2-9章 ジョングルールの活躍する中世の楽器

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東フランクとイタリア

 東フランクでは、911年のルートヴィヒ4世の死によってカロリング家が断絶して、フランコニアのコンラートが一部諸侯の選出によってコンラート1世(位911~918)となるが、ザクセン公やバイエルン公と対立が絶えず、マジャール人の進入も激しいなど様々あって、改めて諸侯選挙による国王選出となって、ザクセン公ハインリヒ1世(位919~936)が東フランクの国王となった。彼の息子であるオットーが続いて国王に選出されると、アーヘンで塗油を済ませオットー1世(912-973)(東フランク王として在位936-973、神聖ローマ皇帝としては在位936-973)となった。しかし、彼も反乱に悩まされたため、次第に血族を諸公に配備し勢力を安定させようとしたが、マジャール人が攻め込む中に自分の息子まで反乱を起こし、こんちくしょうと息子を鎮圧して955年にレッヒェルトの戦いでマジャール人も撃退したが、これが元で次第に聖職者を当地の重要な要とする政策に変化していくきっかけとなったともいう。951年にはやはりカロリング朝が断絶していたイタリアの王としても即位し、イタリア勢力拡大を目指しつつ、丁度ローマで襲撃にあった教皇を救出し、962年にかつてカール大帝が授かったローマ皇帝の称号を目出度く引き継ぐ事になった。神聖ローマ帝国という名称は15世紀頃になって始めて使用始めたが、今日ではこの時をもって神聖ローマ帝国と呼ぶといういい加減な慣習が生まれている。

イタリア政策と教会改革

・さて、初めての皇帝オットー1世時代からイタリアへの遠征と支配権の確立が教皇任命を絡めて行なわれるようになったが、シュベステル2世という教皇の時代になるとオットー3世がローマ帝国再現を目指しローマに宮殿造営を開始。これに対してローマで大反乱が起こり追い出されたりしている間にわずか21歳で亡くなるなど、イタリアを絡めた状況は不安定なままだった。このオットー3世の死で直系が途絶えると、ザクセンに変わってバイエルン公ハインリヒ(ただしザクセンと血縁関係がありザクセン朝の最後の皇帝とされる)が、ハインリヒ2世(在位1002-1024)として即位。彼は諸侯の力を支える荘園、私有修道院などを皇帝支配下にある司教座教会へ移行させ、これを持って有力者達の権力削減を目指すが、この間に皇帝の影響下にある教会に統治の重要な役割を持たせる政策、つまり帝国教会体勢が一層強まり、司教などを任命するという教会への介入は皇帝の再重要政策の一つになっていく。
 このハインリヒ2世の死でザクセンの血筋が途絶え、続いてザリエル公のコンラートがコンラート2世(在位1024-1039)として即位、彼もイタリア遠征に手を染めイタリア王として即位し、そのままローマで皇帝の戴冠式を挙げると、1033年には中部フランスよりのブルグントも直接支配下に収めた。続くハインリヒ3世(在位1039-1056)の時になると、帝国内は比較的安定し、彼は強権を持って1046年にイタリア遠征に出発した。前のハインリヒ2世も敬虔な精神の持ち主だったとされるが、彼もまた乱れたローマ教会に対する刷新を目指し、修道院などの刷新運動の新しい思想と風は当初皇帝達の方がいち早く感じていたのかもしれない。ローマ教会は1045年にはベネディクトゥス9世の素行の悪さからローマ暴動まで沸き起こり、教皇の位は金で買収され、こちらの方が正統だと対立するもう一人の教皇が登場したり、教会中枢は混迷を極めていた。ハインリヒ3世は強権を持って教皇を入れ替え新しい教皇クレメンス2世を就任させると、彼から戴冠を受けて皇帝となっている。恐らくこうした皇帝のサポートがあってこそ、教会改革運動は動き始める事が出来たかもしれない。ところが、なまじ皇帝が教皇から直接戴冠を受ける上に、帝国内の有力聖職者の皇帝による任命が、帝国教会体勢の確立によって帝国統治の重要な手段となっていたところに、ローマで教会改革運動が高まって、上位聖職者の選出における教会の優位を説きだしたのだから、続くハインリヒ4世(在位1056-1105)グレゴリウス7世の確執が大きくクローズアップしていく事になるのである。それについては、後ほど見ることにして、この章の話の中心である中世の楽器に話を移すことにしよう。

