6-1章 ネーデルラントの音楽

[Topへ]

ルネサンス(Renaissance)

 当時イタリアでは新生と復興が共通認識だった。レオナルド・ブルーニが「ペトラルカが死に絶えた古典の文学を蘇らせた」と叫び、マテオ・パルミエーリが「ジョットがようやく回復するまで画家の技は何処にあったか知れません。彫刻・建築も、芸術とはかけ離れた稚拙を彷徨っていました。それが我々の世紀を見たまえ、ようやく日陰から離れ、芸術と呼べる作品が登場するのです。」のような心持ちを訴え、ダンテがベアトリーチェを讃える詩集に「新生(La Vita Nuova)」と名付け、音楽家のティンクトーリスが「デュファイ、バンショワ以前の40年以上前の作品では、不協和音が目立ちすぎて聞く気が起きません。」のような著述を残すとき、すでに今日の芸術が新しい高みに到達したという意識が、人々の共通認識になった。そして、自ら画家であり、ウフィッツィの設計を行ない、当時の美術家の生涯と作品をまとめた「イタリアの至高なる画家・彫刻家・建築家たちの生涯(芸術家列伝・美術家列伝)」の著述家である(1550)ジョルジョ・ヴァザーリ(1511-74)が、その冒頭で、「古代ローマのすんばらしい芸術隆盛が没落を極めて、呪わしいゴシックのごてごてしたグロテスクな蛮行を繰り広げた。しかし1250年頃から、古代の遺産の輝く光にようやく気が付き始めた私たちは、間違ったゴシック芸術から、正統な古代ローマ芸術に足を踏み出すのだ。私はこれを持って、今日合い言葉ともなっているリナシタ(rinascita)、すなわち再生の時代と高らかに宣言して、その第一歩を遂げた13世紀のトスカーナの画家、チマブエから順に彼らの生涯を紹介して、リナシタを讃えてしまおうという訳なのです。」と云うような心持ちで序文を書いた時、後にルネサンスと呼ばれる言葉の正統な発祥地となった。
 この言葉が視覚美術だけでなく、文学にも、音楽にも、人々の価値観にもたやすく転化できるため、後の歴史学者達が、中世からの脱却と再生の精神で捉える傾向が生まれ、フランスの歴史家であるジュール・ミシュレ(1798-1874)が1855年に「フランス史」第7巻においてサブタイトルに再生の言葉を、フランス語で「ルネサンス(Renaissance)」と記入すると、1860年にスイスのヤーコプ・ブルクハルト(1818-97)がこの単語に目を付けて「イタリア・ルネサンスの文化」を書き上げた。このブルクハルトの著作物があまり優れたものだったので、以後の歴史観に明確にルネサンス時代というものを織り込ませてしまう、結果となったのだった。
 その後20世紀初頭には、例えばホイジンガが今度は中世に光を当てて、ルネサンスと中世の断絶ではなく、連続体としての歴史観を提示すると、今度はイタリア美術を中心にした歴史区分であるルネサンスは可笑しいとか、錬金術に、魔女狩りのおどろおどろしい世界のどこが再生なものかとか、過渡期だただの過渡期だ、というような意見も登場し、大航海時代や宗教改革のシーズンとの関係や、区分けも含めて、心を落ち着けて再定義の季節が今到来したのだった。(・・・ああそうですかい。)

