945から950頃に農民か牧人の子としてアキテーヌのオーリャックの山間の地に生まれ、その地の修道院で養育を積み1000年を股に掛けて活躍する教皇の地位にのし上がった男ジェベール・ドーリヤック。彼はアラビアの学問研究所的意味合いを持つスペインのカタルーニャに学んだが、当時のカタルーニャでは、イスラーム文化が花開き、ちょうどコルドバを首都として栄える後ウマイヤ朝(756-1031)カリフ政治が最盛期を迎えていたために、キリスト教君主達は率先してカリフ(指導者、最高権威者)のアブドゥル・ラフマーン3世(在位929-961)と外交関係を結んでいた。こうしてコルドバの宮廷はその息子ハカム2世が亡くなる976年まで西欧最大の文化的中心地になっていたのだった。ジェルベールの学んだカタルーニャでは、とくにクァドリヴィウム(自由7科の上位4科)が盛んで、計算術、幾何学、天文学、音楽に研修を積んだジェルベールは、ボエティウスの訳したユークリッドの「幾何学原論」や、マルティヌス・カペラの「メルキュールと文献学の結婚」などを勉強しながら、次第に当時のヨーロッパにあって人並み外れた知性を身につけてしまったという。その後ローマで神聖ローマ皇帝オットー1世(912-在位962-973)の知遇を得て、その子オットー2世の師となり、やがてランスの聖堂学校教師として、特に数学と天文学について驚愕的知識とその講義で名を馳せた。このランスでは数学と天文学などを教え、アラビア数字を用いた(アラビア生まれの零の概念も知っていたかも知れない)計算機を作らせて瞬時に桁の大きいかけ算割り算を行い、天文学では地球儀や天球儀を作らせて、回帰線や赤道まで示したので、非常に恐れ多き才能だと思われ後の魔術師教皇のあだ名の原因となった。実際は、一足先に合理的だっただけかもしれないのだが。とにかくあんまり知性豊かなので、北イタリアのボッビオ修道院長として招聘され、再びランス大司教としてフランスに戻り、今度は3年にわたってザクセン朝の客人としてドイツで生活をし、そのうちラヴェンナ大司教となり、とうとう999年に教皇の座に登った。こうして誕生したのがシュベステル2世(在位999-1003)で1000年教皇として1000年女王プロメシュームを妻とした。(また最後に荒唐無稽な出鱈目を。)彼は教皇史の中で初めてのイタリア人以外の教皇で、世俗秩序と教会秩序のシステム化を目指す合理的立場で短い教皇の仕事を全うした。ハンガリーにドイツから独立した国王を持たせ、ハンガリー教会を設立したのも彼の功績だという。
彼は神聖ローマ帝国の国王問題にも首を突っ込んだ。かつて偉大なオットー1世は、デンマークへも進出し、マジャール人を955年のレッヒフェルトの戦いで決定的に破り、ハンガリー平原に定着させた偉大な皇帝だったが、彼が亡くなり、続くオットー2世(在位973-983)も亡くなると、オットー3世(在位983-1002)の王位継承問題に関してフランス王家の力を得て反対派を陥(おとしい)れさせてみた。ランス大司教とジェルベールはフランスとドイツの協調関係を強め、かつてのローマ帝国のような単一帝国を目指していたいたらしく、987年にユーグ・カペーをフランス国王へ選出させたのもその一環だとか、何だとかかんだとかどこかに書いてあった。
このように歴代の教皇達は、世俗社会と密接に絡み合いながら、次第にヨーロッパ全体に行き渡る教会システムを確立していく事になるが、この時代の民衆は、今だゲルマン神もキリスト教も同列の多神教状態が見られ、カロリング時代には教会も足りないので、到底民衆全体を掌握出来ない状況で、ミサへの出席から洗礼、婚姻届などの儀式は定着すらしていなかった。教皇をトップとする教会ヒエラルキーの確立は、キリスト教の民衆への浸透と歩調を合わせて刷新(さっしん、事を改めて全く新しくする遣り口)されるのである。刷新、良い言葉じゃないか。学生時代の懲罰部隊とか刷新委員を思い出して、しばし懐かしむ・・・って、どんな学校だそりゃ。
1000年以降になると始めて、教会の至る所に十字架がにょきん出てきた。実は十字架が祭壇上に登場する自体10世紀になってからで、ラテン十字の他に、同じ長さのギリシア十字とT型のタウ十字があるが、古代末から中世初期に掛けては東のビザンツだけでなく西側でも写実的な磔刑は忌避される傾向があった。具現化されるようになったのはカロリング美術での写本やフレスコ画辺りからで、ゲルマン民族の英雄の持つ劇的な最後のイメージがもてはやされたのかも知れない。もちろん正統を唱える者達は十字架崇拝を非難もするが、一般信徒の熱意はますます高まり、すっかり定着してしまった。カロリング時代以降修道院が盛んに建造され始め、農業改革成長期へ時代が上昇していくと、それに合わせて封建領主達が、領地の村落や都市に教会建設を熱心に進め、再編が進む農民達を我が領土に誘き寄せていった。それに合わせて教会も民衆のキリスト教浸透を熱心に進め、ゲルマンの土着の神々などを聖者崇拝に取り込みキリスト教の祝日に変える作戦も10,11世紀盛んに行なわれていく。4世紀頃、気温の高い小アジアの司教だった聖ニコラウス(訛り訛ってサンタ・クロースだとか)が、凍えそうな世界のトナカイ引き連れた防寒の赤服に化けたのは、聖人ニコラウスを北方の民衆の異教の神や英雄に混合させて、これをキリスト教化したのが原因だとも云われている。
