間奏曲 中世、封建社会と日常生活

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間奏曲

 この間奏曲は、中央公論新社から出ている「世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成」(佐藤彰一/池上俊一著)からの大分な参考によりお送り致しているので、興味の生まれた方はすぐに本屋さんか、インターネット書店にお買い求めて下さい。

封建領主制の確立

 1000年以前の領主達は、城塞ではなく平地の館に居住し、多く支配と課税はもっぱら直接保有する農民(奴隷的農民)だけだった。もちろん領主裁判権も知られず、自立した村々の農民達は木の下や野原などで公的な集会を開いて己達の裁判を決したり、自らの村々を守る事もあった。そんなわけで農民と云っても多様な姿を持ち、平和であれば自由度の高い農民達も見られたが、例えば6世紀のフランク王国がネウストリア、アウストラシア、ブルグンド分裂で争っていたのには、人狩りによる奴隷労働力確保の意味まで見られるなど、飢饉や盗賊や狼が無いときでも、農民の恐れ多き状況に変わりはなかった。そして自然災害である作物の不作は何よりも、農民達を自由身分から奴隷農民へ転落させる、サターンよりも恐ろしい存在だったのだ。かつてまだローマ帝国健在の時期に、農村に分け入ってガリア布教に出かけた聖マルティヌスのような聖職者も居たが、このような農村へのキリスト教の浸透には長い時間が費やされた。
 さて、ヨーロッパは紀元1000年頃でも、フランスで20%から30%が、ライン以東では70%もの土地がで占めていたと考えられ、農村から農村へ、都市から都市へ、隣の領主に会うためには、場合によって20キロ以上も森の中を抜けていく必要があるのがヨーロッパの姿だった。ヴィーンから電車かバスで霧の中をザルツブルグに向かう途中の有様を思い返しても、何となくそんな状況に思いを馳せる事が出来はしないだろうか。この森は狼達のお宝発見隊が練り歩く恐ろしい空間で、道に迷えば青木ヶ原、足をすくわれれば至る所に湿地や湖、ついには錯覚か妖精達まで遊び来る、眼をこらせば何やら聖杯がすっと通り過ぎるような、恐ろしくも幻想的な世界だったが、一方では木材など資源の獲得や、豚の放牧と、彼らにドングリなどの餌を与えるといった農民達の生活の糧から、一方では貴族の楽しみの狩猟の舞台になるというように、様々な役割を担ってきた。森「フォレスト」という言葉は、中世ラテン語の「フォレスティス」、つまり共同利用の外にある土地という意味から来ているが、これは的を得ている。シューベルトが冬の旅を作曲したとき、主人公は菩提樹のささやきに誘われるようにして、共同利用の生活の場から森の中に足を踏み出して歩き出したのではなかったか。「私の所に来るがいい、若者よ。」青年は飛ばされた帽子を拾うことなく立ち去るのである。(いかん、また脱線したか。)
 元々あった、ローマ時代からの大規模農地は次第に荒廃していったが、これはゲルマン人達の大移動の時よりも、むしろ6世紀にクローヴィスの死後沸き起こったフランク内戦と、この頃頻発した疫病流行が重要ではないかという意見がある。しかし、農村は7世紀には早くも中世最初の開墾活動の高まりが始まったらしい。カロリング朝時代になる頃には、寒暖を長期周期で繰り返す間氷期のいとなみが再び温暖化に向かい、ヨーロッパ社会と人口の向上が著しい13世紀まで温暖な気候が続いたようで、この時期の平均気温は今日より2,3度高かったという説もある。これが14世紀から18世紀まで、大ざっぱに寒冷期に入って、それ以降今日に続く温暖期になっているらしい。こうして大自然が味方を始めたカロリング時代では、土地を2つに分けて休閑と耕作を行なうローマ式の二圃式(にほしき)農法は南部のみで、アルプス以北では一部を除いて移動農業が支配的だったが、ごくごく一部の地域では耕地を3つに分ける三圃式農業(およそ8世紀頃からだが、農民単位ではもっと昔からあるとか)なども模索され始めていた。ただし、移動農業と言っても、柔らかい程度で成長が止まる夏の雑草によって家畜飼育が比較的遣りやすく、冬直前に豚などを塩漬けすると、冬を越す事が出来たので、カロリング朝時代はむしろ穀物生産よりも家畜に重点が置かれていた。小麦などの摂取量もとある説ではカロリング時代に撒いた種の1.5倍から2倍の分量だけしかとれなかったとあるが、それじゃあ死んでまうじゃないか、温暖化以前の悲惨な時期はそれじゃあ、取った量の半分かと叫びたくなるが、いくら何でも4倍ぐらいはあったのではないか、という意見もある。いずれにせよ、農村にあっても、交換を知らない自給自足完全封鎖経済などでは決して無かった。消費を上回る余剰がある程度期待され、それは市場で取り引きされていたし、市場経済とまでは言えないだけで、市場の存在は確実に存在していた。カール大帝の時代フランクフルトでは小麦、ライ麦、大麦、燕麦の市場価格が4:3:2:1だったという情報も残っている。特に遠隔地の高価な商品を定期的に取り引きする大市は早くから存在していたが、農村がこうした市から完全に隔離された存在だったわけではない。その後次第に鉄製農具の使用もあり、耕地開拓が進行、森を削ぎ取るように農地が広がり、12,13世紀頃には今日に近いほどの耕地面積を持ち、収穫量も大分増加したという。(様々な相乗効果で農業革命と呼ばれてみる。)特に三圃式によって夏畑で大麦やカラス麦を栽培するようになると、これが貧しき民のための黒パンと、それまでわずかだった各種豆類などを大量生産するようになり。農民の慢性的な栄養失調を和らげ、貴族達には軍馬のための飼料をもたらし、始めて軍馬を養える環境が整ったという。ようやくヨーロッパのおん馬さんパカパカな世界が姿を表わすのである。

コーメス(伯)

