間奏曲2 中世後期

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後退現象、はたまた中世を陥れるための罠?

 長い人口増加、経済上昇、農作物豊作などの順調な発展が、百年戦争も終結した14,15世紀、大きな後退現象に見舞われた。1000年以来上昇を続けた人口増加が止まり、地球規模の寒冷化に見舞われたヨーロッパは、太陽の黒点数増減によって引き起こされる小氷河期で、直前の高い気候の時代は去り低温が長期に渡って続き、極地やアルプスの氷河が南に前進し、春は寒くて夏は雨が多い上に涼しく、冬は締めっぽいへんてこな気候に陥ってしまった。特に1350年をさかいに、西ヨーロッパ全体が衰退めざましく、大地震やら、飢饉やら災害だらけのうえに、ペストがヨーロッパ中を転げ回る中で、農業生産の行き詰まり、経済停滞の時代に陥ったという。開墾の限界もあり、人口減少が進み、廃村が続出すると、むしろ農業は後退現象を引き起こしているように思えてきたのである。こうした中で、都市と農村がすでに経済上密接に結び付き始めていたから、農村側の危機がから農民が脱出して都市に流入する動きも起こり、対して都市側はますます市民への道を固く閉ざすのであった。さらに1330年代から火薬が本格的に使用され初めると、フランスとイングランドでは百年戦争(1337-1453)で使用され、この間傭兵による戦争の時代を迎えていた両軍は、実際の戦闘に対して傭兵をかき集めるため、戦闘が終わると周辺で略奪者として、戦争と農村略奪だけで生計を立てるならず者集団を生み出し、農民を虐めている間に、さらにビックな14世紀のメインイベントが、はるかモンゴル高原からタルバガンといった大型マーモットに寄生するペスト菌を持ったノミ君が、1346年にクリミア半島を通ってイタリアの商船に連れられて入り込んだからさあ大変。モンゴル高原では今日でもペストの発症が後を絶たないそうだが、当時のヨーロッパでは11世紀に十字軍などを通してか住み着いた黒い「クマネズミ」が発展する都市のお食事所を駆けめぐるネズミ革命で爆発的増加を遂げていた。古代エジプトを真似てか12世紀から猫が退治のために飼われ始めたが、到底立ちゆかない。立ちゆかない所に、ペスト菌が持ち込まれてイタリアを恐怖にたたき起こすと同時に、リンパ腺が腫れて膨らみ、前進に紫色の出血性の斑点が現われる腺ペストから、空気感染を引き起こす肺ペストと云う恐ろしい奴に変身して、ネズミネットワークだけでなく、空気を通じて広がっていったから大変な事態に陥った。この肺ペストの奴は皮膚リンパ症状が無く、代りに血痰が現われたと思ったらすぐに喀血(かっけつ)して心機能低下で即返らぬ人になってしまうとんでも無い奴で、これが広がりながら天候不順と慢性飢餓に喘ぐ弱った貧民を絶好の媒体として、農村を潰し人口の拠点である都市を繋ぎながら1347年から49年に掛けて、ヨーロッパ中を荒らし回ったのである。この「47-49」に掛けて「よなよなシクシク」と無く声が都市に響き渡り、病人を看病する修道院などでは次々に修道士がペストに倒れ、村が丸ごと潰れるところもある中、ボッカッチョの登場人物達はフィレンツェを逃れ、近郊で毎日10話ずつ10日間の物語を語り合う男女10人物語を楽しむなど、不埒な秘密遊びを繰り広げたが、その「デカメロン」の中にも「死の斑点が現われて3日以内に、大抵熱も出さず、変わったこともなくばったばったと死んでいくのであります。恐るべき脅威の力を前に、私たちはどないすべきでありましょうや。」みたような事を書き記している。
 こうして他の14世紀のペスト流行も含めてフランスで1/3、イギリスで1/5の人口が失われたとされているから、その恐怖感たるや大変なものだった。しかも様々な感染症が立て続けに14世紀を覆い、気候不順により14世紀前半だけでも8つもの凶作があり、そんな中で病気の動物まで食い物にして率先して各種病原菌に感染しながら、慢性の恐怖に怯える、呪われた歯車の中に投入されたようなものだ。農民から、都市市民から、高貴な身分でも、聖職者でもお構いなしに命を奪っていく感染症の恐怖感から、14世紀後半から15世紀に掛けて「メメント・モリ(死を想え)」という負のスローガンが広まり、死へのマニュアル本「よく死ぬるための技術の書」が普及。