中世の器楽と楽器

 楽器なども暇があれば調べてみたい気がしないでもないような心持ちに身を委ねつつ今は軽く行き過ぎん。二度と帰ってこないかも知れない。
 そもそも断絶しているだけでは話にならない、ローマ時代の音楽からの継承と断絶の具体的な記述付近から始めたいが、そんな事を調べていたら私の時間が無くなってしまうじゃないか。今は、楽器よりビールが大事だ。と云うわけで、ここは幾分お優し気味の著述方法で誤魔化してしまうことにする。中世の音楽と楽器状況は、実際は10世紀頃から盛んになり始めたイスラーム文化との接触がきっかけとなって大きく発展した。西方のアル・アンダルス(イスラーム支配下のイベリア半島)やイタリア南部からシチリア島にかけてイスラームとの交流が増加し、その間に数多くの文化やアラブ楽師の歌やら、楽器やらを知る機会が増え、十字軍でもイスラームとの接触が起こり、例えばこの接触からギリシアなどの古典著述物などが輸入され、俗に12世紀ルネサンスと呼ばれる動きに繋がっていくのだが、音楽においても、10世紀以降新型楽器と新しい世俗歌曲の流行などの大きな流れを形成していく事になった。もちろん中世初期にも歌われたに違いない世俗の大量の歌は器楽で伴奏が付けられ、譜面に残る事のない中世のカロールなどの舞踏も、歌や器楽で伴奏されながら踊られまくったに違いない。ただし今日まで譜面の残された器楽曲となると何もないのだから仕方がない、13世紀から14世紀になってようやくエスタンピ(仏、estampie)と呼ばれる舞曲形式による器楽曲が数曲だけ残されている。これは単声も多声もあり、長い伝統が始めて譜面に残されただけなのだろうが、2回ずつ繰り返す音楽部分(aabbcc・・・というように)を幾つも持ち、一回目は半終止(開いた(仏)ウヴェール終止)で、繰り返しは全終止(閉じた(仏)クロ終止)で終わる。イタリアで14世紀に見られるイスタンピータという曲も同様な曲種だ。さらにもっと小規模の短い舞曲にはドゥクツィア(ductia)という名称も使用された。

リュート

・最近ではリラ、キタラーといったギリシア・ローマ時代の楽器も中世初期には使用されていたらしい事が分かってきているが、リラの歴史はメソポタミア・エジプト文明に遡り、紀元前3000年頃から使用されていた最古の楽器群に含まれる。後にそれを東方音楽と一緒に取り込んだギリシア文明では、共鳴胴体から2本ばかり腕を伸ばして、伸ばした腕の先を横に棒が走る形をしていて、仮に君が鉄棒にぶら下がった時に2本の足を引っこ抜くと(そんな無茶な)、共鳴胴体から腕が2本伸びて鉄棒を掴む形になる。この時鉄棒が横棒になるので、自分のお腹からその鉄棒に向かって5本から15本の弦を装着して、弦を弾く道具であるプレクトラムか、あるいは指でそのまま弾くと、弦の振動が腹が減って空洞の出来た胃の中で共鳴して音が鳴り響くという(・・・まあ、イメージですから)。この竪琴はよくアンフォラ(酒入れ壺)などに描かれるお馴染みのギリシア時代の楽器だ。
・この素朴な竪琴を改良して共鳴胴を付けたリラの楽器がさらに発展したか、それとも別の理由があったか知らないが、リラ見たいな楽器も使われていたササン朝ペルシア(226-651)では、すでに王朝成立以前からある、長い一本の棹の最後に共鳴胴体が付け加えられたようなタイプの楽器が、弦「タール」の数に合わせて、ドゥタール(2弦)、セタール(3弦)、カタール(4弦)などと呼ばれていた。また当時は統一国家には為っていなかったものの、メソポタミア方面への民族出張は紀元前から繰り返されていたアラビア半島アラビア人たちも、こうした楽器をまとめてタンブールと呼ぶようになったそうだ。さらにササン朝ペルシアでは、こうした伝統楽器の中から、丸い大きな実を半分に割ったようなズングリした共鳴胴体に一本の腕木を棹として伸ばして最後にカクンと後ろに90度ぐらい折り曲げて、その一本の腕木の上に弦を張るという楽器が誕生し、バルバトと呼ばれていたらしい。このササン朝もフランクのクローヴィスが亡くなってから生まれたホスロー1世(在位531-579)が、ユスティニアヌス帝と戦ったり、東方から略奪宜しく現われた遊牧民族エフタルを撃退した頃が一番の繁栄期で、その後アラブ人イスラーム教徒にニハーヴァンドの戦いで642年破れると、651年にはとうとう王が惨い(651)殺害にあって大ペルシアもアラブ勢に飲み込まれていく。こうしてササン朝が倒された後は、この楽器バルバトがアラビア語で定冠詞込みでアル・ウードと呼ばれ(つまり名前だけならウード)、タンブールと共に大いに流行しているうちに、遂にスペインを経由して8世紀から12世紀のいずれかにヨーロッパに入って、訛ってリュートと呼ばれるようになったという。13世紀には文献に名称が登場し、挿絵が現れるので足跡が確認できるが、それ以前の経緯についてはかなり不明瞭である。もちろんタンブール系の楽器もアラブから流入してきた。中世も中期に入るとかつてのキタラーの伝統も消え失せ、そんな中にタンブールだの、それがインドに移って変化したシタールだの、様々な名称で呼ばれながら入ってきたので、これがキタラーだ、いやこっちがキタラーだとギリシアに思いを致している間に、ギターン、チターン、シターン、シトールなど性質がそれぞれ異なる様々な弦楽器がキタラーの子孫だと勘違いされてしまった上に、弦楽器の総称もキタラーと呼ばれるようになってしまった。そんなわけで、例えばギター(スペインでギタルラ)の名称もまたキタラーに由来すると思われて今日に至っているが、本当の由来は到底分かったものじゃない。このギタルラは、スペイン以外ではルネサンス直前まであまり使用されていないようだが、ルネサンス時代に入ると黄金期を迎え、さらに17世紀には大型のキタローネやテオルボまで登場する事になった。

