3-2章 パリの多声音楽ならノートルダム楽派

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そしてパリ

 パリではアルティエの自由7科などの授業を聞くために集まった各地の学生で、カルチェラタン地区は喧噪に包まれ、やがて1200年にはフィリップ2世が特許上に署名をしてパリ大学の発足となるし、それ以前1163年には教皇アレクサンデル3世によって新しいノートルダム寺院再建の礎石(そせき)が据えられ、ゴシック様式教会建築の走りとされるサン・ドニ修道院付属教会の影響を受けた、バロック建築によるノートルダム大聖堂が13世紀半ばに掛けて次第に姿を現わし、その間聖歌隊は取り残された旧聖堂中心部で礼拝を行なっていたが1177年には内陣が完成し、1182年には献堂式が行なわれた。巷ではアリエノールがパリ宮廷を闊歩して以後、ますます増大するトルヴェール達が領主の宮廷を賑わし、一方急激に拡大するパリの熱気に浮かれる都市市民はカロールに熱中しながら、若者達がアーサー王を夢見てヴィオール片手に歌を歌ったり、大変な熱気に溢れていたに違いない。時の国王フィリップ2世は道路や広場を整備し、三羽ガラスの第3回十字軍に参加するに及んで城壁を築いたが、この時の砦の一つが、後のルーブルの原型になった。「第4の無名者AnonymousⅣ(アノニマス・フゥォー)(作者不明の4人目として19世紀のフランス学者クスマケールによって命名って、要するに「名無しさんⅣ」ってことだ)」の資料と命名された、13世紀後半にパリで学んだイングランド学生のメモが残されているが、これを元に当時ノートルダム大聖堂で開始した新しい音楽についての記述を、適当にこねくり回すことにしよう。(またそれか。)ここからレオニーヌスとペロティーヌスという、2人のオルガヌム制作者の存在が、クローズアップされてくる。


「レオニーヌス氏は最高のオプティムス・オルガニスタであり、ミサ聖歌集と聖務日課聖歌集から教会歴1年全体のために、2声のグラドゥアーレ、アッレルーヤ、レスポンソリウムを集めて「オルガヌム大全・大集(羅マーニュス・リーベル・オルガニ)」を作り、礼拝を豊かにした。これは続く偉大なペロティーヌスの時にも、彼によって編纂を加えられながら使用されていたが、ペロティーヌスはレオニーヌスよりすぐれたオプティムス・ディスカントールだったので、すぐれたクラウズラあるいはプンクトゥムと呼ばれるものを作ってみせた。もちろんこれはオルガヌムにおいてペロティーヌスが最良だと言っているのではない。
 それにもかかわらず、彼は4声(クアドルプルム)で作曲した驚異的なオルガヌム「地上のすべての国々は見たViderunt omnis(ヴィデールント・オムニス)」や、「支配者達が集まってSederunt(セデールント)」だけでなく、多数の最良の3声(トリプルム)のオルガヌムを作り、同時にコンドゥクトゥスの作曲に置いても、1声のものだけでなく、2声3声のコンドゥクトゥスを残してしまったのである。(やっぱり、最高だぜ、ペロティヌス、あんたって奴は!)


 最後の括弧内の台詞は、私が彼の思いを察して付け加えたものだが、このように、ペロティーヌスのすぐれた作品の具体例を挙げて彼を讃えまくっているのだが、この名無しさんⅣがパリにいた1285頃になっても、この聖歌集はノートル・ダム大聖堂で使用され続け、この聖歌集の写本や、このレパートリーが含まれた曲の写本がヨーロッパ各地に残されているため、1200年代のパリのレオニーヌスとペロティーヌスという作曲家に一大スポットが当る事になった。ごく簡単に説明すると、オルガヌム大全とは、ノートルダム大聖堂における聖務日課とミサをキリスト歴に沿って多声音楽、つまりオルガヌムで彩るための年間多声聖歌集であり、当時の同種の試みの中でも量と質の点で際だっていた。しかもこの楽譜は「モーダル・リズム(リズム・モード)」という前例の見つからない斬新なシステムによって、音の長短である音価を現わす事に成功していたのである。

