5-2章 ギヨーム・デュファイ

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ギヨーム・デュファイ Guillaume Dufay (c1400-1474)

 すぐれた歌手の養成機関としてすでに14世紀中からヨーロッパ中に知れ渡りフランドルの歌手達求むの求人広告でも出そうな状況だったが、教会や修道院の聖職者養成機関で歌手として活躍していた彼らフランドルの歌手達にとっては、すぐれた礼拝堂聖歌隊員として活躍し、教会の聖職録や聖堂参事会員などの役を貰って安定した地位と収入を築くのが勝利への道だった。特に生まれ故郷付近の教会役職を獲得したい願いもあり、すぐれた聖歌隊の募集に事欠かず聖職録を下さる教皇のお膝元である、イタリアにそしてローマに向かうことが、フランドル人の歌手達の憧れともなった。一方でイタリアの大聖堂歌手や後には宮廷私設聖歌隊の歌手の要求も、フランドルの歌手達を求めたので、フランドル人のイタリア遠征が活発化した。その出稼ぎの情熱は、早くもヨハンネス・チコニアなどに見ることが出来るが、ルネサンスのスタート選手としてよく知られた、ギヨーム・デュファイの生涯を見ても、そのイタリア遠征の姿を見て取ることが出来るだろう。
 さっそく始めてみよう。一説には1397年にブリュッセル付近で誕生したデュファイは、1409年に残された記録によってカンブレ大聖堂の聖歌隊で歌いまくりながら12年に声変わりをして、聖職者見習いの道を歩んでいたところ、かつてカンブレ司教として彼を可愛がってくれたかピエール・ダイイ枢機卿という人に連れられて、異人さんの国ならぬボーデン湖畔にある現在のドイツとスイスの国境の都市、コンスタンツに出発した。ダイイ枢機卿が例のコンスタンツの公会議(1414-1418)に出席するためである。

コンスタンツの公会議

・これは少し前に大シスマを解消するため、1409年のピサ公会議で統一教皇を改めて立てたら、古い2人も廃位を認めず、3人教皇が並び立ったという見上げた茶番劇を収めるべく、神聖ローマ皇帝シギスムント(在位1410-1437)が呼びかけて開催された公会議で、これによって教皇さえも公会議に従う精神が確認され、それぞれの教皇は反発しながら廃位させられて、ようやく新教皇マルティヌス5世(在位1417-1431)が教皇庁をローマに立ち大分裂を終わらせると、ついでにカトリックを非難して、「聖書だけでへっちゃらさ」とか叫んでいたヤン・フス(1369-1415)を公会議に立たせ故ウィクリフと共に異端思想だと判決を下し、ウィクリフは遺体を掘り起こしてもう一度「燃えろ燃えろ」と灰にしたあげく、「肉体も魂も二度と一つになれぬ」と呟きながらテムズ川に灯籠と一緒に流して、意見の撤回に応じないフスは皇帝ジギスムントに手渡した。このジギスムントは例のカール4世にして偉大なボヘミア王カレル1世の息子だが、彼は1396年にネオ十字軍を組織して挑んだオスマン帝国とのニコポリスの戦いで、見事な軍楽隊を組織するバヤジット1世に見事なまでに敗北を喫して権威が失落したのを、シスマ終結によって回復しようとしたのだった。しかし手渡されたフスを縛り上げて生きたまま火を付ける刑罰に処したところ、ボヘミア民衆悉(ことごと)くボヘミア王を兼ねるジギスムントに反旗をひるがえして、とうとうフス戦争(1419-1436)が沸き起こり、ジギスムントは防戦一方の体たらくを演じつつ最終的に平和条約によって混乱が収拾する有様だった。挙げ句の果てに翌年亡くなってしまったので、以後神聖ローマ皇帝が14世紀には皇帝選定から外され、たびたびスイス軍に敗退して長らく良いことの無かったハプスブルク家から、皇帝が就任することになった。一方教皇の方は、この会議によって公会議至上主義という公会議決定を教皇の上に置こうとする一派と、教皇派が対立する構図を生みだし、広義のバーゼル公会議を通じて皇帝を交えて互いに争うことになったが、それはまた後に見ることにしよう。
・音楽においては、この時各地から集まる聖職者要人達の前で繰り広げられたローマ教皇庁聖歌隊の演奏会が、ローマと繋がるフランドル歌手達を交えて、スブティリオールではないルネサンスに通じるフランドルの新しい流行の国際的お披露目パーティーを兼ねた側面があるそうだ。

