4-1章 アルス・アンティカの13世紀

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改めて復習も兼ねた世界史

 目出度くノートルダム学派に辿り着いて13世紀に突入した音楽史に合わせて、13世紀の各国の様子をざっと覗いてみることにしよう。まずフランスでは、カペー朝の領土拡大と同時に政権強化を果たしたフィリップ2世(在位1180-1223)が、ちょうどノートルダム楽派の時代に君臨しているのは何度も見たが、彼は神聖ローマ帝国皇帝争いと絡んだ「ブーヴィーヌの戦い」に勝利し、1214年見事イングランドのジョン王(在位1199-1516)を負け犬に仕立て上げて見せた後、ノルマンディー・アンジューなどすでにイングランドから奪っていた領土を完全に手中に収めた。この時フランスと手を組んだ神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家(あるいはシュタウフェン家)フリードリヒが、翌年1215年にフリードリヒ2世(在位1215-1250)として皇帝に就任するのである。負けに負けたイングランドのジョンは、戦費負担に怒り狂う貴族達から、「失地王」の名に恥じない反乱を食らって、「マグナ=カルタ(大憲章)」(1215)を認めさせられたが、教皇様にこれを無効と宣言して貰って、おまけに反対貴族達を破門して頂いて、お陰でさらに内乱が盛り上がって戦時中に病気でなくなってしまった。その後、「負け犬の子は負け犬」の名に恥じないヘンリ3世(在位1216-72)が、引き続き「マグナ=カルタ」を無視すれば、シモン=ド=モンフォール(c1208-65)達貴族が立ち上がり、王を捕えると、1265年になって大貴族と聖職者の会議に地方小領主と都市市民代表を加えた全体会議を招集、このシモン=ド=モンフォール議会が、後のイギリスの下院の始まりだとも言われている。しかし彼は皇太子エドワードに見事敗れ去り、エドワード1世(在位1272-1307)は1295年に模範議会を招集。彼もモンフォールを踏まえて、大貴族や高位聖職者の議会に、州ごとの騎士2名ずつと都市代表市民2名ずつを参加させて、次第にイギリス式議会が形成されていくのだった。そしてエドワード3世(在位1327-77)の時ついに大貴族・高位聖職者の上院と、騎士・市民代表の下院からなる正式な議会が発足し、課税には下院の承認が必要だと定められた。よっしゃと思っていよいよ大陸側勢力を確保すべく、フランドルとギエンヌの利権を目指して、フランスとの百年戦争が開始するのもこのエドワード3世の時だ。
 フランスの方に話を戻すと、フィリップ2世はイギリスに大勝利を収めた後、南フランスに勢力を拡大。カタリ派の一派として南フランスに拡大していたアルビジョワ派という異端宣告を受けたキリスト教一派を討伐するアルビジョワ十字軍(1209-29)を開始した。彼はその途中に亡くなったが、12歳のルイ9世(在位1226-70)が即位すると40年以上に渡って活躍し、まず母上の摂政時代にアルビジョワ派は完全に討伐された。このアルビジョワ派というのは、マニ教の影響を受けて、現世は苦しみ満ちるものと考え、地獄の否定から、一歩進んで自殺の奨励にまで至る、確かに異端的精神溢れるキリスト教一派だった。このアルビジョワ派が、南フランス独自の精神世界と一致したものか、領主層にまで広まって非常に大ブームとなっていたのだが、このアルビジョワ派討伐によって南フランス一帯が荒涼し、やせ細った諸侯達は次々にカペー朝に屈服することになった。こうしてしてやったりのルイ9世だったが、トルバドゥールの自由精神漲る半ば独立気味の南フランスの豊かな独自文化は、こうしてアルビジョワと共に葬り去られたのである。続いてルイ9世は、イングランド国王ヘンリ3世とパリ条約(1259)を結び、ノルマンディー・アンジュー・ポワティエなどの領土の正式獲得を条約で終結し、代りに葡萄とワインで重要なボルドー地域であるギュイエンヌ地方をイングランドに正式に手渡し、これをもって紛争を解決し、安定した治世を行なったが、ついうっかり第6回と第7回の十字軍を自ら組織し、その第7回の最中にアフリカのテュニスで帰らぬ人になってしまった。
 一方、「ブーヴィーヌの戦い」のお陰で皇帝になったホーエンシュタウフェン朝(1138-1254)の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1215-1250)は、シチリア王国の王妃を母とするだけあって、生粋のシチリアっ子だった。つまりシチリアからイタリアを通ってドイツに連なる帝国建設を夢見て、教皇と結びついた北イタリア都市同盟であるロンバルディア同盟と、イタリア政策の泥沼的闘争を繰り広げ、支持を得るためドイツ諸侯に大幅な特権を与えたために、帝国内では南に下りっぱなしのフリードリヒ2世の影はすっかり薄くなってしまった。こうした皇帝一味(ゲルフ)教皇一味(ギベリン)によるイタリアでの抗争が、この後も長く続いていくことになる。しかしこのフリードリヒ2世、さすが後のプロイセン大王フリードリヒと同名だけあってなかなかすぐれた人物で、シチリア王国での内政を効率的に運営し、第5回十字軍では戦わずしてイェルサレムを回復して、逆に教皇様から異教徒の友達として白い目で見られたり、なかなか楽しい君主様だったのだ。しかし彼の死後程なくしてホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、ドイツ諸侯達はわざと国内に来れない異国のお方に皇帝を任せたり、対立皇帝を事実上皇帝無しの大空位時代(1256-73)を楽しんだ。少し覗いてみることにしよう。
 フリードリヒ2世の死後、次男のコンラート4世(在位1250-54)がドイツ王(教皇に戴冠されると始めて皇帝)の後を継ぐと僅か4年でお亡くなり、彼の息子達は地中海帝国を夢見るカペー家のシャルル・ダンジュー(1227-1285)によって殺されて、ホーエンシュタウフェン家は断絶と相成った。またホーエンシュタウフェン家に不満のあった諸侯達が選んでいた対立国王ホラント伯ヴィレム(在1247-1256)も1256年に亡くなったので、その後皇帝不在の帝国内部では権力闘争が続けられ、次の皇帝ルドルフ1世が登場するまでの大空位時代を迎えることになったという。1257年の国王選挙ではカスティーリャ王国国王アルフォンソ10世(在位1251-1282)と、イングランド国王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャード(リチャード・プランタジネット)がそれぞれ皇帝候補者として推選される始末。このうちアルフォンソ10世は国内事情と教皇反対があり、リチャードは1264年にシモン・ド・モンフォールとの戦いで兄ヘンリー3世と共に破れたのが原因でドイツ諸侯から見放された。その後ボヘミア王国を大勢力に仕立て上げたオットカール2世(オタカル2世)が皇帝に押されたが、最終的にドイツ諸侯は弱小勢力のハプスブルク家から皇帝を出すこととしてようやく、1273年にドイツ王ルドルフ1世(在位1273-1291)が登場することになった。彼はよくもと怒り来るオットカール2世を撃退し、ハンガリーと挟み撃ちの形で苦しませて、オーストリア付近のボヘミア領土を奪い返すと、1278年のマルヒフェルトの戦いで息の根を止め、自らオーストリア公を兼任して首都をヴィーンに置くことにした。彼は教皇から正式に神聖ローマ帝国皇帝の戴冠を得ることは出来なかったが、やがてハプスブルクが神聖ローマ皇帝を世襲する一番狼煙を上げたのだった。しかし、この大空位時代の結果として、以後有力諸侯達が皇帝を選出するのが当たり前の状況に陥ってしまったという。
 さて、このように13世紀の政治をざっと見てみると、どうも定期的に十字軍が登場してくるので、改めて十字軍について概観してから、音楽史に移ってみようじゃないか。

