4-5章 アルス・スブティリオール

[Topへ]

収拾が付かなくなってきた

 もはや今回はこれまでか、と酒に溺れながら、歴史の教科書的方針で残りを放り込んで置くことにする。

封建制を越えて

 都市と経済の発達が貨幣流通を導きだし、必然的に農民から国家に至る資本移動が貨幣で遣り取りされるようになり始めた。もちろん中世初期にも貨幣が消えたわけではなかったが、貨幣経済にもとずく社会とは言い切れないものがあった。また社会の構成も次第に変化した。もちろん大根を切るようにすっぱりとは割り切れないが、おおよそ西側ヨーロッパ(フランス、イギリス、スペインなど)の社会システムは、各地点の都市経済も封建領主も統轄する中央としての国王とその官僚制、軍隊などの生み出す一つの枠組みに集約する方向を見せ、この集約が最終的にいち早く国家概念を誕生させることになった。それに対して、対してイタリア、ドイツなどでは都市ごと、領主ごとの小さな完結した枠組みが周辺の別の枠組みと関わり合うことによって成立するような、枠組み同士の自立と拮抗状態を利点とするようなシステムが継承され、結果として後にいち早く中央集権国家を誕生させた国々に対応して、苦しむ結果となった。
 しかし国家的なものが登場するより早くから、同種語を話す共通の者達という意識は見え始めている。例えば13世紀の封建領主漲(みなぎ)る時代のフランスでは、すでに全国内が「フランキア」と見なされるようになった。そして14世紀初頭のアナーニ事件とか3部会開催の頃には、知的エリート層は民族=国家主義的という信念を持ち合わせ、これが百年戦争を経て、民衆にも共有したとどこぞに書いてあった。すでに中世末に、書記官長を筆頭とするレジスト(法曹官僚)の活躍が国王を支える官僚としての姿を見せ始めたが、こうした人たちはローマ法を学び国家に対する理念を持ち合わせていた。裁判制なども、12世紀末には王室法廷への直訴も整備され、後には三級審が確立したし、イングランドは王権自体は弱体化しなかったが、1215年のマグナ・カルタで、諸侯の人身上・財政上の権利が擁護され、彼らが国制上の重要な地位にもつくように次第に王の周辺の組織の整備が行なわれていった。13世紀はすでに、宮廷行政機構と国家行政機構の二重構造の上に、強力な権力を築く方向が現われるが、近代国家概念がないから王権・王政も象徴的儀式や奇跡に結びつく迷妄に築かれた権威付けが必要で、戴冠式やら、国王入城儀式ではくを付けたり、病気(特に瘰癧(るいれき))を治す国王を演じたり、国王はトロイア人の血を引く(フランク族)と叫んでみたり、しながら次第に国家的なものが登場してくるような流れだ。
 究極的には貨幣経済の発達に関連して(とも言い切れないかも)、特に西ヨーロッパでは中世後期に領主様の荘園に働く隷属的農民の構図が崩れ始め、様々な変遷を経て農民は税として生産物か貨幣を収る方向に向かっていったが、特に14世紀半ばのペストの後、農民の人口が激減すると、既存の農奴的遣り口は立ち行かなくなり、地代を払う他には領主裁判権も賦役も関係ない独立した自営農民(ヨーマン)に移行していった。その過程で、封建領主側の束縛強化(封建反動)や、封建側に対する怒りの反乱(1358のジャックリーの乱や、1381のワット=タイラーの乱など)が沸き起こりながら、次第に農民の解放が進んでいくことになった。しかし東ヨーロッパ、特に中世時代に東部植民活動が行なわれた、ドナウ川の向こうの世界では封建制度が漲ったまま、ずっと後の時代に流れ込んで、どうも驚く、19世紀後半のアメリカへの実質上の難民を生み出したり、ひずんだ社会を一気に改変しようとする20世紀初頭のロシア革命にまで雪崩れ込んでいくから、簡単に話は済まないようだ。この部分は一度、最初から出直して来た方がよいか。(あなた、それを云ったら、きりがないじゃないか。)