音楽・文学方面の一般的傾向

 ギリシア時代の音楽は記念碑的な一部の楽譜が演奏スタイルを伝えることなく残されているだけだし、ローマ時代の音楽に至ってはほとんど楽譜資料すら残されていない有様だったから、古代ギリシアローマ文化への復興は音楽そのものでは無理だった。一方では当時の音楽理論や、音楽とその影響に関する著述に関心が高まったが、実際のところ古典古代の音楽理論の影響は、文学や建築、絵画とはことなり、中世キリスト教音楽に取り込まれていた。音楽の人間の魂に作用する力についても中世にはよく知られていたが、一つ大きな断絶があった。キリスト教宗教音楽が、特に初期において人間の感情に直接訴えかけるようなメロディーラインを持つ音楽を回避して、高揚した敬虔さを持続するようなスタイルを見いだしたため、民族の持つ言語と結びついた旋律とは異なる、新たな様式の音楽を創出したからである。宗教的音楽は、元来そのような傾向を持つものだが、トルヴァドゥール、トルヴェール、そしてそれから派生する周辺地域の同種歌曲による芸術的俗語歌曲を通じて、我々の言語に基づく歌曲への意識が高まりつつあった。12世紀ルネサンス以降フランス語圏ではいち早く俗語による物語が、文学として独り立ちを開始したが、これに釣られてイタリアでダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョらの俗語文学運動が開始した。彼らは我が国の伝統として驚きを持って探求した古典古代の作品から、文法、修辞法や作詩などを吸収し、それぞれに最初期の文芸復興を興したのだったが、音楽に関しては一つ重要なことが欠けていた。特にギリシアにおいては詩と音楽は、言語とメロディーの結びつきによって固い絆で手を取り合っていたが、彼らの活躍した時代のイタリア・トレチェント音楽と、彼らの目指した芸術的な詩の結びつきはあまり無く、彼らの俗語文学のリズムは、イタリア語による朗唱で語られるためのものでもなかった。しかし、彼らはまだ古代の音楽とそのあり方について、現代にその理念を呼び戻して現在の生活や芸術を一層高い位置に押し上げる古典復興のジャンルとして見ていなかったため、哲学者、医師、占星術師にして魔術書『ヘプタメロン』を書いたイタリア人で魔導士容疑で取調中亡くなったとされるペトルス・デ・アバノ(アバノのペトルス/ピエトロ)(1250-1315)が音楽の持つ力に関心を見せてはいるものの、15世紀になってもっぱらイタリアの宮廷と関わり発展した人文学者達が、古代文献を読み解く関心が音楽にも向けられた様相だった。しかし、幾つか見つかった過去の楽譜自体は到底蘇らすことが出来ないため、当然音楽に対する関心は、音楽そのものではなく、古代の音楽についての倫理などを書き表した著作物や、音楽理論書などに関心が向けられ、拡大期の印刷業事業に乗せて出版された過去の著作物は、多くの学者達の共通項的平均知識の水平線を押し上げた。(何やねん。)倫理的な事柄に関しては、古代の音楽の持っていた魂への影響や、人々を動かす力についての議論が盛んになると、ベルナルディーノ・チリッロが「今日の音楽においては、対位法による旋律の不自然な縦の関係による複雑化が、本来直線的なメロディが持っているはずの力を弱め、詩を分かりにくして歌詞の力を奪い取っているのです。」と嘆くような意見も登場した。このような考え方も一つの契機となって、さらにイタリア世俗曲の持つ込み入らない明快さの影響もあって、16世紀に入る頃から、フランドル出身の曲を書く歌手達(今日風には作曲家)の対位法書法が次第に変化し、また歌詞と旋律の関係が模索され、歌詞の抑揚に基づいた旋律ラインや、歌詞を邪魔しない対位法などが、ミサ曲やモテートゥスを均質で模倣を重視する作曲スタイルを生み出して行くことになった。しかしもう一方で当時の音楽理論家や、人文主義者達は、ルネサンス的な対位法スタイルが今まさに芸術的高みに到達したのだとも考えていたから、多声進行のスタイルは進んで継承され、やがて俗語による世俗的歌曲の最高度に芸術化したジャンルとして、イタリアでは和弦的なフロットラなどからマドリガーレが隆盛を見せるようになって行く。それに対して過去の音楽を実践的に蘇らせたい、言語と旋律の関係を古典古代の演奏の実態に近づけ復興しようとする野心は、例えばニコーラ・ヴィチェンティーノ(1511-c76)が、半音(クロマティック)や4分音類(エンハーモニック)も演奏できるような3つの鍵盤の付いたアルチチェンバロやアルチオルガンを試作して、当時の旋法の微妙な節回しを蘇らせようとして、大いに失笑を買う逸話に行き着いた。したがって、16世紀後半になって流行った半音階の頻繁な使用と、それが歌詞を生かすと考えられた理由には、こうした人文主義の影響も幾分あるらしい。さらに、ギリシア音楽理論のトノスとかオクターヴ種という謎の言葉に立ち向かっているうちに、やがて我々の使っている旋法とギリシア時代の旋法が一致していない事が発見された。こうして、次第に当時の音楽自体を完全に蘇らせることは出来ないらしい事が分かってきたが、かつては詩人と音楽家は一つであったという、言葉と音楽の一体感への憧憬と、その復興への飽くなき探求心は、特にジローラモ・メーイと、知人のヴィンチェンツィオ・ガリレーイ、ジョヴァンニ・デ・バルディらを中心として一つの流れを誕生させ、バルディの主催するフィレンツェのカメラータという音楽研究発表会みたようなアカデミで、当時の旋法と実践自体を理論書から完全復興することは出来ないが、本質的に同種の遣り方を復興することは出来るの精神で、古典時代の悲劇・喜劇の言葉と旋律の一体となった活力を取り戻すべく研究を重ね、1600年のパラダイム変換とも呼ばれる、モノディースタイルの登場によって完成されることになった。