十字軍の時代

 スペインでのレコンキスタも沸き上がり、ヨーロッパ社会全体が拡大の熱気に溢れる頃、東方ビザンツ帝国から使者がやって来た。当時中東方面では、セルジューク朝トルコが1055年にバグダットに入城を果たし、トルコ系イスラーム王朝の漲る力で、1071年マンジケルトの戦いでビザンツ帝国に大勝。小アジアを占領しつつ、帝国に圧力を強めていたのである。恐れおののいた東の皇帝アレクシウス1世コムネノス(在1081-1118)は、時の教皇ウルバヌス2世(在1088-1099)に対して救援を養成し、その使者が今まさに到着したのだった。この使者がウルバヌス2世にセルジューク朝のトルコ人達が巡礼者を迫害することを説き、「彼らに勝てば戦略上美味しとは思いませんか、イスラエルを支配下に納めて、一緒に貿易の拠点を築こうじゃないですか。」と云ったかどうだか、教皇も大いに心を動かされた。もちろん貿易の美味しさに気づいてしまったイタリアの荒くれ商人達も大いに乗り気で、一方民衆の間だではまさにキリスト教の熱気が高まっているところ、王侯騎士達だって騎士道の精神に則って名誉と戦利品の実が伴えば、決して嫌とは言わないだろう。使者が帰るとウルバヌス2世は偉大な宗教心からか、あるいは世俗の力が漲ったか、深い考えがおありなさったのか、1195年に南フランスのクレルモンで開いた公会議において、「イェルサレムを奪還するのです、今すぐにです。」と叫び声を上げた。呼びかけた途端に、歓声が帰ってきた。会議参加者どころか、十字軍の呼びかけはヨーロッパを駆けめぐり、つい先走った修道士ピエール(1050~1115)などは、北フランスでかき集めた民衆と共に勝手にイェルサレムに向かい、天晴れ玉砕して朽ち果てたので、今日では民衆十字軍(1096~97)などと呼ばれている。
 一方正規の軍隊の方は、1096年に目出度く第1回十字軍(1096-99)が、東方に向けて出発することになった。この第1回目はセルジューク朝の内乱的混乱に乗じて軍を進め、アンティオキア公国(1098~1268)、エデッサ伯国(1098~1146)と領土を獲得し、1099年ついにイェルサレムを奪還すると、熱気が高じてほとんど発狂状態に陥ったヨーロッパのキリスト教達は、イスラームの人々7万人あまりを虐殺なさって、その血を持ってキリストを讃えたという。キリストはそんなことを望んではいなかったのに。こうしてイェルサレム王国(1099~1291)が誕生したが、皆満足して多くが西に向けて帰っていったので、聖地を守り戦い祈る修道兵士達、つまり騎士団が幾つも生まれ、十字軍と聖地保守に大いに活躍することになる。中でも第1回の時設立したロードス島のヨハネ騎士団、1119年に立ち上がったテンプル騎士団、第3回の国王三羽ガラス十字軍の際に生まれたドイツ騎士団などが重要な役割を果たし、騎士団三羽ガラスを形成した。しかしようやく勢力を盛り返したセルジューク朝の巻き返しはすさまじく、それに対する第2回十字軍(1147-49)は、のこのこ付いてきてルイ7世の邪魔をするアリエノール・ダキテーヌのためか大失敗をして、1187年にはアイユーブ朝を興したサラディン(サラーフ=アッディーン)(在位1169-93)によってイェルサレムが奪い取られてしまった。これに対する第3回十字軍(1189~92)こそ、前に見た3人の国王参加する三羽ガラス十字軍で、特にリチャード獅子心王とサラディーンの宿命のライバル的な渡り合いは、1192年の巡礼者への安全条件の和解に到達して、互いに一発づつ相手の頬を殴り合うシーンは、後の学園ドラマの先駆けとなった。(そんなシーンがあってたまるか、利家と松じゃあるめえし。)そして帰途に就いた獅子心王が、うっかり捕われ人になったことは、今更言うまでもない。
 続く悪名高き第4回(1202-1204)は偉大な太陽教皇インノケンティウス3世(位1198~1216)の時に打ち立てられ、絶えずヴェネツィアの思惑に流されて、結局ビザンツ帝国の後継者問題につけ込む形で、教皇に破門されながらビザンツ帝国を攻略してしまった。そしてラテン帝国(1204~61)を建設しビザンツ帝国は泣きながらニカイアに亡命王朝を立てて断絶を防いだ。一方では、羊飼いエティエンヌ少年の幻視に心奪われた少年少女だけの十字軍が1212年に暴発し、そのまま乗ったお船につれられて奴隷として売り飛ばされる事件も発生。この時のエティエンヌ少年の「無駄死にではない」の一言は、遠くインノケンティウス3世の耳元にまで届き、涙を誘ったのかもしれない。続く第5回(1228-29)は戦争を不毛とし平和的文化交流に意義を見いだしていたフリードリヒ2世(位1215~50)が、何度も教皇から脅されて渋々出発した十字軍だった。彼はアイユーブ朝の内乱に乗じて一線も交えず、外交によってイェルサレムを回復、10年間の休戦を結んだために、イスラームと手を取り合う魔物皇帝かと罵(ののし)られた。その後再びイェルサレムはイスラームに奪われ、奪回を目指す最後の2回は新しいヒーロー、「聖王」の名で知られるフランス国王ルイ9世(在位1226-70)が最後に見せた、「切ない十字軍」の様相を呈した。つまり南フランスのキリスト教異端アルビジョワ派に対する十字軍であるアルビジョワ十字軍(1209-29)で徹底的に彼らを抹殺したルイ9世だったが、単独で起こした第6回十字軍(1248-54)では、見事エジプトのカイロ捕虜になり、莫大な身代金を持って釈放され、まだ諦め悪く第7回十字軍(1270)に出発して北アフリカ経由でテュニスを攻略したら、中途半端に病に倒れて、十字軍の旗は折れた。これは、兄ルイ9世を説いて第7回十字軍を自分に敵対するアフリカのチュニスに向けさせた、シャルル・ダンジュー(1227-1285)のイタリアからビザンツに至る帝国の夢が関わっているが、この13世紀のお騒がせ人物については、次のサイトを読むのが有用である。

「The Purple Chamber」
の中にある「ヨーロッパ・ビザンツの論文」
さらに、「ニカイア亡命政府」について

 十字軍の最後について、簡単に述べておこう。すでにアイユーブ朝を滅ぼしたマムルーク朝(1250-1517)がイスラーム支配権を拡大していたが、この王朝によって1291年に最後の十時軍拠点であったアッコンが陥落し、十字軍の時代は幕を閉じたのだった。