さらに王侯貴族農民商人誰もが墓地に向かうダンスに引きずり込まれる様子を表わした絵「死の舞踏」が流行し、これは托鉢修道士の説教から宗教劇に進出して、実際に教会や墓地で上演された可能性もある。丁度広まりつつあった木版画の普及で、この「死の舞踏」の版画の安価な制作が大量に作られ、まるで免罪符を買いあさるドイツの民のように購入を試みた。死への恐怖は王侯貴族達の刹那的な生への欲望、物への欲望を生みだし、ブルゴーニュ公国における1454年のキジの宴では、大テーブルのパテの中で28人の楽師が演奏するとか、無茶苦茶な絢爛豪華でどんちゃん騒ぎを繰り広げながら、その出席者達が同時に「死の舞踏」を流行させると、何処の都市でも男性の服装が流行を追いかけまくってどしどし変化したり、都市市民まで享楽的生活を命あるうちに謳歌し、これに対して奢侈条令が出されても、怯む事無く豪華さを追い求めた。
 しかし、一方では我々の生の堕落が神の怒りに触れたと自らをムチで打ちながら練り歩く「むち打ち苦行団」の運動が沸き起こった。これはすでに南イタリアのフィオーレ修道院長ヨアキムが、世界終末の年だと予言した1260年にイタリア中部のペルジアから発祥したもので、イタリア各地に広まりやがて「信心会」となって制度化されていたが、これがペストの時に過激化して、下層民だけでなく貴族達を巻き込み、ドイツ、フランスなど各地に広まっていった。酷い場合には革の鞭に釘を挟み込んで血が出るに任せ苦しみを持って神への謝罪を求めたが、血が出るまでムチを打ち続けたり、聖女らの幻視でもやたらと血が流れまくるので、民族の本質に流血への憧憬が流れているのかと思いたくさえなってくる。中世では病気は体液の乱れで、血液、リンパ液、黒胆汁、黄胆汁4体液がバランスを崩すと、発祥するとされ、対処は食事療法と、過剰になったと解釈された血液を排出する瀉血(しゃけつ)だった。この瀉血を遣っていたのが当時医者も兼ねていた理髪屋だったので、後になって赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表わしぐるぐると床屋の前で回るサインポールが誕生したそうだ。同じ体液説の影響から、閉経後の女性は忌み嫌われ、それいぜんに女性自体が怪しいとヒステリック気味になった魔女裁判まで敢行される始末、不寛容の時代が到来したのだろうか。ペストを科学的に証明できないため、至る所でユダヤ人こそが井戸や泉にペストの毒を入れた張本人だという説が沸き起こり、「打ちのめせ」と都市を追い立てられたり、ユダヤ人とハンセン病患者が結託したのだ、「打ちのめせ」と云われユダヤ人狩りが行なわれたり、挙げ句の果てにユダヤのくせに生意気だといっては、「打ちのめせ」と捕らえられ、迫害が1320年から40年代をピークに、15世紀末まで断続的に続くことになった。この不寛容の精神は、精神異常者や乞食に石を投げつけては大笑いする、虐め革命を生み出したが、無邪気な子供が率先して「石を投げろ、石を投げろ、ぶてぶて」と叫んでは、浮浪者としてうろつく巷の楽師を足でけっ飛ばしては転がして遊んでいる始末だった。
 フランス1328年統計から類推される1500万から1800万の人口は、18世紀末に漸く回復するほどに減少した人口は、自然による人口コントロールを兼ねた面もあったかも知れないが、ある種の後退現象を引き起こし、これが元になって14世紀後半には収入減少を防ごうと農民を縛る動きが拡大、貧農と富農の落差による村内での対立に、領主の飢饉や課税に対する反動政策に対して大反乱が起こり、北フランスのジャックリーの乱(1356)や、イギリスのワット・タイラーの乱(1381)などが勃発し、悲しい鎮圧を向かえることになるが、次第に領主側が譲歩せざるを得なくなっていく。また、13世紀後半から14世紀にかけては、農民に限らず都市でも反乱が起こり、これは13世紀中は市民と貴族の対立的だったものが、この時期になると上層市民と下層民の対立が都市支配層の思惑と絡み合いつつ動乱を引き起こすようなものだった。この後退期のデフレーションの中でフランスやイングランドなどでは、戦費調達もあり収入を貨幣に切り替える政策が行なわれると、その後の領主的貴族達の没落は確定的になった。ただしグーツヘルシャフトが作られた中東ヨーロッパだけは、ますます持って封建的領主制が漲っていくのがこの時期の特徴である。