スペインとポルトガルの成立

 忘れ物を拾うようにイベリア半島の歴史をまとめておこう。紀元前1200年頃にはすでにフェニキア人がカディスに植民都市を建設していた、イベリア半島では、フェニキア人、ケルト人、ギリシア人達が植民活動と移住を行なっていたが、紀元2世紀からポエニ戦争に勝利したローマがフェニキア人を子孫に持つカルタゴ人達の勢力を追い出してイベリア半島を支配。以後長らくローマ帝国の支配下にあり、多くの都市が建設され、ラテン語を使用しつつ貿易商業も華やいだが、ゲルマン人の進出によって410年には西ゴートのアタウルフ王が今日の南フランスと共に、北方スペインも占領、続いてバルセロナも奪い取って、419年に西ゴート王国を建設。ところが、今度はフランク族が西ゴート族に勝利し、西ゴートはピレネー山脈の西側、イベリア半島に完全移住すると、579年にトレドに首都を定めた。
 その後ジブラルタルの語源となったジュベル・アル・ターリクの率いるウマイヤ朝イスラームがイベリア半島に進出し、西ゴートの残党は北方ピレネー山脈沿いに逃れ、756年からは崩壊したウマイヤ朝の後イベリア半島イスラーム勢力として成立した後ウマイヤ朝が首都をコルドバに定め、912年からのカリフであるアブド・アッラフマーン3世の時には後ウマイヤ朝は最盛期を迎えることになった。
 しかし1031年に後ウマイヤ朝が断絶して、イスラーム勢力内での争いが沸き起こる頃には、拡大するキリスト教徒の巻き返し運動、レコンキスタ(再征服)の進行に合わせ、12世紀以降カスティリア、アラゴン、ポルトガルの3つの王国が勢力を強めながらさらにイスラーム教徒を南方に駆逐していくという流れになっていく。その途中カスティリア王国では、ドイツの大空位時代に関連して神聖ローマ皇帝就任まで漕ぎ着けながら結局果たせなかったアルフォンソ10世(在位1251-1282)が登場しているが、彼は内乱で最終的に王位を奪われてしまうような冴えない政治を行ないながら、一方文化活動にはすぐれた才能を示し、彼の時に聖母マリアを讃えまくる単旋律歌曲集「聖母マリアのためのカンティガ集」が編纂されている。それはさておき、イスラームもレコンキスタに対してイベリア半島南部の都市であるグラナダに首都を置いたナスル朝(グラナダ王国)(1230-1492)によって15世紀までイスラーム勢力圏が守られつつ、グラナダのアルハンブラ宮殿では異国情緒溢れる文化活動が行なわれて、平時に顔を覗かせたヨーロッパ人を驚かせた。このレコンキスタの完了が進まない事態は、勢力を拡大したイベリアのそれぞれの国々がナスル朝との関係も交えて、互いに対立を繰り広げて居たためで、もはやイスラームを追い出す目的ではなく、己の勢力拡大だけのためにグラナダが欲しいと思っているような有様だったが、ようやく1479年にカスティーリャ王国の王娘イサベルと、アラゴン王国の皇太子フェルナンドが結婚して、それぞれイサベル1世(在位1474-1504)、フェルナンド5世(1479-1516)となったので、両国は目出度くも連合国家スペイン(イスパニア)王国となった。(ただし連合王国が実際上統一するのは1516年になってから)したがって、これ以降はいよいよスペインという国名を使用することが出来るわけだ。しかもこの目出度い2人の時代、1492年のグラナダ陥落で、ついにイスラーム教徒をイベリア半島から追い出して、ついでにユダヤ人も駆逐して、異端審問所を国王機関として強力な中央集権を築いて、王国の維持を図った。