アルス・アンティカ(Ars antiqua)の時代

 オルガヌムの大楽曲が生み出されモテートゥスが離陸を成し遂げたノートルダム楽派以降の時代は、場合によってアルス・アンティカ(Ars antiqua)の時代と呼ばれることがある。これは当時の人々が自ら付けた名前ではなく、後にアルス・ノーヴァという言葉が生まれたときに、ある者達がそれ以前の音楽をアルス・アンティカ、つまり「古い技法」で書かれたものだと言い放った時に生まれた概念だが、後になって学者が分かり易くて良いじゃないかというので、この時代の音楽をアルス・アンティカと呼ぶことにしたのだ。折角の提唱だから、ここでもそれに従っておこう。ただし、アルス・アンティカとアルス・ノーヴァは、作曲技法の発展と歌詞の洗練や定型の使用などに変遷があるが、実際はルネサンス時代の前期後期とか、バロック時代の前期後期のような関係で、作曲様式や楽曲形式的にも本質的に異なる精神よりも連続的な発展であり、少なくともそれ以降の時代区分をルネサンス、バロック、古典、ロマンと置くならば、続くアルス・スブティリオールも含めて、一つの名称で括ってから、細かく3つのアルスに分類した方が良さそうな気もする。ただし、そう云ったら古典派とロマン派も一つにしろと云うことになってしまうかもしれないので、まあ、気にせずこのまま行きましょう。