百年戦争

 中世後期は戦争の世紀だった。フランスだけを見てもフランドル・ギュイネンヌ戦争(1294-98)、フランドル戦争(1302-1305)、百年戦争(1339-1453)と続き、しかも戦争が終わればならず者として国内を荒らし回る傭兵軍団が活躍する時代が到来したのだった。ブリテン島でもバラ戦争が1455-1485年に掛けて勃発し、国内の荒廃と貴族達の没落、さらに騎士達の精神世界も捕虜処刑などによって騎士道精神は完全に消え、やがてヘンリー7世がリチャード3世を破りテューダ朝を開くというテューダー伝説(テューダー朝が国内演出と貴族没落からイングランドを救ったというプロパガンダ政策によってバラ戦争が大動乱だったように見せかけられたという)が残されているぐらいだ。ではその流れのなかから、百年戦争を覗いてみることにしよう。
 パリ伯ユーグ・カペーがフランス王(ただし支配地は実際上パリ中心の狭い土地であるイル・ド・フランス、つまり河に挟まれた「フランスの島」のみ)に選任された987年から血族内で王朝が維持されていたカペー朝がシャルル4世(1294-1328)が男子を残さないでお亡くなりて、かつてルイ9世の長男がフィリップ3世として国王に就任していた頃に子供の一人に与えたヴァロア伯の血筋から、フィリップ6世(在位1328-1350)が国王就任を果たしてヴァロア朝が開始した。そこにイングランド国王エドワード3世(在位1327-77)が割ってはいる。ピピンでもルパンでも事を起こすのは昔から3世と決まっているそうだが、先の国王エドワード2世と例のフィリップ4世の娘であるイサベル・オブ・フランスの子供だった3世は、負け犬ジョンが奪われたもののアキテーヌからアンジュー、ノルマンディーに至る領土は元々我々の土地だという意識もあって、フランスの次の国王に名乗りを上げたのである。これには毛織物工業によって栄えるフランドル地方に輸出する大量の羊毛によって、イングランドがフランドル経済圏に密接に関わっていたことも大いに関係していた。すでにフィリップ4世時代に、フランドル伯領を直接収めようとしたフランス国王に対してイングランドが勢力阻止を目指すなど、イングランドとフランスは、フランドルを通じて大きく利害が衝突していたのである。さらにイングランドは、ワインの名産地としてのギュイエンヌ地方も本国へのボルドーからのワイン輸出のために権益を拡大しておきたい思いもあり、王位継承は俺様にもあるぞとエドワード3世が名乗りを上げたわけだ。
 しかしこの時は結局問題にされず、まあアキテーヌ公としての立場だけはフランス国王に臣下の礼を形式的に行なうことで継承することになったが、その後エドワード3世が1333年にスコットランドに攻め込んだとき、敗北したスコットランド王デイヴィッド2世がフランスに逃れフィリップ6世に「助けておくんなさいまし」と泣きついたことから、新たな様相を見せ始め、怒れるエドワード3世は「3世だけがヒーローになれるのだ!」と叫びながらフランス国王の反対派貴族を保護、これに対して「6世の方が3の2倍だ!」と一層意味不明な言葉を返すフィリップ6世が、アキテーヌ公領を3世から没収すると、1337年3世はかつての臣下の礼の撤回とフランス王位継承を宣言し、11/1を持ってヴァロア朝に対して宣戦布告を宣言したのだった。
 6世が行けてない番号だったことはやがて明らかになった。フランドル諸都市と共同戦線を張ったイングランドはフランドルに進行、1340年の海戦には勝利したが、その後の内戦が泥沼化し、休戦と戦争を繰り返すが、ブルターニュの後継者争いであるブルターニュ継承戦争でもフランスと争い、休戦がなるまでにイングランド軍の前線を確保、そして1346年ノルマンディに上陸したイングランド軍はクレシーの戦いにおいて、3世の息子で戦上手の残虐非道エドワード黒太子(黒鎧に身を包むたくましい奴)の活躍でフランス軍を圧倒し、フィリップ6世の泣き顔を楽しみながら、イングランドとの最も重要な港であるカレーを占領してしまった。ついでにスコットランドで楯突くデイヴィッド2世をとっつかまえて、1347年に教皇クレメンス3世によってフランスとの1355年までの休戦協定が結ばれたが、その間に14世紀をどん底に叩き落とす死の死者ペストが大陸中に蔓延したために、平和条約の終結が急がれた。しかし、衝撃の余韻からか1350年に亡くなった6世の跡を継いだフランス王ジャン2世(在位1350-1364)が、決まりかけた和平条約の内容を蹴飛ばすと、それに対して「まだお前は3世じゃない!」と叫んだエドワード3世の軍隊が再びフランスを目指す。
 しかし今度はボルドー側から兵を進めるイングランド軍は、またしても「14世紀のダース・ベーダー」とも言われるエドワード黒太子(1330-1376)を戦闘にポワティエの戦いでジャン2世の軍隊を返す言葉もないまでに打ち破り、呆然と立ちつくすジャン2世を網ですくって捕虜にしたイングランド軍は、これをオリにぶち込んでロンドンまで連行する始末だった。残念なことにそのまま捕虜になられたので、摂政として国内政治を行なっていた長男のシャルルがシャルル5世として国王に就任することにした。
 「税金の父」のあだ名を持つシャルル5世賢明王(在位1364-1380)は財政破綻寸前のひずみもあってかパリを牛耳っていた商人達を統括するエティエンヌ・マルセルという奴をパリ包囲によって目出度く殺害すると、イングランドとの和平条約に着手。その間にも農民の大反乱であるジャックリーの乱を1358年にジックリー片づけるなどの手腕を見せた。囚われ人のジャン2世が勝手にイングランドの領土割譲に「結構結構私の体に比べたら安いものです」と頷いてしまったために、シャルル5世が3部会でこの和平案を否決、イングランドが占領したカレーを港にして軍を上陸すると、相手の誘いに乗らずお帰りを待つなどしているうちに教皇様の取りなしもあって、結局1360年にアキテーヌ、カレー、ポンテュー、ギエンヌの割譲と、困った親父様ジャン2世の身代金が決定したが、ジャン2世は仮保釈中身代わりの人質が逃亡したのを騎士道精神に則って自らの責任と為して牢獄に帰っていったので、2代目囚われ人として人々の嘲笑と賞賛を半々に受けつつイングランドで息を引き取った。
 シャルル5世はそんな茶番には関わっていられない。国内財源の確保を全うすべく、1355年に全国的に行なう臨時徴税を、改めて定期的な通常税収に移行させ、完全に年貢取り立てから税収入へと国家の財源をシフトさせた。だから付いたあだ名が「税金の父」なのだ。しかし結局ブルターニュ地方の継承とカスティーリャ国王の就任問題などに絡んでフランスとイングランドとの争いは継続、ブルターニュで1364年にイングランドに破れたシャルル5世は、イングランドの押すブルターニュ公ジャン4世の継承を認めたが、代りに臣下の礼を取らせて何とか乗り切った。
 1366年、イベリア半島のカスティーリャ王国で不信に喘ぎ配下の貴族を処刑しまくりの噂のある「残酷王」ペドロ1世を廃して、エンリケ・ド・トラステマラを国王にしようと目論んだシャルル5世は、ベルトラン・ヂュ・ゲクランを大将にフランス軍を遠征、見事エンリケ2世(在位1369-1379)がカスティりゃ王国トラスタマラ王朝を開始したが、ペドロ1世が事もあろうにアキテーヌ公になっていたエドワード黒太子を頼ったために、イングランド軍がカスティーリャ王国に進軍。哀れヂュ・ゲクランは捕虜にされ、ペドロ1世を国王に再任させた。しかしこの時の戦費がアキテーヌ諸侯の怒りを買ってエドワード黒太子に不服の意をパリに伝えれば、結局出頭しない黒い奴の領土没収とし、協定違反だと叫ぶイングランドと戦争が開始した。
 一度は捕われたデュ・ゲクランが1370年まずカスティーリャでペドロ1世を叩きのめしエンリケ2世を返り咲かせてパリに戻ると、続く同年のポンヴァヤンの戦いでイングランドを撃破。1372年にはポワティエを始め要点を占領、遂にブルターニュ地方のほとんどをフランス勢力下に置き、フランスは1377年にエドワード3世がマショの死に合わせて亡くなると、ブルターニュ併合を宣言。しかし結局ブルターニュ地方の諸侯が大騒ぎするので、1380年にシャルル5世が亡くなると、この地方はブルターニュ公に主権が返された。