ノートルダム楽派の成立

 さて、手元に置いて楽しく読みたい金澤正剛の「中世音楽の精神史」に従うと、パリではすでに12世紀初めに活躍したアダンという人物が、聖歌隊の開始独唱を担当し同時に聖歌隊指導に当るプレセントールprecentor(プラエケントール、ようするに第1のpre、カントールと云う事で、先唱者などと訳す)の地位にあったが、彼は前に登場したアダン・ド・サン・ヴィクトールと同一人物らしく、セクエンツィアの詞であるプローザを韻文で書いたとされる人物だ。彼の時代のパリでは、音価を変えて生み出すリズムに対する関心が高まっていたのかも知れない。さらに彼の跡を継いだ先唱者に、先ほど出てきたマギステル・アルベルトゥスが登場する。彼は多声のオルガヌムの作者として(3声かどうかはともかく)「カリクスティヌス写本」にも顔を覗かせ、つまり彼の時までには、即興で(というか譜面は無いが)先唱者の歌う部分に対して、オルガヌム声部を歌う遣り方、オルガヌムの技法がノートル・ダム大聖堂で行なわれていた可能性が高い。ところで彼の頭に食っ付いているマギステルであるが、これは「修士」といった意味の言葉で、大聖堂付属学校などで自由7科を修め、その上の神学を修めるエリート聖職者に付けられた定冠詞のようなものである。金澤先生の仮説によると、やがてマギステル・アルベルトゥスの元に、先唱者に対してオルガヌム声部を歌うスッケントル(副カントル)としてレオニーヌス(1120-30頃?-c1201)が活躍を始め、2人でオルガヌムをディアフォーニア(エンジョイの代用)するうちに、だんだん盛り上がってきて、ついには人々からオプティムス・オルガニスタ、つまり「最高だぜ、アンタのオルガヌムは!」と呼ばれるようになった。レオニーヌスは、近隣の修道院からオルガヌムを楽譜にまとめて残す事を聞いたのかどうだか、いずれノートルダム大聖堂聖職者の組織的な事業として、ミサと聖務日課に使用される自らのオルガヌムを「オルガヌム大全」として編纂した。かつてアクィテーンのオルガヌムが、根幹聖歌よりも同時期に作られた比較的新しい聖歌を主旋律していたのに対して、このパリのオルガヌムは明確に聖歌に基づき、多くの場合元の聖歌が歌詞を進行させるシラブル的な旋律部分では、その元聖歌を下声で長く伸ばして、その上声で言葉のない旋律が豊かな動きを見せる。一方元の聖歌がメリスマ的に動く部分では、下声が拍ごとなど細かく進行し、上声がそれに2,3音加えて和弦的でリズミカルな部分、つまりディスカントゥスの技法で進行して、これによってクラウズラ(ラ)clausula(文の終結、区切りの意味)と呼ばれる部分を形作る。このパリのディスカントゥスは、音符が1対1に動く元の形から離れて、むしろリズムの頭ごとに下声音符が置かれ、上声のディスカントゥス声部は全体のリズムを持続させるように2,3音が当てられて拍を明確に感じるような部分を形成するのが特徴だ。
 やがてレオニーヌスが、「私には一層大事な仕事があるのだ」と聖歌隊の仕事から離れてからしばらく後、聖歌隊の中にいたペロティーヌス(?-c1237)が頭角を現し、先唱者が名誉職化していたため、すでに事実上の先唱者の役職だったスッケントール(副カントル、先唱者代理)の元で独唱部分のオルガヌムを任されるようになり、さらに1207年から1237年に掛けては自らがスッケントールとなって活躍したという。彼は自らも新しいオルガヌムを、しかも4声で作曲し、パリ司教ユード・ド・シュリーが1199年に
 「降誕節の典礼を漲らせるべく、パリの聖人の祝いを兼ねた聖ステファヌスの祝日(12/26)と主の割礼の祝日(1/1)を正式に採用し、その際にはグラドゥアーレとアッレルーヤを3声か4声のオルガヌムで歌うべし」
と教令を出したが、もしかしたらそれに答えて生まれたのがペロティーヌスによる、聖ステファヌスの祝日のためのグラドゥアーレ「支配者達は集まって」に付けられた4声のオルガヌムであり、また主の割礼の祝日のためのグラドゥアーレ「地上のすべての国々は見た」に付けられた4声のオルガヌムではないかと考えられている。こうして彼は数々のオルガヌムをレオニーヌスと同様作曲し、さらに3声の曲などで下声旋律が長く伸ばされ、一方上2声が絶えずディスカントゥスのようにリズミカルに進行する作曲方法も導入し、このような中間様式は後にヨアンネス・デ・ガルランディアが「定量音楽について(ラ)デ・メンスラビリ・ムジカ」のなかで、ラテン語で「連結もの」を意味するコプラと呼んだりしている。さらにペロティーヌスはオルガヌムに飽きたらず、さらに多声のコンドゥクトゥスまで作曲。おまけにレオニーヌスの「オルガヌム大全」の中で、リズミカルに動くディスカントゥスの部分だけを一番の聞かせどころとして、クラウズラとかプンクトゥムと呼んで作曲して入れ替えると好い心持ちがしたので、この部分だけを置き換える代用クラウズラ(スプスティトゥータ・クラウズラ)を多数作曲して、それが元で第4の無名者からオプティムス・ディスカントールと呼ばれたとも云われている。ただし同じ聖歌を使用したものが多数見られるし、クラウズラはある種の完全に独立した曲種として、つまりクラウズラというジャンルとして認知されていたかもしれない。
 オルガヌムの成立については金澤先生のまとめに寄れば本来即興的技だったオルガヌムは写本の熱意漲るアクィテーンやシャルトルなどでは残されたもの、ほとんどは残されずに様々な教会などで演奏されていただろうが、特に行進のさいに盛んに奏されるコンドゥクトゥスが、さらに後にはノートル・ダム大聖堂の例のようにグラドゥアーレの部分などでも多声オルガヌムを使用しながら聖歌隊が移動しながら歌うようになり、この行列多声曲の伝統から、歩調に合わせた明確なリズムと、3分割(ただし大枠では2拍子が見える)方法が生まれてきたのではないかとしている。ただし当時流行していた韻律テキストとの関係はどうなるのかしら、と気になる点も多いが、もはや私の好奇心の外にあること(偽りの好奇心と呼ばれるであろう。)と割り切って終わりにしましょう。