ハープとライアー

・プレクトラムを爪として弾くリラや文字通り爪弾くハープのような撥弦(はつげん)楽器は途絶えることなく中世に命脈を保ったのかも知れない。ライアー(竪琴)は、つまりリラという言葉が変化したもので、後にドイツでハーディガーディをライアーと命名して、異なる種類の楽器までライアーと呼ばれるに至った。一方D型をしたハープは、ケルト伝統に由来があるものか、古英語の詩もハープに伴奏されたようで、島の伝統として中世を越えていくが、アイルランドとブリトゥンから9世紀より少し前に大陸に渡ったとされる。

プサルテリウム psalterium(ラ)

・一方すでに旧約聖書でもお馴染みの楽器で、メソポタミア文明の伝統から生まれてきた楽器の一つにプサルテリウムがある・・・のだと思ったら、またしても名称だけが中世に辿り着いた楽器で、ユダヤ人のプサルテリウムは竪琴の一種だったという。教父達が聖書の記述にあるプサルテリウムという楽器名を主の舌の比喩だと誤魔化して教会から楽器を追い出す作戦を敢行したため、元の楽器が途絶えたのが原因かも知れない。ただし、カロリング朝は旧約聖書のダビデ王伝説などに大きな関心を示したが、そのダヴィデの竪琴に合わせて歌った歌こそが詩編であることは、宗教と音楽に積極的に参加する楽器のイメージを持っているし、またゲルマン以来の王宮での楽器と音楽による祝祭の情熱に対して、教会人の言葉がどれほど影響力を持ったかはかなり怪しいものである。とにかくプサルテリウムは中世においては、やはりアラブなどから流入した楽器で、棹を伸ばさず共鳴胴体に弦を張るタイプの楽器としてルネサンス時代まで使用されることになったそうだ。一方セイビリアのイシドール(イシドルス)の「語源」(7世紀前半)で述べるところによると、詩編自体をギリシア語でプサルテーリウム、ラテン語ではオルガヌムというという著述もある。大方10世紀以降に入ってきた楽器にプサルテーリウムの名前を与えて、それがうっかり定着しただけなのかもしれない。

ダルシマー

・やはり中東から十字軍あたりにやって来たらしい楽器で、今日もイラクなどで演奏盛んなサントゥール、東方に流れて中国の洋琴ヤンキンなどに類似の楽器が見られるが、プサルテリウムの弦をバチで叩いて音を出すような演奏をする。しかしだからといって中世でプサルテリウムをうっかりバチで叩いたらダルシマーが誕生した訳ではないようだ。この何かで叩いたり弾いたりする方法が鍵盤を使用した打弦に変化して、後にクラヴィコードやらチェンバロが登場してくる事になった。

ヴィエル(仏)・フィーデル(独)