第2ラウンド

 こうして平和交渉はそれぞれ次の国王であるイングランドのリチャード2世(在位1377-1399)とフランスのシャルル6世(親愛王、狂気王)(在位1380-1422)に引き継がれる。リチャード2世は例の黒い奴、エドワード黒太子の子供で10歳にして摂政付きの国王になった男で、ちょうどシャルル5世が亡くなった1380年に、かさむ戦費調達のための人頭税導入を図ると翌年沸き起こった農民と労働者の反乱ワット・タイラーの乱が沸き起こったときに、面会に応じたら、ロンドン市長がワット・タイラーを刺し殺してしまった事件に名を残している。彼はその後も続く王家内乱に身を投じ人望離れて1399年に捕らえられ、ロンドン塔に幽閉された後、翌年ずたぼろの生涯を閉じたという。一方のシャルル6世は、百年戦争後半部の状況を生み出した責任を負うはずの国王だが、1388年から親政を開始、しかし1392年にブルターニュ地方でのイングランドとの敗戦の後、フィリップ6世に続く、呪われた6世伝説に打ちのめされて、精神錯乱状態に陥ってしまった。これには一説によると宮廷内での血みどろの争いについて行けず、重心から「このフランスで生きるには、あなた様はあまりにもお優しすぎるようにございます。」と云われ、差し出された毒を飲んだものの、死にきれずに頭が錯乱してしまったという出任せもある。幸いこの年のうちに、1398年から1426年までの前面休戦の協定が結ばれ、しばらくイングランドとの血みどろの抗争は遠のくかに見えたが、この錯乱状態につけ込んだ、彼の伯父に当るフランス北西に広がるほとんど独立国家な大勢力であるブルゴーニュ公を中心とする勢力と、シャルル6世の弟であるオルレアン公を中心とする勢力が、互いにフランス内で凌ぎを削る忌まわしい状態が起こり、両勢力が互いに進んでイングランドに援軍を求めるなど、とんでも無い状況になってしまった。これがいわゆるブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立で、これを見ていたイングランド王はヘンリー4世を越えてその息子ヘンリー5世(在位1413-1422)になってから、休戦を破棄してフランスに進軍、1415年アジャンクールの戦いで7000対20000の兵力の差をロングボウを使用することで逆転させ完膚無きまでにフランス軍を撃退した。(重いフランスの重装騎兵が泥にすくわれ、イングランドの軽装歩兵に敗退したのが原因だとも。)さらに1417年にはノルマンディの首都だったルーアンまで陥落させ進軍を進めると、フランス内ではブルゴーニュ公がシャルル6世の子シャルル王太子を追放すれば、シャルルがブルゴーニュ公ジャンを殺し、分裂を極めていたので、イングランドはこの時とばかり、次のブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン(おひとよしのフィリップ)と手を携え、アングロ・ブルギーニョン同盟を結成、翌年1420年にトロワの和約を成立させた。シャルル6世が亡くなった後はフランス王女と結婚をしたヘンリー5世がフランス王となる事を決定した。
 残念ながら1422年にシャルル6世だけでなくヘンリー5世も一緒に亡くなってしまったため、イングランドは幼いヘンリー6世を国王にしフランス王位継承も宣言するが、それに対してシャルルは自らシャルル7世(勝利王)(在位1422-1461)と名乗りフランス王の正統を主張、ここに至って2人の王が擁立し、イングランド側北方勢力はベッドフォード公ジョンをフランス王の摂政の立場に置きノルマンディーとパリ一帯を支配した。ベッドフォード公はシャルル7世の攻略を進めついにオルレアンを包囲、これに対してシャルルは1429年啓示を受けてご登場したジャンヌ・ダルク(1412~31)(ダルクは後世に父親のd'Arcから付いたもので、当時は単にジャンヌとかジャネットと呼ばれた)も動員してオルレアンをイギリス軍の包囲から解放。ジャンヌ・ダルクは大天使ミカエルだけでなく聖女マルガリータと聖女カテリーナの声にしたがって生まれ故郷のドンレミ村から、シャルルの元に登場したのだった。