西洋音楽史 吟遊詩人の行方

[Topへ]

内容について

 ある人からのメールで、中世のジョングルールやらトルヴェールなどの吟遊詩人は、百年戦争時代消えてしまったのかという質問を受けたが、著作物の又書きを記しているのみの私には答えようのない質問だったので、可能な範囲で返信したものの、答えの返ってこなかったために、別段個人のメールにもあたるまいと思って、自分の後の考えの足しにはなるだろうと考え、そのまま掲載するもの。

本文

 明確に答えてあげられるものでしたら答えて上げたいのですが、その質問は学者でもなんでもない私の範疇を優に超えています。ニューグローブという音楽事典の、日本語版でも読むことが出来れば、少しは詳しいことが分かるかも知れません。



 もっとも基本的には、それらの名称自体については、たとえばトルヴェールの時代というものは、同種の楽譜が残されている、文献に資料が残されていることなどから判断されて、それが消滅するか、著しく周辺的事象へと追いやられた場合、ピークを過ぎると判断されます。ですから、音楽史などでおおよそ何世紀から何世紀の間を、何々の時代と呼ぶのですが、それが完全な消滅を意味するという場合と、命脈を保っている場合はもちろんあり得ます。



 また、広義の吟遊詩人というものを、もし仮に

「自分で作詞して歌いその歌でもって生計を立てる人間、しばしば一つところに留まることもあれば、渡り歩くこともある」

くらいに定義するならば、実はトルヴェールはそういう人間もいたが、一方では騎士など職業を異にして、そのある場合にはトルヴェールであったという場合も多いので、トルヴェールは逆説的に吟遊詩人という言葉とかみ合わない場合が出てくるのです。

 一方でジョングルールというのは演奏している状態にスポットを当てた言葉、つまり「自分で作詞して歌う」という吟遊詩人の定義とは、まるで関わりのない、ようするに放浪の音楽提供者くらいの意味になってしまい、実は吟遊詩人という名称が、はなはだしく象徴的な言葉、つまり実際の職種を表した言葉ではなく、抽象概念としての言葉なのです。

 どういうことかというと、吟遊詩人という括りは、「歌いながら渡り歩いていた人はいなかったのでしょうか」くらいのおおざっぱな概念になってしまうので、例えばある宮廷のある時代の音楽状態を調べるにしては、あまりにも抽象的すぎると言うことが出来ると思います。



 恐らく質問の趣旨は、トルヴェール時代に象徴的だったある種の歌い手の存在が残されていたかということにあると思われるので、それについて分かる範囲で考えてみます。



「歴史としての音」(上尾信也)(1993年)より部分要約

・彼らの時代の意識としては、トルバドゥールやジョングルールというのは「芸能の違い」を示したに過ぎず、ある人がトロバール(歌詞を作って歌った)時には「トルバドゥールとしての誰それ」、歌詞を作らずに歌ったような場合は「ジョングルールとしての誰それ」と書き残したらしい。さらに「トルバドゥール」という言葉も後の「トルバドゥール評伝」で生まれた言葉で、当時のトルバドゥールの身分をあえて規定するなら、宮廷に使えるもの(家人・ミニステリアーレス)で、さまざまな階層のものが混在していた。



「西洋音楽の曙」の中の「フランスの宮廷と都市」によると

・「トルバドゥール評伝(ヴィダス)」から、楽師(ジョグラール・ジョングルール)とトルバドゥールは別のものとして書かれている。また彼らがさまざまな職業のものであり、渡り歩く宮廷と共に、金銭になりそうなところを渡り歩き、また付きしたがったりしているらしい。



 その他の資料からおおよそ次のことが言えると思います。

 まず時代背景として、彼らの発生と隆盛の時期が、ヨーロッパの著しい拡張時期であり、十字軍によるイスラーム圏への進出、封建領主たちの伸張と発展、都市の発達、人口増加、修道院の発達、貿易の拡大と商人と呼ばれるものたちの発展など、さまざまな要因が重なり合うような時代であり、それが非階級的な、必ずしも断絶されない身分制のおおらかさを、まだしも持っていたと言うことが出来るでしょう。

 その中にあって、宮廷(つまり領主の存在する場所)は絶えず領地を移りながら治める、移動する宮廷の様相を多分に持っていました。その際都市的な領域と、宮廷の領域は、必ずしも断絶していなかったようです。職人たちが宮廷での演奏に接することが出来たりといった。

 そうして領主に従う騎士たちにとって、騎士らしさの道を説く騎士道、宮廷らしさが高まって、さらに騎士ものの物語の流行などに合わせるように、つまり宮廷的な歌として、このトルバドゥール、北に移ってトルヴェールなどは生まれてきたようです。



[その特徴]

