さてハプスブルク家と結びつくことでブルゴーニュ宮廷の私設礼拝堂の歌手達とミンストレル楽団は維持され、シャルル・ル・テメレールの代からブルゴーニュ公国に仕えていたアントワーヌ・ビュノワ(c1430-1492)などが、引き続きマクシミリアンの宮廷に仕えていた。このビュノワは宗教音楽と共に、バンショワの跡を継ぐブルゴーニュ公国の宮廷世俗歌曲のヒットメーカーとして人々に知られ数多くのシャンソンを作曲して名声を上げていたので、イタリアの音楽理論家であるピエトロ・アーロンなどはつい俗謡的な「ロム・アルメ」の旋律を作曲したものビュノワだと書き記してしまうほどだった。しかも彼や同僚の音楽家エーヌ・ヴァン・ギゼゲムは同時に公国の士官として戦いに参加する強者だったから、「ロム・アルメ(武装した人、戦士)」の作曲者というのはちょっと面白い気がする。
ブルゴーニュ公国崩壊後の1479年には、マクシミリアンの父である偉大な神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が、こんちきしょうと軍を進めるフランス軍を打ち破るなど、早くも両国の対立の構図が鮮明になってきたが、当面マクシミリアンは旧ブルゴーニュ領で生活しブルゴーニュ宮廷の伝統が維持されて行くことになる。しかし、マクシミリアンとマリー・ド・ブルゴーニュが結婚して4年たったある日、子供も出来て仲も良かったのに嫉妬した女神アルテミスが矢を放ったためか知らないが、1482年にマリーは鷹を放って兎や鹿を追い回す鷹狩りの最中に馬から転げ落ちて、フマユーンならずとも(フマユーンは階段から転げ落ちて亡くなったとされるインドのムガル帝国皇帝)無念の死を迎え、これによってフランドル地方は正式にハプスブルク家側に手渡される形となった。さらに翌年1483年にはヴァロワ家とハプスブルク家でアラス条約が締結(ていけつ)され、旧ブルゴーニュ公領はヴァロワ家が、フランドルとブルゴーニュ公領の東にある昔のブルグント領はハプスブルク家が相続することが最終的に定められたのである。そして、亡くなったマリーとの間に生まれたフィリップ(後のフィリップ・ル・ボー)とマルガレーテ・フォン・エスターライヒは後々、フランドルとハプスブルク家にとって重要な役割を担っていくのであった。
1493年にお父様のフリードリヒ3世が亡くなると、「最後の騎士」ことマクシミリアンは神聖ローマ帝国の皇帝(在位1493-1519)となるやいなや、すぐさまミラーノの故ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの娘ビアンカ・マリーア・スフォルツァと結婚して、イタリア勢力拡大を目指し、一方ではミラーノの実質的な権力者であるルドヴィコ・スフォルツァ(ルドヴィコ・イル・モーロ)が支持するフランス国王シャルル8世が、1494年「アンジュー家からナポリを継承した」と叫びながら、ナポリに向かって進軍を開始、フィレンツェでは進軍を許した咎でメディチ家が民衆に追放され、ジローラモ・サヴォナローラ(1452-1498)の神権政治が開始するなど、イタリアで激動の時代が幕を開け、一方で神聖ローマ皇帝の戴冠のためイタリアを訪れたマクシミリアン1世が途中で歌手の解散でフィレンツェからピサに来ていたイーザークを発見するなど、皇帝となったマクシミリアンの宮廷も政治的中心もフランドルから離れて行くことになった。
しかし傾きかけた旧ブルゴーニュの宮廷は、マクシミリアンとマリーの間に生まれたフィリップ(1478-1506)が青年となりブルゴーニュ公フィリップ1世として、人々からフィリップ・ル・ボー(フィリップ美しい公)とちやほやされ始めると、再び宮廷文化に火がともり、音楽家も活力を取り戻し、1496,97年にはイタリアで活躍していたガスパール・ヴァン・ウェールベケが宮廷歌手に記録されている。さて、スペイン王国(イスパニア)を誕生させたカスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン国王フェルナンド2世夫婦の娘ファナをお嫁に貰って、子供作りに励んでいたフィリップも、芸術活動の華やかなるに、夜遊びも華やいできて、どうにも己の美しい顔が赴くままに、愛人達を作りまくって、ファナが嫉妬で精神に異常を来し始めたという伝説も残されているくらいだ。そんな妻のファナは1501年にスペインに渡ったが、一緒に出掛けた夫はフランドルが恋しくて帰ってしまったので、子供達である、長男カール(後のカール5世)はフィリップの妹であるマルガレーテ・フォン・エスターライヒに、次男フェルディナント(後のフェルディナント1世)はフィリップの祖父に面倒を見て貰ったそうだ。