聖人取り込みだけではない。例えば死者儀礼も初めのうちは異教的なものとして禁じていたが、教会側も禁止の効果無しと見るや、ついには11月2日の万霊節ではキリスト教者の死者の弔いの日を定めたり、元来教会的発想ではない聖遺物崇拝を利用してキリスト教化を推し進めていき、そのうち聖者とされうる人物は、死後バラバラに刻まれる状況に陥った。トーマス・アキナスは1274年に聖遺物としての第2の仕事を果たすべく、死後解体するためにぐつぐつお鍋で煮込まれたという。各種聖遺物、とりわけ嘘でも噂でもキリスト本人やら直弟子の遺物とされるものを利用して、教会や修道院自体が聖遺物の安置所となって信者を呼び寄せていく事になる。こうしてプロテスタント攻撃まで聖者・聖遺物崇拝による信者取り込みが進むのだが、それに合わせて一般人に大量の聖遺物の偽物がでまわるなど、民衆的キリスト教への熱気が次第に高まってきた。特に10世紀のローマ、11世紀のエルサレム、12世紀のサンティアゴ・デ・コンポステーラ(9世紀にヤコブの遺体が発見)への一大巡礼ブームは、この熱気に支えられたものだし、11世紀後半に開始する十字軍自体がこのような聖遺物を求める熱気に沸き返り、兵士だけでなく一般市民農民、時には少年少女まで十字軍を結成して「のこのこ」出かけては、聖遺物だと騙されてがらくたを買う絶好の鴨として扱われ、子供達などは自らの体を売り飛ばされてしまった。そんな訳で、キリスト教の布教に当っても、教会などに彫刻や絵画など視覚で把握できるキリスト教ゆかりの場面やら人物やらを配備し、特に初期にはヨハネ黙示録(アポカリプス)の世界、つまり異教の信奉者(しんぽうしゃ)どもを叩き落とす恐怖の世界で、民衆を改宗に導く作戦が取られたらしい。
この時期になっても教区教会などの司祭状況は劣悪で、村教区ともなると聖職者とも呼べないものが司祭になっているような有様だったが、この時期次々に建造された修道院が巡礼街道沿いなどに続々誕生し、まずはベネディクト派修道院、特に909年にアキテーヌ公が設立したクリュニー修道院が、巡礼修道院の見本を示して見せた。このクリュニーで1109年まで修道院長を勤めたユーグなどは「貴金属で神の家を修飾するのです、いますぐにです」と石の重厚な建物と剛健な建築修飾による修道院というスローガンを推し進め、11世紀に建築技術が天井の石造りを可能にした情熱に任(まか)せて、厚い壁に覆われた石造りのロマネスク建築の時代が始まるのである。窓がほとんどない厚い壁に覆われた薄暗い教会内部に、暗い神秘のアポカリプスに基づく彫刻などが最後の審判などで人々の心を脅したり、一方では修道院の見事な建築と質の高い生活が、人々の心を捕え、とうとう12,13世紀にはキリスト教がゆりかごから墓場まで人々をサポートし、人々は必ずどこかの教会に所属して洗礼を受け、キリスト教徒となるのが当たり前の状況が誕生した。後に7つの秘蹟と呼ばれる、洗礼、堅振、聖体、悔悛、終油、品級、婚姻はキリスト教が民衆をサポートすると同時に拘束するための、神聖な宗教的楔(くさび)でもあったのだ。象徴としては6,7世紀に開始され10世紀以降各地教会に広まった鐘の音が、ゆりかごから墓場までの宗教儀礼を告げる時の合図として機能した。そんなわけだから、恐ろしく伝統めいた西洋のキリスト教伝統は、日本における仏教見たように、外部から取り込まれて、1000年代を過ぎてから、漸く民衆レヴェルに広まったようなものだ。
こうしたキリスト教の定着に合わせて、キリスト教の精神も時代によって変化していった。例えばウルバヌス2世(在位1088-99)、そしてグレゴリウス9世(在位1227-41)によって、信徒達がアヴェ・マリアの祈りを唱えるように促す慣行が公式に制定されると、3度のアヴェ・マリアを「アンゲルス」の鐘を鳴らしながら唱えることが教皇や国王の勅令で繰り返し述べられている。恐ろしいヨハネ黙示録ではなく優しいキリスト、愛情満ちた母上マリアが次第にクローズアップされてくる事になった。この時期、民衆側も病気治癒・戦勝などの御利益祈願だけの宗教精神から、内面の贖罪や魂の救済を求めるような新しい概念が生まれ、民衆達の真の宗教的な目覚(めざ)めが始まった。この新しい概念も一方では、一部の熱烈的な者達が異端運動に身を任せる土壌にもなったが、異端と正統は教会や政治の思惑によって、彼らの思想と関係なく定められる事も多かった。いずれ12世紀半ば以降急増するワルド派やカタリ派といった異端の存在もまた、キリスト教の熱気が生み出した副産物の一つでなのである。