ルネサンス的なパトロン達

 指導的立場に立つために教育された者達の知識エリート層による知的好奇心や芸術への関心に基づいたパトロン活動が、支配階級にとって筆数の条件に思われるようになったこの時代、人文主義と諸芸術は制作者と依頼者・保護者の蜜月が生み出された。ブルゴーニュ公国の伝統もあり形を整えた、ルネサンス的指導者のあり方が、幼少から指導者に立つべく文法、特に修辞学、弁証を学び、人々を引きつける能力として手本を古典文学におく教育体制が、さらに教養人としての美術的才能、特に音楽の出来る君主の伝統を華開かせた。16世紀前半、そうした宮廷人のあり方は、カスティリオーネの「宮廷人の書」の中に見いだされるが、ここでは宮廷人は初見で歌唱出来るべきであり、さらに「弦楽器伴奏で朗唱風に歌うこと」(つまりリラ・ダ・ブラッチョのような伴奏で即興的朗唱歌という、北イタリアの宮廷の伝統を指すとか)と著述され、北方のマクシミリアン1世や、ヘンリー8世、フランソワ1世などの君主達も、同様の精神で教育され成長した。このカスティリオーネの本は16世紀中大量出版され後の国王貴族などに大いに影響を与え、教養人の身につける音楽というものもまた定着していった。この支配層の擁護と音楽の発展は、ルネサンスを越えて、続くバロック時代にクライマックスを築くことになるだろう。そんなカスティリオーネはローマでラファエロ・サンティと知り合って、今日ルーブル美術館に「バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像」(1514-15年)が展示されている。