ドイツ、北欧、東欧など

 と見出しだけ書いてみておく。

宗教改革

 百年戦争が中世に所属するなら、宗教改革の起こりも中世に組み込まれる。イギリスの聖職者にして神学者のウィクリフ(c1320-84)はイングランド教会の教皇からの干渉排除を唱えたが、さらにカトリックの教義は聖書から離れていると説き、聖書自体に信仰と救済を求めよとスローガンを掲げた。彼はラテン語聖書の英語訳を行ないつつ、国王による教会改革などを描いていたが、ワット=タイラーの乱との関与を疑われオクスフォード大学を辞職させられた。
 しかしプラハ大学を卒業して同大学の教授と聖職者の仕事をこなしていたボヘミアのフス(c1370-1415)がこのウィクリフの考えに賛同して、カトリックを非難し、教会改革と教皇の世俗的関与を非難したら、コンスタンツの公会議(1414-18)に出席させられて、撤回を求められ、「それでもカトリックは回っている」と呟いたため、1415年に火にくべられてしまった。それだけでは気が済まないカトリックはすでに死んでいたウィクリフの墓を掘り起こして、これも火にくべてテムズ川に灰を流して遣った。しかし、彼らの祟りは後に具現化して、マルティン・ルターやらカルヴィンやら宗教改革の荒くれどもが、押し寄せて、ヨーロッパを新教とカトリックに2分することになってしまうのだった。その上ボヘミアでは、教皇、皇帝への反感が民族独立的意味も合わせた反乱となってフス戦争(1419-36)を引き起こし、これは鎮圧されたが、後に引き起こされる30年戦争の導火線に、知らぬ間に火を付けたとも言われている。

新しい動き、箇条書き

・この時期、河の視点から海の視点へのシフトが
・錬金術の本格化が開始
・後期ゴシック様式から、最終局面のフランボワイアン(火炎式)建築が登場し、骨格より表面修飾に関心が
・1291アッコン陥落で十字軍精神の転げる頃から魔女狩りのシーズンが開始
・14世紀中頃から火薬により大砲が、15世紀には射程が1kmで砲身強度も
・鉄砲は15世紀後半からで、火縄銃で使用が有効になるのは16世紀初めになってからだったから、1543年ポルトガル人の種子島漂着による鉄砲流入と戦国時代後期の使用は、実際は数十年の遅れで、ほとんど同時代的現象だ。これはヨーロッパが大航海時代を迎え、世界に繰り出す荒くれの世界を演じていた上に、日本が愚かに愚かを重ねて後戻りの出来ない失態を演じきった鎖国をまだ行なっていなかったためだ。

アルス・スブティリオール(ars subtilior)