さて、こうした新しい精神は教会の刷新運動という形になって、聖職者・修道士達の中からも沸き起こった。すでにクリューニー修道院自体も、世俗権力からの自由と倫理の刷新を掲げ、同時に美しさと荘厳さを求め、修道士の肉体的美しさについて言及することまであったが、もちろん原点に返るべく典礼の重視も徹底し、2代目オドーは1日138篇以上の詩篇朗読を命令している。要するに3世紀の荒野の修道士達のように、ほとんど全部の詩編を1日で歌いなさいと云うわけだ。こうして8回の聖務日課の度に詩編が唱えられるだけでなく、公的な聖務日課やミサとは別に、私的な詩編唱による祈りも奨励されていた。こうした革新運動は教皇にも認められ、ついに教皇の許諾無しには破門される事のない、教皇直属の修道院が誕生し、クリューニー修道院は12世紀初頭になると、傘下に1500もの修道院を治める新しいタイプの修道院の指導的立場を担った。しかしこうした大修道院は司教座と同様の免除特権を持ち、救済信者の財産寄付も膨大で巨額の豊を築き、一層革新的な修道士達から見れば、世俗領主のように勢力を拡大しすぎ、断食も定めてはいるものの、日々の生活も食事もむしろ贅沢過ぎるように思われる。
こうしてクリューニ批判の急先鋒として、シトー修道院が立ち上がった。1098年にクリュニーとそれほど離れていない場所に建てられたこの修道院は、特に12世紀のベルナールが登場するに及んで、勢力を拡大しながらクリュニーを徹底的に批判、続く修道士指導による教会改革運動の精神を提示してみせれば、さらに時代が下(くだ)ると、シトー派もまた一つの波に過ぎなくなって、むしろ都市を中心とした托鉢修道士達が教会改革やキリスト教の思想をリードする時代がやって来る事になった。この新しい都市的な宗教精神は、教会の建築自体にも大きな影響を及ぼしている。ゴシック建築は、パリ郊外のサンドニ修道院でシュジェールが光の形而上学に取り付かれながら「ステンドグラスの神秘の光って神々の世界みたいに神々(こうごう)しい!」と叫んで、1137年からの聖堂改築を行なったのが最初期の例だが、これに倣(なら)ったステンドグラス窓に覆われ高くそびえ立つ典型的なゴシック建築は、都市建設のラッシュに乗っかりながら、都市教会建築として重要な地位を持つ事になって行くのである。ここに来て、ゴシックを飾る都市建築は、修道院教会よりも、都市の大聖堂などに移っていくのであった。
当初、各教会司教などは領主が任命したり、教会収入10分の1税が領主の財源になるなど、俗人でも司教になれるような世俗の土壌が形成され、1000年頃ではラテン語も読めず、世俗というか農民レベルの司祭・助祭が地方の聖職者に大量に存在した。修道院改革の広がりでさえも、世俗領主の「私有教会・領主選抜的聖職者」を駆逐できないどころか、この種の問題は後の宗教改革まで続く教会の問題には違いなかった。教皇に直接つかえる修道院で各種改革運動が始まったのはすでに見たが、重要なクリューニ修道院なども聖職売買シモニア禁止などを叫びながら、各修道院に呼びかけ封建領主などの支配から修道院を救い出し教皇に直属させ、自らを組織中心とする教皇に従う修道院運動を繰り広げていた。そうした新しい風を受け刷新を目指す教皇達が11世紀頃から登場し、司教や修道院長を集めた公会議で討議を行い、聖職売買と世俗領主による司教任命、さらに聖職者妻帯の横行などに対しての反対運動が、教皇を中心に秩序を組織する改革の機運を高めつつあった。
こうして1049年に就任した教皇レオ9世に始まるとされる、「グレゴリウス改革」と呼ばれる教会秩序を確立するための刷新運動が開始。それは東ローマ帝国教会に対する、西ローマ教会の立場と自意識とも関係していた。当時ビザンツ教会との関係は、8世紀の聖像破壊命令などで悪化していたが、さらに西側が9世紀に「聖霊は父なる神から発する」という信条に付け加えて「しかも、子からも発する(フォリオクェ)のです。」と書き込んだため、ビザンツ教会との対立が起き、このフォリオクェ問題などで東西分裂の危機高まっていた最中だった。この教皇レオ9世は1053年に東西教会の統一回復直前まで迫るほど有能な教皇だったが、残念ながらその年に南から進入するノルマン人に捕まってマラリアに掛かって亡くなってしまった。「おのれ難きはノルマン人か伝染病を伝えてくれた一匹の蚊か」、彼の死後事態は急悪して、翌年1054年、東西教会は互いに相手を破門し合って、互いを蹴飛ばして完全分離を迎えることになってしまった。