 さて、ローマ帝国崩壊直後の地方社会はガリアなどに置いては、当初ローマ時代の拠点だった都市キウィタスを中心に行なわれていたが、ローマ時代ここには教会組織の地方代表である司教座が置かれていたため、司教職の者が地元のかつてのローマ貴族などによって代表者として選ばれ、都市伯(コーメス・キウィタス)として実際上その地方をまとめる役職に付き、ゲルマンの王家はそれを確認するといった形で、その地域の秩序が保たれていた。一方もっと直接的な農民支配としては、荘園の館などに住みある程度の戦う者を備えた地方領主が、農民を支配する土地所有者として君臨したが、彼らの中にはかつてのローマ帝国の変わりに、新しい自らの地域の支配者から、宮廷官僚役職などを受け、ゲルマン国王の組織に所属するもの達が現われた。また国王付きの役職も次第に整備され、かつてのセナトール貴族は7世紀に消え、彼らは必ずしも役職の世襲を許される存在ではなかったが、ある種の貴族のような者達が姿を表わしてくる。王の組織と役職が整備されるようになると、次第に世襲制などが認められ、ようやく12世紀末から13世紀頃に掛けて、血族自体に支えられた法律による貴族が誕生する事になるが、事実上の貴族的な階層はすでにカール大帝時代にも姿が見え隠れしていた。
 いずれカロリング時代になると、国王自らが都市伯などを中央から派遣し、自らの組織に取り込むようになっていくが、一見中央集権的には見えるものの、実際それ以前に教会や世俗の領主の課税免除が一般的になっていて、フランク王国ではカロリング朝以前から国王の収入は王領地(委任せず直接治めている土地)の収入だけでまかなうようになっていたから、ある意味で王の意義はすっかり名目的になっていたとも云える。元々底の浅いシステムだったせいもあり、ゲルマン精神も関係したのだろう、王国とは云ってもゲルマン人のための部族法典と被支配階級のためのローマ法が並列しているぐらいだし、結局派遣された都市伯(コーメス・キウィタス)は次第に地方勢力の代表として、また有力な荘園領主達も己の領土を治める伯の心持ちがして、カール大帝死後しばらくすると、そのうち我も我もと自らコーメス(伯)を名乗り始め、後の封建領主制の出発点ともなった。

修道院

 一方修道院も次第にもう一つの領主としてクローズアップされてくる。かつてフランクでは修道院も世俗化著しくベネディクトゥスの戒律も何のそのだったが、6世紀末にアイルランドからヨーロッパ修道院制を刷新する聖コルンバヌスと厳しい仲間達が現われた。彼らは初期の荒野の修道院以上の厳しさで知られるバンゴール修道院から大陸に乗りだし、自らを「緑の殉教者」と見なすことにより、贖罪の意味を兼ねた刷新布教活動に乗り出したのである。こうして司教座を離れた田舎に修道院を建設し、バンゴールとベネディクト戒律の混合戒律を設けて修道院を司教から開放し、今日に繋がる贖罪告白的慣習を持ち込んだ清貧の修道院をもたらしたため、新しいタイプの修道院が大陸のあちこちに、にょきん出てきた。(・・・。)ゲルマンの各王族なども彼らを支援して土地管理を許可したり、司教独立の特許状を与えたりし始めると、6世紀後半には、教会役職、司教などがセナトールから修道院出身者に移り変わるようになり、カロリング朝時代には、修道院に領土を与え周辺農民を治めさせる領土寄進が促進されることになった。こうして修道院などを中心にした大土地所有も登場し、コーメスと修道院は共に封建領主として地方勢力の分権化を促進していく。

封建領主

 9世紀以降進出したノルマン人達が、混乱から身を守るべく地方分化を促進し、城の建築を促したとの噂を耳にするが、今日ではこうした分化はノルマン進入とは関係なく行なわれていたと考えられている。そして彼らノルマン人も、やがて新天地に定住化する動きが活発化して、定着した後は各地で商業展開を活発化させ、略奪と商売をすためにひょっこり顔を出すよそ者「ヴァイキング」としてではなく、領主の一部としてヨーロッパ社会に進んで取り込まれていった。そしてこれと同じ頃、10世紀のイタリアを筆頭に、およそ12世紀半ばまで各地に城が建造され、初めはもっぱら木造だった城を追いかけるように、石造りの本格的な城が誕生していった。囚われの姫が泣き濡れると王子が宜しく参上つかまつるという、ヨーロッパ石城の時代はこうして幕を開けたのである。そして城を拠点として農村など地域社会を直接支配し税金を取り立てる封建領主制度が整備され始めるのだ。

農民との関係

 一方農村の方でも再編がブームになっていた。特に1000年からの300年間は大上昇期を迎え、森林の大規模開拓と、収穫拡大に人口増が結びつきヨーロッパ社会全体を底上げしたが、この経済発展には様々な技術革新も大きな影響を持っていた。例えば製粉機、繋駕法(けいがほう、馬を車に繋ぐ方法、駕は馬が引く乗り物の事)の発展、そして鉄の増産などがあり、鉄の増産は有輪すき(車輪付きで土を耕すすごい奴)による土地の深い掘り下げを生み出した。これは非常に効率が高かったが8頭の牛に引かせる必要があり、農民にとっては共同購入が必要なこともあり、農村社会の再編成がまとまった荘園を生み出すことになる。つまり牛に鉄製の鍬をすかせて農地を耕したり、水車・風車(効率性から急激に増加した)を利用したり、様々な作業を共同で行ない効率化を図る事、さらに三圃式(さんぽしき)農法のために農地を再分配し、休耕地、夏耕作地、冬耕作地などと分配するのにも集村する方が利点があるため、農民達が集村化現象と土地の交換分合を同時に進めるにあたって、領主がこのような村落形成に参加して、教会やかまどや水車によって農民を引きつけるなどして、いったん農民を取り込んだら、次第に悪徳目覚めて最終的に支配下の農民の裁判権も領主が握る村落単位による聖・俗両領主による支配体勢が確立していった。(もちろん実際はそれ自体有意義なシステムであるから悪徳とは関係ないが。)農民と領主の関係は土地領主制と呼ばれ、こちらも発達は9-11世紀で経済的発展と共に、領主は土地所有権とバン(罰令権)を握り農民を更なる従属化に導く傾向があった。一般的に見れば、支配領土は、直営地と農民保有地に分けられ、直営地の方は直接領主の所有物である奴隷農と、支配地農民の賦役(決められた労働提供)によって行なわれ、それとは別に支配地農民には人頭税・領外結婚税・死亡税などがあり、パン焼き竈(かまど)や風車の強制使用などが課せられるが、この農民と領主の関係は、さらに後になると、やがて農民が収穫の一定分を領主に払うだけの分益小作などが現われ、領主にとっては封建負担の軽減に繋がったり、一定の貨幣と引き替えに土地と家を委ねる遣り方なども登場し、次第に互いの関係が直接的でなくなっていく。また中世後期になると、実質地代が下落し、農民の人格拘束も緩やかになり、ついに領主が土地を売却し始めると、農民同士が村落共同体となり、中には教区を形成し教会と墓地を備えるものも誕生し、都市が規則によって共同体を形成したのと同様、農村もまた共同体を規則として形成されるようにさえなっていくのは、中世もずっと後の話になる。