・単旋律による、多くは当地の俗語を使用したこと(そのため、職人などが歌い手になることが可能だった)

・基本は無伴奏で歌われたか、楽器の使用がどの程度あったのかは必ずしも明らかでない

・領主、騎士、聖職者、職人などさまざまな階層のものが歌い手になった一方、その上で多分に宮廷的なものと考えられ、そこで歌うことをこそ目的とされた。



 カプドイユが「ヴィエールを奏で、歌うことにたけていた。軍にあっては優れた騎士で……」などと讃えられ、ライモン・ヴィダルが「聖職者・市民・農民」でさえも、だれもが作曲し歌うことが可能だったと歌うように、特定の職業的吟遊詩人ではなく、歌っている状態がトルヴェールなどと呼ばれていたらしいことが示唆されます。

 これについては、平安時代の歌人について考えてみると、たとえば紀貫之や藤原定家は歌人として有名ではあっても、やはり貴族として官職を得てその上での優れた歌人(和歌の巧み)と見なされていたように、たとえば騎士や諸侯の誰それの(歌の巧み)としてのトロバドゥール・トルヴェールというような、非純粋な職業としての肩書きの意味を持っていると言えるでしょう。



 ただその際、歌の巧みを極めれば、職人などでも歌の巧みな人物、すなわちトロバドゥール・トルヴェールとして、宮廷で認められて歌を披露すれば、賃金を得ることも出来る。するとやがてはまるでそれを職業みたいにして、独り立ちするような者も登場して、彼らの伝記が残されもする。と言うようなものであり、つまりこの言葉は、中世ファンタジー物語などに登場するようなある種の職業的な吟遊詩人として捉えるには、かなりの問題を含んでいると言えます。もちろん彼がもっぱら歌を持って領主に従っているような場合は、吟遊詩人的な存在には違いませんし、自分は歌によって生きているという自覚はあったには違いありませんが、一方で歌い手として歌詞を残した人物でも、領主階級の人間が、自分を吟遊詩人的な人間だと思うことはありませんから。



 13世紀のある学生の言葉のように、

「さまざまな言葉であらゆる単旋律の歌を歌いまくって、歌詞とメロディーの創造主(トルヴェール)であり、森においては輪舞(カロール)の指導者で、いわば踊りの主のようなものだった」

いわば、歌の巧み(特に歌詞の作成が重要)として活躍した状態が、トルヴェールであり、トルヴェールという職業的音楽家集団が存在したという訳ではないわけです。

 もちろんそれにも関わらず、歌によって宮廷を目ざしてこそ生きる人々は存在しました。ですからたとえばトルヴェールを、都市建設が進み、ヨーロッパが膨張していく熱気の中で、宮廷的なものと都市的な空間、あるいは聖職者の空間が、はっきり分離されないよな流動性の中、ある種の「作詞作曲兼歌い手」の称号を持って、宮廷に認められようとした歌い手くらいに捕らえるのであれば、宮廷的なものと都市的なものがより分離し、身分や階級の分化が進み、音楽は職業的な音楽家が担当し初め、彼らの演奏こそが音楽需要の中心となり、かつては宮廷の音楽需要の中のかなりのウェイトを占めたトルバドゥール・トルヴェールの歌が、宮廷の音楽需要において周辺的な役割しか果たさなくなったか、あるいはまったく顧みられなくなった時点で、彼らの名称は使用されなくなったと思われます。



 もっとも音楽史においては、楽譜や歌詞が残される期間をもって、判断するしかない、さらに音楽史は発展的に音楽のピークを追っているので、多声の世俗曲が広まると、もはや多声では個人の歌の技量の問題ではなくなるので、比較的単旋律の歌い手は、(名称が変わって宮廷でもてはやされていたとしても)登場しなくなってしまうという弊害もあります。



 ただ一般的に14世紀にもなると、音楽の専門家の分化、ギルドの形勢などが進みますから、フランス圏のトルヴェールなどはその名称で生き残ることはなかったようですが、ドイツのミンネジンガー、その後を継いだマイスタージンガーなどは、ギルドを形成することによってかなりの命脈を保つことになります。



 特に百年戦争後期の15世紀頃には、お抱えの聖歌隊員などが、シャンソンなどの多声世俗曲も歌い、いわば聖職者であり歌手でもあるところの作曲家が、それぞれ雇い主の宮廷的な世俗曲も宗教曲もまかなうという事が一般化しました。同時に都市の発展が、常雇いの楽士を抱え込み、都市的な音楽生活を、放浪の楽士(ジョングルール)ではなく、彼らによってまかなう傾向も増大していきます。彼らは宮廷的祝宴にも関わることがあったでしょう。