しかし、西側教会での改革の火は途切れず、1059年には教皇ニコラス2世によって教皇選挙権は枢機卿だけが握るもので、これが神聖ローマ皇帝による承認に先立つことが宣言され、これによって皇帝の教皇選出への介入を防ごうとした。そんな最中(さなか)に登場するのが改革教皇の中心人物グレゴリウス7世(ヒルデブランド、c1020-在位1073-1085)だ。時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(ドイツ王在位1056-1105、神聖ローマ帝国皇帝在位1084-1105)が帝国内高位聖職者を掌握し、帝国内勢力を保とうとグレゴリウス7世の出した「皇帝の高位聖職者任命否定」という教書を無視すると、これに対しグレゴリウス7世はローマで自分の勢力を強化して遂に「皇帝剥奪の警告」という前代未聞の挑戦状を叩きつけた。(この聖職者叙任権を巡る争いを叙任権闘争という。)これに対して皇帝はヴォルムスに会議を開き、教皇グレゴリウス7世の廃位を決定、教皇側は皇帝剥奪を止めて、「もっとすごいぜ」皇帝ハインリヒ4世のキリスト教からの破門という手段に打って出た。破門の効果は甚大だった、帝国内の不穏分子が「破門じゃあ駄目だ」と離反を開始したからである。ついに諸侯は新しい国王選出のために会議を開き始め、民衆までもが教皇様の肩を持って、町に降りうなだれて道ばたに座り込む皇帝を、子供達が取り囲んでは蹴飛ばして逃げていくので(・・・それは音楽の皇帝の映画の場面じゃ無いかしら)、隣に崖っぷちが開いているのに気づいたハインリヒ4世は、大急ぎで教皇の居るカノッサに駆け出した。皇帝が走れば、驚く馬が、慌てて追い掛け追い越して、それを後ろから皇帝が追いかける。ようやくカノッサにたどり着いた皇帝は、寒い冬の中裸足で教皇様の出てくるまで立ちつくしていやがる。何だか遠くから見ても白い旗を振って何だか忌々(いまいま)しい。グレゴリウス7世は「のこのこ」出て行っても政治的に何一つ浮かばれないの知りつつ、そこはキリスト教を支える教皇様の慈悲の心が抜けきれず、冷徹な足蹴には出来兼ねたらしく、とにかく腹だたしいのは「しもべ、しもべ」と叫びながらわざとらしく裸足で控えるあの愚か者だ。「ちきしょうめ、とっとと失せてしまえ。」と内心思いつつ、渋々ながらに面会を認め、お詫(わ)びを受け入れたのが運の尽き、たちまち「ほくほく」して帰ったハインリヒ4世は、一旦新国王を立てられ内戦状態に陥ったものの、最終的に帝国内諸侯を再度掌握し、再度皇帝剥奪を述べ立てる教皇に対して、今度は自らイタリアに攻め込んだ。「捕まえてカノッサに立たせろ、今度はお前が許しを番だ。うおー。」と叫び来る皇帝に対して、グレゴリウス7世はすんでの所でサレルノに脱出して、「教皇に情けは不要なのでしょうか」と神に訴えながら、少し後に天上人になってしまった。これが後々カノッサの屈辱(1077)と云われる事件と、その後日談の真相である。(結局この後輝きを増す教皇権の確立には彼のようなお優しさが万人に受け入れられただけだったりしてなんかして。)
偉大な教皇グレゴリウス7世の後も、ローマ教皇を巡る歴史はなかなか混迷を極め一筋縄ではいかないが、それでも改革は一定の成果を収め、教皇は神聖ローマ帝国以外の各地の国王などに聖職者叙任権の帰属を求め、それに対して各地の国王は、選出にはある程度関わる事と、司教に対して国王への忠誠を宣言させる権利は国王が持つことにして、教皇と互いに歩み寄りを見せて合意に漕ぎ着けた。こうしてフランスでは1097年に、イギリスでも1107年に国王は司教任命を放棄する事になったのだ。一方皇帝と教皇の叙任権闘争は、1122年のヴォルムス協約によって、司教任命は教会が握るが皇帝か代理人も任命に参加する事にし、皇帝の指輪と司教杖による司教の叙任行為は禁止するが、代りに笏を与える事を許して叙任の代用とするなど、皇帝の教会影響力をある程度残す形で妥協案が成立したという。
教皇を中心とするこれらの改革は、教会全体の広範な改革運動の一つであり、改革の拠点としては修道院や、共同生活をしながら司教を補佐する在俗の聖職者達の集まり、つまり聖堂参事会も重要な意味を持っていた。結局神聖ローマ帝国はおろか、フランス、イギリスでも教皇の立場は名目的な意味あいが大きかったが、にもかかわらず私有教会制は終焉を迎え、アレクサンデル3世(在位1159-81)の時には改革がさらに進行し、教会のヒエラルキーが教皇をトップに確立するようになっていった。さらに十字軍の盛り上がりや、巡礼熱の高まりが教皇の立場を押し上げ、インノケンティウス3世(在位1198-1216)の時にはついに、「教皇は太陽のように輝き、皇帝、貴様は月だ、月!」という有名な言葉が生まれるほどだった。彼はイタリア政策に乗り出すオットー4世を破門し1211年にはフリードリヒ2世をドイツ王(神聖ローマ帝国皇帝とは別)に就任させ、フランスのフィリップ2世の離婚問題に干渉。さらにアリエノールとヘンリー2世の末っ子であるイギリスのジョンが、カンタベリー大司教任命に関して反旗を翻せばこれを破門し、「ジョンよここ掘れクンと鳴け」と許しを請わせてみた。