viderunt omnes(ヴィデールント・オムニス)「地上のすべての国々は見た」

・ここで2人の作成したオルガヌムを、videruntを例に見てみることにしよう。この曲は先ほど少し見たが、主の降誕(12/25)のミサと、主の割礼の祝日のミサにおいて歌われるグラドゥアーレ(昇階唱)であり、始めに独唱者(先唱者)が歌い、合唱が続くのだが、その独唱者が担当した歌詞の部分だけが、多声化されてオルガヌムとなっている。

  「Viderunt omnes」(地上のすべての国々は)
[オルガヌム]
Viderunt omnes(地上のすべての国々は)
[聖歌隊合唱]
fines terrae salutare Dei nostri:(我らの神が使わした救済を見た)
jubilate Deo omnis terra.(世界よ主を賛美せよ。)

[オルガヌムによる詩編1句(詩編98より)部分]
Notum fecit Dominus salutare suum:(主は約束の救済を知らせ)
ante conspectum gentium revelavit(人々の前に示した)
[聖歌隊合唱]
justitiam suam.(自身の正義を)
[始めに戻り、オルガヌム]
Viderunt omnes(地上のすべての国々は)
[聖歌隊合唱]
fines terrae salutare Dei nostri:(我らの神が使わした救済を見た)
jubilate Deo omnis terra.(世界よ主を賛美せよ。)



