて大祝日の典礼を豊かにするために新しい曲が加えられ始めたが、やがて帝国が分裂し、各地域でそれぞれジャンルは同様でも旋律と歌詞が異なるような新しい聖歌が次々に生み出されていった。これ以降も続く各種聖人の祝日はますます増大し、新しいアンティフォーナなども沢山作曲されていたが、次第に新しいジャンル、セクエンツィア、トロープス、コンドゥクトゥス(ウェルスス、カンツィオ)などが、地域ごとの特性と周辺との交流などを絡め流行し、一時期流行して消えていく聖歌もあったし、主要な典礼に正式採用されて出世を果たすものも現われてきた。悲惨な事に時代下(くだ)って16世紀のトレント公会議において、すべてのトロープスと4曲以外のセクエンツィアの廃止が決められ、こうした新型聖歌の面影をすっかり失ってしまうが、セクエンツィアなどはむしろ数が限られた事で、逆にスポットが当った側面もあるかも知れない。最終的に1つ追加されても5曲だからこそ、私たちキリスト教でもない音楽史を眺める日本人が、名前を覚えてくれるのだから。ただしトレント公会議がカトリック地域すべてを規定したと思ったら大間違い、依然としてトロープスやセクエンツィアの一部が歌われ続けた所も、やはりあったのである。特にその聖歌が重要なスポットを浴びている地域では、そう簡単に廃止する分けにはいかなかった。では、新型を順番に見ていく事にしよう。

トロープスtropus(ラ)

・まず通常文において、10世紀までに新しい聖歌のジャンルが誕生した。それは、キリエなどにおいて言葉のない旋律だけの修飾パッセージの部分に新しい歌詞を付けたり、グロリアなどで元のフレーズに対して、新しく詞と旋律を挿入するという方法で、ギリシア語のトロポス(tropos)(「遣り方」から転じて「旋律」?)と言う言葉から、トロープスtropus(ラ)と呼ばれ大流行し作詞作曲されるようになった。これは恐らく、テクストの付いていないフレーズに、付加テクスト「プロスラ」を付けて唱えたのが事の始まりらしい。この付加テクスト「プロスラ」はアッレルーヤ、オッフェルトリウム、レスポンソリウムのメリスマ部分などに多く見ることができ、中でも聖務日課のレスポンソリウムに付けられた「プロスラ」は、選ばれた歌手達が特定の場所で意気揚々と歌いまくる、いわば聞かせどころだったという。ただし当時どのように歌われたかはそこはかとなく分かっていない。面白い事にセクエンツィアの付加テクストも時に「プローザ」と呼ばれ、ある程度共通の意味合いを持っていたようだ。後になると元の聖歌に対して、旋律だけ、歌詞だけ、あるいはその両方で、すでに存在する聖歌に書き加えた旋律かテキストは皆トロープスと呼ばれ、これによって華麗な旋律がさらに拡張されたり、そのままの旋律に言葉が付けられたりした。最も古い現存するトロープスは、ザンクト・ガレン(サン・ゴール)の修道士であるばかりか、詩人でもあり、管楽器と弦楽器の演奏家でもあり、建築家もこなしながら、彫刻家としても活躍した(まあ、修道院自体の自立性の賜物と云ったところか。)トゥオティロ(Tuotilo)(915没)の作品であると考えられている。これが本格化するのは火付け役だたかもしれないトゥオティロが亡くなった後、10世紀から11世紀に掛けてであり、一時期隆盛を極めたが12世紀にはこの作詞作曲は典礼聖歌として定着したためもはや新作が作られなくなった。こうしてトロープスの取り込まれた典礼聖歌は、400年後にトレント公会議の決定によって新型が追放されるまでは引き続いて行く事になる。では、改めて教科書のまとめを改めて書いておこう。


トロープスtropus(ラ)[ギリシア語のトロポス遣り方、から]
・ミサ固有文の交唱的な聖歌(とくにイントロイトゥス)に加えるため、歌詞と共に新たに作曲。のちグロリアなどの通常文でも作られていった。一応便宜上に種類分けをすると。
①既存のメリスマに、歌詞だけを付ける
②既存のメリスマを拡張、または新たにメリスマを加える
③元の聖歌に、新しい歌詞と新しい音楽を加える