封建領主な時代精神

 こうして1000年過ぎから封建制時代が本格的し、君主権力の支配するカロリング崩壊後、元々は国王など中央組織と関係のあった公・候・伯などによる在地大領主が支配を握るが、11世紀になると農民の集住に合わせて公権力がさらに直接支配する城主層ごとに分割され、「バン領主(罰令権を持つ領主)」の時代となる。ただこの領主の分化は地域によって差が見られた。イングランドでは王室支配の傾向が続き、王権支配の基盤としての封建制が機能していたし、ドイツでは諸侯勢力ごとにまとまって一定地域が支配される傾向が続いた。典型的な封建制が展開した北フランスに対して、性質の大きく異なる南では始め領主の封土とならない自立した自有地が広く残ったし、イタリアでは漲(みなぎ)る都市勢力によって封建制は抑止されていた。典型的な北フランスでは、1160年代まで公的権威のほとんどない独立城主時代が続き、その後1240年頃までの間に城主から公国、そしてその後、百年戦争を得て君主制へ足を進めていくそうだ。

騎士と領主

・さて、ゲルマン人すべてが戦う者だったこともあり、領主と配下の騎士達との関係は、臣従礼というもので結びついていた。ゲルマン時代に遡る手を包んで(手礼)身を託す儀礼「託身(托身儀礼ホマージュ)」と、福音書や聖遺物に手を置いて誓いを立てるキリスト教的な「誠実宣誓(せいじつせんせい)」の儀式による主従関係が幅を利かせ、これにキリスト教的意識から倫理的精神(騎士道)も加わり、社会的に通用する重要原理として姿を表わすが、本当に大事なのはもちろん封の方だった。大体1000年以降には知行(ちこう)として土地財産を譲渡するローマ的習慣(恩貸地制度、おんたいちせいど)が一般化して、さらに義務を果たす限りという条件付きで、土地財産の世襲化が広まっていく事になった。一方、領主同士の関係では主従関係は生まれにくいので、名目的服従や同意を結んでは、何か起こると実力行使(フェーデ)の解決が一般的だった。領主がもう一方の領主に服従する場合でも、フェーデの克服策として名目的に結ばれる場合もあり、例えばイギリス国王は百年戦争までフランス国王の封建家臣でもあるという立場が続いたが、フランス国王の家来として振る舞った分けではなかった。一方家臣との主従関係も一種の契約関係で、複数の主君に使える事も可能だった。いずれ最終的に、一人前の領主として砦を築いて村落を押さえられた者が封建領主に到達し、逆にそのような領主層に服従する騎士達と明確な違いとなり、封建領主制が確立されていった。

騎士道は書かないが

・騎士達に取って重要な必需品に馬があった。元々のヨーロッパの馬は小型で役に立たず、おそらく732年のトゥール・ポワティエの戦いがアフリカか中央アジアの大型馬の導入のきっかけになったとされている。持ち込まれた大型馬はやがて、ノルマンディーやイングランド、両シチリア王国やスペインで品種改良と飼育が盛んに行なわれ、幾つもの馬の名産地が誕生した。その頃から生まれ始めた騎士達にとっては、立派な馬と立派な武具を持つことが重要条件になるが、特に12世紀以降に広まった「繋駕法(けいがほう)」の改良により肩帯で呼吸困難を防ぐなどの対策が取られ、蹄鉄(ていてつ)の使用が始まるとますます名馬が珍重された。12世紀以降は農村で馬を共同購入するような例も登場してくるのだ。さて、馬だけあっても騎士にはなれない。武器がなければ話にならん。こうしたわけで各種武器が発達して、アーサー王のエクスカリバーのような伝説の名剣伝説が生まれるほどだったが、それに合わせて防具も発達し、特に盾は15世紀に甲冑で防御が可能になるまで、身体を護る一番の頼み綱だった。体を守るための防護服は、12世紀末までは楔帷子(くさりかたびら)で、兜が組み合わされて一緒に使われたが、13世紀になると馬の鎧や馬の胴着なども登場。13世紀から人も馬も防具に重点が置かれ、近代攻撃具が優勢となるまで部分的には18世紀まで続く現象となった。中世末期の防具は何十キロにも重さが達し、トーナメント(馬上剣試合)でお馴染みの甲冑は、一度馬から落としたら自分では立ち上がれないほど本末転倒な状況にまで武具を高めていた。こうして、使い物にならないほど重くなる一方の騎士を補助する、軽騎兵や歩兵が12世紀以降兵力として重要な意味を持ち始め、次第に戦いの方法自体が変化していく。実践で最大の効果があったのは「いしゆみ(クロスボウ)」で、これは中世初期から存在していたが、1000年以降言及が頻繁に見られるようになる。騎士道掲げる騎士達にとって卑怯なこうした飛び道具は、騎士道が最盛期を迎える頃の13世紀には全ヨーロッパに及んだ。平民軍隊が増えるにつれ、飛び道具の使用はさらに増加し、中世末に「長弓ロングボウ」が登場すると「クロスボウ」に取って代わり始めた。威力は劣るとも断然連射機能が勝っているロングボウは、百年戦争のクレシーの戦い(1346)でイングランド軍がフランス軍を打ち破るところが象徴的に転換点として言及され、ロングボウを使用したイングランドのエドワード3世の大勝利だと褒め称えるが、実際は戦略的勝利だったという噂もある。

まとめ

・封建領主制をずっと下って中央集権的中心がクローズアップしてくるのはこれから先の事だった。例えば、地中海型の都市では市内に貴族達を取り込んだまま、やはり新たな組織を形成し、北方に形を整える都市達もやがて市参事会などを中心に組織化され、そうした各種組織化の中でむしろ国王とか教皇などという立場自体がヒエラルキーの頂点として捕えられるようになっていったのかもしれない。例えばフリードリヒ2で80%、ルイ9世で40%の収入が都市から得られていたという。一方、我々の地域を納める代表者にしてシステムを機能させるために欠かせない国王の立場が、諸領主、教会、都市住民、農民様々な国王への意味づけと複雑な利害関係で絡み合っているうちに、次第に最終的に中央集権して国家に向かうべき中心としての国王を、おぼろげに誕生させたのかも知れない。封建領主制度、それは、ゲルマン的精神生き残る体勢から脱して、ヨーロッパ的な新しいシステムの確立誕生しつつある姿だったのである。(疲れたので、急に脱落して、小学生じみた読書感想文的遣り方に陥ってみる。こりゃあ楽でいいや。)こうして、カロリング朝消滅後、公権力の一部を担うそれぞれの領主達が、支配対象の地域の再構成を結果として行ない、彼らは城の周辺に低額地代の納税を呼び水などに農民や手工業者を呼び寄せ、結果的に城を中心とした新しいコロニーが続々と誕生した。一方元々はゲルマン人すべてが戦う者だったこともあり、領主と配下の騎士達との関係は、ゲルマン時代に遡る託身と宣誓の儀式による主従関係が幅を利かせ、キリスト教的意識から倫理的精神も加わり、社会的に通用する重要原理として姿を表わし、おおよそ11世紀頃には、こうした主従関係に土地などの財産(知行)を与えるローマ的習慣が結びつき、古典的封建制が誕生したと、一般的に説明されている。これは特に西フランクの事例から導き出されているので、同じ頃のイタリアなどがどうなっていたのか、もっと複雑な様相を見せ始めるかも知れないが、急に我に返って云うには「まあ、いい湯加減な音楽史だから、この辺で勘弁してやるぜ」ということだ。