この頃、フィリップの宮廷の歌手には、やはりイタリアで活躍していた、アレクサンデル・アグリコラ(1446-1506)やら、マルブリアヌス・デ・オルト(デュジャルダン)(1529没)らが活躍し、宮廷楽団も一層拡張した。ジョスカンがペストを逃れてかフェラーラからフランドル地方のコンデ・シュル・エスコーに向かう1504年には、カスティーリャ国王イサベル1世がお亡くなりて、フィリップがカスティーリャ国王フェリペ1世に就任しスペインに遣って来たが、政策上国内貴族を敵に回し、1506年に一緒に来ていた宮廷礼拝堂のメンバーの一人アグリコラが熱にうなされて亡くなると、後を追うようにフィリップも亡くなってしまったので、礼拝堂のメンバーは仕えるものを無くし混乱し、狂女と化したファナは夫の棺を埋葬せず馬車に載せてカスティーリャ内を走り回ってしまった。だから「狂女王 La Loca」なのだと書いてあるが本当かしら。
さてフランドル地方を中心とするブルゴーニュ宮廷の遺産は、その後マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(フランス読みではマルグリット・ドトリッシュ)が引き継ぐことになるが、彼女はわずか2歳でフランス皇太子シャルル(後のシャルル8世)と政略婚約が行なわれ、フランスで花嫁教育なされた後、ヴァロワ家とハプスブルク家の関係悪化とシャルル8世のブルターニュ公領獲得のため、2人の婚約は無かったことにされたあげく、シャルル8世はアンヌ・ド・ブルターニュと結婚してしまった。おまけに12歳のマルガレーテは美味しい捕虜としてか1493年までフランスに留め置かれて、ようやくフランドルへ返されたという。この切ない婚約破棄が詩人や音楽家のハートに火を付け、この時期「悲しみregretz」の主題がブームを巻き起こしたとか。ようやく成長したマルガレーテはさっそく第2の政略結婚によってフィリップと共にスペイン国王の息子と結婚させられ、スペインに向かったところ、わずか数ヶ月で夫はお亡くなりて、マルガレーテは茫然自失として再びフランドルに帰還、芸術活動にのめり込んで不幸な境遇を憂さ晴らししていたところ、宮廷での舞曲のためのバス・ダンス写本が誕生してしまった。1501年になると三度の結婚でサヴォア公フィリベール2世の元にサヴォア公妃となって出発し、当地でブルゴーニュ宮廷の作曲家達が名を連ねるシャンソン集などを作製させて、夫と音楽を楽しんだのかも知れないが、このフィリベール2世もまた1504年にお亡くなりて、彼女は以後養育を任された兄フィリップの子カールの摂政としてフランドルを実際上統治するため、北に帰っていった。カールは後にカルロス1世としてスペイン国王に就任したが、フランドルの政治はその後もマルガレーテが亡くなる1530年まで、彼女によって行なわれ、ブルゴーニュの宮廷伝統が維持された。音楽に関しては、宮廷礼拝堂の写本製作がハプスブルクのお抱え写本製作所となって、ペンネーム「アラミレAlamire」ことピエール・ヴァン・デン・ホーヴェ(1536没)を中心に様々な写本が生み出され、その中にはマルガレーテ依頼のシャンソン集(シャンソニエ)もある。マルガレーテはコンデ・シュル・エスコーに居たジョスカン・デ・プレとも関係を持ったらしく、ジョスカンのシャンソン「もはや悲しみもなく」や「悲しみと愁いにあふれるが」などがマルガレーテの宮廷と関係があるとも言われている。シャペルのメンバーには若きニコラ・ゴンベール(c1500-c1557)も名を連ねたが、彼自身ジョスカンに師事したのではないかとも考えられているぐらいだ。また、彼女は自分自身鍵盤楽器を若い内から習い、声楽、器楽、絵画、修辞法にも長けていたと詩人が讃えるほどだった。そんな、彼女が亡くなると、マドリードに居城を定めた神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン国王カルロス1世)によってフランドルのシャペルのすぐれた歌手達も引き抜かれ、ブルゴーニュ宮廷の遺産は消えていったという。