・冒頭部分のオルガヌムは、もちろん元の単旋聖歌を多声化したものだが、その単旋聖歌は下のようにシラブル型で始まって、最後の「オムニス」の所でメリスマによる旋律修飾が付けられた形になっている。
videruntの単旋律聖歌開始部分
・ペロティーヌスの「viderunt」冒頭において、聖歌の初め4音のは下声に長く保続され、テーノルとして上声を支える役割を担う。そのテーノルの上で上声3声が、細かく類似の進行を見せる旋律を、今日で云えば6/8拍子のリズムで、それぞれに狭い音域を絶え間なく活動し、6/8拍子の現代譜にした場合、開始の「vi」のテーノル発音部分だけで、37小節にも渡って上声の旋律が動き回る。縦の響きである和声は、不協和音から協和音への解決が効果的に使用され、しかも[不協和音-協和音]の響きのパターンを効果的に途中から変化させていく方法や、場所によって見せる声部模倣の精神や、密集した上3声の声部密度を薄くしたりする作曲方法など、現代の作曲家が創造したと云っても通用するほどの完成された様式美と音楽効果を生み出しているが、この長い上3声の冒険の旅は、さらに元の聖歌がメリスマ部分「omnes」の部分に到達すると、上声3声の進行に対して、下声の動きも活発化し、上声下声がおおよそ3/8か6/8ごとに拍節的にリズムを形成する活動的なディスカントゥス部分に到達する。このように様々な技法を駆使しつつ、一つのオルガヌム内で大きく2つの音楽的部分を形成するのだが、先ほど提示した「viderunt」全体を見て貰えば分かるように、この聖歌を1つの楽曲と見立てた場合、[開始のオルガヌム→ユニゾン的合唱→第2のオルガヌム→第2のユニゾン的合唱による短い応答→開始オルガヌムの再現→ユニゾン的合唱の再現]という、後の西洋音楽の大楽曲形式の開始を告げる、複合的な形式を獲得しているのが分かる。このためこのペロティヌスのオルガヌムは(グラドゥアーレとしては破格の)優に10分を越える作品となった。一方彼の先輩であるレオニーヌスが2声で作曲した、同じ「viderunt」の方も、やはり元聖歌の開始部分のシラブル部分が長く引き延ばされ、その上で旋律が動き回るが、ペロティヌスのシステム化された作曲方法に対して、こちらは2声の特質を生かし保続音の上で、やはり[不協和音ー協和音]関係を使用しながら非常にのびのびと自由に進行する。そして元聖歌がメリスマの部分では下声部の1音に対して、上声が2,3音という非常にリズム感の勝った部分であるディスカントゥスを形成するわけだ。このレオニーヌスの場合は、リガトゥーラの使用法が曖昧なため、このディスカントゥスの部分だけがリズムを持って歌われ、それに対して、下声が引き延ばされる部分は、自由に歌われていたのではないかとも考えられ、一方でそんな話が合ってたまるか、どっちもリズムモードが正しいのだとする一派と、精神的乱闘を繰り広げている。もちろんこのレオニーヌスの楽曲を踏襲して、レオニーヌスはさらに声部を拡大した4声のオルガヌムを作曲したわけだ。