マラテスタ家の元で

 一方少年から青年に向けて精神伸び盛りのデュファイは、おそらくこの公会議を通じてイタリア半島東側のリミニ領主であるカルロ・マラテスタと近隣の愉快な兄弟達に紹介され、その同名の兄弟ペーザロ領主カルロ・マラテスタに、恐らく聖歌隊の歌手か何かで仕えることになったらしい。領主の妹とオスマンに押されて傾きかけたビザンツ帝国皇帝マヌエル2世(在位1391-1425)の王子テオドロス・パライオロゴス(c1395-1448)が結婚した1420年に、デュファイは祝典モテートゥス「喜ぶがいい、ビザンツ帝国の妃よ」を作曲、23年のカルロ本人の結婚式にもフランス語の3声バラード「起きて下さい、そして晴れやかな顔をするのです」を作曲、詩節の終わりに「気高いカルロ、その名はマラテスタ」と讃えてフランス語が飛び交うイタリア宮廷でのフランス風シャンソンを見事に演出して見せた。

バーゼル公会議

 一時故郷に戻ったデュファイは、26年に北フランスのランの町で自分で作詞もした可能性もかなりある「さようなら、ランの美味しい酒よ」という3声のロンドーを作曲しつつ、28年にはイタリアのボローニャで一人前の聖職者となった。そしてトントン拍子にローマに移って教皇マルティヌス5世の教皇庁聖歌隊員に加わり、31年に教皇がエウゲニウス4世(在位1431-1447)に替わると5声のモテートゥス「戦う教会」を作曲し、演奏を行なっている。その直後にバーゼルで公会議が開催されたのだが、ここでコンスタンツ公会議で勢力を拡大した、公会議中心に教会を決定する考えを持つ公会議至上主義者と、教皇エウゲニウス4世が対立。教義のバーゼル公会議は33年にいったん終了するが、続けてフェラーラで1337年から公会議が、39年からフィレンツェで公会議が開かれ、これらをひとまとめにしてバーゼル公会議と呼ぶこともある。最終的に一連の公会議によって、公会議至上主義は力を無くし再び教皇の力が回復されるが、一方ビザンツ帝国から聖職者要人を招いて行なわれた東西教会の統一は、惜しいところでまとまらずに、これによって西方からの援助を期待したビザンツ帝国は、1453年に無惨にも最後の拠点である首都コンスタンティーノポリスが陥落して、帝国滅亡に追い込まれた。このような一連の流れのなかで、デュファイもフェラーラ公やフィレンツェのメディチ家などと知り合いになりつつ曲を書いたり、例えば33年のバーゼル公会議和約終結で祝典用の3声モテートゥス「人には平和こそ最高のもの」が演奏されたりしている。