 ではいい加減に音楽に話を移すことにしよう。
 さて百年戦争がフランス持ち直し時期に差し掛かった1360頃、久しぶりにイヴレーア写本、カンブレ写本、トレモイユ写本といった多種楽曲の写本が姿を表わし、何とか当時の音楽事情を偲ぶことが許されるようになった。恐らくヴィトリも活躍したパリを中心に発展したアルス・ノーヴァとその記譜法は、14世紀末にはイベリア半島のブルゴスに残されたラス・ウエルガス修道院の写本の書き記した写本に残されたように、今日のスペイン、イタリア方面にまで広まり、イタリアではその記譜法を取り入れながらもより当地の音楽趣味にあったスタイルが模索され、トレチェント音楽を生み出したのはすでに見たとおりだ。
 この時期の文化中心地はアヴィニョンにあった。フランス人教皇クレメンス5世がプロヴァンス地方のアヴィニョンに宮廷を置く捕囚事件が元で、南フランスのアヴィニョンは政治上中心地の中心地だけでなく、要人宮廷立ち並ぶ文化中心都市として急速に発展を開始。初めは教会典礼音楽に対して厳格であろうとする教皇が多声音楽を非難していたが、やがて多声の典礼音楽が開始され、もちろんアルス・ノーヴァの音楽も流れ込んできたので、クレメンス6世(在位1342-52)の頃には、もはや教皇も宮廷生活の華を咲かせきって財政問題を引き起こすほどの芸術パトロンとして君臨した。1370年後半までには、アヴィニョンに邸宅を構える枢機卿の多くも、自分用の礼拝堂楽団を持つようになっていくが、ここではえり抜きの音楽家が採用され、彼らはもちろん第1に礼拝で歌うための歌手の仕事とそのための作曲を行い、実は大量のミサ用ポリフォニーが残されている。運良く近くのアプト大聖堂に残されたアプト写本は、このようなアヴィニョンでのミサ用楽曲集になっているそうで、アイソリズムを使用したモテートゥススタイルの宗教曲から、単純な和声的な曲まで多様に残された曲の中に、作曲した者の名前としてヨハンネス・デ・ボスコ、ジャン・ド・ノイエ、ボード・コルディエといった名前を見て取ることが出来る。しかし彼らの本領は教皇や枢機卿の宮廷で日々歌われ、宮廷生活を謳歌するための世俗歌曲の作曲と歌唱にあったようだ。ジャン・シモン・アスプロワ、フランチスクス、ヨハンネス・デ・オークール、マテウス・デ・サンクト・ヨハンネらは教皇付きの歌手なのに、歌曲が現存することによって名前が今日残されている。歌曲の多くは愛の歌で、独唱とそれを支えるテーノルとコントラテーノルの楽器声部を持つ、バラード、ヴィルレ、ロンドなどアルス・ノーヴァの定型と呼ばれるジャンルで、権威を表わすためか修飾的な豪華版の写本が特別に製作され、写本の性質から、赤符と黒符を使い修飾性を高めたり、サンレーシュの「旋律ゆたかなハープを」という曲のようにハープの絵の中に楽譜を入れてみたり、ボード・コルディエ(Baude Cordier)の「美しくて善良で賢い人よ(Belle bonne sage)」(日本では「美善賢女(びぜんけんじょ)なロンド」として親しまれている・・・嘘。)のように譜線の形を曲線に見立てて愛の歌を心臓の形の楽譜で描いたり(しかもハートマークはコルディエの名称にあるcorというラテン語の心臓の意味も掛けているという)、またやはりボード・コルディエの「コンパスで完全な形に作られたこのロンドーは(Tout par compas))」のようにロンドー(ロンドーは元々「円」の意味)を円の楽譜で描いたりしているが、これは普通の楽譜を視覚的に修飾した眼の楽しみであり、現代音楽譜のようにその修飾楽譜自体が特別な音楽を表わしているという訳ではないから、楽譜の虚飾と音楽の複雑さを無頓着に一緒にするのは問題がある。それにも関わらず、リズムの複雑さ、繋留やシンコペーションの多用で和声をぼかすアルス・ノーヴァ技法をさらに高度に高めたような精緻の音楽は、マショーの影響をさらに発展させたもので、後に音楽学者のギュンターによってラテン語の「繊細優美な subtilis」から、アルス・スプティリオール[(ラ)より精妙な技芸]と命名された。そしてこうしたアヴィニョン宮廷の音楽会には各地宮廷からの要人達が押し寄せ、例えば先ほど登場したボード・コルディエはブルゴーニュ公フィリップ・ル・アルディ(豪胆公)に仕え様々な人に随行しながらアヴィニョンで活躍していた。例えば教科書にはボード・コルディエ(15世紀前期活躍)のロンド「美しくて善良で賢い女(ひと)よ」と、アントネッロ・ダ・カゼルタ(Anthonello de Caserta)のロンド「やさしい女(ひと)よ」が登場するが、このアントネッロ・ダ・カゼルタはイタリアの音楽家で、フィリップ・デ・カゼルタPhilippus de Casertaやマテウス・デ・ペルージオMatheus de Perusioらとイタリア方面のアビニョン派代表として活躍していた。こうした各地の宮廷文化のネットワークが、文化流通を起こすと共に一流の音楽家(ここでの音楽家は歌手兼曲も作る人の意味)を、一流の歌い手が終結するアヴィニョンに寄せ集め、作るにも歌うにも聞くにもかなりの能力が要求されるような高度な技巧的音楽を生み出したのかもしれない。現在シャンティイ城に保管されているシャンティイ写本を見ると、北フランス、スペイン、北イタリアなど各地の音楽家がアヴィニョンを拠点とするアルス・スブティリオールの音楽に手を染めていたのを見て取れる。そして彼らの音楽は、アヴィニョン教皇庁と、影響下の南フランスの諸宮廷、さらにフランス王家や、サヴォア、ナポリ、さらに遠くキュプロスの宮廷などで、アルススブティリオール音楽圏を形成し、シャンソンやアイソリズム・モテートゥス、さらには沢山の典礼音楽も作曲されていたのだった。中でも写本の代表選手の1人であるソラージュSolage(関係ないがジョルジュ・サンドの娘はソランジュ)の作品が10曲のこされているが、彼はベリー公ジャンと関係のある音楽家だが、低音と半音階によって「アヘンの煙はもくもく楽し」見たいな歌詞のロンドがある一方、そのままブルゴーニュシャンソンの流れに移行して行けそうな「わたしの心は愛に憧れて果てます」見たいな歌詞のバラードも残されていて、マショー風楽曲のものや、旋律線だけを控えめに下の声部が支え歌うブルゴーニュ風シャンソンに近いものもあり、超絶技巧の曲だけを追い求める世紀末退廃集団の袋小路芸術と見なすのはいけてない。(・・・いけてないって。)
 また、宗教曲においては、タピシエ(c1370-c1410)Johannes Tapissierや、ペリネPerrinetらの通常文による単独作品などが残され、マショーが先陣を切ったワンセット作曲の通作ミサの一般化は、もう少し先になりそうだった。