フェラーラを例に

 北方イタリアで支配階層の宮廷で音楽家を本格的に雇いだしたのは、15世紀に入ってからだったが、その世紀後半になると北方のシャンソンをフランス語で楽しむだけでなく、演奏する音楽家を雇い入れる宮廷人としての支配層が、北方ブルゴーニュ公国の宮廷伝統や、ナポリ王国での伝統などから影響などを受けて、登場してきた。例えばフェラーラを例に覗いてみよう。
 フェラーラは、もともとランゴバルト族の末裔から生まれたらしいエステ家が、1240年にシニョーリア制を確立して、都市フェラーラを中心とする君主的立場でルネサンス期を向かえていた。ニッコロ3世(在位1393-1441)は、教皇エウゲニウス4世にこの地で公会議を開くように提案した人物で、これによってバーゼル公会議分裂後の公会議がフェラーラで開かれることになった。このような教皇と親しい関係のためか、ニッコロ3世はデュファイと関係を持ち彼のための作品が残されているのだが、彼の息子であるレオネッロ(在位1429-50)の時代になると、1441年に北イタリア諸都市を牛耳る宮廷人の中で先人を切って宮廷カペッラが組織され、北方からの歌手が雇われ、デュファイ、バンショワやダンスタブルまで名を連ねる宗教曲の写本が残された。
 続くボルソ(在位1450-71)の時代になると、1471年に公位を授かって晴れてフェラーラ公国として名乗りを上げ、いよいよルネサンス都市としてのフェラーラの本領を開始する。彼はタッデーオ・クリヴェッリ(c1425-c1478)に聖書写本の挿絵を任せ、ため息の出るほど美しい「ボルソ・デステの聖書」が残されているが、これは「ベリー公の甚だ華麗なる時祷書」と共に、コレクターには模造品でもたまらない逸品だそうだ。また彼の時代には美術史では国際ゴシック様式に組み込まれるピサネッロ(1395-1455)や、ヴェネツィア派を開始することになるヤーコポ・ベッリーニ(1400-1471)、ウンブリア派で知られアレッツォに「聖十字架伝説」という壮大なフレスコ画を残したピエロ・デッラ・フランチェスカ(1415-1492)、それに例の北方低地地帯の画家であるロヒール・ファン・デル・ウェイデン (c1400年-1464)もフェラーラに滞在して活動を行なっている。
 そしてお待ちかねの?エルコーレ1世(在位1471-1505)が登場する。建築家のビアージョ・ロッセッティを起用してフェラーラ市北部を大幅に拡張した話は有名だが、音楽についても、彼はボルソが潰した宮廷カペッラを71年のうちに復活させ、同じ年ミラーノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが創設した宮廷カペッラと、互いに北方の雄(ゆう)を掛けて張り合い、すでにこの頃には、有力な宮廷には管楽器奏者達や世俗曲や舞曲に活躍する音楽家達が雇用されるようになっていた。こうした楽器奏者などにイタリア人達が活躍していたのに対して、宮廷カペッラでは北方歌手達が競い合って雇われ、そうした歌手兼作曲家は、フランス語自体の使用にフランス語シャンソンが流行する北イタリアの宮廷のために、宗教曲だけでなく多声シャンソンなどを作曲していた。エルコーレ1世については、恐らく1480年代に書かれたジョスカン・デ・プレの「フェラーラ公エルコーレのミサ曲」でもよく知られているが、ジョスカンは後年一時宮廷カペッラの楽長としてフェラーラに就任して居る。こうして16世紀初頭ぐらいまでは、北方の作曲家達が宗教曲や、写本に残されるような高尚な世俗曲のジャンルを作曲し、それが今日まで残されることになったが、もちろんこれらの楽曲が一番宮廷内と都市内の音楽生活を飾っていたのでは、全然無くて、数多くの行方知れずになったその場限りの音楽達が、至る所で鳴り響いていた。

音楽への新しい考え方

 チリッロの悲観的な考え方よりも、ジョゼッフォ・ザルリーノ(1517-90)の語る「我々の時代に、対位法的技法が完成に導かれたのであります。」という意見の方がより多くの人の共通認識だった。彼は「すばらしい黄金時代の作曲家の先頭を切るのは、アードリアーン・ウィラールト(c1490-1562)に違いありません。」と讃えているが、実はチリッロもヤーコプ・アルカーデルト(c1505-1568)のマドリガーレ「ああ、美しい顔はどこにAhime,dov'e'l bel viso」を新しい音楽の旗手と認めるなど、本質的には多声作曲スタイルが前提に置かれていることには代わりはなかった。15世紀に入ると主要なギリシャ音楽理論書がビザンティウムからもたらされ、15世紀の終わりには今日見られる古代の重要な理論書が大部分イタリア人文学者達に知られるようになった。こうした古典の理論書の広まりには、当時急激に拡大を遂げた印刷出版業が大いに関係して、原語を理解できない人文学者のために翻訳を行なう仕事も急速に組織された。フランキーノ・ガッフーリオ(1451-1522)は自ら翻訳をしながら古典の研究を行なったが、理論書の中では臆病な態度でギリシャ音楽理論を少し取り込んでみた。以下、教科書の説明をまとめておこう。