多声のコンドゥクトゥス

・賛歌やセクエンツィア、トロープスといった新しい聖歌を使用した典礼などにおいて、例えばミサの開始に向かう聖歌隊などの移動など、聖歌隊が行進をするのに関連して誕生したらしいとされる、単声のコンドゥクトゥス。後になると一定のリズムが非常に分かりやすく、完全な典礼曲でないため、こりゃあ大いに結構だと、世俗的な曲が登場する事になったが、それと同時に典礼聖歌に全く基づかないオリジナルな多声曲として、この時期オルガヌムと共に多声音楽の重要なジャンルを形成した。少し前アクィテーンで見た「ウェルスス」もやはり、同じような楽曲である。後に13世紀前半になってから、理論家のヨハンネス・デ・ガルランディアが作曲法を書いているので、それを要約してみよう。
 「まず君はテーノルのためにとびっきりの旋律を作りましょう。それから先はオルガヌムでも同じことですが、それぞれそのテーノルに合うように、他の声部を付け加えて行きます。」
と説明され、2声かそれ以上の声部が、一定のリズムを持った音節的な詩を、同じようなリズムで共に歌う和弦的楽曲を特徴としていて、歌詞は声部が増えても一つである。韻律的なラテン語の詩による宗教的主題を持つものが多かったが、しかし典礼向きとは言えない世俗と宗教の合いの子みたいな奴で、後になると戦争勝利や、公的行事を記念するための曲も残されている。したがって、ある段階から教会の典礼から離れて行なう多声の楽曲として、モテートゥスに先んじて典礼外多声曲を始めて形成した楽曲と言えるかもしれない。おそらく後にモテートゥスより遅れて登場するトルヴェールの歌曲を多声化した多声世俗歌曲は、1つの歌詞を持ちリズムのしっかりした、コンドゥクトゥスなどの影響からより多くの源泉を得て発展したのかも知れない。この多声コンドゥクトゥスも、当時のオルガヌムと同様、基本的な響きは8度、4度、5度から成り立っていたが、一部の曲では3度が際っていて、声部交換が非常に頻繁に起きる。ただし、コンドゥクトゥス的な楽曲はコンドゥクトゥス様式と呼ばれたりしたが、オルガヌム同様1250年頃から、モテットが大流行するに頃には新しい波に飲み込まれて見向きもされなくなっていった。

ノートルダムのオルガヌム

 何時(いつ)どうして誰が始めたのかは分からないが、いつの間にか登場したモーダル・リズムは、大枠の2拍子型リズムの中に細かい3拍子リズムを抱え込む6/8拍子の精神が宿った、当時最新の長短音価による歌唱法を、どうにか譜面上に留めて確認したいという野心から登場した。ただしレオニーヌスの2声オルガヌム、純粋オルガヌムの部分には、モーダル・リズムとして体系化される厳格なモドゥス型が断片的にしか現われないものがみられ、彼の楽曲はディスカントゥス部分の音価のしっかりした歌い方と、自由で歌い手の最良任せの歌唱法の対比を楽しんでいたとも言われているが、そうじゃないという意見がたちまち沸き起こり、簡単に結論は出せそうにないらしい。
 とにかく、この新しいリズムパターンを現わすために、自由7科の修辞学に含まれる、文章における「韻律論」を応用しようと云う考えが生まれてきた。つまり自由7科の教科書である、「告白」でお馴染みのアウレリウス・アウグスティヌス(354-430)の「音楽論」に書かれた、詩における韻律の説明などを見ると、長短格や短長格など様々な韻律リズムが説明されているが、こうした詩の韻律リズムから幾つかを取り出して、すでにノートル・ダム実践されだした新しい音楽に当てはめて、譜面に表わす事にしたのである。つまり後になって正式に定められた6つのリズムモードは、ラテン語韻文の韻脚に基づいて生まれたというより、すでに実践されていたリズムパターンを譜面に残そうと考え出された可能性が強いのだが、とにかく最終的に次の6つのモードが使用された。次に示す説明の内、最後の「た」表記の例は、今日風に音楽を6/8拍子とした場合の例だが、アウグスティヌスの説明によると、詩を形成する最小の拍である「短」一つ分、すなわち下の表記なら「た」に当るものが「テンプス」と命名され、そのテンプスの一定法則による連なりが韻脚を形成するとされていた。この考えもリズムモード誕生に合わせて音楽に取り込まれ、当時の音楽の最小拍単位として「テンプス」と呼ばれ、これは後の拍子の大元になった。