森から始める中世の生活

 しかしこの章は最後まで音楽には到達しないのだった。ここまで来たら音楽史だった事を忘れて、中世最大の人口を抱えるフランスでさえ、1100年には620万、1200年でも900万(1995では約5780万)という人口の中で、軽視できない森の中に足を踏み入れてみよう。そこは野獣の王国で、莫大な繁殖力を誇る百獣の王様でカール大帝より強い狼たちが支配していたが、ゲルマン人もビックリの5,6頭から10数頭が群れをなして囲い込む戦術家だから恐ろしい。846年には、ヴァイキングを見よう見まねで、300頭もの狼の群れがアキテーヌ地方を荒らし回り、住人達を恐怖のどん底に叩き落とした。森を切り開くという事は獣たちとの命がけの戦いを意味し、ナポレオン時代まで一進一退の狼との攻防が続くが、15世紀になって百年戦争の災害で転がる人の味を覚えたかパリに進軍を行ない荒らし回った狼王「クルトー」のストーリーは今日でもよく知られている。いつも通りの脱線しながら覗いてみましょう。

クルトーの狼伝説

・1420年代のパリ周辺に戦火で、森の中の食料を無くして、その代わりに人間の味を覚えたものか、一番とろくて絶好の獲物が人間だったのかは知らないが、他の狼とは一目見て大きさも統率力も異なる巨大な狼のボスが3年にわたって、続々と仲間を従えて人間を襲って餌にしまくっていた。ついには狙い定めて百年戦争時のイギリス人すら落とせないパリに進入を成し遂げた彼らは、ノートル・ダム大聖堂の聖職者を食べ尽くして悠々として森に帰っていく。パリの警備隊長ポワスリエは、お茶目なヴァロア家の貴公子(なんだそりゃ)であるシャルル7世(在位1422-1461)から「何で俺が王なのに、あっちにもこっちにも、動物まで王が乱立するかなあ」と撃退を命令され、奴らが再度パリに乱入する事を見越して、ノートル・ダムに沢山の牛を殺して置いてこっそり罠を仕掛ければ、案の定だね狼の群れが満ちあふれていたので、今だとばかりに卑怯なり弓矢攻撃で一気に片を付けた。ところが狼王と側近達は他の狼の死骸を盾に弓矢攻撃をすり抜け、油断して残党狩りにくる兵士を次々に抹殺、激しい白兵戦の後、最後はクルトー一匹が真っ赤な目をしてポワスリエを睨み付ければ、男ポワスリエも狼とはいえ果たし状を送られて、逃げるわけにはいかない。人間と狼の一騎打ちが激しく続き、ポワスリエは遂に槍でクルトーを突き刺しやったと思ったところに、クルトーも最後の力でポワスリエに飛びかかり首を引きちぎり、勇者と狼王は共に絶え果てた。



 というのは、実際にあった狼クルトーの話を元にアーネスト・トンプソン・シートン(1860-1946)が書いた動物記のあらすじだ。狼にしてみれば愚か者の人間増加を調整して遣っていたのに、何だその21世紀の不始末はと云ったところで、天上で今日の人間どもを見て嘆いているかも知れない。しかし幾ら恐ろしくても、小麦収穫量の少ない上に、飢饉も頻繁な中世において、森のもたらす食料や資材は重要だった。果実は食用として採取され、また薬草などの薬が見つけ出され、獲物にした動物を食べては「兎美味しかの山」を歌う。それから、まだ猪に近いような黒い毛のふさふさはえた豚を木の実で太らせ、クリスマス前に塩漬けにしてこれも「豚も美味し」と歌いながら食う。何しろ大部分の豚は冬の前に殺しておかないと、到底冬中養っておくほど餌に余裕はない。逆に餌になって貰うしか道は残されて居ないじゃないか。農村の囲いの中には食料の豚などだけではなく、労働力の牛やロバ、そして番人兼友として忠実なるお犬様などが居たから、彼らの餌も馬鹿にならないのだ。そんなわけでゲルマン時代からすでに、木の伐採制限や豚飼育数の限定の例が見られ、秩序を崩壊させないようにとの意識が見られる。そうはいっても塩漬けにした肉だって、実際は味が落ちるぐらいならましな方で、嫌な臭いを発して、なかなか悲惨な有様だった。こうした肉だから、長い間煮込んでようやく食べられるようになったとか。その代わり屠殺の時に、屠殺祝いの肉料理が出されるときはずっと旨い肉が食べられたという。豚と共に羊の肉もかなり食べられたようだ。一方パリなどの都市では、都市の抱える食べ残しを恒常的に豚に与え冬でも飼育して、屠殺所で殺したての豚の肉などが年中販売されていた。従って都市市民と農民の食生活にもかなりの差があったのだろう。時代が下ると、十字軍以降香辛料が臭いに効果的で味覚にも訴えるので、珍重されるようになり、胡椒などへの欲求が非常に高まっていたのが、後の大航海時代のガマのカリカット到着などに現われてくる。ただし幾ら肉大好き人種とは云っても、特に人口増加が激しくなると同時に森林が開拓されていく11,12世紀頃になっていくと、豚の養い量が相対的に減少して、肉料理に接する機会が次第に減少傾向にあり、一般人が一番口に出来たのは麦を使って作る固いパンであり、しかも小麦や大麦を使ったパンはもっぱら領主殿や貴族様などがお食事なさって、農民などはライ麦などで作ったパンと、麦類と野菜と肉を煮込んだ料理が一般的になった。固くなったパンも一緒に煮込んでごった煮にする方法で、ヨーロッパにごった煮系の家庭料理が多いのもその名残か。
 さて、森の話からすっかり遠ざかっておいて何だが、砂糖以前の甘味料として唯一の蜂蜜が取れるのがやはり森の中だった。これは古代から「天のしずく」として珍重され、そのうち養蜂場で製造されるようになっていく。一方「蜂の作らぬ蜂蜜」である砂糖は中世ヨーロッパではお高く付く超貴重品であり、砂糖を大量に送るのが相手領主への好意を表わす所作だとか云うので、武田信玄がお困りの時にあえて戦さをせず塩を送った上杉謙信の美談よりも、かえって「敵に砂糖を送る」の方が、緊迫感があるかも知れない。(つまり、飢えて滅ぼす寸前の敵に砂糖でも送ろうものなら、次の日だけエネルギーが回復して反撃して来たりなんかして・・・アホだ。)ついでに云っておけば、非常に重要なも遙かローマ時代から岩塩の取れる地に都市が造られるなど、モーツァルトファンなら誰でも知っている塩の都ザルツブルクに限らず、塩の特産地が幾つもあった。蜂蜜に話を戻せば、蜂蜜と一緒に取れる蜜蝋(みつろう)は蝋燭の材料なったが、ただし蜜蝋を漂白した白ロウソクを使用するのは教会や領主達で、普通はそもそも太陽が沈んだら寝るのだし、火の必要なときは動物の脂肪油にイグサの芯を付けて燃やして、動物の妙な臭いを満喫して灯火としたらしい。もちろん森と云えば、樹木事体も建築材料や薪として使用され、森に住む職人「樵(きこり)」「炭焼き」といった人達は怪しいおやっさんの代表だった。今日でも「山男にだけは惚れちゃいけませんぜ、えっへっへ。」というフレーズが歌に残るぐらいだ。