旋法の力

・古代では旋法の選択が聞き手の情感に訴えかけ精神に作用したことが古代の研究者と音楽家達を引きつけたが、同じ名前で呼ばれた教会旋法との関係が一致していない衝撃の事実がじんわりと広まっていった。にもかかわらずヘンリクス・グラレアーヌス(1488-1547)は「12弦(ドーデカコルドン)」(1547)の中で、伝統的な8つの旋法に新たに4つの旋法を取り入れ、12旋法を定義して見せた。それはすなわち、
→イ音終止音のエオリアとヒポエオリア
→ハ音終止音のイオニアとヒポイオニア
であるが、その後で8つしか旋法を知らないはずのジョスカンを、12旋法を駆使して戦った上手人(じょうずびと)として讃えることは、ジョスカンの作曲の多彩さを一層際だたせることになった。お見事、ジョスカン。(なんだそりゃ。)

協和音と不協和音

・ヨアンネス・ティンクトーリス(c1435-c1511)の「対位法の技法についての書(ラ)(リーベル・デ・アルテ・コントラプンクティ)」(1477)では、「協和音よりも不協和音の方が多い古い世代の作曲家達」を嘆いたあげくに、「40年以上前に書かれたもので聞くに値する作品は全くないぜ。」と明言してしまった。そして3和音を主体とする均質な響きに対して、不協和音を組織的に導入するための規則が次第に整えられ、特に不協和音は弱拍や終止で、前の音から伸ばされ繋留されたものとして不協に至り、遅れて解決する方法が定着、この考えはイタリア理論家達に練り上げられ、ジョゼッフォ・ザルリーノによってまとめられた。