第1モード→(ラ)トロカエウスの長短格「たーたたーた」
第2モード→(ラ)ヤンブスの短長格「たたーたたー」
第3モード→(ラ)ダクテュルスの長短短格「たーーーたたー」
第4モード→(ラ)アナパエストゥスの短短長格「たたーたーー」
第5モード→(ラ) スポンデウス「たーーたーー」
第6モード→(ラ) トリブラクス「たたたたたた」


 実際は長く伸ばされた音は短く区切ることも許され、逆にさらに引き伸ばすなどかなり柔軟なもので、第4の無名者も規定外のモドゥスについて述べているそうだが、大枠の6/8拍子風の精神が一定のため、ほかのモードに繋ぎ合わせる事もたやすかった。ここでちょっと振り返って、例えばギリシア叙事詩であるホメーロスのイーリアスを構成するダクテュルスの韻脚を見てみるだけでも、本来「タータタ」の連続で後半同じ長さの短2つ分でテンポ感を生み出すリズムが、モーダル・リズムにおいては「たたー」と長さを変えられていて、名称だけ踏襲しその精神を蔑(ないがし)ろにした別物になっていることが分かる。しかも例えばペロティーヌスの「ヴィデールント」を見ても分かるように、それらのリズム型は使用される歌詞から自然に導き出されるものではなく、完全に音楽のリズムをどうにか表わすために、韻律のリズムパターンが借用されただけなのである。このような借用的性格から、さらによい方法が模索されれば、惜しみなく新しい記譜法に取って代わられる運命にあるのが、ノートルダム楽派のあだ花「モーダル・リズム(リズムモード)」だった。

 ではそれは具体的にどのように表わすのだろうか。パリ大学のヨアンネス・デ・ガルランディアが1240年頃に記した「計量(計る事の出来る)音楽論 De mensurabili musica(デ・メンスラビリ・ムジカ)」など、後の理論書から取り出してまとめてみよう。この時期は音譜を表わす譜線が4本から5本線で表わされることが一般化し、記入される音符はネウマ記号を元に単純化して表わされた2種類の記号が使用された。まず黒塗りの四角■から棒が伸びた音符をヴォルガといい、今の4分音符では線を下に伸ばすときは●の左下に棒が伸びるが、このヴォルガでは右下に棒を付けることになっていた。今日では棒の伸びる音の方が、棒無しの2分音符などよりも短い音符を表わすが、当時は逆に棒の伸びた方が長い音価を表わすことにされていた。その短い方のもう1つの記号として、棒線の付かないただの四角■をプンクトゥスとして表わす。これらは元々単旋律聖歌を歌うためのネウマ譜の記号であり、その違いは音の長短ではなく、声を強く歌うか落として歌うかを表わす記号だったのだが、恐らくレオニーヌスやペロティーヌスが活躍した頃から次第に音の長短を表わすようになり始め、ガルランディアの頃にはヴォルガの方が長い音価を、プンクトゥスの方は短い音価を現わすようになって、それに合わせて次第に[■+棒]のヴォルガがロンガ(長い)と呼ばれ、[ただの四角■]の方がブレヴィス(短い)と呼ばれるようになった。ただしノートルダム楽派の音楽が栄えた12世紀後半頃には、まだ音価の違いは確立されてはいなかったらしい。
 したがって、もっと後の完成した段階をやはりガルランディアの理論書から見ることにしよう。彼も詩の韻律から借用して音の長さの基準である「テンプス(時間)」を定義しているが、これはさらに後に「タクトゥス(拍)」(つまりタクト)と呼ばれるようになっていく。そして基準となるテンプスを三位一体に掛け合わせて3つで一つの単位とし、この3拍からなる計量単位は、完全(羅パルフェクツィオ)なものと讃えられた。しかし実際は長いロンガと短いブレヴィスの音符しかないところに、3つ分の長さを基本単位としたのだから苦しい。散々苦しみながら、単独音符で記入する場合はおおよそ次のようになった。