また第4回十字軍の遠征も彼の時であるが、この十字軍は行き先を変えてハンガリーを攻撃し始め、教皇が慌てて十字軍自体を破門にしたが、こっちは効果がなかったらしく、そのまま1204年にあるまじきビザンツ帝国を攻略してしまい、コンスタンティノープルを占領。ビザンツ皇帝は地方に逃げ延びニカイアに亡命政府を樹立すれば、十字軍はその地にラテン帝国(1204-1261年で実際50年以上続く帝国だった)を樹立する始末だった。ここにはイタリア人商人達の画策があったとされ、商業活動のバイタリティーが顔を見せる非常に十字軍の新しい局面を持っているため、世界史の流れから見て非常に面白い。このラテン帝国は、実際ヴェネツィア海軍によって支えられていたという。インノケンティウス3世もこれには呆れたが、まあ出来てしまったものは仕方がないと追認するに至った。彼はまたワルドー派、アルビ派などの異端対策も進め、説得に出かけた教皇使節が殺害されると、1209年アルビジョア十字軍を派遣。これは比叡山の信長のような殺戮十字軍の様相を見せた。さらに1210年アッシジのフランチェスコとドミニクスに面会して、新托鉢修道会の設立にまで関わっているから、確かに太陽と命名されるのに相応しかったのかも知れない。自ら著述もしていて「人間の悲惨の境遇について」という本が邦訳されているそうだ。よっぽどお暇な人は読んでみたらどうだろう。さらにその後、グレゴリウス9世(在位1227-1241)の時には異端撲滅のために「異端審問(Inquisitio)」が初めて置かれた。ただし異端ことごとく抹殺する呪われた機関というイメージは完全に大誤解、あるいは捏造である。
さて、いい加減に音楽史の方に話を移すことにしよう。今日のお題はポリフォニーの誕生、つまり多声音楽の開始である。800年代後半から900頃にヨーロッパ北部の修道院で記され、重要な理論書と考えられたためだろう、当時にしては珍しい40あまりの写本資料が残されている「音楽の手引き(ラ)ムジカ・エンキリアーディス」、さらにそれを元に対話形式で分かりやすく説明を加えた副産物の「抄録(抜き書き)手引き(ラ)スコリカ・エンキリアーディス」は、ギリシア理論のテトラコルドを今日の音楽で実践するための方法が書かれ、ボエティウスの「音楽教程」の後に写し取られている例もあり、解読困難なダジア記号によって譜例が示されているのだが、この中のごく一部分に、中世初の2声部垂直結合の例が登場することになった。つまり2つの旋律で一緒に聖歌を歌う方法「ディアフォニア」が紹介され、「オルガヌムorganum」と呼ばれているのである。この始まったばかりの多声音楽は、元の聖歌が独唱者だけで歌われる部分に作曲されていて、独唱者に合わせてもう1声が加わるという形になっているため、このオルガヌムは決して合唱用の技法ではなく、2重唱の技なのである。つまり聖歌のとっておきの部分でトロープスのように横に旋律を加えるのではなく、もう一人の声で同時に旋律を加えて演出するという高度な技だった。
「音楽の手引き」によると、元の旋律である主声部ヴォクス・プリンチパーリス(主要な・声)に対して、完全5度か完全4度下にもう一つの声部ヴォクス・オルガナーリス(オルガヌムの声部)を付け加え、常に完全5度あるいは完全4度で平行に進行する事が出来る。またそれぞれをオクターヴ上げ下げして全部で4声部に拡大する事も出来ると書いてある。このオルガヌムという名称は「器具、道具」といった意味に由来しているが、鍵盤楽器であるオルガンもラテン語でやはりオルガヌムと呼ばれる。そこで何らかの関係がありそうな、無さそうな議論が起きたが、はっきりとした答えは出ない。とにかくこのオルガヌム、常に完全に平行移動しているだけなら、まだポリフォニーの開始とは言えないかもしれないが、しかし4度進行をする例の中に、2つの声部の進行が異なる例が2つほど含まれる。それは、この理論書で使用しているテトラコード音階が独自のものであるせいか、ただ単に低いb音が認められていないのかは知らないが、中世において悪魔の音程とされた増4度を形成する3全音トリトヌスを避けるため、しばらくの間オルガヌム声部が(今日の譜面にすると)C音やG音に留まり、主声部がその上で音程を変える斜進行の動きが表わされているのである。(実際はBを低いBで歌えば何の問題も起きないのだが。)