・9,10世紀頃、またしてもアラブなど中東音楽の影響から、弦を弓で弾くという想像を絶する遣り口の擦弦(さつげん)楽器が登場した。アラブでは擦弦(さつげん)楽器の土台にラバーブというのがあって当時から今日まで使用されているそうだが、ラバーブという単体の楽器が入ってきたと云うより、様々な弓で弾くタイプの楽器がアラブ人達によってひけらかされたのかも知れない。中世でもヴィエルに限らずレヴェックなど様々な名称が残されている。トルバドゥール達のところでも、この種の楽器について述べたが、このヴィエルは12世紀内にトルバドゥール圏のオクシタニアに流入し、13世紀にはトルヴェール圏の都市で大流行を開始した。遠くヴァイオリンに繋がるヨーロッパ弦楽器の土台は、ちっともオリジナルな方法でもなんでも無かったのである。ルネサンス期になると隆盛を極めるヴィオール属はここから誕生していく事になる。その最後の生き残り的存在がヴィオラ・ダ・ガンバとしてバロック時代に命脈を保つから気が長い。

オルガニストルム(ラ)

・10世紀の理論書には記入され、3弦のヴィエルの弓で弾く部分を替わりに手回し棒に連動した弦にこすりつける回転装置によって音を出す楽器、つまり弦楽器だった。当時は2人の奏者を必要とし、教会で使われていたが、後に小さくなり、ハーディガーディが誕生したんだそうだ。

管楽器

・管楽器は弦楽器以上に混迷を極めるので、ええ、何時の日か、また。とにかく古代から中世まで伝達したとされる笛であるフルートには、中世も12,13世紀になるとすでに横笛型とリコーダ型があり、管楽器と打楽器はローマ式行事に欠かせないものだったから、結局その習慣がゲルマンにも引き継がれるのか、どうなのか、どの程度なのか、詳しくは分からない。(ぴえー。)

トランペット

・金属使用が開始すると角笛を模倣して登場した金属製管楽器はエジプト文明にも顔を見せるが、アッシリアや旧約聖書の記述に見られるものは、すでに直管トランペットの始まりを告げる楽器に到達していたという。ローマ時代にはいるとトゥーバ(Tuba)リトゥス(Lituus)と呼ばれた完全な直管トランペットが登場し大いに軍隊と行事に活躍、さすがにトランペットは中世にそのまま伝わったのかしらん。

ショーム

・今日重ね合わせの2重リードを持つ木管楽器としてオーボエがあるが、あの祖先もやはり中東にある。ギリシア時代からローマ時代にかけて管楽器の代表選手として使用されたアウロス自体が、かつて中東からギリシアに渡って来たとされているくらい、2重リードの管楽器はオリエント地方伝統の楽器だったのだが、2本の管楽器を同時に演奏するアウロス自体は完全に生命を絶たれた。一方今日残るペルシャのスールナなどの祖先であるアラブ人達の2重リード楽器が12,13世紀頃ヨーロッパに持ち込まれたとされ、甲高い異国情緒溢れる楽器とされていたが、通る甲高い音が重宝され軍隊の合図やら祝祭での器楽として急激に勢力を拡大していった。

打楽器

・太鼓などは12世紀までに歌や踊りの拍を取る楽器として、盛んに用いられるようになった。とはいっても、常に使用され続け、もっと前からそうだったろう。

オルガン

・カロリング時代ピピン3世やカール大帝がビザンツ皇帝からオルガンを贈られているが、オルガンの建造はその後時間を掛けて活発化していった。イングランドのウィンチェスターの記録では994年頃400のパイプに20の鍵盤を2つ持つオルガンの存在が記されているそうだが、やがて11-12世紀頃になると修道院や教会の設置が次第に活発化していくようだ。当時盛んになり出したポリフォニー楽曲との関係が気になるが、分からないものだから、気になりっぱなしで先に行く。やがて、小型の「手持ち、portative」(ラテン語でポルタートゥム、運ばれる、とも)という持ち運び自由で、時にひもで首につるして左手でふいごを動かしながら回すオルガンも登場し、さらに「ポジティヴ、positive」(ラテン語でポジトゥム、置かれる)という可動式だが演奏の時は机に置くオルガンも生まれ、これはふいごを扱う助手も必要だった。

民衆的楽器

・そのうち農民達が祭に興じたり、都市でカロール・カロール・カロール状態が沸き起こると、フィードルや、笛、打楽器にリード楽器のバグパイプなどが花を添える楽器として一般化し、トランペットは放浪音楽家の楽器にも、さらに後に塔の見張り番の楽器にもなったのである。さまよえる芸人としての器楽奏者達も、やがて宮廷に取り込まれ、都市楽師に採用され定職を持つ者と、持たざる者達に分化し、持たざる者達は社会のアウトサイダーとして、哀れみと卑しみを兼ね揃えたような眼差しで見詰められる存在になっていく事になる。