開墾、開拓と人口増加

・しかしその森も1100-1300年頃は大開墾時代を迎え、東方ではドイツで騎士団が中心となって開拓と植民活動を拡大、東方植民市には、排水や森林開拓に慣れたフランドル、ネーデルラントなどの農民達も続々と押し寄せた。12世紀後半には、南フランスでも新村落建設ラッシュが始まり、封建領主は皆、支配権の拡張を目指して色めき立つ。領主達は、配下の農民を新領地に移行させ、同時に自由農民に有利な条件を出しては開墾地に誘い込んだ。こうした呼び込みの組織力を持つものには、王や聖俗大領主、そして村落共同体自体があったが、中でも修道院の活躍は際だっていた。修道院を領主に持つ農民達は、開拓の精神「祈れ、働け」の精神で未開の地を切り開いて行くのだから恐ろしい。とくにシトー会の活躍は圧倒的パワーで自ら土地を切り開いて突き進んでいった。ここでは処遇は修道士と同等だが、髪を剃らない俗人身分の助修士たちが祈りに忙しい修道士の代わりに、中心となって開拓運動を繰り広げるのである。こうした開拓と農業改革は、11-13世紀の人口増加の起爆剤となって、ヨーロッパ総人口は1000-1340年までの間に2倍になったという。

今度は家庭と生活などを

 11世紀以降になると男女双方の血族の横の広がりから、男性家系の垂直進行家族型に移行して、同じ頃教会が、夫婦同意を結婚の前提にする一夫一妻制を望ましいものと掲げて徐々に浸透させ、行きすぎて言い訳を付けなければ、貴族達の離婚すらたやすく出来ないまでに広まっていった。これはグレゴリウス9世(在位1073-85)により開始された12世紀まで連なる教会改革運動「グレゴリウス改革」の一環として、結婚にまつわる秘蹟を聖職者の下に置いたあたりから開始したという。この頃、貴族女性は1000年以前にあった法的な自立を失い、夫や父に隷属するようになったが、結婚時の持参金は妻の固有財産として残ったし、夫不在の時は代わって領地管理も行ったし、場合によっては女城主も存在した。彼女たちは結婚しない場合女子修道院行きになったりするが、修道院は貴族達との結びつきが強く、別段世俗から捨てられたという意味は持たないようだ。
 一方農村では男も女もフル動員で何でもこなして仕事をしないと生活が立ち行かない。仕事の内容は異なっても、活動量に大差がないのが農村世界だった。そんな中で子供達は、学校制度もなく7才になれば「小さな大人」として大人と混じって単純労働を行なう。一説によるとブリューゲルの子供がまるで小さい大人のように見えるのは、子供の概念が今日と異なっていた事に由来すると言う。しかしそこは7歳の事、初めのうちは若きハイドンみたいに、仕事の手伝い自体が同時に遊びだったに違いない。そして男は兵隊、女はままごとなど大人の模倣を行うミミクリ型の遊びは何時の時代も変わらない彼ら7歳達の習性だった。このミミクリ型というのは、ロジェ・カイヨワ(1913-1978)という学者が遊びを4つに分類して、アゴン(競争)、アレア(偶然による遊び、くじとかサイコロみたいな)、ミミクリ(模擬、他の者になりきる)、イリンクス(我を忘れた熱狂で、ジェットコースターみたいなものだってさ)と命名したものだが、こういう分類で行くなら、むしろザネリ(他人、特にジョバンニを貶める事によって遊ぶ)とか、アリナゲ(昆虫などに試練を与えて彼らが滅亡に至るプロセスを楽しむ)とか、いろいろ出てきそうだ。まあカイヨワは4つに分類しているんだから、放っておくが、君の周りにもいい年齢をして自分の名前に尊敬する名称などを付け加えて自分で言ってはしゃいでいるいる奴がいるだろう。そうしたそれは「幾つになっても7歳の心」なのだ。大体いい大人になってマムロがどうしたとか「船を下りるんだよ」と言っては大笑いしているような連中だって同じようなものだ。(誰だ、こっちの方を指さす奴は。)一方、貴族社会では教育ママ達が、子供を家庭教師や修道院などに面倒見させてお勉強をさせる社会に、古今東西変わりは無かった。