アルス・アンティカの音楽

 13世紀中のモテートゥスは重要な5つの写本に納められて今日に残されているが、もちろんそれは運良く後世に残った数多くの歌曲のほんの一部なのだろう。まず13世紀末ライン川中流のケルン辺りで記されたかもしれない「バンベルク写本」は、13世紀初頭のモテートゥスが多く記入され、一方イタリアのモンペリエ大学の手に渡った13世紀末頃編纂の「モンペリエ写本」では、次第にモーダル・リズムの記譜法からケルンのフランコ式の計量記譜法に移り変わる様子を見て取ることが出来る。さらに中世スペインの(文化だけの)賢王としてお馴染みのアルフォンソ10世(在位1252-84)との関係も噂される、北スペインの「ラス・ウエルガス写本」があるが、この賢王はスペインの世俗歌曲であるカンティーガ(歌、歌曲)と呼ばれる単旋律歌曲において、聖母マリアの数々の奇跡を讃えるためのカンティーガ集を編纂したことで知られている。したがって「ラス・ウエルガス写本」も、「聖母マリア様の御心ってすっごく暖かい!」と叫んでしまうような高貴な賢王アルフォンソ10世の、フランス方面特にパリへの好奇心が、このようなモテートゥス写本を生み出してしまったのかもしれない。他にも写本がある。「中世のアルトゥージ」ことジャック・ド・リエージュでお馴染みの都市、リエージュで作成された可能性のある「トリノ写本」、そしてパリ周辺で書かれたらしい「ラ・クライェット写本」がそれだが、この最後の写本は「すのこ写本」という日本語訳で誰にでもよく知られている。(・・・誰が、そんなこと知ってるんだ。)
 こうして、13世紀前半にパリで誕生したと考えられているモテートゥスは、この13世紀音楽を記録した数々の写本がヨーロッパ各地で残されていることから、民衆と騎士と聖職者の流通に乗せて、広い範囲で流行しただろうと考えられている。もちろん、このモテートゥスが当時の音楽的生活の中心だったわけではない。各地ではそれぞれ民衆の歌があり、自国の単旋律の世俗歌曲があり、ジョングルール達の音楽もあり、教会では典礼の中に即興的な多声音楽の技法があり、もちろんグレゴリオ聖歌が教会に響き渡り、宮廷での器楽音楽だって大いにあったかも知れない。そして中世どころか古典古代から途切れることはなかったであろう踊りのためのミュージックは、民衆的なもの宮廷的なもの様々あって、様々な機会に使用されていた。ただしほとんどの場合音楽は、その場の消費物であり、残されるべき作品特別な作品やジャンルでないと、その時の音楽として記譜されることは無かった。そのため今日となっては、写本に残されたモテートゥスを持って、音楽史を構築するしか無いわけである。恐らくモテートゥスのような作品は、歌詞の内容に関わらず、最も挑戦しがいのある知的ジャンルとして、特別な意味を持っていて、実際は中世の音楽活動の内でも、例えば今日における現代音楽と呼ばれるジャンルのような、あらゆる音楽活動全体のごく一部に過ぎなかったと思われる。
 これらの写本に収められている楽曲を見ると、もはや上声が自由に作曲され、テーノルは完全に礼拝との関係を絶ち、単なる楽曲の素材となり果てているのが分かるが、それでもなお聖歌に由来するテーノルが使用され続けた。しかし上声に世俗の詩を持つようなものは、ラテン語のテーノルを歌う必要性はまるでなかったため、例えばテーノルが楽器で奏されたことがあっても差し支えない。1250年以前の曲を集めた「ラ・クレイエット写本」(すのこ写本)には、上声がラテン語とフランス語を使用し、しかも3種類異なった歌詞を持つという驚異的な4声の作品も見られるが、旋律進行や歌詞の煩雑さの問題から、一般的には13世紀半ばには3声書法がほぼ標準になっていて、モテートゥスのオーソドックスなスタイルとして一般化した。ちなみに芸大和声の教科書においても、4声より3声の方が旋律の自由度が増すとして、4声和声課題を3声で行なう課題が織り込まれているぐらい、3声は旋律の柔軟さに長けている。これは旋律同士の行動範囲の問題なので、機能和声に則っていない中世の作曲でも同様である。