セクエンツィアsequentia(ラ)続誦

・次にラテン語の「セクオル」つまり「後に続く」から生まれたとされるセクエンツィアについて見てみよう。
・さて元々アッレルーヤ唱は「メリスマ的旋律、つまりユビルス付きのアッレルーヤ」を前と後に唱(うた)い、真ん中の詩編から取られた独唱句(versus)を挟み込む形で唱(とな)えられていたが、10世紀の写本においてアッレルーヤの冒頭が書かれていて、それ以降に詞のない新しく作られたらしい長い旋律が続くものが見られる。初めから詞も一緒に付けられたかは不明だが、この新しい旋律はセクエンツィアと呼ばれ、最初期にはアッレルーヤのユビルスを夢中になって拡大しているうちに生まれてしまったものらしい。こうしたセクエンツィア付きのアッレルーヤは、祝日などでミサを拡大するための形式で、独唱句の後に2回目のアッレルーヤが登場するところで、聞かせどころとして「セクエンツィア付きアッレルーヤ」が使用されたという噂もある。これは恐らく900年代のいずれかにセクエンツィアの旋律に新しく作られた詞が付けられるようになったが、もしかしたら元々旋律と同時に歌詞を付けていた可能性も否定できない。こうして誕生したセクエンツィアは、1つの音に1音節を当てはめるシラブル型の特徴を持つ新作聖歌で、後になると旋律の型も「開始旋律-aa-bb-cc-dd-……最後の旋律」という整った楽曲構造を持つものが多く、開始旋律以降は、同じ旋律が2回ずつ繰り返されて一方歌詞の方は繰り返されず、次の歌詞に進むから、一つの旋律に2つの異なる歌詞が付けられたの後、次の旋律に移り、最後はまた1回だけの旋律と歌詞で終わるという、非常に今日の皆さんには馴染み安い形式を持つに至(いた)った。おまけに2回繰り返される同一旋律の詞の対句、音節数、アクセントの型が整っているため、すぐれた詩として作詞を行なうことが出来ると注目され、やがて大流行を巻き起こし、トロープスが作られなくなった後でさえも作曲が行なわれたのだろう。この形を知りたければヴィーポ(995頃-1050頃)の作曲した中世的には有名な曲である「過ぎ越しのいけにえに賛美を捧げよう(ヴィクティメ・パスカーリ・ラウデス)」などを実際に聞くのが一番手っ取り早い。また、この詞自体は「続誦のための散文詩(プローザ・アド・セクエンツィアム)縮小形プロズラ」(要するにトロープスの詩もセクエンツィアの詩もプローザなんだろう)と呼ばれるようになったが、最初期の代表選手にザンクト・ガレン修道院の修道士ノトケル・バルブルス(812頃-912)(どもりのノトケル、どもりどもっておにぎりを頂戴するという得意技を持つ山下画伯のような者か)という人が居て、かれは長いメリスマを覚えるためにメリスマ旋律に一音ずつ一音節当てる方法を学んで自ら手がけたと記述を残しているので、ちょっとばかり引用してみよう。

「私が若い頃、長い旋律が貧弱な記憶に打ち負かされてお優しく頭から転げ落ちて行方不明になる事件が多発しましたが、すっかり落ち込んでいるとジュミエージュ(残念ながら最近ノルマン人のお宝発見に遣られましたが)出身の司祭が、詞としては取るに足らない悲惨の極致の作詞法ではあるものの、メリスマ旋律にテキストを加える事によって旋律を覚える記憶術を身に付けて居るのを発見しました。これこそ記憶に打ち勝つ必勝の方策だと気が付いた私も、意気揚々とメリスマに詞を書き一作目を仕上げると、私の師であったイーゾに見せに出かけた所、「それじゃあまだ、作詞の味は分からんですな」と窘(たしな)められ、旋律の一つ一つの動きに別々の詞の音節を当てはめるの心を伝授されたので、私は直ちに帰宅し2作目に取りかかったのであります。」