サヴォア家

 1434年になるとデュファイは教皇庁からサヴォア公アメデ(アメデオ)8世(在位1416-1440)の宮廷に仕事場を移した。このサヴォアというのは、スイスから北イタリアのミラーノ周辺辺りの地域に隣接する、イタリアとフランスの境目辺りにあった国であり、元は11世紀に神聖ローマ皇帝が領土を与えサヴォア伯ウンベルト1世が誕生し、彼の血筋がサヴォア家を継承していくうちに時代が下り、1416年に例の神聖ローマ皇帝ジギスムントからサヴォア公を名乗ることを許され、首都をシャンベリ(現在はフランスに所属)とするサヴォア公国となった。ここの宮廷は北に広がるブルゴーニュ公国の影響と、イタリアのルネサンス的文化の影響を受けていたが、特にアメデ8世の妻がブルゴーニュ公のフィリップ・ル・アルディの娘だったこともあって、ブルゴーニュとの関係が深くあったので、ブルゴーニュを真似た優れた宮廷礼拝堂聖歌隊と宮廷の音楽家達を揃えていて、その重要なメンバーとしてデュファイに白羽の矢が当ったのかもしれない。ついでに加えておくと、このサヴォアこそ後に1563年に首都をトリノに移して、1720年にサルディーニャ島も手に入れ、サルディーニャ王国となり、1861年にイタリアを統一国家イタリア王国とする偉大な家系なのである。その時フランスに承認を得るために、プロバンスの隅っこにあるニースなどがフランスに割譲されたのは記憶に新しい。(・・・全然新しくありません。)
 そのアメデ8世の皇太子が遙か東方小アジアの方にあるキュプロス王の娘と結婚する祝いがあり、その時フランス語を話しフランス音楽に染まっていたキュプロスの写本がサヴォアに遣ってきてデュファイに影響を与えたに違いないと今谷先生が述べているが、その結婚式に参列したブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンが宮廷礼拝堂の聖歌隊員(兼世俗歌曲ヒットメーカー)のジル・バンショワ(c1400-1460)も連れてきたために、デュファイは宿命のライバル(じゃないが)と対面し、この2人の対面が元で、有名な青い服来たデュファイが赤い服来て気さくに「ようっ」と手を上げるバンショワに、「なんだこのなれなれしい奴は」と内心困ったような顔をしているミニアチュアが誕生することになった。これはこの時サヴォアで秘書を勤めていたマルタン・ル・フラン(c1410-1461)が、後にブルゴーニュ公に「婦人達の戦士」と題する詩を書き上げた時に、ダンスタブルのお陰でニュータイプとなったデュファイとバンショワの音楽について少しく讃えながら、このミニアチュアを掲載してみたのである。しかしこの詩は、続けて盲目のヴィエール奏者ジャン・フェランデスやブルゴーニュ公お抱えのヘアン・デ・コルドバルを聞くと、彼らの音楽でさえ古くさいような話が後に続いていくのだが、それは聞かなかったことにして、折角だからここで好敵手?ジル・バンショワの略歴についても記しておこう。

ジル・バンショワGilles Binchois(c1400-1460)

・1419-23頃にモンのサン・ヴォドリュ教会でオルガニストをしていたらしい彼は、その後一時パリのサフォーク伯爵ウィリアム・ポールに仕えイングランドにも渡ったのかも知れないが、何だかよく分からない。20代後半からはブルゴーニュ公国の私設礼拝堂歌手として宗教曲を作曲しつつ、ブルゴーニュ型の宮廷愛を中心とするシャンソンを多数作曲。ブルゴーニュ公国随一のヒットメーカーとしてロンドーとバラードを中心に55曲の世俗曲を残している。宗教曲としては通常文を単一で作曲したミサ曲が多数に、マニフィカトが4曲あるが、デュファイのように連作ミサは残されていない。当時デュファイとバンショワは好敵手として(ではないが)フランドル、ブルゴーニュを代表する音楽家と見なされていたが、連作ミサに関しては、デュファイの方がより新型だったというよりも、バンショワが勤め続けるブルゴーニュ公国で連作ミサの需要が生まれなかっただけのことなのかもしれない。