2つの潮流

 ジャン2世(善良王)(在位1350-64)はポワティエの戦いに敗北してイングランドで「捕われ人パート2」(奇しくもパート1はイングランド国王リチャード1世だった)を演じる羽目になったが、 百年戦争のフランス持ち直しもあって、彼の教育の賜物か彼の息子達の宮廷で文化美術活動が活発化することになる。まず次の国王になったシャルル5世(賢明王)(在位1364-80)のパリ、そしてそれぞれ領土を貰い就任した土地でやはりフランス式宮廷文化を華開かせた、アンジュー公ルイ(アンジュー公在位1360-1384、他にプロヴァンス伯、ナポリ王)がフランス西部のアンジェで、ベリー公ジャン(ベリー公在位1360-1416)がフランス中部のブールジュで、ブルゴーニュ公フィリップル・アルディ(フィリップ豪胆公)(ブルゴーニュ公在位1363-1404)がブルゴーニュの首都ディジョン、さらにフランドルの自立した都市も巻き込んで、彼らの拠点とアヴィニョンが結びつくことによって生まれた、ある種の文化ネットワークが強化され、これは血縁関係を通じて例えばジョン2世の娘が嫁いだミラーノのヴィスコンティ家などの結びつきもあり、美術においてはある種の国際様式を生み出した。美術史ではそれを「国際ゴシック様式」と呼ぶとか、いいやそんな言葉はフランス人の捏造的だとか、まあいろいろ意見があるようだが、この様式はさらに、ボヘミア王ヨハンの息子が、アヴィニョンの教皇の教育を受け各国語をマスターしつつ、神聖ローマ皇帝争いに担ぎ出されて見事皇帝の地位を獲得し、カール4世(在位1447-78)となった。さらにその直後ヴァロア家のために百年戦争に出かけてクレシーの戦いで戦死した父の後を継いでボヘミア王カレル1世となり、プラハを拠点としてアヴィニョンに続く都市改造が開始したが、こうしたこともあって国際的な様式が遠くプラハにまで辿り着くことになったという。彼は1356年に金印勅書を出して大空位時代を終わらせた上、プラハにカレル橋やらカレル大学まで造り一躍文化都市に押し上げた偉大な皇帝だったのである。そしてカールの4世の通し番号は、間を置いてさらに偉大なカール5世に引き継がれていくのであった。この国際ゴシック様式は、美術史などではシエナ派として定義されるシモーネ・マルティーニ(1285-1344)が引き合いに出され、晩年のアヴィニョンでの作業などから国際的様式が浮かび上がり、アヴィニョン捕囚から大シスマ(1378-1417)に掛けて広まったとされている。しかし、一方でマルティーニの絵画がジョットで芽生えた写実と古典的均衡などのルネサンス的精神を、一旦後退させたように云われることもあり、かと思えばネーデルラント地方の新しい絵画と、イタリアの初期ルネサンス絵画もこの国際様式の影響を受けたと書かれ、到底私の一夜漬けでは沢庵が出来そうにないので、当面放置することにする。同じ頃音楽においては、マショーの死んだ頃、おおよそアヴィニョンを中心とする南フランスでアルス・ノーヴァ技法をさらに発展させたアルス・スブティリオールがあり、フランドル方面ではアルス・ノーヴァを超絶技巧に発展させない別の流れがあり、イングランドでは宗教曲を中心にした3度6度の響きに生き甲斐を見いだす伝統があり、イタリアではトレチェント音楽がフランチェスコ・ランディーニ(c1325ー1397)らによって最盛期にあったが、これらの相互の関わり合いと新しい潮流の登場は私にはさっぱり分からないが、アルス・スブティリオールと国際ゴシックは同じアヴィニョン圏芸術トレンドとして結びつけたい欲求に駆られる。
 分からないところはもはや調べもせずに進んで行くが、南方ではマショの亡くなった1377年にはアヴィニョン捕囚の時代から、ローマとアヴィニョンに教皇が並び立つ大シスマの時代が開始した。これによって、教会聖職録などを得るための歌手達の力量を掛けた出世の旅は、アヴィニョンとローマのどちらかに向かうことになり、ローマ教皇庁の礼拝堂歌手への憧れに満ちたフランドル方面からの出稼ぎ状態が始まった。もちろん、これにはすぐれた歌手を輩出するフランドル方面から人材を登用する事が、すなわち歌手達を手配する事だと考える雇い主達の意向があるわけだ。こうしてアヴィニョンがそうだったように、大シスマ以後のローマ教皇庁礼拝堂では北方の歌手達が幅を利(き)かせ始め、ヨハンネス・チコーニアや、プラサール、ギョーム・ルグラン、ヨハンネス・ルグラン、アルノルドゥス・デ・ランタン、ユーゴー・デ・ランタンなどがイタリアで活躍を開始、やがて15世紀初めにはデュファイも遣ってきて、いよいよルネサンス時代のフランドル音楽家の大活躍へと入っていくことになる。