ただしこの例外を持ってポリフォニーの開始とするのは、あまりにも不甲斐なさ過ぎる。和尚さんから「もっとしっかりしたところを持ってこなくちゃ駄目だ!」と追い返されそうである。またこの2つの例の開始部分は、どちらも一方が保続音で、もう一方はそれに対して同音から旋律を派生し、しばらく云ったところで4度関係に到達し平行にオルガヌムを形成し、しかし最後は平行が破棄され同音で終わる形になっているが、この歌い出しの部分は歌い初めの独特な慣習を表わしているようにも見える。もしかしたら、実際の典礼聖歌を歌う際に、同音から一方を保続音として次第に平行進行部分に到達して、最後に再び同音で終止するようなオルガヌムの遣り方がかなり行なわれていて、もしろ後からトリトヌスの回避という説明が加えられたのかもしれない。いずれこうした例は理論上の産物というよりも、音楽的に実践的されていたことを記入して居るように見えるので、(少なくともある地域では)ある程度盛んになっていた実践を踏まえて、記述されたのだろうと思われる。この時代は古代ギリシア伝統への中世の実践の適合が初めてなされ、その最初の試みとしてダジア記譜法ながらこの例が残される事になった。同じ頃書かれた「ケルンの書」では、当時不協和音とされた3度、2度を含むオルガヌムを、あまり無頓着に使用しすぎだと指摘しているし、その少し後に書かれたらしい「パリの書」においても、終止のオルガヌムの例外進行を「正しいオルガヌム(つまり協和音だけで行なわれる)が沈黙する」などと説明している。いくら「細部はさておき構造の基本は4度、5度、8度、同音で平行進行するのが当時のオルガヌム。」とは云っても、4度平行が主だったのか、5度平行が一般だったのかだけでも、実際音楽の印象は異なるし、それ以前に協和音性のより高い5度よりも4度を使用する例が多いとするなら、そこにはすでにある種の美的価値基準が含まれていると思われる。などいろいろ考えたくなるが、もう少し何か証拠が無いものかしら。・・・・しかしもう資料探検のシーズンは私の中で去ってしまったので、知らないものは仕方がないとして話を飛ばして、グイード・ダレッツォの「ミクロログス」に話を移すことにしよう。
ここでは次の時代新しい方法に発展したディアフォニアの例が譜面付きで説明され、こちらはしっかり譜線の引かれた音程ネウマで記入されている。彼はテトラコード体系が旨く機能しないため、ヘクサコード6音音階体系を編み出して単声音楽と多声音楽を説明しているが、オルガヌム声部はここでも、主旋律に対して完全4度下に加えられる。しかし彼は、並行進行がずっと続くより、他の音程を交える方が好ましいと著述していて、そのような譜例を挙げているが、ここでは長3度が協和音程のようにみなされ、それどころか短3度すら認められ、上声下声の音の高さが逆転する声部の交差が認められ、例外の許容というより、もっと積極的な意味合いで元の旋律と異なる声部を作っているように感じられる。そしてこれを音の高さを明確にする横線つまり譜線を使って書き表し、「これで10年以上かかった聖歌の習得が、たった2年で子供に教えられる」と高らかに述べた。さすがはグイード・ダレッツォ、西洋音楽の開始を自ら高らかに告げ、「これでオルガヌムの技法はもう1000年は余裕で戦えます!」と教皇に向かって叫んでしまっただけの事はある。このグイード・ダレッツォの例も、やはり4度下に対旋律を置くタイプを基本にしていて、「音楽の手引き(ラ)ムジカ・エンキリアーディス」の精神を引き継いでいるようだ。
一方1100年頃に書かれた作者不詳の音楽理論書である「オルガヌムを作る道となるだろう」(ミラノの書)の中にはアッレルーヤ「正しいものはシュロのやうにAlleluia Justus ut palma(アッレルーヤ・ユストゥス・ウト・パルマ)」や、キリエに付けられるトロープス「全能にして父である神よ」が実際の作品として載っているが、こちらは平行進行や保続音を基本に置いたオルガヌムとは作曲態度が全く異なり、新しい流行や異なる地域の伝統、あるいは異なる精神から生まれた産物であるようにも見える。つまりここでは定旋律の上にオルガヌム声部が置かれていて、さらに場合によっては3度や6度を協和音に準じるものとして使用し、元旋律に対して常に協和関係を保ちながら、主旋律と同じ比重でしかも主旋律とは異なる動きを見せる、全く独立したもう一つの旋律を生みだそうとしているからである。例えば「全能にして」では、ただ一度3度が登場する以外はすべて1度、8度、5度、4度(オクターヴ越えは無視して)の協和音程だけで作曲され、しかも同音から11度まで音程が乖離するほど、多様な動きを見せている。ここには5種類のオルガヌム作成方法が示されているそうだが、これが作曲された11世紀終わり頃になると、急にあらゆる楽譜の量が増加し、それに釣られてオルガヌムの例も急増する。いよいよ書かれる事によってさらに発展を遂げる、ヨーロッパ的ポリフォニーが離陸を遂げたのだという。
そして、聖歌旋律にも句読点があると書き残したヨアンネス・アッフリジェメンシス(アフリゲンのジョン、ジョン・コトン)(12世紀)が「音楽論」の「ディアフォニア、つまりオルガヌムの説明」の中で交差の奨励や、平行進行よりも反行進行(現代の和声もそう教えるが)が良いと述べる頃には、オルガヌム声部は主旋律の上にあり、さらに聖歌の一つの音に対してオルガヌム声部が幾つもの音をメリスマ旋律のように華やかに演奏するメリスマタイプのオルガヌムまで顔を見せ始めた。この頃から多声音楽自体の議論も盛んになるらしく、いよいよ多声音楽は(音楽史として見れば)空に舞い上がった。