日常生活と飲食物

 さて、風呂はどうしていたのかしら。と不意に思い立ってみると、朝一番が体を洗う時分で、農民などは近くの川に飛び込んだり、都市では意外や意外公衆浴場がちゃんとあったりする。1292年にはパリに26の浴場があったそうで、そこから合図でも聞えたら男女お構いなく共に風呂に入るという遣り口だったらしい。ところがペストの流行あたりからか、風呂は病気感染の中心だとか、湯に浸かると体に毒だとか云われ出して、さらに新大陸から梅毒が持ち込まれると、感染が恐れられて、貴族でさえルネサンス期から18世紀までの間、風呂に入らないで香りのするものを振りまいて異臭を誤魔化すようになってしまった。汚いものにふたをするのが香水の役割なのだから、やたら香水を付けているどこぞの婦女子に至っては、よほど自分を異臭の源(みなもと)とでも思っているに違いない。
 ペストと言えば、飲み水の確保も都市では重大な問題で、ローマ帝国が水道を建造して安全な水源から水を引いて置いてくれたような都市では、ありがたくもその水道が使用されたが、そうでない場合は飲料水を確保できるかどうかが都市の存在を握っているほどだった。今日公園に噴水があるのは必要に迫られた公共の飲料施設の遠い名残なのかも知れない。ただし川の水は硬水で飲みにくく、ちょっとでも問題があれば集団病気感染たちまち広まる世界だったので、多くの場合飲料出来る水は井戸で掘られた水か、雨水を濾過したもので、雨水を濾過した水を飲めるのは貴族などに限られていたそうだ。そんなわけで、替わりにどこでも彼処でもあらかじめ消毒を兼ねてアルコール飲料にして水分を補給するのが、中世でも代表的な水分補給の方法になり、一般人は安い酸っぱいワインやビールに蜂蜜やらいろいろ入れて、子供でも平気に飲んだので、生まれてから死ぬまで酔っぱらっているようなもんだった。(また、勝手な事を。)
 食事の仕方が、お手々でなされていたのは本当で、肉や野菜だけじゃない、スープの中のだろうと手で引っ掴むは、汚れた手をじゃぶじゃぶでかい手洗いドンブリで洗うは、とても大変な騒ぎになった。ナイフやフォークは16世紀からぼちぼち王侯貴族達が使用し始めたが、彼らにも長い間手づかみ伝統が残り、一般人がこれを使用するのは18,19世紀になってからだった。従って、西洋の食事のマナーなんて実は恐ろしく底の浅いものだ。フィンガーボールなんてドンブリの名残なのに、使用にマナーが食っ付いているなんて生意気だ。そうは思っても、やっぱり変な遣り方をして笑われるのは剣呑だ。と言うわけで、何もそれを否定するには及ばないのです。

そして都市の誕生

 さて商業活動と言えば地中海沿岸の地中海貿易だったが、特に東ゴートを滅亡させたユスティニアヌス帝のゴート戦役で、イタリアの都市は凋落して、大量の都市市民が安全な東側に逃れるなど、大分経済システムが崩壊してきたが、それでも地中海型貿易は途切れることなく、北方にも商品の流通はストップはせず、例えばパリ郊外で開かれた定期的な大市などで、遠隔地の高価な品物が運び込まれていた。特に6世紀が終わる頃までは、出稼ぎに商人をしていたらしいシリア人や、"シェイクスピアの「ベニス商人」もユダヤ人だ" でお馴染みのヨーロッパ在住のユダヤ商人達によって、オリーブ油やパピルス、香辛料や絹織物などがヨーロッパにもたらされていた。シリア人の出稼ぎは7世紀には止まってしまうが、フランク王国などで冒険商人が登場を始め、国王や修道院も各地の特産品を栽培・製造させ、流通のために宮廷に商人を置き、修道院も商業活動に従事するなど、新しい商業活動が次第に活力を増加していった。東ローマ帝国との貿易やシリア人がヨーロッパにこなくなったのは、ローマ時代の資産が食い尽くされて出資超過の貿易が立ちゆかなくなったのかも知れないものの、新しく登場したイスラーム教徒は貿易活動を継続させたし、イスラーム自体も東ローマ帝国との貿易に魅力を感じたとはいえ、西ヨーロッパとの貿易は、かえってヨーロッパの輸出品の方が多く黒字だったとの噂もある。いずれ北方圏で活発化する新しい商業活動は、後にヴァイキングが略奪と共に商業活動を持ち込んで、さらに貿易活動を増加、11世紀頃になると継続していた地中海型の商業をになうイタリアを中心とする海港都市型商業活動と、一方北方でもフランドル地方の毛織物とバルト海の漁業などを柱に相互都市が活発化して商業圏が形成され、ヨーロッパの商業活動の2つの軸となったし、農業改革などで人口が増加を開始すると、同時に沢山の非農業人口が冒険商人として活躍を開始、後に聖人となったゴドリックのように沢山の商人を生み出した。こうした冒険商人達は、集団で商業団を組んで移動、遠方の商品の希少価値がたちまち金額を何倍にも跳ね上がるのに目を付け(これが海洋規模で開始されたのが大航海時代で、彼らは海の冒険商人達だった)活躍したが、次の世代には都市に定住して上層商人として都市で指導力を発揮する者も現われてくる。フランスのシャンパーニュ地方には北方貿易圏と南方貿易圏を結ぶシャンパーニュの大市が開催され、ヨーロッパの商業圏が事実上確立された。商業の発展は、手工業や各種サーヴィス業の中心地でもある都市の発展に直結し、次第に企業の中心人物として商業活動を牛耳るもの達は、市参事会員として都市の政治を支配する都市指導層となり、12世紀以降には経済格差は激しくなった。これに対して手工業者や新興商人などは、それぞれに同業者組合ギルドを形成し自分達の枠組みを守り抜き、同時に市政への参加を目指してツンフト闘争などを沸き起こしていくようになる。こうして現在にも通じるような都市は1000年代から次第に姿を表わした。

都市の自立と増加

 こんな美味しい金樽が生まれたので、やがて地方領主も国王も、都市から税金を獲得しようと画策し、例えばケルンでは1074年にケルン大司教が船を使用するため税金を徴発しようとしたところ暴動が起こり、これは鎮圧されたが、近隣都市でもこの手の事件が多発ように、各地に支配階級とのせめぎ合いが見られるようになった。ケルンはその後も暴動を繰り返し、ついに1112年ケルン大司教が「自由のための宣誓共同体の結成」を約束し都市共同体ケルンが誕生。軍事、司法、立法、行政が市民の自治にゆだねられると同時に、都市の自治制が約束された。この宣誓共同体型の都市は中部ドイツなどで以後数多く見られ、この中部ドイツや北イタリアでは周辺諸都市と同盟を結成して都市同士の結束と、商業圏の発展を目指したが、一方北ドイツ方面ではハンザ同盟が結成され、非常に広範な貿易圏が都市同士を拠点として確立され、ほとんど支配階級から独立的な勢力を形成した。またイタリアや南フランスではかつてのローマ都市が、絶滅しなかったので、ここを拠点として勢力を回復していくが、その都市壁内部には多くの領主貴族が存在し、彼らやその血縁者が商人となって地中海型貿易を担っていたから、ある段階でかつてのローマ帝国時代のキウィタス制度のように周辺農村を取り込んだ都市国家として発展していく土壌が形成されつつあった。さらに今日の北フランス辺りとイギリス付近では、都市は始め封建諸侯達との支配被支配の抗争をを繰り広げたが、次第に直接国王に任命して貰う事によって王の配下としての立場を獲得した方が有利だと分かると、王や大諸侯下の自治都市として次第に組み込まれていく傾向があった。王の方でも都市特許状を売りつけ、財政確保と都市の取り込みに躍起になっていた感がある。さらに別の型の都市も誕生した。この時期東ヨーロッパに向けてエルベ川以東が急速に開拓され、都市建設と勢力拡大がスラヴ勢力を追い出しながら突き進んでいたのである。12世紀以降になるとフランドル地方などから大規模な植民活動が活発化して、1158年のリューベックを筆頭に、建設都市と呼ばれる新都市が次々に生まれていった。ただし、都市都市と云うから早まって、唐の首都やら、バグダットやら、京都などを想像したらえらい事になる。今日でもヨーロッパ都市とは人口のすこぶる少ないものが圧倒的だから、1300年過ぎ頃でも5万人を越える大都市がヴェネチア、ミラノ、フィレンツェや、パリ、ヘント、ケルンあたりに当てはまるぐらいで、特に人口2千人以下の学校一つ分ぐらいの小都市が圧倒的に多くコロニーのように存在しているのがヨーロッパ的な都市だった。もちろん都市同士は、森という名の海を隔てて、または実際の海を隔てて島々のように存在しているのだった。今日の日本の姿・・・これは都市と云うよりほとんどゴミにまみれた豚箱である。美的センスのこれほど冴えない感性の鈍さは、汚らしいタバコをどこでも垂れ流しても誰もとがめない一点だけでも、十分理解できる。それで皆で「俺の勝手だ、自由だ」と叫んでいる。精神的下層階級を代表して大衆と命名して、異常なぐらいに群れている。・・・・誰も何とも思わないのかしら。