このような北方の歌手達はローマのみ為らず、イタリア中の大聖堂や教会などで活躍し、やがてルネサンス時代が進みブルゴーニュ公国に憧れてか、都市の貴族や有力者達が宮廷私設礼拝堂を組織するようになると、フランドルの歌手達がそこで活躍するようにもなっていくのだった。音楽之友社出版の「西洋の音楽と社会1西洋音楽の曙」によると(・・・というか、いつでもどこかに寄りかかっているのだが。)その際、アルス・スブティリオールの様な技巧的な方面に走る音楽伝統を持つマテウス・デ・ペルージオやアントネッロ・デ・カゼルタのようなイタリアの作曲家の一派と、パドヴァ大聖堂で活躍したルネサンスの先駆とも見なされる事のあるリエージュ出身の作曲家ヨハンネス・チコーニア(c1370-1412)らの持つ、明快なリズムとフレーズ感による効果的な単純さを思考する音楽伝統は、大シスマのアヴィニョン派の影響下にあるか、ローマ派の影響下にあるかで区分けされていたという。
 ついでにチコーニアについても書いておこう。一昔前父親と混同されて1330年代の生まれだと思われていたヨハンネス・チコーニア(チコニア)(c1373-1412)は、アヴィニョンで、続いてパドヴァで活躍した父親がリエージュで生まれに戻って、結婚しないでも出来ちゃった息子さんで、恐らく1390年頃からの作品が今日残され、最終的にパドヴァで生涯を全うしたと考えられている。彼の作品には、フランス語のシャンソンとイタリア語のトレチェント名物バッラータや、マドリガーレがあり、またアイソリズムを使用した宗教用モテートゥスとミサ通常文に曲を付けたものが残されている上に、音楽理論を執筆している大した奴だが、私はまだ聞いたことがないもので・・・。
 一方、北方でも百年戦争の経過を通じて音楽様式に変化が表れた。当初パリ宮廷と類似の音楽伝統があったかも知れないブルゴーニュ公国だが、1384年年にフィリップ・ル・ボンがフランドル伯の娘と結婚しフランドル領を獲得、1396年年に事実上支配すると恐らくフランドル音楽伝統の影響を被ってブルゴーニュ公国の音楽様式傾向に変質が見られたかも知れない心持ちがしてくる。1401年には中世の騎士道とネーデルラントの「修辞学の会議」といった集いを元に「ネオ騎士道」と言いたくなるような「愛の宮廷cour d'amour」が詩人や音楽家によって創始され、1429年には「ネオ騎士団」たる「金羊毛騎士団」まで組織されるほどだったが、この愛する宮廷と関連して現われてくるのが、ブルゴーニュ風の3声のロンドを中心とする一連のシャンソンである。アルス・スブティリオールとは様式の異なるブルゴーニュ風シャンソンは、後にデュファイやバンショワが作曲を行なっているが、すでにアルス・スブティリオールのハート楽譜でお馴染みのブルゴーニュ公に仕えたらしいボード・コルディエのシャンソンにも、最上声部のフレーズ感を持った旋律を邪魔しない下声に基づく歌を邪魔しない複雑でないリズムを持ったブルゴーニュ風シャンソンの傾向が見て取れるという。さらにブルゴーニュ派とアルマニャック派(後のシャルル7世派としておこう)がフランス内で対立をしてそれにイングランドが絡み合う15世紀初めには、フィリップ・ル・ボンとイングランドが同盟を結び、イングランド側北方勢力がベッドフォード公ジョンをイングランド側で立てたフランス王の摂政の立場に置きノルマンディーだけでなく、奪ったパリ一帯を支配したため、ベドフォード公ジョンに付き従っていたとされるダンスタブルの例がよく云われるように、ブルゴーニュ、フランドルを経由してイングランドの作曲家達とその音楽が大陸側に広がっていった。1420-30頃から大陸に知られたリオネル・パウアー、ダンスタブル、ベディンガムなどイングランド作曲家の多くの宗教用モテートゥスや、ミサ曲などは大半が大陸の資料にしか残されていないというから、その隆盛が知られよう。
 しかしその隆盛の少し前、コンスタンツの公会議(1414-18)がフランドル伝統とイタリア・トレチェントの傾向の融合から始まった新しい音楽スタイルのお披露目を兼ねて、5万人集まったとも云われる各地の聖職者達の集会において教皇庁聖歌隊の演奏が行なわれたが、その際にイングランドの聖職者達によってこの新しい潮流が持ち帰られて、先ほど登場したパウアーやダンスタブル、ベディンガムらの音楽に影響を及ぼしたのだという。その一方、この公会議で統一教皇マルティヌス5世(位1417~31)が立てられ、大シスマが解消されると、アルス・スブティリオールを育んだアヴィニョン文化圏は、保守的でありながら高次に発達した繊細な芸術として袋小路に陥って、流行から遠ざかりつつ人々から見捨てられていったそうだ。そしてフランドル、イタリア・トレチェント伝統から生まれた新しい傾向が、イングランドで和声的な響きやアイソリズムや定旋律で鍛え直されて送り返されるなど、複雑に絡み合いながら、次第にルネサンス音楽語法が生み出され、国際語法を獲得して行った。