実践が録音されていれば何の苦労も入らないが、資料すら十二分に揃っていないから不明瞭だ。実際に歌われた作品としては、新しい聖歌として元の聖歌に注を加えつつ拡大したトロープスの栄えたイングランドで、最初期のオルガヌムの楽譜が残されている。この地はアルフレッド大王以降再び文化復興が起こり、いつでも楽器を携えていた音楽好きの博識な聖職者ダンスタンが、10世紀半ばにフランスのベネディクトゥス派修道院を模倣しつつ、修道院改革と規模の拡大を目指す運動を始めたとき、大陸のオルガヌムが導入された可能性があるそうだが、まあ詳しいことは分からない。ダンスタンはカンタベリー大司教として聖堂の典礼などの改革を行ない、トロープスの役割を重視したのかも知れない。1050年頃カンタベリーで書かれたトロープス集にはトロープス以外の曲も納められ、フランスから流入したトロープスが大きな部分を占めるが、神聖ローマ帝国やイタリアに残るトロープスを改変したものも残されていて、一方イングランドで作られただろうオリジナルトロープスが1/3ぐらいあるそうだ。この時期にトロープスが導入されたかどうかはともかく、ダンスタンの頃典礼に取り込まれ活発に使用され作曲されるようになったのかも知れない。そのダンスタンの影響を受けた後輩のエセルウォールも優秀な聖職者で、彼こそダンスタンの改革を、就任(963-84)したウィンチェスターに広めた人物だとされている。彼はウィンチェスター以前の就任先でフランスの修道院から聖歌の指導者を呼び寄せるなどしているが、こうした改革をによる実践の結果として登場したらしいのが、ウィンチェスターに残されているトロープス集、名付けてウィンチェスター・トローパだ。(名付けてって、そのままじゃないか。)これは、エセルウォールが活躍していたころ作られた原本を元にした第1の写本が1050年頃筆写され、それとは別の第2の写本が996-1006頃に筆写されているそうだ。これらは音程上下関係だけで譜線が無い非音程ネウマで書かれていて、そのネウマもイングランド独自の物なので、完全に現代に蘇らせる事は出来ないそうだが、この第2の写本の後半に174曲ものオルガヌムが納められて、今日残存するヨーロッパ中世最古の多声音楽の実用譜の例となっている。完全に復元出来ないとは云っても、元の単旋律聖歌の旋律を、後の音程ネウマで書かれた写本から導き出し、それと照らし合わせて復元し、何とか対旋律を蘇らせた演奏なども耳にする事が出来るようになった。しかも「西洋音楽の曙」の第7章によれば、恐らくエセルウォールドの弟子だったウルフスタンが独唱用トロープスをオルガヌムとして2人で演奏するべく作曲した可能性が示唆され、だとすると10世紀末のウルフスタンこそが最古の実践多声聖歌の作曲者と云う事になる。同じ頃ウィンチェスターにオルガンが導入され、ウィンチェスターのトロープス集(ウィンチェスター・トローパ)に見られるネウマ譜と一緒に付けられたアルファベットの例は、オルガン演奏かオルガン伴奏のために書かれたのではないかとも言われているそうだ。
一方フランス側のシャルトルでも、ヨーロッパから沢山の学生を集めてシャルトルを一時文化都市に押し上げたベルナルドゥス(1060?-1126)よりも以前から、すでに初期の多声音楽が華やかに行なわれた証拠が残っている。シャルトル司教で知性豊かなフルベルトゥス(c970-1018)は音楽に秀でた聖職者であったが、「彼の弟子がオルガヌムの音楽を手中に収めていた」と書かれている資料から、フルベルトゥス自身もオルガヌム技法を手中に収め弟子達に伝授していた可能性がある。いずれ他の地域同様、復活祭で重要な役割を果たしていたオルガヌム作品が、典礼の中で特に聖職者などの行進と関連した部分に残されている。しかしトロープスやセクエンツィアなどの新型聖歌同様、遣り方は同じオルガヌム作曲法でなされてはいるが、海向こうのウィンチェスターと同じ旋律を奏でるものは全くないそうだ。
フランスの地図でボルドー抱える偉大なジロンド川の河口を平行に東に視線を移して行くとアリエノールで同じみのアクィテーンの中心的な都リモージュが目に入ってくる。この地の3世紀頃の司教である聖マルティアリスの墓に9世紀中頃建設されたサン・マルシャル修道院は、アルクィン以降の修道院隆盛の中でもいち早く漲ってしまった修道院として、1000年教皇の頃にはすでに商業活動で栄える都市リモージュの中にあった。このリモージュは複雑な事情もあり、司教管轄部分と封建領主管轄部分が城壁で分断されていたが、サン・マルシャル修道院は領主側に属し、カロリング朝以降のトロープス、セクエンツィアなどの新型単旋聖歌の中心地として長い伝統を誇っていた。