ロンガが続けて記載
→テンプス3つ分であるロンガの長さの音が続く
ブレヴィスが続けて記載
→テンプス1つ分であるブレヴィスが続いていく
ロンガとブレヴィスの交代
→ロンガの方をブレヴィス2つ分として長い方と考えると旨く行く
2つのロンガの中に2つのブレヴィス
→ロンガは両方ともブレヴィス3つ分ずつのばし、真ん中のブレヴィスは初めの方をブレヴィス1個分、ただし2つ目の方はブレヴィス2個分で歌う。この時本来の音価の倍になる読替を「アルテラツィオ」という。


 このように相対関係によって記号の音価が変化するので、これによる音楽の記譜の仕方を「計量(計ることによって表わされる)音楽」と呼ぶのだそうだ。ノートルダム楽派のモーダル・リズム記譜法では、引き延ばされるテーノルはこの方法で記譜され、一方それ以外の声部はこの方法では表現不可能なので(?)、リズム・モードという韻律リズムを借用して音楽のリズムを提示するようになっていった。これも譜面の上にリズムモードを数字なりアルファベットなりで表わせば楽な所を、リガトゥーラ(ラ)ligature(集められたもの)を使用してその部分のリズムモードを表わした。リガトゥーラというのは、やはり聖歌のためのネウマ譜から来ている遣り方で、歌詞の一つの発音に対して幾つかの音符をメリスマ的に使用する場合、例えば「かまぼこ」の「ま」の所で3音変化させたいような場合に、「ま」の歌詞の当てはめられた3つの音符を団子三兄弟のように棒などを使って、また直に音符同士を繋ぎ合わせることによって、連結物とする遣り方のことで、これを本来の発音の区切りとは関係なく、ただリズムモードを表わすために使用するという、はたから見ると非常にややこしい遣り方でリズムを表わした。つまりノートルダム楽派のオルガヌムに置いては、特に上声の歌詞の一つの発音が長く引き延ばされて母音唱法のようになるため、比較的発音と関係なくリガトゥーラを使用しやすかったのであるが、その遣り方は例えばこんな風になる。

始めに3個音符が連結したリガトゥーラ→続いて2個ずつ繋がるリガトゥーラが連続していく
→初めの3つ連結は(長-短-長)を表わす事にして、2個ずつの方は(短-長)を表わす事にすると、(長-短-長-短-長-短-長-)と続いていく第1モードの意味になり、それぞれのリガトゥーラの指し示す音高を第1モードに合わせて、各音価を長短させながら歌うことになる。
一方始めからずっと2個連結リガトゥーラの連続
→(短-長)連続の第2モードで歌う。
始めに単独のヴォルガをおいて、その後3音連結のリガトゥーラ連続
→この場合は初めのヴォルガは完全なものとしてテンプス3つ分音を伸ばし、3音結合は(短-短-長)を表わすのだが、さらにこの短の2個目が2倍音価(それじゃあ長じゃねえか・・・涙。)になったとこじつけることにより、この3音を「たたーたーー」と読むことにして、初めからのリズムでは結局「たーーーたたー」の第3モードで歌っていく。・・・というより、冒頭にこの形が現れたら理由もなく第3モードだと覚えて歌っていくといった感じかもしれない。

 とにかく、リガトゥーラで読み解くリズムモードに基づいて、彼らの譜面は今日残されているが、ペロティーヌスの作品ではこれで読み解く事が出来るものの、レオニーヌスの作品において、一音伸ばされるテーノル(主旋律)の上で旋律駆けめぐるというオルガヌム様式の部分は、全くこの遣り方では解決しないのだそうだ。そこでレオニーヌスの時代にはオルガヌム様式の計量されない部分と、ディスカントゥス部分(両方が一定のリズムで共に動く部分)の計量されたリズムを持つ部分を対比させたのだとか、そうじゃあない、彼らにはリズムが分かっていたからそれで十分だったとか、何しろまだまだ記譜法が発展中だとか、いろいろな説が出て解決しないので、自分で歌うわけでも、当時の楽譜を読み解きたい心持ちも無い私は、この辺でドロップアウトします。さようなら。