この大天使ミカエルは、「慈悲の」ガブリエル、ラファエル、ウリエルを合わせた大天使4人組みの中でも最高の権威を持ち戦士の守り神でもあり国家守護だったから、これはシャルルにとっても大いに箔が付く、シャルルの方は「聖遺物が存在しない大天使だから、誰でも幻視出来るのかしらん、せっかくだからシンボルに使ってみようかしら」と思ったかどうだか、彼女をオルレアン攻略に参加させたが、この戦争は実際の所イングランドのベッドフォード公ジャンが、捕虜にしているオルレアン公の領土を封建法に背いて攻めることによってシャルルを引くことの出来ない状態に追い込んで、包囲には参加しつつも様子見のブルゴーニュ公を引きづり込む形で決戦状態を仕立てようとしたのが、ブルゴーニュ公が封建法違反を建てに包囲の兵を引き上げ思い切り当てが外れ、それに対してシャルルが兵力を投入し、戦線が伸びきったオルレアンを守りきれなかったのが原因で、戦略上で破れていたようなことが、堀越孝一の「ブルゴーニュ家」(講談社現代新書)に書かれていた。どうやらジャンヌ・ダルクはその包囲線で旗でも持って味方の兵士を鼓舞するぐらいの意味だったようだが、ジャンヌ・ダルクについては19世紀にナポレオン3世が仕組んで以来ますます迷信が現実化して伝説を史実に変えたり、資料を美味しいとこだけ引用して、意味を置き換えたり、しちゃかめちゃかになっているため、徹底的に見直しが必要らしい。一方、明確な資料などは元来大した重要人物では無かったために、乏しいのは仕方がないが、「ジャンヌ様がフランス民衆の御心を一つにしてうだつの上がらないシャルルを戴冠させて国王様にさせておあげたのが百年戦争におけるフランス勝利の瞬間だ」のような雄叫びばかりがウェブ上に多々存在するのは不可思議だ。その後ノルマンディ進軍を叫ぶジャンヌの事は放っておいて1429年ランス大聖堂で戴冠を上げ、北フランス諸都市を女騎士の恰好でジャンヌ・ダルクを同行させたシャルル7世は、国王戴冠のデモーストレーションを行ないつつ、ブルゴーニュ公との仲直りを模索、ジャンヌが勝手に優柔不断と解釈して騒ぎ回ったためか、駄目駄目シャルルの伝説が生まれてしまったが、アルマニャック派とブルゴーニュ派の対立を修復することが対イングランド戦争のキーポイントであるとよみ、ジャンヌ生前も死後も一貫してこの政策に沿って行動を取っているのだから、云ってみればそんな解釈は大きなお世話だった。まあ、神の声を聞いた乙女の祝福を受けた国王戴冠の北フランス側の人々へのアプローチとしては、非常に有意義だったには違いない。ジャンヌ・ダルクの使命と役割はシャルル7世にとってはここで終了したようなものだった。彼女は本当は戴冠式にさえ参列していなかったという話もある。もっとも、その方が当然だと思うのだが。ジャンヌはその後軍隊を引き連れてパリ包囲戦に破れ、撤退と解散を命じられれ仕事替えを命じられてもなお、天からの啓示を信じて勝手に傭兵を集めてコンピエーニュの町に突撃して、勝手にブルゴーニュ軍に捕まって、イングランドに引き渡されたとか、詳しい話は調べないと分からないが、シャルル7世が身代金を引き受けるべきだったとか後々とがめを受ける必要性はあまり感じられない。まあ、それにもかかわらず、今日一般人には圧倒的にジャンヌの方が名声高いのだから、名前を誰に利用されようと火刑になって真のヒロインになったと云えなくもないか。
 1435年にアラスの和約で目出度くブルゴーニュ公と条約を終結し、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立を終結、継続するイングランドとの戦争では1449年ルーアンを奪還し、翌年ノルマンディまで軍を進め、1453年のカスチョンの戦いでギュイエンヌを奪還すると百年戦争に終止符を打ったとされている。しかし彼にとっては、戦争中から行なっていた、財政再建、官僚機構の整備、王国常備軍などの国家機構の整備が戦後控え、晩年は次の国王ルイ11世となる息子との対立もあり、心の百年戦争は年中無休だったのかも知れない。
 これに対して百年戦争敗退で一大批判を浴びたヘンリー6世は、1455年にヨーク公リチャードの反乱が起こり、イングランド内を2分するバラ戦争(1455-1485)が勃発すると、1461年、そのリチャードの息子エドワード4世(在位1461-1483)によって王位を奪われた。その後一瞬だけ復位したと思ったら、1471年王妃マーガレットと共に捕らえられ、ロンドン塔で暗殺されてしまうのである。ここから先はバラ戦争の物語だが、いち早く国内安定を向かえ15世紀末にはイタリアに進軍するフランスと、後30年を戦争に費やしたイングランドの差は、次の世紀に大きな差となってイングランドにのし掛ってくるのであった。

バラ戦争(1455-1485)