 13世紀後半のヨハンネス・デ・グロケイオ(13世紀後半活躍)ジャック・ド・リエージュ(ラテン語ヤコブス・レオディチェンシス)(c1260-1330以後)の著述などを見ると、モテートゥスは教養人のための音楽だと書かれているが、同時にこれらが大衆にも流入していたことも分かる。はたして幾つもの歌詞を同時に歌うという精神が、最高知的音楽としてのモテートゥスの歌詞を聞き分ける知的挑戦の意味合いもあったのか、ただ自らが一緒に歌う目的で発展したため、聞いているものの立場とは関係なく発展したのかは分からない。しかし、完成度の高いモテートゥスには明確に一緒に歌われるときの音楽的、もしくは絡み合う詩の効果などを考慮した作品があり、誕生がどうであれ、様式化された後には聞いたときの効果が考慮された、知的な創作物になっているのもの多い。(もちろんいい加減なものも、もっと多いが。)歌詞が猥雑であったり、露骨で下品に見えたりするのに、作曲技法が理論的な作品は、まさに大学から生まれたような産物であり、聖職者になる気のない、知的好奇心と酒と女に命を懸ける、大学生達の漲る猥雑と活気が楽曲になったような曲があれば、庶民的男女の愛の遣り取りや嫉妬や浮気を風刺した歌詞もあり、一方では宮廷の愛に生き甲斐を見いだす、トルバドゥール、トルヴェールの伝統を持つ宮廷歌曲のような詞もあり、歌われる内容は様々だった。そして全体の傾向として、1250年頃から2つの上声に付ける異なった歌詞を、話題の点で関連を持たせてモテートゥスにする方法が好まれるようになり、対してテーノルの出典は1275年を過ぎると、ますます元のノートルダム楽派の曲集以外から取られるようになっていくという。次第に聖歌以外の舞曲や世俗歌曲の定旋律も顔を見せ、同じリズムパターンを繰り返すアイソ・リズムという方法や、テーノルを何度も繰り返し後のオスティナートのように扱う例など、大いに発展しつつ、音符の細分化なども進行し、やがて14世紀に入るくらいには、より新しい技法(アルス・ノーヴァ)と、古い技法(アルス・アンティカ)が区別されるに至ったが、それはまたの話としよう。
 ただし、モテートゥスだけが、多声音楽だったのでは全くない。多声のコンドゥクトゥスは、まるきり消えてしまった訳ではないし、なにより教会内で聖歌を多声で歌うという、オルガヌムが独立曲になるきっかけとなった伝統は、この後もルネサンス期に至るまで、聖職者達によって実践されていくことになる。さらに、多声で作曲する歌の技法が巷に流れ出した時点で、やがてトルヴェール達が自らの世俗歌曲をポリフォニーで作曲するのは時間の問題だった。例えばアラース出身のアダン・ド・ラ・アル(Adam de la Halle)(1245/50頃-1285/88頃、あるいは1230-c1300か?)は最後のトルヴェールとも云われ、パリ大学に学びアルトワ伯に使えた知識人型トルヴェールだったが、彼はトルヴェール歌曲を多声化して、16曲のロンドーが今日まで残されている。これらのロンドーはトルヴェール歌曲を多声化した初めての例だと考えられてていて、様式的には多声コンドゥクトゥスのような和弦的リズムで進行するそうだ。そして彼の名声は何より牧歌劇「ロビンとマリオンの劇」で知られているから、「13世紀のギョーム・ド・マショー」という名称を与えても構わないかも知れない。そして、彼はモテートゥスにおいても5つの作品が、アダンの作品として残されているのである。彼に続く宮廷歌曲の多声作品は、アルス・ノーヴァの時代に入ってしまうが、トルヴェールとして活躍を開始していたジャンノ・ド・レスキュレルという若者も、31曲の単旋律歌曲と共に1曲の多声トルヴェール歌曲を残している。しかし彼は聖職者にあるまじき罪を犯した背徳罪によって、1304年に公開の絞首刑にされてその才能を絶たれてしまったのだ。いったい何をやらかしたものか。ちなみにその歌曲の歌詞は非常に短く、「甘く優しい恋人よ、あなただけに、私は自らの心を捧げました。もう、取り戻せないその心を。」といったものであった。