 こうして一部の地域では熱狂的に生み出される事になった新作典礼聖歌セクエンツィアは、ついには元のアッレルーヤの後に唱われる独立した典礼聖歌となったが、かつての統一フランク王国下の聖歌伝播のように広域に同じセクエンツィアが唱われる事はなく、それぞれの地域で異なるセクエンツィアが作曲され典礼に取り込まれていった。写本の多く残っている中心地はアキテーヌ地方、特にサン・マルシャル修道院だが、一方大陸を離れてウィンチェスターでは10世紀頃から、すでにあったセンエンツィアの旋律に新しいテキストを付けるブームが沸き起こった。この新作聖歌セクエンツィアはトロープスより少し遅れ11世紀から13世紀にかけ最盛期を迎え、その後でさえ作曲が続けられた。予言と啓示で知られた26の幻視「道を弁えよ(わきまえよ)(ラ)シヴィアス」を著述したヒルデガルト・フォン・ビンゲン女史(1098-1179)はセクエンツィアの作詞作曲を自らこなした修道女として、今日でも密かなブームを沸き起こしたりするが、後になると特に広く普及したセクエンツィアは世俗的音楽にも取り込まれ、中世後期になると世俗的な歌曲と非典礼的宗教曲とセクエンツィアの間に妙な関係が見られるものがあるという。
・中世も進むと、元々アッレルーヤメリスマの散文の詩を指したプローザという言葉は、12世紀頃から独立した詩的なセクエンツィアの歌詞も指すようになっていった。始め散文で詩の長もまちまちだったセクエンツィアは、12世紀中頃から各詩節音節アクセントが「8+8+7,2+2+3+3」などで繰り返される規則的なものが多く見られるようになり、パリのノートルダム大聖堂参事会員であったアダン・ド・サン・ヴィクトールは、旋律は自分で作らずに、各行の長さが均一で韻脚も型に従う多くのプローザを作ったことで知られている。彼のせいかどうかは分からないが、詞を規則的リズムによって韻を踏んで作詞する新しい流行が到来し、聖務日課のレスポンソリウムやアンティフォーナも韻を踏んだテキストによる作品が多く見られる。セクエンツィアの型も少しく新しいものが登場し、形式が変化して賛歌的な様相を見せるセクエンツィアの傑作として、トーマス・デ・チェラーノ(トンマーゾ・ダ・チェラーノ)(13世紀前半)による「怒りの日Dies irae」(ディーエス・イーレ)がある。これは「AABBCC」の3つの旋律型による旋律が、繰り返して3回歌われ、3回目の最後の終わりだけが異なる旋律で締めくくられる。さらにこの韻律詞の完成された美しさは後に改めて取り上げてみたいと、野心が沸き起こるほどだが、ここではしぶしぶ通り過ぎておきましょう。
・このセクエンツィアもほとんどがトレント公会議(1545-63)で廃止されたが、4曲だけが典礼に生き残る事を許された。その4曲は
復活祭の「過ぎ越しのいけにえに賛美を捧げよう」
聖霊降臨祭の「精霊よ、来てください」(ヴェーニ・サンクテ・スピリトゥス)
キリスト聖体祝日用「シオンよ、讃えよ(ラウダ・シオン)」(トマース・アクイナス(1225頃-1274)作?)
「怒りの日Dies irae」(トンマーゾ・ダ・チェラーノ)(13世紀前半)
・さらに1727年にヤコポ・ダ・トーディ(13世紀)の「母は悲しみに:聖母哀歌(スターバト・マーテル)」
がいかなる経緯があってか典礼に再たび導入されて、今日では5曲のセクエンツィアが典礼内に顔を覗かせている。

コンドゥクトゥス(ウェルスス)

・これは12,13世紀の祝日での典礼中に多く見られる聖歌で、明確なリズムを持っていて、さらに韻を踏むラテン語の歌詞で唱われた。元々レクツィオ(朗読)のために朗読台に進む時や、退場の場面で使用されたが、明確なリズムは歩調に合わせて唱ったためだという説もある。特に東方諸国では長い間使用され続け、こちらではカンツィオと呼ばれた。