例によって教科書的まとめ

ムジカ・フィクタ

・ユニゾン(同一音程)に収斂する3度音程は短3度にされ、完全8度に広がる6度は長音程に換えるのが音楽上効果的であることが共通意識となり、フレーズ終止などで最後の和音に向けて2つの音程を同時に本来の音から変化させて2重導音にするなど、早くも緊張と解決の和声的な模索が目立ってきた。ところで、下声部が半音下がり8度に到達する場合(例えばファ→ミ)では、上声(例えの場合はレ→ミ)が変化音無しで長6度になっているが、この終止はやがてフリジア終止と呼ばれるようになり、後の近代和声の効果として再確認されることになる。音程を音階本来の音から半音逸脱することは、次第に許容以上の意味合いを持ち始め、増4度を避けるため、旋律内での(F-H)進行を避けるため、さらには旋律線をなめらかにするためなど、様々な理由を付けて行なわれた後、ついに「causa pulchritudinis(ラ)カウザ・プルクリトゥディニス」すなわち「美のために」という理由だけで半音上げたり下げたりするようになった。この際、グイードの手の中の音に含まれる[H-C,E-F,A-B]の半音は、ムジカ・ヴェーラ[(ラ)真の音楽]、ムジカ・レクタ[(ラ)正しい音楽]と呼ばれ、グイードの手に示された音階であるgamatガマトの組織にある音だった。それ以外の半音変化はムジカ・フィクタ[(ラ)偽の]、ムジカ・ファルサ[(ラ)偽りの]と呼ばれ、こうした本来の音でない変化は、楽譜に書かれない方が一般的で、歌手達は半音変化に対応して歌えるように訓練されていた。ただし、14世紀と15世紀前半の特にイタリア写本では多く臨時記号が書かれるが、1450-1550になると旋法の移調のため以外には避けられているなど、地域と時代の傾向が変化音に対しての考えかたの変遷なのか、それとも実際に変化音自体をあまり使用しなかったのかは、非常にややこしいそうだ。教科書にはコラムとして1412年に書かれたブロズドーチモ・デ・ベルドマンディの「対位法」からムジカ・フィクタの説明が掲載されているので、読んでみると面白いだろう。