その記譜法

 リガトゥーラにより導き出すリズム・モードから脱却した、今日のように独立した音符自体の長さの違いによって完全に音楽を表わす方法は、この時期モテートゥスと共に誕生した。すでにロンガとブレーヴィスの音符を用いて、音の長短を表わしていたノートルダム楽派のテーノル声部の技法だが、これが発展して理論化され、当時の音楽を表現できる記譜技法にまで到達したのである。これは、一層新しい技法で作曲し譜面を記す後の人々によって、アルス・アンティカすなわち「古い技法」と呼ばれるようになった。その記譜法は随時発展を遂げ、また地方ごとの違いなどもあったかも知れないが、13世紀半ばのヨハネス・デ・ガルランディアの「計量音楽論」や、1270年頃のマギステル・ランベルトゥス(偽アリストテレースと人々から呼ばれた)の「音楽論」、さらに最も完成度の高いとされる1280年頃にケルンのフランコが記した「計量歌唱法Ars cantus mensurabilis(アルス・カントゥス・メンスラビリス)」にまとめられているので、少しばかり覗いてみましょう。
 ■(四角形)の音符で表わされるブレーヴィス(短い)を、基本的な音の単位、つまり「テンプス」として、これが3つ集まって今日云うところの1小節単位を形成する。このブレーヴィス3つ分をロンガ(長い)の音符、つまり■の右下に棒が突き出た、左側にたなびく黒旗音符で表わし、このロンガは■ブレーヴィスを3つ含んでいるから、「完全なロンガ(ロンガ・ペルフェクタ)」と呼んだ。一方、ブレーヴィスとロンガを組み合わされて使用する場合には、前に見たようにロンガがブレーヴィス2つ分になることがあり、この場合「不完全なロンガ(ロンガ・インペルフェクタ)」と呼ぶ。さらにアルス・アンティカの頃には、テンプス(つまり■ヴレーヴィス)6個分に相当する「2倍のロンガ(ドゥプレクス・ロンガ)が登場。また、例えば両側にロンガがあって挟まって2個のブレーヴィスがあるような場合、両側のロンガがヴレーヴィス3つ分ずつになるのに対して、2個のヴレーヴィスもロンガと同じ長さを持たせるために、2つ目のブレーヴィスが2倍の長さになり、いわば「タター」のリズムを形成するので、ブレーヴィスの音価も2種類あることになる。したがって、通常のテンプス1つ分のブレーヴィスを「本来のブレーヴィス(レクタ・ブレーヴィス)」と呼び、2倍に伸ばされたものを「2倍のブレーヴィス(アルテラ・ブレーヴィス)」と呼んだ。さらにテンプスはブレーヴィスにあるものの、それより細かい音符も登場し始め、セミブレーヴィスと呼ばれたが、これもブレーヴィスと同様通常のものがブレーヴィスの1/3の長さの「より小さいセミブレーヴィス」(セミブレーヴィス・ミーノル)で、2倍化されたものを「より大きいセミブレーヴィス」(セミブレーヴィス・マーヨル)と命名した。
 これらの音符の配列によって幾つものリズム定型が登場して、これこれこのような音符配列の場合には、このようなリズムで行なうべしと定められていった。さらに音を休むところには短い縦線による休符が登場し始める。こうして生み出される基本的なリズムの他に、音符と音符の間に休符の縦線と似たような短い線を加えることによって、その部分で分割することを宣言し、新しいリズムに替えることが出来た。例えば[ロンガ、ブレーヴィス、ロンガ]という配列では通常、[テンプス2つ分+テンプス1つ分(で合わせてテンプス3つ分)、テンプス3つ分]つまり(タータターー)となるが、一つ目のロンガの後ろに線を入れた場合には、そこで区分が生じ、[テンプス3つ分、テンプス1つ分+テンプス2つ分]つまり(ターータター)という形に変化した。この方法はフランコよりさらに後、恐らくペトルス・デ・クルーチェあたりが点で表わす事にして、「分割点」(プンクトゥス・ディヴィジオニス)と呼ばれるようになっていく。他にも、すでにネウマ譜にもあった一種の修飾音であるプリカの説明や、新しいリガトゥーラの用法などがこの時期登場し、ケルンのフランコによって理論書にまとめられた。そんなケルンのフランコの「計量音楽論」については、こちらのサイトで日本語訳しているので、興味のある方は読んでみて下さい。