典礼劇(liturgical drama)

 復活祭のミサの開始であるイントロイトゥスの前に拡大されたトロープスを発展させて、対話をさせて民衆にアピールしているうちに(あるいは自分達で楽しんで?)、次第に短い劇の様相を帯びてきたのが事の始まりだともされる中世の典礼劇は、ビザンツ帝国などの影響から取り入れられたのかも知れない。すでに東方教会は、9,10世紀頃宗教劇を開始していて、やがて西方でも典礼の際に、宗教劇を付け加える形で典礼劇が登場してきた。すでに1000年頃までには、キリストの墓を訪れたマリア達と天使とのごく短い対話が、地域を越えてヨーロッパ全体で行われるようになっていった。こうした短いトロープス的対話はミサの他の部分に使用する事も出来たため、特定の祝日を盛り上げるための拡大された典礼として最適だったが、特にキリストの受難を扱った受難劇の形で広まっていった。て11世紀には、演出場面と効果が劇的に発展して、既存のアンティフォーナやレスポンソリウムから、新しく作られた聖歌など、あらゆる素材が長い対話劇として上演するために流用され、ついに典礼から独立した典礼の付属物にまで到達した。
 最初期の例としては、復活祭ミサのイントロイトゥス前に置かれた10世紀の対話かトロープスを元にした「墓場で誰を探しているのかQuem quaeritis in sequlchro(クエム・クエリティス・イン・セプルクロ)」があり、一説にはトゥオティッロ(915年没)が作ったとも云われているが、復活祭イントロイトゥスの「私は復活した(レズルレクシ)」への序奏的なトロープスとして書かれた写本以外にも、幾つかの写本ではミサの前に信者たちが聖堂から別の聖堂に歩いて回る行事と共に歌う、行列聖歌を含む儀式の一つとして登場する写本もあり、すでに用途が拡大していることが分かる。資料からは、それが歌われただけでなく、仕草を伴っていたことも分かるが、復活祭と降誕祭の劇は非常に一般的なものとして、ヨーロッパ中で演じられるようになった。そして、一度演じられてしまえば、性質上おしかりを受けてもどんどん発展してしまうのは目に見えていた。特に、実際上の典礼から離れ独立的に演じられはじめると、さらに一層流行していくことになる。
 またこのような典礼劇は、やがて、発展する都市の重要なイベントとなり、典礼前の十全たる独立した聖史劇(ミステール)として、特定祝日に野外に舞台を設け行列を行ないつつ、場面場面を演じて行くページェントが執り行われ、それぞれの場面を実演される一場面の静止画として活人画(タブロー・ヴィヴァン)としたり、さらに発展して劇としてその場面をお送りしたりしながら、旅芸人から各種ギルドや共同体がそれぞれの役割を持って都市全体の祝祭とする伝統に発展していった。
 そして運良く今日まで音楽付きで残された、13世紀初頭にボヴェというパリ北部の都市で上演した記録が残る「ダニエル劇」や、フルーリで上演された幼児殺しに関する「ヘロデ劇」などは、今日では古学演奏団体の主要レパートリーにまでのし上がったのである。特にダニエル劇で大御所こと皆川氏がライオンの着ぐるみに入って素人ながら暴れ回ってしまった事件は、日本の中世ファンを引きつけてやまない好逸話だ。(・・・それが今回の落ちか。)他にも、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン女史非典礼用宗教音楽劇「諸徳目の秩序(オルド・ヴィルトゥートゥム)」(1151頃)は、道徳劇として上演され、悪魔だけは歌を歌わないと云った演出が早くも顔を覗かせる。この時期、修道士達の、また旅芸人達による、道徳劇(モラリティ・プレイ)や、謝肉祭劇、ロマン劇、笑劇、などなど各種劇も発展して、特定シーズンを大いに楽しませたが、旅芸人の行なう劇が何時から行なわれていて、ローマ時代の伝統の幾分かを引き継いでいるのかなど、細かいことは分からない。

2005/05/31
2005/07/08改訂

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