フィレンツェにて

 続いて1435年になると、デュファイは公会議至上主義などと絡んでローマを追い出されたエウゲニウス4世とお抱え教皇庁聖歌隊が避難するフィレンツェに向かい、再び教皇聖歌隊に所属すると、すぐさま聖歌隊をまとめる偉大な第1歌手に抜擢された。折しもコジモ・デ・メーディチ(1389-1464)が勢力を握り始めたフィレンツェでは、中心にどっかり腰を下ろすサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の最後の仕上げであるドーム部分が完成を向かえ、これはローマで古代建築を学んだフィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)が設計を任され完成させた、まさにルネサンス的な重要イベントとなったが、1436年の工事完了の前にすでに行なわれた大聖堂献堂式において、ルネサンス音楽の代表となるべきデュファイが、祝典モテートゥス「少し前バラの花がーこの地は恐ろしい」が演奏され、式を行なっていたエウゲニウス4世もつい聞き惚れて式順を忘れそうになってしまった。これを目撃したジャノッツォ・マネッティという奴が「誰もの感覚が高まってしまいました。聖堂全体が協和する合唱と様々な楽器の合奏によって一杯にこだましたのです。」のような事を書いているが、忘れてはならない、当時の祝典モテートゥスなどは声楽だけで歌われるものではなく、楽器を動員して華やかに行なわれるのが当たり前だった。モテートゥスに限らず、ミサ曲などにおいても、当時はオルガンや、トランペット、トロンボーンの使用などの例が見られるようだ。さて、モテートゥスの定旋律はアイソリズム技法を用いているのだが、4回繰り返す下2声の保続声部の旋律が、6:4:2:3という長さでそれぞれ繰り返され、この比率は大聖堂の設計比率から導き出されていると云う。中世以来好まれた音楽と比率の関係は、ルネサンス時代に入っても健在で、それどころかバロック時代に入った1600年を過ぎた頃活躍していたケプラーの天体の音楽のように、ピュータゴラースの伝統は後々まで影響力を行使している。一方、この曲に見られる定旋律や、アイソリズムの使用と云った14世紀に流行した技法は、この頃まで祝典などの儀式張った音楽を表現するための伝統技法として定着し、大体15世紀半ば頃までの祝典モテートゥスにも見られる傾向だそうだ。
 ところで、この大聖堂では1432年以降アントーニオ・スクアルチャルーピ(1416/1480)というオルガニストが活躍していたが、彼は14世紀イタリアの多声世俗音楽(トレチェント音楽)の作品群の写本を所有していた。このスクアルチャルーピ写本には1/3も占めるランディーニを筆頭に、14世紀のイタリアの作曲家達の作品が収められいた。デュファイは後にお手紙の遣り取りを致すほど彼と友情を結んだので、もしかしたら写本を見せて貰い、こうした14世紀イタリアの音楽作品を知る機会があったかも知れない。過去の遺産との対話は、音楽においても決して近代以降の現象ではなかったのだから。
 さて、1436年のうちにすでに獲得していた幾つかの聖書禄に加えて、後に就任することになるカンブレ大聖堂の聖堂参事会員に任命されつつ、教皇と聖歌隊隊員はボローニャからフェラーラに入ったが、デュファイの方はその後サヴォア宮廷に移って仕事をこなすなど、教皇とサヴォアを中心に活動を行なっていた。しかし、1439年にエウゲニウス4世が廃位させられ、代わりにエウゲニウス反対派の教皇が立てられたが、何たることかその教皇はサヴォア公アメデ8世だったのだ。彼がフェリックス5世(在位1439-1449)として就任すると、廃位されたエウゲニウスがブルゴーニュ公に支持され巻き返しを図り、デュファイにとっては折角獲得したカンブレの地位が絡むなど、板挟みになってしまったので、すっぱりと北イタリアを離れて、1439年からカンブレ大聖堂参事会員の職に就くことを決心した。

カンブレ後

 大聖堂のワイン貯蔵所長までこなしつつ、宗教曲を作曲していただろうデュファイは、今度はブルゴーニュ公と関わり合いながら長らくカンブレの職を全うしていたが、エウゲニウス4世は亡くなってサヴォアのアメデ8世も教皇の職を退ぞき、公会議派も半ば孤立して教皇ニコラウス5世(在位1447-1455)の元でバーゼル公会議から続く一連の公会議の最後の幕が落とされたので、1450年にサヴォアの宮廷に出向くことになった。以後一度カンブレに戻り、1458年までサヴォアと関わっていたが、1451年にはアメデ8世の死と、次のサヴォア公ルイの娘とフランス皇太子ルイ(後のルイ11世)の結婚式が立て続けに起き、この結婚式ではデュファイの有名な連作ミサ曲である4声の「ミサ・ス・ラ・ファス・エ・パル」が演奏されたとされている。これはデュファイ自身の3声のバラード「ス・ラ・ファス・エ・パル」(私の顔が蒼いのならば)を元にしたミサ曲で、マショが残したキリエからアニュス・デイまでを一つにまとめて作曲する連作ミサが、ルネサンス時代に入って到達した傾向を見て取ることが出来る。それはどのようなものだろうか。