ケルンのフランコ「計量音楽論」
「中世音楽のまうかめ堂」

モテートゥスの変遷

 初めは、引き延ばされるテーノル声部に対して、クラウズラの上声が似たような声部書法で類似進行するモテートゥスが作曲されつつ、次第にクラウズラから離陸を遂げていったが、13世紀半ばを過ぎると、次第に上声同士の声部書法を、最上声のトリプルムに快活な動きの(フレーズ的特徴の豊かな)旋律を置き、モテートゥス声部をそれよりゆったりと形成するなど、声部間で変化を付けることが好まれ始めた。この遣り方は教科書では、代表的な理論家であるケルンのフランコにちなんで、フランコ風モテットと命名されている。この何度も出てくるフランコというのは、ケルンにおいてエルサレム聖ヨハネ騎士団に所属する音楽教師を務め、教皇礼拝堂の司祭だった音楽理論家で、恐らくパリ大学で学んだろうと推察されて居るぐらいの、要するに経歴のよく分からない人物だが、13世紀のモテートゥスは圧倒的に作者不明が基本であるため、彼が実際に書き記した曲がどこかにあっても、そう簡単には分からないだろう。
 しかし元来トルヴェールとして有名だったアダン・ド・ラ・アルや、1270年頃から1300年頃に活躍したペトルス・デ・クルーチェ(フランス風にはピエール・ド・ラ・クロワ)らのモテートゥスのように、幸運にも作曲者の名前が残っているものもある。ペトルスのモテートゥスはトリプルムが快活にまるで話し言葉のように進行し、モテートゥスがそれよりゆっくりと動き、さらに単旋聖歌から来ているテーノルはある一定のリズム型を繰り返すという形になっていて、13世紀後半の特徴を代表しているために、このようなタイプのモテートゥスを教科書ではペトルス風モテットと呼んでいる。彼はさらに、セミブレヴィスを3個以上加えて一つのブレヴィスを形成するような曲を書き、多いときには1つのブレヴィスの中に9つものセミブレヴィスを投入したという。特にブレヴィスを4つなどに分割すると云うことは、その声部は恐らく3分割のリズムから離れて、3分割のリズムによる別の声部とヘミオーラ的(つまり2拍子の中の3連符のような)関係を楽しんだのではないかとされ、2:3とか3:4の音符数が一つのテンプスの中で同時に行なわれる事によって、独特の効果を出す狙いがあったとも考えられている。もちろん一方では、そんなリズムは使用しない、あくまで3分割リズムの中にすべての音符を当てはめたのだと云う説もあり、結論はでそうもないのだが。たとえ1曲ぐらいでも、まるで見ないよりはモテートゥスがどんなものか分かるだろうから、ここでペトルス・デ・クルーチェのモテートゥス「ある人達は慣習的に歌を作るがー長いこと私は歌わなかったがー示し」をざっと眺めて見ることにしよう。(ただし、音は無いのさ。)

モテートゥス「ある人達は慣習的に歌を作るがー長いこと私は歌わなかったがー示し」

・テーノルから見ていくと、「示し」というのは聖歌の断片旋律の歌詞「示し」を定旋律として使用していることを表わし、その一つ上の声部には、「長いこと私は歌わなかったが」の旋律と歌詞が歌われ、最上声に「ある人達は慣習的に歌を作るが」の旋律と歌詞が歌われるため、2つの別の歌詞が同時に歌われることになる。テーノル部分は歌詞無しで歌われたのかも知れないが、歌詞を付けて歌われても比較的純粋なベースラインの提供の様相が濃いので、もっぱら上声2声がクローズアップされてくるはずだ。ここでそれぞれの歌詞を見ると、最上声トリプルムの歌詞は、第2声部ドゥプルムの2倍以上の詩文を持っていて、大ざっぱに見れば、同じだけの時間に第2声部の2倍以上の歌詞と旋律の動きを持ち、快活に動き回ることが分かる。これに対して第2声部はずっと緩やかに進行し、歌詞だけ眺めても「ペトルス風」の楽曲がほんの少し垣間見られるような心持ちになれる。歌詞の内容は、緩やかな第2声部(ドゥプルム声部)が
「長い間私は歌わないで来たが、今は喜びを示すとき。この世で一番の美しい人に愛してしまったから、あの人のことを想うだけで心は沸き立ち、この愛に生きることこそ、私のする唯一のことなのだ。」
と主観的な思いで歌を歌うのが愛のためであることを述べ、一方最上声のトリプルムは騎士道精神の愛の歌を踏襲したように、実際に愛の歌を直接的な「あなた」ではなく「あの人が」というフォーカスで歌っている。いい加減にあらすじを見れば、
「ある人達は慣習的に歌を歌うが、私は愛のためだけに歌うのだ。愛が心を満たして、それが旋律となって歌が生まれる、私は高貴な貴婦人の虜になってしまった。一生尽くすと誓いをたてて、私は歌う、あの方が私にくれた誓いの詰まった贈り物に、貴方が攻撃を加えたら、私なんかいちころで、もはや身代金を待つ捕虜同然だ、この心をどうにかしてくれたまえ。うおっ。わおっ。」(・・・また壊れたか。)
と歌っているが、実際にはこの2つの歌詞が同時に歌われるから面白い。また、ここで原文の歌詞をちょっと挙げてみると、例えば最上声の出だしは

Aucun ont trouve chant par usage,
Mes a moi en doune ochoison
Amours,qui resbaudist mon courage
Si que m'estuet faire chancon.