記譜法の変化

・イタリア式記譜法はフランス式記譜法の影響を受けていたし、14世紀中にブリテン島にもフランス式記譜法が流入して、次第に統一的な記譜法が生まれつつあった。この傾向はアヴィニョン捕囚と続く大分裂などにより、元々活発だったイタリアとフランスの文化流通を通じて南方で、さらに百年戦争によるイングランドとブルゴーニュ公の連合体勢や、フランドル文化圏を通じて北方で、模索されながら、次第に羊皮紙から紙に写本媒体が移行する1425年頃になると、これまですべて黒塗りで記入していた音符を、基本的に白抜きで記入して、白抜きに棒が突き出たミニマに対して、黒塗りの棒が突き出た音符をセミミニマとして、それより小さい音符を黒塗りのまま旗を付ける方法が生まれた。これは音楽その物と記譜技法が変化した物ではなく、単に記譜方法が変わっただけのことだが、やがて活版印刷が開始されしばらく立つと、16世紀終わり頃、音符自体の菱形が、丸に変化して今日馴染みの音符が登場することになる。相変わらず色つき音符を使ったり、今度は白い音符と黒い音符を逆転させて使用する裏技を生み出したり、一つの旋律に異なったプロラツィオ記号を書き込む事によって、結果として多声の計量カノン(mennsuration canon)が行なわれたり、様々な方法が時代ごとに生み出されながら、音符と記譜法もまた今日まで発展してきた。

楽器と演奏

・絵画や文学的資料を見ると、1つの楽器か1つの声が該当声部を担当するという声と楽器を組み合わせた小アンサンブルか、楽器の小アンサンブルが一般的で、特に一つの声部の豊かな動きが生きるカンティレーナ様式の曲などでは、主旋律を声と楽器が共に受け持った上、同じ旋律を互いに少し変えて、あるいは楽器だけが修飾を加えるとかしながら、ヘテロフォニーを生み出したことを示している例もあるそうだ。高い「オー(haut)」(または「アルタ(alta)」)の楽器と、低い「バ(bas)」(または「バッサ(bassa)」)の楽器の区分は、前に述べたように音高ではなく、音の大きさ鋭さによって分類され、野外や華やかな式典などではより大きな音を出すオーの楽器が使われるなど、時代と地域によって好みを変えながら、音色が対照的なものを組みにして演奏するのが好まれた。中でもショームとトランペットを数人から数十人で演奏するタイプの合奏は、代表的な形態として様々な行事に使用されている。また祝典的行事などで演奏されるモテットなどは、楽器だけで演奏されることもあり、また声で歌われる場合でも、楽器がきらびやかに加わって居たことを忘れてはならない。中世後期にはすでに楽器による舞曲が、かなり宮廷生活にとって重要な役割を果たすようになっていたが、これらは大部分即興や記憶的即興だったので、写本として残される必要性が無かったために、こんにちは大部分が行方知れずの音楽になってしまった。
・クラヴィコードやチェンバロ型の鍵盤楽器の原型は14世紀に見られるが、15世紀まで一般には使用されていなかった。14世紀終わり頃、ドイツでオルガンに足鍵盤が。さらにストップが出来、15世紀初めには第2の鍵盤が。
・ネーデルラントの多声のミサ曲の例として、まとめ役の先唱者代理(先唱者は名誉職になっていたか)がテノール声部を歌い、それ以外の下声部は1声部1人の大人の歌手が担当し、少年歌手かファルセットが最上声を歌った。その際小型オルガンがテーノル声部を重ねて演奏し、最上声旋律も弾くことが出来たとか。
・多声鍵盤楽器用の写本が登場し、「ファエンツァ写本」には1410年頃の北イタリアのレパートリーが収められていて、フランス語とイタリア語の世俗多声曲、オルガン用の宗教音楽作品、2、3曲の舞曲が収められている。 ・オルガンは典礼用としては聖歌の定旋律上に上声部を即興演奏するのが一般的に行なわれていた。

14世紀の演奏について

・一定普遍の方法はなかった。ある声部に歌詞が無くても、他の写本にはあり、歌詞付きが常に歌うことを意味したわけでもない。
・1325頃のロバツブリジ写本のオルガン編曲のモテットの例や、15世紀初めのファエンツァ写本のマショや、ランディーニの鍵盤楽器用の編曲など、鍵盤編曲作品の例も残されている。

2005/09/20

[上層へ] [Topへ]