①世俗曲からの借用
→モテートゥス自体が宗教曲からのテーノル借用を行ないながら世俗曲として華やいだかつての伝統もあり、宗教曲と世俗曲の語法に共通性があるために、世俗曲から素材を借用してミサを仕立てること自体は、それほど大事件でもないかもしれない。しかし、ここに至って、世俗的なポピュラー多声歌曲で宗教曲を作曲したいという流行は、やはり世俗精神の向上としてのルネサンスと結びつけたくなる。
②テーノルでの借用
→世俗曲の例えば最上声などが定旋律としてすべての楽曲のテーノル声部で使用され、楽曲に形而上的な構成を与える方法が取られたが、このテーノル声部は下から2番目の声部であり、最低声部にはコントラテーノルが置かれ、しかも今日の機能和声的な(ⅠⅣⅤⅠ)関係が意識されたような旋律パターンを描くことが、以前よりずっと増加している。このコントラテーノルはすでにマショの4声の「ノートルダム・ミサ」でもテーノルと高さが入れ替わって最下声を担うことがあったが、今では逆にテーノルが入れ替わって最下声を担うこともあるというように、立場が逆転している。定旋律が内声化されたことによって、由来の元となる旋律の主張は非常に弱められ、まさに形而上的な構成を担っているのである。しかし一方でこのミサ曲では、世俗曲の後半の印象的なシンコペーションフレーズをそれと分かるように楽曲に取り込むなど、世俗曲を思い起こさせる瞬間も演出している。
③冒頭動機
→それぞれの各通常文の音楽の出だしが、同様のリズムと声部進行を持って開始され、各通常文の統一が図られる。

このように本来多楽章楽曲のように統一する必然性のない通常文がパッケージ化されてこった音楽が作曲されるようになっていくのには、恐らく日々替わることのない通常文をミサ式典内での多声音楽の聞かせ所とするような流行があり、次第にその多声音楽をまとめて作曲する内に、多楽章的統制が模索され始められたのではないかと思われるが、これはまったく調べたことのない私の感想文である。いずれこのミサ曲のように、共通テーノルを使用して冒頭動機で統一をアピールするようなミサ曲を、後に「循環ミサ」と命名することになった。

ビザンツ帝国の最後

 その頃ビザンツ帝国は、大変な状況に陥っていた。かつて、西側の十字軍に打ちのめされて、哀れラテン帝国など建設されてしまった事もあったが、ニカイアに逃れていた亡命政府が1261年にコンスタンティノープルを奪還すると、皇帝ミカエル8世(在位1258-82)を持ってパライオロゴス朝(1261-1453)が開始。以後1299年に勃興するオスマン・トルコに怯えながら、西側に経済的翻弄を受けながら、西の影響を受けた新しい文化にのめり込んだりしていたが、ビザンツ皇帝マヌエル2世(在位1391-1425)が西側に援助を求めつつオスマン・トルコへの服従を拒否して、1396年にニコポリスの戦いが沸き起こった。これは先ほど見たように、ハンガリー国王ジギスムント(後に1410年から神聖ローマ帝国皇帝)が組織する新十字軍とバヤジット1世(在位1389-1402)国王下のトルコ軍がブルガリア北部のニコポリスで雌雄を決した戦いで、これによって大勝利を収めたオスマン・トルコがいよいよコンスタンティノープルを包囲したのだが、東(ひむがし)の方から、モンゴル帝国を継承しつつイスラーム化した土壌の中央アジア付近でサマルカンドを首都にティムール帝国を建設したかつてのチャガタイ=ハン国の部将ティムール(~1405)が、すさまじい勢いでオスマン・トルコに進出してきたので、慌てて取って返したバヤジット1世は何たることかアンカラの戦いでティムールの捕虜となり、続いて起こった後継者争いで帝国は大混乱に陥った。
 「ああよかった。」と安堵するばかりで、策がないからしょうがない。すぐさま勢力回復を図ったオスマン・トルコはメフメト1世(在位1413-21)のもと再興を果たし、再び結成した対オスマン十字軍も1444年に敗退。ついに偉大なオスマン・トルコのメフメト2世(在位1451-1481)が20代前半の漲りすぎる勢いで10万人の軍隊と海からの戦艦でコンスタンティノープルを包囲すると、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世ドラガセス(在位1449-1453)の元にはヴェネツィアとジェノヴァの援軍も到着、ようやく7000人になった。メフメト2世はまず大砲を打ち付けさせたが、あまりにも最新兵器すぎて命中精度が低く、十分に効果を挙げなかったので、今度は鎖で阻む海の防波堤を越えるべく艦隊を陸を通過させて湾内に突入、ジェノバの補給路を立つと、「これがオスマンの山越えじゃあ!詫びて貢ぎ物よこせば許しちゃる。」と叫び声を上げ法外な金額を提示すると、お断りするビザンツ帝国に最後の総攻撃を決意した。  5/28日の夜、総攻撃を知ったコンスタンティノス11世は、宮殿で演説を行ない皆々涙を流し、ハギア・ソフィア大聖堂でミサが行なわれたと云うが、その音楽はどのようなものであったか、翌日未明から開始された総攻撃に耐えに耐えしのびにしのんでいる内に徐々に混乱が目に付き始め、最後はうっかり鍵が掛けられていなかったケルコポルタ門の通用口を通過したオスマン・トルコ軍によって防衛軍は敗れ去った。このギリシア神話のテーセウスから続く「うっかり伝説」によって、またしても歴史の1ページが刻み込まれてしまったのである。このことから、うっかりした人を見掛けると、「ケルコポルタ門」と呼ぶ伝統が生まれた。(嘘。)しかし最後の皇帝コンスタンティヌス11世は、前線に止まり、雪崩れ込むオスマン軍の中に突進して切り込み隊長を演じきって壮絶な最後を遂げたと云うから、そのような英雄に対して「それだから貴様はオタンチン、パレオロガスだと云うんだ」と云うのはあまりにも非道い。云うまでもなく、これは「我が輩は猫である」においてかの夏目漱石がコンスタンティヌス11世ドラガセスの別名コンスタンティノス11世パレオロゴスをもじった駄洒落である。
 こうして憎きビザンツ帝国を打ち破った喜びで、「3日だ、3日。三位一体とかほざいているから3日間略奪してやれ。」と浮かれ騒いだ若きメフメト2世だったが、はっと我に返ると、キリスト教をも内包する我がイスラームの精神を思い起こしたか、数時間後に前言を撤回、不満がる兵達を押さえコンスタンティノープルに入城した。こうしてこの地はオスマン・トルコの首都として以後作り替えられていくが、実際はその後もこの都市名はコスタンティニエ(トルコ風発音)と呼ばれ、これが正式にイスタンブルと呼ばれるのは20世紀になってからである。
 これと前後して、西への援助要請や、避難のためにギリシア語とラテン語の理解できる学者達が、沢山イタリア方面に流入し、フェイレンツェなどで盛んになっていた古典復興運動に重要な役割を演じたことも付け加えておこう。