調律組織

・3度と6度を常時和音構成音として使用し始めると、15世紀半ばまでそれでも幅を利かせたピュータゴラース音律による調律が調子はずれで我慢できなくなってきた。1482年にイタリア居住のスペイン数学音楽理論学者であるバルトロメ・ラモス・デ・パーレハ(c1440-1491以降)が、「実践音楽 Musica practica」という理論書を記し、グイード・ダレッツォのヘクサコード階名法ではなく、7音音階で階名を歌うことを提唱すると共に、より心地よい3度と6度を作り出す修正案を考案し、純正律(純正5度,純正長3度を組み合わせて3和音の心地よい響きを目指す調律)に近いシステムをうみだし、ザルリーノなど後の音楽学者に多大な影響を与えた。
・一方では、フランキーノ・ガッフーリオ(1451-1522)がプトレマイオスの考案したシントニック・ディアトニック音階、すなわち5度を3:2、4度を4:3、長3度を5:4、短3度を6:5と単純な比率で調律する遣り方を紹介し、「純正律just intonation」という言葉がクローズアップされてきたが、例えば合唱やヴァイオリンなど音程を相手に合わせることの出来る楽器を使って、完全に純正律で響きの美しさを追求していくと、切ないかな幾つかの和声を経て同じ和音に帰ってきたときに、元の高さに戻らないという、ハーモニーと旋法の不一致が起きるうえ、対位法音楽の神髄は、ハーモニーではなく、ハーモニー上で絡み合う幾つかの旋律であるために、純正なら拍手喝采というわけでもないので、1523年にイタリアのピエトロ・アーロン(1480-1545)という理論家が「ミーントーン」を発表すると、「それだ、それだ、3度と5度が出れば、使い物になりますよ」と云われてミーントーンや、それに近い調律方法が一般的に採用されるようになった。このミーントーンは、日本名を中全音律といい、中世ピタゴラス音律では命の次に大切な完全5度を、ほんの少しだけ、心持ち狭くして、完全5度を5回連続繰り返した先に生まれる元の音の長3度上の音(例えば、「ド→ソ→レ→ラ→ミ」の「ドーミ」)が、元の音と5:4の単純な比率になるように操作したもので、中全音とは、調律理論にあった大全音と小全音という2つの全音に対して、純正3度を半分に分割した全音を中全音と呼ぶことに由来するそうだ。
・特に新しい表現効果を求め、しだいに変ハや重変ロと言った全音階から離れた音も認めるようなムジカ・フィクタの嵐が沸き起こると、もはやどれが偽りで何が本当の音階か分かったものじゃなくなってきて、変音と嬰音が別の音になるようなピュータゴラース音律では立ち行かないというので、壮大な古代ロマンに取り付かれた理論家にして作曲家のニコーラ・ヴィチェンティーノ(1511-c76)が、ローマで半音や4分音類も演奏できるような3つの鍵盤の付いたアルチチェンバロやアルチオルガンを試作して、一人で悦に入って「作曲は悪くないんだがなあ」と失笑を買ったりしていたが、同じ頃もっと新しいシステムも模索されていた。
・それは平均律かそれに近い方向で調律を行なおうとする立場で、実際合奏などを行なう際、転調領域が増加し半音主義の音楽も増加するルネサンス後期の音楽などでは中全音律ではかえって響きのむらが問題になるし、第一合唱や弦楽器などでは音程は絶えず微妙に変化するので、厳密な中全音律で転調をしながら曲を乗り切るのは至難の業でありながら、しかも利益がうすい。リュートやガンバのようなフレット付きの楽器は音律に合わせてではなく、均等にフレット分割されていたし、例えばジャーコモ・ゴルザーニス(c1520-1575/9)は1567年に24の調によるパッサメッゾとサルタレッロ曲集を作曲、ヴィンツェンツォ・ガリレーイ(1591没)も1584年に12長調と12短調によるリュート組曲を作曲したりしているので、固有音程を美しくするよりも、比較的平等に半音を分割するという、平均律的精神の模索と理論化は、16世紀を通じて行なわれていたのかも知れない。どこぞのサイトによると、シュリックが1511年に記したオルガンに対する実践的調律法では中全音律にするためではなく、転調領域の拡大を目指す平均律の精神に近かったのでは無いかとも言われているし、さらに1518年、グラマテウス(c1492-1525/26)がピタゴラス音律で導き出した7音からなる全音階の各全音を単純に半分にして、半音にしてしまうという荒技を提示して見せた。これは非常な力業に思えたが、実際は全音階に含まれる元々の半音(e-f)(h-c)だけが小さな半音になり、他の半音はすべて等しい音程幅になるため、3度の響きのためではなく、実際に調性領域を拡大させるための、等分的音階生成法の理論書に書かれた初期の例になっているそうだ。その後平均律的指向をもった音楽書も登場し、ヴィンチェンツォ・ガリレーイ(c1520-1591)は1581年に半音を17:18としてほとんど平均律的方法を記述しているし、ジョゼッフォ・ザルリーノ(1517-1590)も1588年に「12の均等な分割が、どの調でも演奏可能にする」という意味のことを述べている。
・要するに16世紀に新しい調律と理論化への関心にわかに高まって、純正律、中全音律、平均律、ヴィチェンティーノのアルチチェンバロの試みなど、一斉に華開いてしまったのかもしれないね。一つだけ述べておくと、対数が認識されるまでは平均律が出来ないというのは、全然意味がない。この意味での厳密な理論的平均律は、調律した側から微妙に音程変化を開始する今日のピアノでもできっこないし、逆に12の音を平均的に少し縮めて5度4度を形成しつつ等しい幅で調律することなら、半音の数値を導き出すまでもなく、良い耳を持った調律師なら当時でも、余裕で出来るからである。言うまでもなく、今日の平均律も、全部の半音を機械で測定しながら合わせているのではなく、まったく耳で調律しているのだから、対数云々はそもそも現実を見ない理論だとしか思えない。思えないんだが、あまり詳しく調べたこともないので、まあ、興味のある人は、自分で掘り下げてみたらいいでしょう。