と云うように、リズム、脚韻の整っているのがよく分かる。音楽に関しては完全1度5度8度による協和の部分と、そうでない部分の変遷と云った方法で、協和を目指さない場所では2度や7度などのどぎつい音も無頓着に使用された。言ってみれば、協和する部分以外では、横の旋律の流れが重視され、結果として起こる不協和は協和部分に対比されるから、返って結構だというような作曲法がなされている。最後に教科書による作曲法の部分をまとめて置こう。

教科書による作曲特徴

・和声上は1200年頃と同じく強拍に5度8度が期待され、4度がますます不協和として避けられる一方で、3度が他の不協和音に対して好まれ続けた。協和音の変化は、テーノルの音が新しくなる度に、新しい一組の協和音を生み出した。それぞれの声部の紙面量が大きく変化するので、総譜のように縦に声部を並べるのではなく、各声部ごとに単旋律に分けてそれぞれ表わす聖歌隊ブック式(クワイアブック方式)で書き残された。
[標準的な終止形も生まれる]
例)GHE→FCF,ACF→GDG,DFH→CGC
[理論家によると3つのテンポの区分が]
①トリプルムが細かく動く時には穏やかな(ペトルス風)
②1つのブレーヴィスに対して3つ以上のセミブレーヴィスを持たない中庸(フランコ風モテット)
③ホケットは急

ホケット(ホケトゥス)
・このホケット(ホケトゥス)というのは、フランス語の「しゃっくり」を意味して、休符によってある声部が休んだ途端に他の声部が旋律を引き継ぐ効果を繰り返す技法をホケットと呼んでいたが、そのうち器楽曲に置いてこのようなホケット技法で生まれた楽曲もホケットと呼ばれるようになった。これは13世紀後半から見いだされ、バンベルク写本には、舞曲ではない純粋な器楽曲として7つのホケトゥスが残されている。

宗教曲

 まず、ノートルダム学派以前からずっとあるオルガヌムの技法、つまり即興的に対旋律を歌い旋律を多声化する技法は、その後も継承され続け、典礼音楽の基本的な技術としてルネサンス時代にまで至るが、特にディスカントゥススタイル(音符1:1)で聖歌に対旋律を付けることは一般化し、ディスカントゥス・スプラ・リブルム(本にもとずくディスカントゥス)として聖歌の上に即興で対旋律を加えているうちに、多声曲の一番上の声部もディスカントゥス声部と呼ばれるようになってしまったほどだ。また、例えばイングランドにおける旋律の下3度と上6度の平行で聖歌を修飾するファバーデンの技法なども、多声の誕生でみたオルガヌムの伝統から継続する流れであるから、フランスのモテートゥスの流行で急に世俗音楽一辺倒になったように見えても、宗教音楽が行方不明になったわけではない。
 クラウズラから派生したらしいモテートゥスは、最初期にはいざ知らず、写本に残されたフランスのものは皆々世俗用の、または宗教的題材を扱っても非典礼用の作品ばかりだが、典礼から多声音楽が消え失せたわけでももちろん無かった。第4の無名者(アノニマス・フォー)(AnonymousⅣ)はレオニーヌスが作製しペロティーヌスが改編した、1年間のミサと聖務日課を多声で歌うための「マーニュス・リーベル・オルガニ」が、1275頃(1285年頃?)になってもまだパリのノートルダム大聖堂で歌われている事を述べているし、この大全集のオリジナルは消えてしまったが、これを収めた写本は重要なものが3つ残されていて、そのうち1240年頃スコットランドの修道院で用いるために写本されたW1写本には、「大全」の他にブリテン島の2声のディスカントゥススタイル(音符が1:1の和弦的進行を見せるオルガヌム)で作曲されたミサのための聖歌も残されている。さらにモテートゥスの写本で上げた、「モンペリエ写本」にもパリで作曲された典礼用の多声曲が写し取られていることから、多声宗教曲は教会を大いに華やいでいたことと思われる。

祝典モテートゥス

 ノートルダム楽派の多声コンドゥクトゥスには、戦争勝利や公的行事を記念するための曲も残されているが、この種の王侯貴族封建領主達が使用するタイプの祝典曲としての多声曲も、次第にモテートゥスが使用されるようになっていった。おそらくモテートゥスの持つ芸術性、つまり人工的に構築された取って置きの多声ジャンルという特殊性が、特定の祭事にもってこいだと考えられたのだろう。また公的行事や戦勝などに際しても典礼が密接に関わってくる宗教と世俗の親和性が、元来教会から離陸してきたモテートゥスを取り込むきっかけになったのかも知れない。もちろん私には皆目見当も付かないので、足早に通り過ぎることにしよう。(ただし、政治的目的のモテートゥスは14世紀末以降だとか、どこかに書いてあったが。)この種の祝典モテートゥスは、後にショームやトランペットと合唱が共に演奏を行なう、華やかな多声ジャンルを形成したが、その伝統がいつ頃どのようにして始まったかまでは、調査出来ないので今日の所は打ちきり御免さようならである。

2005/07/28
2006/02/25改訂

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