都市の生活

・都市の自由は共同体の自由だったため公益が徹底的に優先された。治安維持の仕事に、食料の提供、また公的場合は自分の家の土地没収などかなりの負担があり、没収にもかつてのローマ都市のような土地時価補償など存在しなかった。それでも建前的ではあったが市民は平等を原則としていたし、都市内の生活密度の高さと様々な商品流通など、農民のあこがれは都市への一層の流入を促した。「都市の空気は自由にする」と市民権を獲得してから呟いてみると、それだけで新しい世界が開かれているような心持ちがしてくるのだった。あたかも苦しみ逃れて自由の女神を見るやいなや歓喜した、後のヨーロッパ移民達のように。しかしアメリカ同様、後から来る者への不満や危機感もあり、当時の都市は非常の場合に確保可能な食料調達量に限りもあり、また居住空間の問題もあり、一定以上の人口増加を不可能にしていたので、市民となるための敷居はたちまち高くなった。税金納税と市内に家を持つ事が市民の条件だったが、市民生活への関心高まると直ちに劣悪賃貸の共同住宅でもかなりの値段が付けられるようになった。さらに後になってイタリア以外でも、都市が一定地域の農村を配下に置くバンマイレ禁制圏が確立されると、その地域では商工業などを禁止し同時に都市化を防ぐ方針が確立されて、都市への壁をますます高くして行くのである。
・都市の歴史は土木工事の歴史であり、自由の空気の元、すべての道に歴史と愛称あり、広場は人々の中心として人々の生活を豊かにし、それは確かに事実なのだが、こうしたわけで都市は閉鎖的な第2段階を迎える事になり、市参事会など市政を牛耳る裕福層は己の利害を守るたちの悪い存在だったし、対抗する意味もあり形成されていった各種職人ギルドなども急激に閉鎖的になっていった。特に酷くなったのは14世紀半ばの大ペスト以降のことで、次第にギルドに参加することすら難しくなって、ブックスフーデがトゥンダーの娘を貰う条件でオルガニストの職を獲得するとか、冬の旅で娘さんの愛情を勝ち得て、お母さんが結婚のことまで口にしてくれたものの、結局よそ者が親方になれないまま、ギルド制からドロップアウトしていくとか、あう、また冬の旅が割り込んできた。どうでもいいが、冬の旅ギルド職人説はどこから出てきたのかしら。

都市の社会事情

・窓を大きく取る事は困難で、日が差し込む家々はまれ、13世紀ではガラスが十分使えず、いろいろな物を窓に貼り付けた。中世前半を鉄の時代とするなら後半に象徴的なガラスの浸透は、のんびりと裕福者の家で13世紀頃から見られる現象だそうだ。トイレは城や修道院では早くから存在したが、都市に清潔なトイレなど存在せず。運河上に流し捨てさり、市場近くの通りが汚物通りになっていたり。あとは青空でどこでもかしこでも、バケツにして道に投げ捨てるなど、悲惨な事この上なし、パリは19世紀初めに至っても汚物の都市だった。一方モードも沸き起こっていた。少しずつ衣服が都市での流行を左右するようになっていくのである。しかし衣服にはそれ以前に社会的記号の役割があって、13世紀初頭公会議でユダヤ人とイスラーム教徒に衣服に印を付けさせ、監視するべきだとの意見が出され、多く円盤型などで赤や、黄色の布きれを縫いつけさせたり、13世紀以降やはりハンセン病に閉じた肩マントや閉じた長衣など着せるなど差別化が視覚化された。娼婦の縞模様マントの伝統は13世紀以降拡大され、異端、犯罪、発狂など社会排斥者の一味に縞模様マントがお似合いだと思われるようになっていく。都市に住む女性は、食事制作、糸紡ぎ、パンを売ったり、金銭的に儲るものとしては宿屋や酒場の切り盛りがあった。もちろん娼婦そのものも商売だったが、収入は労働に見合っていないのが普通だった。一般に多くの女性は家庭での中心人物として、子育てだけでなく、夫の手助け、不在の場合使用人や職人の指揮や、財産管理運営などをするなどの仕事をこなしていたのだろう。子供の死亡率は農村と大差が無く、5歳以下死亡率は25-45%にも達した。また幼児期を過ぎれば、すぐに親元を離れ、徒弟奉公が一般的だったため、今日とは家族意識も親子意識も大分異なっていた。また13世紀からは捨て子養育院も整備され始めた。