楽譜印刷

・中世のあいだ、楽譜は何よりも羊皮紙に手で丁寧に記述され残された。羊皮紙は、条件が良ければ1000年を越える耐久力を示すほど腐食に対して耐久力があり、中世前期には他にパピルス紙(実際は繊維が絡み合わないため、狭義の紙には入らない)が使用され続けたが、これは紙と云うより柔らか板で、両面に記入が出来ず、冊子に出来ないと云った制約があったため、日常書き物以外はローマ時代から羊皮紙へのシフトが活発化していたのだ。こうして中世の保存用楽譜は、羊皮紙で記されたが、当然これはすべてを手で記入していく訳だ。そんな中、1100年頃から音楽を楽譜に残す精神が目ざめたか、楽譜の数が増加するが、同じ頃、中国生まれの繊維質による記述媒体である紙が、神の贈り物として、751年に起こった中国VSイスラームのタラス河畔の戦いで捕虜を通じて、東方からイスラーム世界に流入し、これがイベリア半島のイスラーム勢力を経由して、ヨーロッパ世界に入り込んできた。こうして13世紀から15世紀にかけて、次第に一般用途では安価な紙が使用されるようになっていくが、特に重要な文書や、長期保存用楽譜や、写本は引き続き羊皮紙が使われ続けた。(今日でも特別な場合に羊皮紙が使われるそうだ。)その後、木を彫って印刷する木版印刷なども登場し、1420年頃には写本も羊皮紙から紙が使われるようになるなど、発展したが、1440年代についにヨハン・グーテンベルク(1390代-1468)が活字印刷術を生みだし、印刷革命を引き起こすことになったのだ。印鑑みたいに彫ってある字を並べて、これにインクを付けて印刷する方法は、いち早く11世紀には中国で木の活字で行なわれていたが、これはやがて中国では途絶えて朝鮮が跡を継ぐ。しかしこれとは無関係らしく、15世紀半ばにヨーロッパで活字印刷が登場し、これは一説によるとオランダ人コステルが1423年には完成していたのだとも噂されるが、一般にはグーテンベルクが第1人者の栄誉を獲得している。彼は、活字に金属を使用し、インキの最適化と、印刷機の圧搾技術を持って、総合的に活版印刷をシステム化したので、彼が生みの親で依存はないだろうという訳だ。これによって1473頃には移動植字法で印刷された単旋聖歌の典礼本が登場し、楽譜の領域に印刷術が流れ込んできた。しかし、楽譜では音符の活字以外にも譜線もあり非常にやっかいなため、需要も高い単線聖歌の楽譜からなかなか先に進まなかった。しかしついに1501年、ヴェネーツィアのオッタヴィアーノ・デ・ペトルッチ(1466-1539)が、歌詞と譜線、音符を分けて多重刷りを思いつき、すでに貴族、商人、裕福な市民達のアマチュア的音楽好奇心により十分な需要の見込める多声音楽の楽譜に殴り込みを掛けた。ただしまだ総譜ではなく、パート譜(声部譜本partbook)であるが、演奏のためにはパート・ブック形式の方が普通じゃないか。彼は「多声音楽の百の歌A([ラ]アルモニチェ・ムジチェス・オデカトン)」をこれ以降続々出版、これを持って、ジョスカンのワンポイントの云うところ、「以後大い(1501)に華開く、ペトルッチの楽譜印刷」が開始されたわけだ。あんまり調子が出てきたものだから、つい1523年までに59巻も出版してしまったという。さらに遅れて1度刷りはロンドンで1520頃にジョン・ラステルによって始められ、1528年にはこれをパリのピエール・アテニャンが大規模に送り出した。ドイツでも34年頃、ネーデルラントでも38年頃と相次いで出版業が開始。実際には写本楽譜や木版印刷を駆逐する新の意味での印刷楽譜革命は、産業革命と中産市民達の時代まで掛るものの、出版業は以後急速に拡大を遂げることになった。