 例のマショと一緒に天上に昇っていった百年戦争勃発のイングランド王エドワード3世(在位1327-1377)には、エドワード、ライオネル、ジョン、エトマント、トーマスという息子があったそうな。上のエドワードは1343年に皇太子となり黒い鎧に身を固めブラック・プリンス(黒太子)と呼ばれつつ、百年戦争に活躍し、後年は病気がちになりながらも父に代わり実政をサポートしながら、おとっつぁんのエドワード3世より先になくなってしまったので、77年にエドワード3世が亡くなった後は、黒太子の息子がリチャード2世(在位1377-1399)として即位した。
 それに対して黒太子の弟である真ん中のジョン・オブ・ゴーントは、ランカスター家の一員となった。このランカスター家は1267年に起源を持ち、ノルマン上陸より起こったプランタジネット朝のヘンリー3世が息子エドマンドにランカスターの伯を与えたことがきっかけで、名門の家系を誕生させていたが、1351年にエドマンドの孫ヘンリーの時に公の称号を与えられランカスター公となった上、1359年にジョン・オブ・ゴーント(1340-1399)が、ヘンリーの娘と結婚して、ランカスター家の代表者となって、ボリングブロク城で息子ヘンリー(ヘンリー・ボリングロク)を誕生させたが、彼こそは後のランカスター朝を開始するヘンリー4世(在位1399-1413)だった。
 一方エドワードの弟であるエドマンド・オブ・ラングリーは1385年にヨーク公という称号を獲得して、これを持ってヨーク家が誕生していたが、後のバラ戦争は、このエドワード3世の息子達と結びついたヨーク家とランカスター家の王位継承を巡る争いだったのである。
 ジョン・オブ・ゴーントは、宗教改革の狼煙に火を付けたジョン・ウィクリフを保護した人物でもあるが、彼が1399年になくなると、政治上強力な発言権を持ったジョン・オブ・ゴーントの勢力を削ごうと、国王リチャード2世は、ランカスター公領の没収と息子ヘンリー・ボリンブロクの追放を命じたが、その年ヘンリーが兵を挙げると諸侯はヘンリー側につき、リチャード2世はあえなく降伏してロンドン塔に閉じこめられたまま議会で廃位の手続きが完了。国王は目出度くボリンブロクがヘンリー4世(在位1399-1413)として即位、これを持ってランカスター朝が開始する。幸運なことに彼をサポートする皇太子は優れた人物で、父が亡くなるとヘンリー5世(愛称ハル)(在位1413-1422)として即位し、1415年にはアジャンクールの戦いでフランス軍を完膚無きまでに叩きのめして、1420年にフランス王女キャサリンと結婚してトロア条約を締結。フランスのシャルル6世が亡くなった後は、ヘンリー5世がフランス国王を兼ねることが約束された。そのままもう20年も生き延びれば、歴史が変わっていたかも知れないが、残念ながら1422年にお亡くなりて、そのキャサリンとの間に生まれた生誕9ヶ月のヘンリー6世(在位1422-1461、1470-1471)が国王に就任、この時トロワ条約から彼がフランス国王を兼ねることが宣言され、イングランドの国王後見人にはヘンリー5世の兄弟であるグロスター公ハンフリーが選ばれ、一方大陸では同じくヘンリー5世の兄弟であるベドフォード公ジョンが国王の摂政という立場でノルマンディーからパリ一帯を支配下に収めつつ、フランスのシャルルを打ちのめすために作戦を練った。しかしまたしても呪われた6世伝説を乗り越えることは出来なかった。百年戦争はオルレアン包囲戦でブルゴーニュ公の援助を得られず敗退、シャルルは調子が出てきてランスで戴冠式を演じて、ジャンヌ・ダルクと町中を浮かれて練り歩いていると云う、その後も戦局は一進一退だがやがて1435年にはブルゴーニュ公とシャルル7世がアラス条約を締結して、頼みのベドフォード公ジョンも亡くなってしまった。こうして百年戦争は次第に旗色悪くなり最後に1453年にカスチョンの戦いに破れてボルドー方面ギュイエンヌから撤退、百年戦争は幕を閉じるのである。これによって国王ヘンリー6世への非難は一斉に高まるのであるが、それだけじゃあない。どうもこの国王はシャルル6世の呪いか、それとも単に6世という数字の呪いか知らないが、どうも精神が少々お優しすぎて頭の回路が混線しがちだったのである。そして1453年に百年戦争が終結すると、その年精神の病に見舞われてしまったのだ。このお優しさがグロスター公ハンフリーと枢密会議の中心人物である、ジョン・オブ・ゴーントの息子にしてヘンリー4世の弟に当るウィンチェスター司教ヘンリ・ボーフォートであり、彼は兄弟甥などで勢力を固めサマーセット伯エドマンド・ボーフォート、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールを動かし国政を握ると、王妃マーガレット・オブ・アンジュとも連携を取りながら、グロスター公の力を弱め権力強化を図ったが、百年戦争が敗退すると国内反対勢力と共にグロスター公が立ち上がった。危ない危ないと彼を捕まえて牢獄で心臓発作と云うことでグロスター公に消えて貰うと、今度は百年戦争時に活躍していた次の国王に近い男であるヨーク公リチャード(エドワード3世の子であるヨーク公エドマンドの息子)が、ネヴェル家の家系と婚姻関係で結びつき力を拡大しつつ新たな反対勢力としてクローズアップされてきた。ついに1455年にはセント・オールバンズの戦いによって軍事行動が開始され、以後ヘンリー7世によってテューダー朝が開始する1485年までの戦争を、今日ではまとめてバラ戦争と呼ぶ慣わしになっているが、これはシェイクスピアが「ヘンリー6世」の中で貴族達が互いに赤バラと白バラを摘み取った逸話から生まれた名称で、19世紀になってから生まれた名前だ。白と赤の徽章すら実際は正確な歴史認識でない。