ノートルダム以降

 さて、レオニーヌスとペロティーヌスの生み出したオルガヌムは、特定の典礼で使用するための典礼曲だったが、一方この時代典礼の外で発展した多声曲として、コンドゥクトゥスがある。ノートルダム楽派の音楽の中でも重要なウェイトを占め、典礼の外で演奏する宗教的な多声曲や、戦争勝利や王室の事柄を歌い宮廷などで歌われたり、聖職者が典礼から離れて行なうある種の楽しみを担っていたと考えられるが、非典礼多声曲のジャンルは、その後モテートゥス(羅、英語ならモテット)に取って代わられた。
 モテートゥスmotetus(モテットmotet)というのは、典礼で次々に作曲されるクラウズラの第2声部(ドゥプルム)に勝手に典礼から離れたラテン語歌詞を付け加えて、大いに楽しんでいる内に誕生してしまったと言われ、恐らく13世紀の前半の何時(なんどき)かに、教会付属学校の聖職者予備軍達や聖歌隊員がやんちゃをして、クラウズラの声部に勝手に歌詞を加えて楽しんでいる内に、次第にフランス語の歌詞を使用してみたり、楽しみが高じて我慢できなくなって、ついには彼らの範疇を越えて広がり始め、取り返しの付かない大ブームを巻き起こしてしまったのだ。彼らは始め次々に新作されるクラウズラに対して、新しく歌う楽しみのついでに替え歌を思いついたのか、元の聖歌部分の歌詞と旋律をそのままにして、最上声ではなく、一つ上のドゥプルム声部に歌詞を付け加えたので、何時しかその声部はフランス語で「言葉」を意味するmotの縮小型であるmotet(モテット、つまり小さな言葉とか、短い言葉とか云う意味か)と呼ばれたり、同様のラテン語でmotetus(モテートゥス)と呼ばれるようになったが、たちまちのうちにそのようにして作られた楽曲自体を指すようになってしまった。なぜ最上声ではなく、ドゥプルム声部なのかは分からないが、こっそり内声を替えて楽しんだと言うよりは、元の聖歌がテーノルにあるように、下声側から旋律の重要度を考える癖があっただけかもしれない。または元々2声のクラウズラに歌詞を付けたのが始まりなのかも知れない。ここでクラウズラ自体が新たに作曲して構わないものだったために、とうとう他のトリプルムやクァドルム声部にも、モテートゥス声部とさらに異なる歌詞を付け加える頃には、次第に旋律自体も新しく創作するという知的な遊びが始まってしまった。こうしてテーノルに元の聖歌の由来がある以外は、完全に独立した楽曲となったモテートゥスは、無頓着に大発展を遂げ、コンドゥクトゥスを追い出して、元の定旋律以外は歌詞も旋律も創作される非典礼的な、というか時に徹底的に世俗的な多声楽曲として、13世紀中に一躍音楽史のトップに躍り出てしまったのだ。ここに至ってこの愉快な楽曲はカルテェラタン地区の大学生達や、さらにはトルヴェールなどの歌い手達の間にも広がり、あらゆる種類のモテートゥスが生み出されることになった。したがって同時に典礼曲として教会で歌われるべきレオニーヌスやペロティーヌスの作品が、13世紀中継続して歌われていても何の不思議もないのである。

新しい記譜法

 こうしてあらゆる旋律に歌詞が付けられるモテートゥスになると、もはやリズムモードをリガトゥーラで代用させるようなまどろっこしい遣り方は我慢ならなかった。第一歌詞が付いたら、一つの発音で音符を替えるというリガトゥーラの用法と矛盾が生じてしまう。13世紀はまさにアリストテレースの哲学がパリ大学を賑わした時代である、新しい知的好奇心がすぐさまもっと合理的な記譜法を生み出すことになった。これをアルス・アンティカの記譜法と呼ぶのだが、まあそれについては次回のお楽しみというわけだね。

2005/06/07
2005/07/28改訂

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