閑話休題

 こうしてコンスタンティノープル、ラテン語名コンスタンティーノポリスが陥落すると、西側ヨーロッパは予感はしてなくもなかったが、やっぱり衝撃を受けた。どのみちハンガリーまで迫っていたトルコだったが、東側に名目的でもビザンツ帝国があるのと無いのとでは、偉い違いだ。何だか、1枚羽織をはぎ取られた気分だった。翌年には早速ブルゴーニュ公が十字軍集会を開催し、十字軍の参加宣誓を行なうと、この時リールで開かれた大祝宴はメインディッシュの雉(キジ)料理に掛けて、「雉の祝宴」その誓約は「雉の誓約」と呼ばれるようになった。(宣約はまだ生きている雉に対して行なわれたらしい。)この祝宴には各地から大量の諸侯君主がお祭り騒ぎ宜しくはせ参じ、食卓には様々な楽器を奏でる26人の実際の楽師が入っているパイだの、48種類の肉の皿だの、想像を絶する豪勢と趣向を凝らして、料理のコースに合わせて4つのアントルメ(余興)を中心に各種祝祭が行なわれ、そのアントルメには像まで動員されたという。おまけにアントルメに興じた後、宣誓を行なっては、舞踏と馬上剣試合がまだ続き、お開きは次の日の3時頃だったという。
 ただしこの宣誓においてフィリップ・ル・ボンは、トルコ十字軍は国内が平和になった場合と注を付けて、早速自らの懸案であるフリースラント征服に出かけてしまったのだ。さらに56年には教皇カリスト3世が対トルコ十字軍を呼びかけ、ブルゴーニュ公始め各国君主も旗を貰って誓いだけは立てておいたが、結局これも実行には移されなかった。そんな実のないビザンツ陥落だったが、これに対してデュファイが4曲の哀歌を書いている。そのうちの1曲「コンスタンティーノポリスの聖母教会の嘆き」が今日残され、ここではテーノルの定旋律に「エレミアの哀歌」の旋律を使用し、最上声だけに付けられた歌詞が、悲しくも美しい都の最後を歌っている。
 1458年冬にカンブレに戻ると、以後この地を中心に最後の時を過ごすことになる。相変わらず参事会員として様々な聖職者の仕事をこなしながら、恐らく3つのミサ曲がこの時期に書かれたとされている。次の3つだ。
単旋律の世俗曲「ロム・アルメ(戦士)」を使用した4声曲「ミサ・ロム・アルメ」
聖母マリアのアンティフォーナを定旋律とした4声曲「ミサ・エッチェ・アンチルラ・ドミニ」
これも聖母マリアのアンティフォーナから4世曲「ミサ・アヴェ・レジナ・チェロールム」
さらに多声のレクイエムまで作曲した記録が残されているが、残念ながらこの世から消失してしまったらしい。一説によると、エーヌ・ヴァン・ギゼゲム(c1445-1472/97)やら、ヨハンネス・ティンクトーリス(c1435-1511?)同様、デュファイを訪問したヨハンネス・オケゲム(c1410-1497)が自ら多声のレクイエムを作曲するために、食べちゃったとも云われている。(・・・また、落ちたか。)1474年には遺言状を記し、11/27に帰らぬ人となった。恐らく弔いのミサでは彼の望み通り、「死にゆくデュファイを哀れんで下さい」と書き込まれた1460年代のデュファイの作曲した4声のアンティフォーナ「アヴェ・レジナ・チェロールム(天の女王よ、喜んで下さい)」が歌われたことだろう。