第1ラウンド

 まず王妃とサマーセット公の動かす国王軍と、ヨーク公を中心とする軍隊が繰り広げる幾つかの戦闘が行なわれ、1460年のウェークフィールドの戦いでヨーク公リチャードは戦死してしまうものの、彼の息子エドワードを中心に巻き返しが図られ、一方王妃軍は資金が底を突き傭兵を賄えないため、傭兵軍に資金調達の略奪を許可、バラ戦争で数少ない大量略奪の惨劇が王妃軍の進軍に合わせて繰り広げられ、大いに人望を失いつつ進軍するが、ついに1461年、イングランド史上最大の死者数を出したと云われるほどのタウトンの戦いでヨーク軍が勝利、国王軍は遺体の結果王妃はおろか、国王のヘンリー6世と息子のエドワードまでスコットランドに逃亡し、エドワードが国王エドワード4世(在位1461-1483)として就任した。このヨーク公リチャードとネヴェル家の娘さんシシリー・ネヴェルの子供達こそ、エドワード4世を筆頭に、クラレンンス公ジョージと、後にリチャード3世(在位1483-1485)になるリチャードのヨーク3兄弟で、これに先に登場したランカスター朝のヘンリー6世とその妻マーガレット、それに2人の息子であるエドワードを登場させれば、おおよそシェイクスピアの「リチャード3世」のストーリーが展開できるようになる訳だ。

第2ラウンド

 バラ戦争の第2ラウンドはヘンリー6世の一瞬の返り咲き国王事件と関係して起こった。ランカスター派を掃討したエドワード4世は、ヘンリー6世も捕まえてロンドン塔に封じ込めると、国王就任に恩のあるウォーリック伯と対立するようになり、愛人であるエリザベス・ウッドヴィルと結婚し、彼女の前の夫との子をドーセット伯としたが、ウォーリック伯が進めていたブルゴーニュとの同盟による親フランス路線を蹴飛ばしたため、ウォーリック伯はこっちに付きそうなエドワード4世の弟、クラレンス公ジョージに近づき転覆を模索し、1469年には国王を捕らえたが、私の命じるままに閣僚を認める条件で釈放した甘さが命取りになった。ランカスター派の反乱討伐に親国王の者だけを引き連れて出かけたエドワードは、この反乱軍がクラレンス公ジョージを王位にすべくウォーリック伯が仕組んだ証拠を掴んだと意気揚々と攻め返って来るので、ウォーリック伯とジョージは揃ってフランスに逃れる始末だった。しかしウォーリック伯は直ちにヨークシャーで反乱を起こしつつ自らジョージと共にイングランドに上陸、反乱を収めるべく国王軍が出かけているロンドンに入ることに成功し、軍隊を組織してヨークシャー反乱軍と国王軍を挟み撃ちしたので、もろくも崩れ去ったエドワード4世は国王から転落してオランダに逃げ延びた。ここでウォーリック伯はロンドン塔で滅亡寸前のかつての国王ヘンリー6世を再び娑婆に送り出し、再度国王に返り咲かせてみたが、不安を感じる王妃マーガレットと息子エドワードはフランスから戻ってこなかった。この亡霊国王の再任に驚いた人々はウォーリック伯の事をキングメーカーと呼ぶようになったのだ。一方元国王となったエドワード4世はブルゴーニュ公から軍隊を借りて、再度イングランドに上陸、少し前までエドワード4世よりもウォーリック伯こそが親ブルゴーニュ公だったのだが、この辺ブルゴーニュ公の事情も気になるところだ。上陸した元国王は味方を召集しつつ敵軍を旨くすり抜け首都を目指したら、例の反旗の弟クラレンス公ジョージまで「兄さん、左の頬を一発ぶってくれ」と叫んで兄の元にはせ参じる始末だった。こうしてエドワード、ジョージ、さらにグロスター公リチャードの3匹揃って兄弟三位一体攻撃が可能になり、1471年4/14にバーネットで戦闘が開始され、3人の見事な戦略に踊らされたウォーリック伯はついに徒歩でお逃げなさっているところをあえなく戦死なされ、エドワード4世の勝利となったが、ちょうどその日、フランスを出発した例のヘンリー6世の妻マーガレット王妃と息子エドワードがイングランドに上陸、ランカスター派の兵を集めつつ首都を目指し、1471年5/4のテュークスベリーの戦いが開始した。もちろん三位一体攻撃にランカスターの攻撃も及ばず、エドワードの勝利となったことは言うまでもない。この戦いでランカスターの貴族の大半が戦死か捕らえられ処刑され、エドワード4世はすでに国王に再任していたが、ここでヘンリー6世の息子エドワードの息の根を止めると、ヘンリー6世もロンドン塔でこっそり殺してみた。残されたマーガレットはロンドン塔に5年間封印された後、父親の身代金によって釈放されたそうだ。その後残党を整理しつつ、兄弟を要職に付けたが、例の裏切り三昧な弟ジョージがまた反乱を画策しているので、呆れて1477年にマショ没後100周年を記念して(という訳ではないが)引っ捕らえてロンドン塔に幽閉したところ、怪しい暗殺でもあったものか翌年2月には亡くなってしまった。