スイスの方に1020年鷹の城(ハビヒツブルク)が築城され12世紀にその地を治めていた貴族の家の名称ハプスブルクとなったが、後の本拠地であるヴィーン方面は当時バーベンベルク辺境伯が支配していたものの、1246年にお世継ぎが絶えたところを勢力拡大を目指すボヘミア王オットカール2世に奪われた。時あたかも1254年(または1256年)から大空位時代(1254/1256-1273)を迎えていた神聖ローマ帝国だったが、ドイツ諸侯はあまり勢力のないハプスブルク家のルドルフを教皇のお墨付きを得た後皇帝になるべきドイツ王に選定。一時あったボヘミア王に皇帝の称号を与える可能性を強権すぎるとして拒んだ。このルドルフ1世(在位1273-1291)は教皇が認めず結局最後まで皇帝となることが出来なかったものの、1278年のマルヒフェルトの戦いで大勢力のボヘミア王を打ち殺し、オーストリア公を兼任して首都をヴィーンとすると、その領土を子供達に分割して与えた。その後勢力を安定させるハプスブルク家に危機を感じた選帝候達が、ルドルフの子供アルブレヒト1世に対して対立皇帝を立て争う一幕もあり、1307年にスイス領を奪われた後、1308年に甥に暗殺されてしまったのちしばらく神聖ローマ帝国のトップの座からは遠ざかった。
やがて偽造文書の必殺技でお馴染みの(?)建設王ルドルフ4世(オーストリア公在位1358-1365)が登場すると、想像を絶する近代化を急激に推し進め、しかしわずか26歳でなくなったためにかえって政策がほどよく元に戻されたとかどうたらこうとか。また彼は当時聖俗共にお盛んだった偽造文書時代の申し子として、選帝候から外されているハプスブルク家は実は「大公」という選帝候を上回る特権を持っていたと、自分の妻のお父上でもあるカール4世(ボヘミア王カレル1世)に証拠の品をすべてでっち上げて送りつけると、証拠の品定めを頼まれたフランチェスコ・ペトラルカが特許状と共に送られてきたネロ帝とカエサルの手紙に衝撃を受けて、そんな出鱈目は農民の息子でも遣らんと送り返せば、カール4世は処罰のために兵を進めることもためらわれ有耶無耶になってしまった。ところがこの偽造文書は後のハプスブルク家出身神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の時代に帝国法に組み込まれてしまい、見事ハプスブルクは「大公」の称号を名乗れるようになってしまったから驚く。1363年には偽造文書を持って(だけではないが)チロル地方をマインハルト伯から取り上げることに成功、調子が出てきたので、ヴィーンのトレードマークであるシュテファン寺院を建設したり、ヴィーン大学を1365年に創立して見せた。
さらに1438年にアルブレヒト2世が神聖ローマ皇帝ジギスムントの娘婿として、ジギスムントの死後ドイツ王になってからは、皇帝に就任する直前にオスマン・トルコ軍と争って亡くなってしまったが、ドイツ王位を完全に世襲化することに成功し、愚鈍の鏡、能なしの極致と讃えられ、死後「神聖ローマ帝国の大愚図」のあだ名を貰っちゃったフリードリヒ3世が、迫り来る大勢力オスマン・トルコ軍の防波堤として1440年にドイツ王に選出され、1452年には神聖ローマ皇帝としてローマで戴冠し、同時にポルトガル王国のエンリケ航海王子の姪であるエレオノーレと結婚すると、翌年コンスタンティノープルが陥落して大騒ぎする家臣達をぼんやり見詰めながら、庭をいじりなさって、「A・E・I・O・Uと唱えれば、どんな危機もへっちゃらさ。」と訳の分からないことを呟きながら、庭に「A・E・I・O・U」と書き込んだ。(そりゃ嘘だろ)このスペルは、「Austriae Est Imperator Orbis Universi(オーストリアは全世界の支配者)」の略だとも云われ、シュテファン寺院にあるプレートなどにも彫ってあるが、きっとこの言葉の大好きだったフリードリヒ3世は、「アエイオウ、エオアオ」と発声練習をしながら、迫り来るオスマン・トルコに備えていたのかも知れない。ところが攻め込んできたのは、一層オスマンに危機を感じ国内勢力を増強するハンガリー王のマーチャーシュ・コルヴィヌス(マーチャーシュ1世)で、ルネサンス漲るイタリアから多くの芸術家を首都のブダに招き、ルネサンスの中心地とすると、彼のゆかりの教会名称がマーチャーシュ教会に変わってしまうほどだったが、彼がオスマンとの対決を避けながらオーストリアに勢力を拡大すると、フリードリヒ3世は見事ヴィーンを陥落させられてしまったのだ。幸いマーチャーシュには後継が亡くハンガリーでは貴族達の内紛で勢力が弱体し、それを見て取ったオスマン帝国が、1526年にモハーチュの戦いで徹底的に打ちのめすと、風前のともしびとなっていくので、その流れからフリードリヒ3世は死ぬ前にリンツからヴィーンに戻ることが出来た。