14世紀頃になると

楽器の分類

フランスなどで楽器と演奏者を「オー(高い、うるさい、つまりアルタ)」「バ(低い、大人しい、つまりバッサ)」と分けるようになった。大きな甲高い楽器群である「オー」は、ショームやトランペット、バグパイプに、狩りのホルン、各種打楽器などで、これは軍事行動や馬上槍試合トーナメント、さらに狩りや、各種祝祭などで使用される楽器群であり、華やかでよく響き渡る事が重要だった。一方「バ」の楽器は宮廷内での演奏や歌の伴奏などで使用されたそうだ。この言葉は1388年頃書かれたシャルル6世が楽師組合に特許を与えるときに「オーとバの楽器を演奏するメネストリエ(楽師)」という呼びかけにすでに見られるが、さすらいの楽師ジョングルール達も、組合に組織され特許上を受け取った以上はメネストリエという別の階層になったわけである。ここから「採用されたらジョングルールじゃなくなってしまう」という迷言が生まれた。ただし15世紀中頃から、宮廷の室内舞踏などに甲高い「オー」の楽器が好まれ出すなど、流行の変遷が常に付きまとった。

舞踏の分化

 舞踏も次第に形式が整えられ始めた。フランスの都市などで野外で市民が輪になって踊りまくっていたカロールは、イングランドではキャロルなどと呼ばれつつ、一般的に野外で行なう輪舞として行なわれ続けた。フランス語で「円い」を表わす「ロンド」(ラテン語ならロンデルス)という言葉も、やはり輪舞として中世に登場している。こうした市民や農民などの熱狂舞踏は、中世を通じて不定期的に大流行を巻き起こし、ペストが大流行する14世紀中頃には「ダンス・マカーブル」つまり「死の舞踏」として死に神ダンスが多くの視覚芸術に残されているが、これも実際の熱狂的舞踏と何か関係があるようだ。もちろん野外での輪舞は貴族達の楽しみとしても早い内から取り込まれていた。一方宮廷内で貴族の嗜みとして行なわれる舞踏が次第に整備され、これはダンサ(ダンス)と呼ばれるようになっていく。多くは男女のペアが行列を組みながら踊り、やがて遅い踊りの後で早めの舞踏を組み合わせる傾向が生まれ、ルネサンス時代のパヴァーヌとガイヤルドなどが登場してくることになる。しかし民衆的なものと貴族的なものの境界線上にあるような輪舞形式の舞踏も宮廷で好まれた。ダンサでは、特にバス(低音)にお馴染みの旋律を置いて土台として、その上で即興を繰り広げながら舞曲伴奏とするバス・ダンス(イタリア語ならバッサ・ダンツァ)が一般的だったが、続く15世紀頃にはこのバス・ダンスから次第に独立していったブランルというダンスがブームを巻き起こした。このブランルはフランス語のブランレ、つまり「揺れる」に由来し、男女ペアが一周輪を作る「輪舞」として、民衆にも宮廷でも踊られることになったという。この15世紀を迎える頃の舞曲は、例えば2本のショームとスライド・トランペットとか、フルート、リュート、にハープを加えたアンサンブルなどで伴奏されていたそうである。
 また中世初期から旅芸人達の一団が行なっていた伝統の先に登場する専門的な舞踏芸人による見せ物舞踏はバルなどと呼ばれ始めた。専門家の舞踏としては14世紀にはムーア人の黒人(であり悪魔でもある)に扮した集団とソロの激しい混合舞踏であるモレスカ(モリス・ダンス)が流行し、これは踊り手が鈴などを付け跳躍ジェスチャーの大きい舞踏を行ない、ペアで異教徒との戦いを再現したりと大いに盛り上がる2拍子型の舞踏で、ショームや笛、太鼓などで伴奏されたそうだ。百年戦争中に精神を病んでしまったシャルル6世が1393年に催した結婚式での「野蛮人の松明モレスカ」では、ダンサーに飛び火した松明が元でサン・ポル城が炎上する始末だった。心がお優しすぎて逃げ場を失った国王は、「いとも豪華なる時祷書」でお馴染みのベリー公が「ベリーナイス!」と叫びながら救出して差し上げたのだという。(このことからアカデミ内で「松明モレスカ焼身ボカン」という言葉が生まれた。)

2005/06/05
2005/08/15改訂

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