第3ラウンド

 エドワード4世が1483年に天上人になると、息子のエドワード5世(在位切ない1483年4/10-6/26)が12歳で国王に就任、エドワード4世の下で勢力を持ったヘースティングス卿とスタンレー卿トーマス、さらに今や最高の力を持つ筈のグロスター公リチャードが内部抗争を再燃させた。さくさく行動タイプのリチャードはバッキンガム公ヘンリー・スタッフォード軍と共にロンドンに向かう途中のエドワード5世を拘束、これに対してドーセット伯は国外に避難、母エリザベス(つまりエドワード4世の妻)はウェストミンスター修道院に逃げ込んだ。続いてヘースティングス卿を処刑したリチャードは、「不満の冬はまだ終わらん」と云いながらエドワード5世は私生児であったとして、俺様の正当性を持ってリチャード3世(在位1483-1485)として、輝ける3世伝説を継承しようと考えた。「エドワード5世前国王と、弟のヨーク公リチャードには、特別ロンドン塔内にファーストルームをお作りしておきました。なんといっても、外では風辺りが強いですからな。」とは云わないだろうが、2人をロンドン塔に幽閉、続くバッキンガム公とリッチモンド伯ヘンリー・チューダーが起こした反乱を鎮圧しバッキンガムを処刑すると、ヘンリー・チューダーはフランスに逃れた。彼はややこしいながら頑張って遡れば、エドワード3世の息子ジョン・ゴーントの、ヘンリー4世じゃない方の息子ジョン・ボーフォート、そいつが生んだ同名のジョン・ボーフォートの娘であるマーガレット・ボーフォートと、チューダー家のリッチモンド伯エドマンドが結婚して生まれた子供で、ランカスター家とそれほど強力な繋がりがあるわけでもないが、ランカスター側の要人が悉く居なくなった今となっては、ランカスター側の血を引く最後の男となって、もちろん続くテューダー朝を成立させるヘンリー7世になる人物だ。
 ヘンリーは再びイングランドに上陸しランカスター側の兵をかき集めながら1485年8/22、ボズワースの戦いでついに蹴りを付けた。すなわちスタンレー兄弟とノーサンバーランド伯がヘンリー側に付いたため、リチャード3世は「うまうまうまーっ」と叫びながら最後は敵の中に突撃を試み、馬から転げ落ちてざくざくと餅つき状態に陥って絶命した。  こうしてヘンリー・テューダーがヘンリー7世(在位1485-1509)となり、翌年にエドワード4世とエリザベスの娘であったエリザベスと結婚することによって、ヨーク家とランカスター家の血を一つにして、これにて一件落着と桜吹雪は見せなかったが、彼女との息子こそ後にヘンリー8世(在位1509-1547)として国内体制を確立しカトリックから英国国教会を生み出す次の時代のお騒がせ国王に他ならない。
 しかしまだ終わりではなかった、1486年のうちに前国王の支持の高い地域で反乱が起きこれを鎮圧すれば、翌年には大陸に逃げた反乱分子がアイルランド経由で反乱を継続し、これをようやく叩きのめすと、今度はロンドン塔から逃れたエドワード4世の息子の生き残りと称するパーキン・ウォーベックという奴がヨーク公リチャードとして担ぎ出され、アイルランドやブルゴーニュを継承したハプスブルク家のマクシミリアン1世までこれを認め、イングランド内での反乱が画策されつつ、最後にはウォーベックはロンドン塔に送られて、すでに捕まっていたクラレンス公ジョージの息子エドワードと共に1499年に処刑され、これを持って王位転覆の恐れの強い者達はいなくなった。
 ヘンリー7世は、ウィキペディアに従うと「星室裁判所(Star Chamber、星法庁、星室庁とも訳される)による貴族勢力の弱体化、チェーンバー制導入による財政安定化、政略結婚による同盟政策、貿易振興、新大陸経営などの政策を積極的に推進」していくが、国内政策はさらに息子ヘンリー8世によって引き継がれていくことになるのであった。めでたしめでたし。

まとめ

 このような議会など国家システムが機能したままランカスター家とヨーク家が国王継承を巡って争った戦争であったため、呪われたマーガレット王妃が略奪を許可する暴挙に出た以外は、王位継承戦争の性質から国内秩序を保つ意識が強くおおむね略奪などは抑制され、しかも実際の軍事行動はグッドマンという人の推定で428日間にすぎなかった。後にヘンリー7世以下テューダー朝が、呪われた内戦と国内荒涼で泣き濡れる民に光を差し込む俺様という歴史をプロパガンダとして採用したのが、史実をすっかりねじ曲げてしまったという噂もある。貴族家系についても大体4人に1人の家系が失われたそうだが、ただし国王周辺に群がる大貴族に限っては戦前と戦後で断絶無しに乗り越えるのは至難の業だった。したがってこれからは国民への打撃を比較的軽少で押さえた兵士傭兵にとって呪われたバラ戦争とでも呼んだら良かろう。そうはいっても百年戦争終結後に傭兵的存在がイングランドに職探し状態にあって肥大化した諸侯貴族の軍隊を生み出したこともあり、こうした傭兵がどの程度村を暴れ回ることがあったのか、調べてみないと何とも云えない。
 それにしても不可解なのは、3世という輝かしい番号を得たリチャード3世がなぜあっさり敗退して、後にテューダー朝から徹底的に悪辣非道の愚か者としてイメージを付けられてしまったかだが、恐らくヘンリーのラッキーナンバー7の方が、さらにすぐれた番号だっただけのことかもしれない。そんな意味を込めて、ヘンリー7世は、日本では「ヘンリー七瀬」と呼ばれることもあってもよい。(・・・最後はまた妄想に陥るわけですか。君もそれさえしなけりゃ良い奴なんだが。)

2005/9/17

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