作曲法

・和声の縦の響きと模倣的楽句を把握しつつ作曲するために、常に1つの声部を他の全声部に対応させて考える必要性が生まれてきた。1524年には、ピエトロ・アーロン(c1480-c1550)が「まあ、曲を書くのも初心者は昔のように順番に声部を重ねて行く遣り方でも仕方がないが、一流の作曲家たるもの全声部を同時に書く新しい必殺技を身につける必要がある。最下声に対して5度と3度、6度と3度の両方を加えることにより、どんな場所でも充実した和声を持って戦うことが出来るのだ。」と云うような内容を理論書に書きながら、作曲の手引きとして、理論家達が「協和音音程表」を出版した。ここでも印刷業の力が新しい影響を与えているのだ。次第に作曲家達も、曲をスケッチしたり研究するのに総譜を用いるようになっていった。理論家のランパディウス(1537)は小節線付きの総譜の短い例を示し、その考案をジョスカンやイーザークの時期としている。アンサンブルのもっとも古い印刷総譜も、1577に出版され、印刷楽譜によるアンソロジーと音楽研究の本格化が始まるのである。

シャンソンの流行

・1460-80年になると、かつての定型に基づくフランスの歌曲であるシャンソンは形式を拡大し、模倣的な対位法を使用することがますます多くなっていった。オケヘムやアントワーヌ・ビュノワ(1492没)のシャンソンでは当時ブルゴーニュ宮廷の影響もあって北フランス一帯で流行していた、宮廷詩の定型formes fixesを用いて作曲している。しかし、オケヘムの「口元は笑っていても」やジョスカンの「さようなら、愛する人よ」のような有名な曲は、とくにフランス語を国際語とする北イタリアなど多くの国々でこよなく愛され、器楽編曲されたり、ミサの定旋律に使用された。そんな国際的シャンソンブームが、イタリアの世俗歌曲の影響を受けたか、ジョスカンの頃になると、ブルゴーニュ公国が崩壊したこともあって、次第に定型の使用は古くさいことに思われ始め、自由な形式の、歌詞に乗っ取ったフランス語の世俗多声楽曲として生まれ変わっていった。特に有名なジョスカンの「千々の悲しみ」も、やはり自由形式の曲であるが、すべての声部が必要かくべからざる。なぜならこれは伴奏付きの歌ではないからである。(教科書の名文をそのまま引用。)クリストバル・デ・モラーレス(c1500-53)はこの曲をミサ曲にしているから、こちらも一緒に聞いてみると感慨深いだろう。とにかく、この定型から自由形に至るシャンソンは、「多声音楽の百の歌A(アルモニチェ・ムジチェス・オデカトン)」が1501年にペトルッチによってヴェネーツィアで出版され、印刷出版に火を付けた時、続く印刷楽譜のラッシュで人々に伝わっていった。

ネーデルラントの音楽家達

 ルネサンスも美術運動なら、イタリアを中心にお送りするのだが、16世紀を通じ、さらに17世紀前半に入っても、ヨーロッパ中で活躍し、イタリアに出稼ぎに出かけるのはフランドルの作曲家達であった。実際はイタリア各都市と宮廷で最も華やいでいた祝祭的音楽に参加していたのは、15世紀にフィレンツェで活躍したアントーニオ・ディ・グイードやら、フェラーラのリュート奏者ピエトロボーノのような、即興的に楽器を演奏し、自国の叙事詩や詩を歌うような音楽家達であったし、レオナルド・ダ・ヴィンチが音楽に秀でていたというのも、この種の音楽を指していたのだが、こうした今日のポップスのような消費物としての音楽は、今日と違いCDも無いので、彼らの死と共に消え失せてしまったのだった。したがって、音楽史で見ている音楽家と作品は、残されることを意図した特殊な音楽の連続から成り立って居るとも云える。気にすることなく、この時期のネーデルラントの音楽家達を見ていくことにしよう。

2005/10/06

[上層へ] [Topへ]