しかしハプスブルクにとって大きかったのは、ブルゴーニュ公国のたった一人の娘さんマリー・ド・ブルゴーニュとフリードリヒ3世の息子マクシミリアンの婚姻が話し合われていたが、これがシャルル・ル・テメレールの死とブルゴーニュ公国滅亡の瀬戸際で実を結び、フランドル地方などを獲得することが出来た事で、これにはフランスのシャルル8世が大いに怒り狂った。さらに1488年にはマリー亡き後の妻にブルターニュ公の娘アンヌが婚約にまで漕ぎ着けていたが、これを聞いたシャルルはそこは俺の領土だと、今度は軍事行動で事実上アンヌを奪い取って、いよいよフランスとハプスブルク家の宿命の対決が浮かび上がってきた。フランスVSイングランドが終わったら、今度はフランスVSハプスブルクである。ここからは次の皇帝の話だが、このフリードリヒ3世はルドルフ4世の偽特許状を帝国法に組み入れ、ハプスブルクの地位を決定づけ、息子の婚姻を通じてフランドル地方を組み入れる事に成功しているから、「ハプスブルクの婚姻政策」の生みの親なのかも知れない。
さて、フランドルから次第に来たるべき皇帝として南に目を向け始めたマクシミリアンは、叔父からティロル地方をお貰いて後、1493年にフリードリヒ3世が亡くなると実権を握ることになった。皇帝の称号はなかなか得られないが、1508年にローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始め、もはや教皇の戴冠なんて不必要な伝統を生み出した。彼は、西のフランス方面と、イタリア方面に備える必要もあり、宮廷をティロル地方のインスブルックに置くと、元々叔父さんの音楽家に溢れたこの宮廷は一層拡張された。フランドル経由ブルゴーニュ宮廷の伝統から自ら音楽を嗜み楽器を演奏する彼の宮廷には、マクシミリアンの凱旋行列の木版画にも登場する重要なオルガニスト、パウル・ホーフハイマー(1459-1537)がすでに存在していたし、1496年にはイタリア遠征中にハインリヒ・イーザークがションボリしているのを、怖くないからこっちにおいでと耳元で囁いたので、翌年オケヘムの亡くなる1497年にはイーザークは正式に宮廷作曲家(Hofkomponist)となった。この宮廷作曲家という役職は、芸術パトロン君主たるマクシミリアンが歌手ではない作曲家という芸術職業を認めて生み出した役職のようで、彼は後に宮廷を離れ定期的にフィレンツェの妻の元に帰り、晩年はフィレンツェデの生活を許されるような、特権的な立場で作曲を行なうことが出来た。嬉しくなってきたイーザークは、宮廷の少年歌手ルートヴィヒ・ゼンフル(1490?-1543)に目を掛けて作曲を教えたりしていたら、イーザークの死後1517年から宮廷作曲家の称号を引き継ぐほど立派に成長した。
1515年にヴィーンで開かれた孫娘のマリアとハンガリー王子ラヨシュの婚礼のミサでは、後のハンガリーとの連合を祝してか、ミサが終わるやいなやトランペットが鳴り響き、歌手達が「テ・デーウム」を歌い出すと、第一人者の誉れ高いホーフハイマーが、合唱に答えオルガンを演奏。オルガンと合唱の交替による「アルテルナーティム」の技法で式を盛り上げたという。気持ちが盛り上がってしまったマクシミリアンはホーフハイマーに騎士の称号を与えたそうだ。そんな芸術保護者としてのマクシミリアンは、その勇猛果敢な精神が「最後の騎士」と讃えられるように、芸術保護者としてのルネサンス的君主と見なされ、その宮廷は数多くの画家に描かれているが、なかでもハンス・ブルクマイアー他の製作による「マクシミリアン1世の凱旋行列」という木版画シリーズがよく知られている。これはマクシミリアン死後出版され、ホーフハイマーやゼンフルの姿と共にミンストレル楽団から宮廷カペッラ(聖歌隊)などの姿を見て取ることが出来るそうだ。マクシミリアンの葬儀に際してはコンスタンツォ・フェスタのモテートゥス「誰が私の目に与えるというのか」が歌われ、続いて偉大なカール5世の戴冠式が1520年アーヘンで行なわれたたが、彼は大根を2つに割るような潔さで宮廷カペッラに解散を命じてしまっために、宮廷音楽家の顔ぶれはこの時をもって大きく変容することになった。カール5世はさらに1529年から30年にかけて教皇から戴冠を受けるための壮大な諸都市巡礼兼凱旋行列による壮大な戴冠のパレードを行ない、ここには当然音楽も重要な役割を果たしていた。神聖ローマ皇帝の教皇からの戴冠は彼が最後になるが(他には後にナポレオンがフランス皇帝として教皇に戴冠させている)、いよいよカール5世の時代が遣ってくることになるので、これはまた後のお話としておこう。
2005/10/15