今日途絶えたサン・マルシャル修道院だが、かつてここで保管されていた1000年教皇頃から13世紀初めに掛けての、200年あまりの間に編纂された合計4冊の写本が今日に命脈を保ち、アクィテーン辺りで演奏されていた多声聖歌の御姿(おんすがた)を見ることが出来る。ここでは元声部の聖歌自体が新作聖歌になっているか、または比較的新しい作品になっているので、ほとんど同時に主旋律とオルガヌム声部を作曲しては、「ディアフォニアすごっくいい!!」と叫んでしまうような当時の情熱が感じられ、すでに2つの異なるオルガヌム技法を用いて縦横無尽(じゅうおうむじん)に泳ぎ回って見せた。一方は主旋律の1音に対して1音をつけるシラブル対応のオルガヌムであり、もう一方は主旋律の一音が長く伸ばされている間に、オルガヌム声部がメリスマ旋律を華やかに繰り広げる遣り方で、これらは後になってそれぞれ「ディスカントゥス様式」と「オルガヌム様式」と呼ばれるようになっていく。非常に多い例として「ベネディカームス・ドミノBenedicamus Domino」に付けられた多声トロープスがあるそうで、後になるとこれは従来のオルガヌムに対して、1対1のシラブル対応の中で形成され、今日言うところの拍が明瞭に現われた有節的な形式で作曲され、しかも韻文のテキストに付けられた幾つかの例が見られ、パリのリズムモードの精神に繋がりそうなのだという。1対1シラブル型の最後の締めでは、1音対メリスマのメリスマ型が、終止を盛り上げる技法として取り込まれて、多声の楽曲様式も次第に洗練されてきた。他に強弱のリズムを持った有節的で和弦的な「ウェルスス」などは後の多声コンドゥクトゥスと似た様相を見せるのだと云う。
このサン・マルシャル修道院と同じアクィテーン方式のネウマ記譜で記入され12世紀中に写本として残されたものに、サンティアゴ・デ・コンポステーラに保管されている「カリクスティヌス写本」というものがある。アクィテーンでの音楽との関連性と異質性が提示され、学者達が散々もめたり、シャルトルとの関連性が取りざたされたり、大変な騒ぎとなって来たので、「まあもっといろいろな修道院で多声が行なわれていて、複合的条件の中から今日残されたぐらいにしておきましょう。」などと日寄ろうものなら、両側から足蹴にされ無いとも限らない。特によく知られた作品は、この中に含まれる初めての3声の作品コンドゥクトゥス風味「互いに喜び合い給えカトリックの信者達よCongaudeant catholici(羅コンガウデアント・カトリチ)」であり、これが「パリのマギステルであるアルベルトゥス」の作品だとされ、パリとの関係が取りざたされた上で、改めて3声の始まりだと決めつけるのが慣例だが、「西洋音楽の曙」によるところではこの3声目、後から付け加えたか、上声の代用として書き記されたものだという。下声部に一緒に書かれた第2声部だけ赤インクで記されているのも有力な根拠だと云うが、確かに改めて譜面を見詰めると、華麗なオルガヌムとシラブル対応のオルガヌムの両方の遣り方を同時に書き表しただけにも見えるようだが、真相はどうなのだろうか。
さてこうして次第に有節的、リズム的な典礼音楽が登場し、あるいはリズム記号がないだけである種の音の長さの違いを持って、長短のようなリズムを使用して歌われた曲もあったかも知れないこの頃、ついにパリでリズム・モードが生み出され(というかパリの例に初めて残され)、音符をリズムの枠に当てはめながら長短音価で歌うための新しい記譜法が登場した。しかしパリとアクィテーン様式の関連性や相互関係などは、一言で言えば「サパリ」である。確かにパリからの巡礼街道はアクィテーンを通ってサンティアゴ・デ・コンポステーラに続くから、なんだ写本のルートじゃないかと云うのは簡単だし、1137年にアリエノールが来てる事だし、世俗歌い手も南から北になだれ込んでるとはいっても、オルガヌムの方は聖職者達の聖歌だし、あんまり短絡的にスパスパ結論は出てこないのが正解だ。
理論書などから当時のオルガヌムを軽く整理しておくと、12世紀の理論書では2つの様式が区別された。以前のように両声が1対1で動くものをディスカントゥス(羅)と呼び、一方下の声部を上声を支える持続された低音であるドローンのようにのばしその上声でメリスマ音型が飛び回るものをだオルガヌム/2重オルガヌム/オルガヌム・ドゥプルム/純粋(プールム)オルガヌム(ラ)などと呼び、この場合の引き延ばされる主旋律である元の聖歌部分をラテン語のテネーレ「保つ」からテーノルと呼ぶようになっていく。声部は最下声のテーノルから順番に第2声部(ドゥプルム)、第3声部(トリプルム)、第4声部(クァドルム)と呼ばれた。この純粋オルガヌムが書き記されるようになっると、やがて2つの声部が譜線に対して縦に上下書き記され、縦線が引かれるようになっていく。ただし当時の世俗歌曲も同様だが、音価の長短が記譜されないため今日の演奏で多様な意見が出さることになった。
2005/06/07
2005/08/06改訂