 そのような変遷によって出身や専門を考慮に入れず、ともかくも歌詞を作って己の歌声で各地の宮廷を渡り歩く、騎士的なものと結びついたトルヴェールのような概念自体が、おおよそ13世紀の間には廃れていったのかも知れません。



 つまり「作詞作曲兼歌い手」がいなくなったのではなく、彼らはそれぞれ宮廷の聖歌隊員としての役職にいたり、あるいは楽譜には残らなかった歌の名手として、たとえば都市での音楽生活をまかなったり、あるいは宮廷に出張して演奏を行うことはしばしばあっても、それらはもはやトルバドゥール・トルヴェール的な概念では把握されず、別の肩書きで呼ばれたということになります。

 同時にその歌い手は決して騎士の誰それとか、職人の誰それではなく、専門的な楽器の演奏者兼歌手(たとえば流しのギター弾きみたいな)という専門的音楽家と見なされたものの、決して「作詞作曲を行って歌を持って生きる者」が存在しなかったという訳ではない、ということになります。



 一応皆川達夫著作の「西洋音楽史 中世・ルネサンス」では、「封建体制の衰退」にそれらの衰退を象徴させています。また南フランスのトルバドゥールの没落を、アルビジョア十字軍(1181-1229)と結びつけています。また別の本から、このトルバドゥールの伝統が北イタリアへ移り、マドリガーレの成立などに影響を与えていることが分かります。この場合、トルバドゥールで括られる各種資料が無くなるか、著しく減少した場合をもって、その終焉とするわけです。



 一方、ジョングルールを放浪の音楽的演奏集団と見なすならば、確かに宮廷では常雇いの演奏家への変遷はあるのかも知れませんが、今日でもサーカスなどのパフォーマンスの本質が、各地を渡り歩いて賃金を獲得することであるくらい、渡り歩くパフォーマンス集団というものは、いつの時代にも存在しますから、むしろ舞踏団体、演劇を行う団体、たとえばイタリアのコンメディアデッラルテのような演劇集団、など新しい細分化された名称へと移り変わるうちに、ジョングルールという名称が廃れていったくらいのもので、決して宮廷で渡り歩く芸術集団を、すべて阻害するようになったという訳ではありません。



 つまり音楽団体が同業者組合を組織して、各専門職を強めて別の名称へと移り変わるに及んで、それらは宮廷などでも認められるものとなり、一方でジョングルールという名称は、そこからあぶれたものの意味合いとなって残されていった可能性があり、結果として宮廷で各地を渡り歩くパフォーマンス団体が演奏を行うことはあっても、それは決してジョングルールではなく、ジョングルールという種族は、次第に嫌われて排斥され、周辺的な事象へと追いやられていったと言えるかも知れません。もちろんそのような素朴な形の放浪の演奏団体は、集落などで活躍をし続けていたことでしょう。



 結局のところ、歌や演奏の技量を持って宮廷や都市に活躍を求めるある種の演奏家や、パフォーマンス団体は存在したものの、宮廷のあり方も音楽家の置かれる立場も、かつてのトルヴェールの頃とは、まったく異なった環境に置かれた、まったく別の名称に置き換えられたとでも言えるでしょうか。



 最後に、質問に答えるところのまとめとしては、トルヴェールやジョングルールと呼ばれる人たちが活躍した時代とは音楽生活や音楽家の置かれた環境が大きく異なるため、以前と同じ概念を持ったある種の音楽生活者が、宮廷で活躍していたと言うことは決して出来ない一方で、移動しつつ歌や演奏によって生きるものは健在で、宮廷と断絶していた訳でもないと言えると思います。ただそれを、かつてとおなじ枠組みで括ってしまうのは、ちょっとルーズすぎるという事になるでしょう。



 ただ音楽家の移動は激しいです。宮廷はきそって音楽生活に生き甲斐を見出しましたから、すぐれた作曲家(兼聖歌隊員など)は引き抜かれましたし、優れた演奏家なら、才覚で栄光を手に入れることが出来ました。北方フランドル地方は歌手を常に輩出するほどの音楽の宝庫であったし、百年戦争にも大きく関わるブルゴーニュ公国などはまさに音楽史から見ても重要な宮廷ですし、シャルル七世だって宮廷音楽家を抱え込んでいるのはもちろんですし、譜面が残されず音楽史からは姿を消した優れた演奏家は数知れず、その中にはもちろん歌い手も含まれていたことでしょう。つまりは、それを今さら吟遊詩人という表現で呼べるのかということになるでしょうか。



 ただし、私にはホームページに掲載した以上のことを記すだけの資料は存在しませんし、最近はまるで音楽史に関する知識を仕入れていませんから、ここに書いたことは参考程度に留めて下さい。

          時乃志憐

送信2010/3/19

[上層へ] [Topへ]