都市宗教の誕生

・享楽の都市だからこそ宗教の心また刹那的に沸き起こり托鉢修道会の漲る力を呼び込んだ。つまりローマ教皇に公認されたフランチェスコ、ドミニコ両教団が都市内に広まると、都市の宗教として都市と農村は宗教的あり方でも、異なる2つの世界を生み出していったのである。フランチェスコ会は、商人の息子で世俗精神を悔い改めたアッシジのフランチェスコが「裸のキリストに裸で従う」男風呂の精神を持って「小さき兄弟たち」を集め、清貧生活を行い都市で福音を説き始めると、これが1210年にインノケンティウス3世に公認された。一方ドミニコ修道会は、スペインのオスマ司祭ドミニクスが「説教」を活動中心とした修道会を願い出て、ホノリウス3世により1216年に公認されて開始している。ほかにも、都市市民達が自ら結成する宗教的集まりである信心会も発展し、13-15世紀の間にヨーロッパ中で何千という信心会が誕生した。これはギルト同業者、地縁関係、修道院関係、など同族意識を持つ者同士がまとまり、聖職者と成人男性だけでなく、女性、子供、召使いも参加するユニークなもので、相互扶助や病気看護、貧乏人の世話などが定められ、共通聖人を抱き、葬儀を仕切り、聖人の祭としての宴会などが行なわれ、世代を超えた相互扶助の共同社会を形成した。そのうち国王入場式や、戦争勝利、大祭にグループごとの行列など。演劇を担う信心会も登場し、フランドル地方では王の都市入城の行事であるプロセッションで大いに活躍するなど、そのあり方も様々だった。このプロセッションは、例えばブルゴーニュ公の都市入場式などに際して宗教と世俗の祭を兼ねたような祭が催されるもので、沿道に旧約聖書のエピソードを表したタブロー・ヴィヴァン(活人画)を行い、ブルゴーニュ公がキリストみたいに練り歩いていくという、たちの悪いものであったが、祭には守護聖人が都市市民の集結の象徴として扱われ、聖遺物を行列の先頭に皆が練り歩き、聖史劇が開催された。つまり都市宗教というもの自体が、世俗社会の成長のために同時に発展し、世俗儀式と宗教儀式は甚だしく混淆しているように見える。各地で発生した、個人主義的な神との合一、瞑想、神の知的認知の重視を旨とする神秘思想も、都市的な宗教観から生まれてくるそうだし、さらに異端運動も都市を舞台に繰り広げられる。都市は宗教を新しいものに変えたのかもしれない。

そして商業へ

・元来都市の時間は教会から聖務日課の開始に合わせて鳴らされる定期的な鐘の音で計られていたが、むしろ金によって時間を換算させるような、「時は金なり」の商人的時間が新しい価値観として生まれてきた。この時代の金はつまり貨幣を意味する。今頃書くのもなんだが、何より商業の再生により貨幣使用の再生が行なわれ、12世紀以降になると農村まで巻き込む大きな意識変化の主役は貨幣がもたらしたと云われる。その貨幣は、まずヴェネツィアのドゥカート金貨とルイ9世のトゥルノワ銀貨が信用貨幣となって各国で使用可能な通貨にとなった。また早くも14世紀には、イタリア発信用取引各種技術が沸き起こり、14世紀からイタリア都市の有力者は、商業、製造業、銀行業を兼ね揃えたコンパニーア(つまりカンパニー)として事業を拡大し、外部に協力者を持ちヨーロッパ中に支店を置くような大企業が誕生した。こうした複雑な経営に対処すべく、13世紀後半にはトスカナあるいはヴェネツィアあたりで「複式簿記」が登場し、14世紀中にはイタリア諸都市にひろまっていったそうだ。つまり家計簿を書くように資産に対して、理由と収入支出を例えば、今日はいつもの八百屋でリンゴを買った支出50円とか、今日お年玉を貰った収入2000円(けちの叔母さん)といったように1つ記入する単式簿記に対して、1つの事柄に対して複数記入する事によって、資産の計算と損益(収入と支出)の計算を効率よく行なう遣り口なのだが、意味としては例えば、先ほどの例では、ノートに支出だけを連続して記入するページ、収入だけを連続して記入するページ、いつもの八百屋さんとの取引(この場合は一方的だが)を記入するページ、叔母さんとの熾烈な資金闘争(これも一方的だ)を記入するページ、と云った具合に記入して行くと、相互に資金移動がある企業同士の場合だと取引が常に企業毎に分かるし、総支出総収入のページを見れば、損益の全体が見えるし、誠に結構な遣り方だという。これによって、収入を会計年度という期間に当てはめ決算報告として提示すると共に、資本を中断せず事業を回転させ、追跡が出来るようになると、一方では為替手形、貸し付け、保険なども発明され、保険も13世末か14初頭に海上輸送で登場し、14世紀後半には、企業同士の貸借決済が銀行預金者のあいだの振替、為替手形、銀行小切手で現金を動かすことなく行なわれるようにまでなったのだ。
・こうした新しい商業活動の活発化は、諸国商人の出会いの場であるシャンパーニュの大市のような出歩く商人伝統の衰退を招いたが、一方ではヨーロッパ全体を市場にする国際取引の活発化という新しい段階を意味し、これは同時期の道路網整備と郵便制度があって初めて可能だった。通信網を通じて商人ボスは動かずヨーロッパ中のネットワークを張り巡らし、やがてイタリア(やフランドル)で商人達を養成するための世俗のs商人学校で「読み書き算術」が学ばれるようになり、商人達の子供は学校に通い、また絶対必要な外国語の学習に精を出した。こうしてすでに12世紀半ば以降、読み書きを聖職者だけでなく、むしろ貴族より商人が身につけようと、初等教育に熱意を払う驚異的なイタリア商人魂の結果が、いち早く財政基盤を高めただけでなく、人文主義的知的活動の土壌を形成したと云えなくもないそうだ。つまり商人エリートはイタリア語、時にラテン語で知られたローマの古典や同時代のダンテ、ペトラルカ、ボッカチオを読むようになり、公証人はラテン語を読み書きしエリート中のエリートだったため、物書き商人、教養商人が、結局都市の合理主義と現世主義を広め、ルネサンス的人文主義を導いたとも云えるそうだ。現にイタリアと、フランドルには都市の経営する学校があり、教師が私塾を開き、算数を習うための商業学校のような物が存在していたし、もちろんすぐに社会的地位のステータスとしても学校を出る事が重要な資格とされたのである。彼らを通じてヨーロッパ的な文章主義、つまり人と人は契約を持ってすべてとなすの精神が次第に形成されていった。ただしこうしたイタリア的な経済は、ルネサンス時代を超えて国家が商業を統制し、都市を保護しつつ王権の下に置くようになると、地中海貿易から大洋貿易へのシフトもあってすこしずつ沈んでいってしまった。(・・・最後は本のままにお送りしすぎた、書き直しが必要だ。)

と言うわけで

 間奏曲として世界史の方に大きく足を踏み込んでみましたが、このような都市で農村でどのような音楽が鳴り響いていたか、都市や農村での祭事における音楽や、旅芸人達の音楽、農村での歌とは、子供達の遊びの歌は、などをあれこれと考えるこそが我らが音楽史の趣意かと思いきや、分からない事は放っておいて次に進みます。さやうなら。

2005/05/31
2005/07/12改訂

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