教科書に載っているデュファイの曲

・モテット「贖い主の恵み深い御母よ(ラ)アルマ・レデンプトーリス・マーテル」では最上声が修飾された聖歌を使用してテーノル用法と異なっている点が注目だそうだ
・賛歌「星々の恵み深い創り主よ(ラ)コンディトル・アルメ・シデルム」でもやはり最上声に聖歌が使用されている。
・公式儀式にはあえて少し古くなって格式じみたアイソリズムのモテットを使用して儀式感を演出したと説明して、1436年のサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式に歌われた「少し前、バラの花がーこの地は恐ろしい」を上げている

教科書からのミサ曲発展

・15世紀間に通常文を統一のとれた全体として作曲するようになり一貫性の模索が続けられたが、初めは例えば同じグラドゥアーレ集から集めた聖歌を使用(単旋聖歌ミサ)するといった方法だったものが、バラード、シャンソンなどの共通様式で作曲しつつ、各楽章を同じ旋律的動機で開始(モットー・ミサ)し、やがて定旋律ミサ(カントゥス・フィルムス・ミサ)に到達した。要するに共通テーノルを使用するテーノル・ミサの事で、冒頭動機や定旋律で共通性を図ったミサ曲を循環ミサと云うのは前に見た。
・しかしこれでは下声が毎度同じで響きが単調なこともあり、すでに登場していたもう一つのテーノル声部であるコントラテーノルを、テーノルの下にコントラテーノル・バッスス(低いコントラテーノル)として置けば、それに対してテーノルの上に置かれたものがコントラテーノル・アルトゥスと呼ばれたりなんかして、今日のバス、テノール、アルトの言葉が登場してきた。最上声は以前からカントゥス([ラ]歌、旋律)声部とか、ディスカントゥス声部とか、スペリウス([ラ]より高い)などと呼ばれていたが、これが後にイタリア語でソプラノと呼ばれるようになることは、皆さんご承知の通りだ。
・デュファイ付近の作曲では、終止形はまだ長6度から完全8度が多いが、最下声でオクターヴ上昇するとまるで耳が最下声が4度上昇するような機能和声的響きが明確に見て取れる例が。
・さらにアイソリズムの技法がミサの定旋律声部に、長く伸ばされ認知度は薄く、楽曲構造の控えめな規定になる内に、世俗曲から作成しちゃうシャンソンテーノル西部使用が大流行して、俗謡「ロム・アルメ」に至ってはルネサンス期を通じて大量のミサ曲が残された上に、バロック時代に入ってもカリッシミが時代錯誤の「ロム・アルメ」に手を染めて居るぐらいだ。

2005/09/25

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