6-3章 ハインリヒ・イーザークの生涯

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概説

 まあ、なんだ、イーザークは皇帝の作曲家ではあるが、フィレンツェとの関わりが強いから、ここでメディチ家フィレンツェの動向と合わせて、イーザークの生涯を追ってみるのも悪くないかも知れない。という訳です。

まずはメディチ家についてなど

 薬の意味を持つメディチの名称から、13世紀のフィレンツェ政府に登場するメディチ家の大元は、薬売りの商人だったのかとも噂されるが、14世紀には銀行業務で財産を築き共和国政府に要人を送り込むほどになった。しかし1378年に商工業組合アルテに参加できない下層労働者(毛織物工業などの)と政府不満貴族が手を取り合ってチョンピの乱を起こし鎮圧されると、反乱に参加したメディチ家のサルヴェストロは、見事国外追放となりメディチ家の力は衰えた。めげない銀行魂で回復したメディチ家は、とうとう1410年に教皇庁金融業務で有力な存在となり、がっぽり儲けて、懐手(ふところで)してほくほく笑うジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360-1429)の時に、以後のフィレンツェ支配の土台を築いた。1422年にはシスマの終わった統一教皇マルティヌス5世が、「それじゃあ、君に伯爵の位を授けようか」と微笑むと、「いいえ、教皇様、私は共和国フィレンツェの一市民でございます」と恭しく返答し、まるちゃん赤いきつねもビックリしたという逸話が残されているほどだ。そして彼の息子こそメディチ家のフィレンツェ支配を完成させた男、コジモ・デ・メディチ(愛称コジモ・イル・ヴェッキオ、つまり「ご老体のコジモ」)(1389-1464)だ。

コジモ・イル・ヴェッキオの時代

 彼が亡くなった父の跡を継ぐとすぐさま反メディチ派にフィレンツェを追放され、泣きべそをかいていたのが一番の危機だったのかも知れない、しかし反対派は目出度く失脚しフィレンツェに戻ったコジモは、老人の振りをして「わしゃあ、出過ぎた真似は嫌いでのう、けほけほ。」と咳をしながら、静かに選挙制度を改編しつつ、メディチ派が政府内に多数となるように駒を進めて見せた。この時期メディチ家はローマの法王庁銀行とヴェネツィアの海上保険まで行なう銀行だけでなく、アヴィニョンでも教皇庁に関わる銀行の支店を置き、ジュネーブでは定期市に関する業務を行ない、またロンドン、ブリュージュでは毛織物産業取引の業務を請け負い、莫大な財産を築いていたそうだ。そして、ブリュージュではルッカの商人ジョヴァンニ・アルノルフィニがブルゴーニュ公国の財務担当を行ない、ヤン・ファン・アイクが大きな工房を建ててる中に、メディチ家のブリュージュ支店の支配人トマソ・ポルティナリも活躍していて、このトマソが画家フーホ・ファン・デル・フースに依頼して描かれた祭壇画が、支店閉鎖に合わせポルティナリと一緒に1480年付近にフィレンツェに到着し、当時のイタリア人画家達にまた新しいインスピレーションを与えてしまったと言われている。こうした経緯でフランドル地方で作製された「ポルティナリの祭壇画」は今日ではウフィッツィ美術館に飾られることになったのだ。
 それはさておきコジモ時代に話を戻すと、1431年開催のバーゼル公会議が分裂して、公会議至上主義派がバーゼルに残った後、フェラーラで、ついで1439年からフィレンツェで開かれたフィレンツェ公会議は、ご老体のコジモが提案して、この地で開かれたものである。この公会議では崩壊寸前のビザンツ帝国から使者が参加し、東西教会の統一を模索し、例の「フォリオクェ問題」でも妥協点を見いだして、あわや統一実現化と思われたが、結局実現ならずして1453年にコンスタンティノープルは陥落してしまうのである。

フィレンツェのルネサンス

 この東方危機に関連して、ビザンツ帝国からこの公会議に遣ってきた知識人の聖職者である、ゲミストス・プレトン(1360年?-1452年)とヨハンネス・ベッサリオン(1399年?-1472年)がフィレンツェ入りを果たした。当時すでに古典古代の数多くの文献がギリシア語で残され、読解の期待が高まっていたが、すでにイタリア人にとっては解読困難な原語であったギリシア語を理解するために、すでに1396年フィレンツェ政府の書記官長サルターティがビザンツ帝国からマヌエル・クリュソラスという学者を呼び寄せて、古典ギリシア語の講座を開いて、勉強会を開いていた。そして今回の学者来訪を受けて、さっそくゲミストス・プレトンの講義が開かれ、彼の独自のプラトン解釈は、新プラトン主義の嵐となって、フィレンツェの人文主義者達を駆けめぐってしまったという。すでにクリュソラス講義でギリシア語を読めるようになっていた書記官長のレオナルド・ブルーニ(1370-1444)も心の臓が高まりを覚え、一緒に講義を聴いていたご老体のコジモ様は、とうとう1449年に「アカデミア・プラトニカ(プラトン学院)」を設立、プラトンがアテネで行なったアカデメイアの復活を夢見るほどだった。さらにその後コンスタンティノープルが陥落する前後から、沢山のビザンツ亡命者達が学者や文献と共にイタリアに逃れ、フィレンツェに留まり後にはカトリック教会の枢機卿の座を獲得するベッサリオンが、亡命学者を世話したりしてますます活気が漲り、学院では若きマウシリオ・フィチーノ(1433-99)が古典ギリシア語をマスターし、62年頃からプラトン全集のラテン語訳を成し遂げてしまったし、ローマで「人間の尊厳について」の公演ライブに酔いしれ教皇庁から目玉を食らったピコ・デラ・ミランドラ(1463-94)なども参加、さらに詩人のアンジェロ・ポリツィアーノ(1454-94)と、画家のサンドロ・ボッティチェッリ(つまり「小樽のサンドロ」を意味するニックネームで、兄が大樽だった理由によるそうだ)(本名アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ)(1444/45-1510)も肩を並べ、ボッティチェッリの「春(ラ・プリマヴェーラ)」や「ヴィーナスの誕生」は新プラトン主義の心持ちがみられるそうである。コジモ様は他にも芸術家のパトロンとして広く君臨し、ロレントォ・ギベルティ(c1381-1455)、フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)、ドナテッロ(1386-1466)など、1436年に完成したサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と関係した有名な芸術家達を保護し、その大聖堂の内部フレスコ画には颯爽(さっそう)と消えた天才マザッチョ(1401-1428)亡き後を継ぐ、遠近法の旗手パオロ・ウッチェロ(1397-1475)も活躍、そして献堂式当日には、教皇エウゲニウス4世の執り行う式の中で、デュファイの祝典モテートゥス「少し前、バラの花がーこの地は恐ろしい」がトランペットなどの楽器に乗せて高らかに歌われたことは、言うまでもない。そしてこの大聖堂に取り付けられた小型オルガンの演奏者として、アントーニオ・スクアルチャルーピ(1416-1480)がすでに活動を開始していたから、彼の演奏もきっとこの祝日に華を添えたものと思われる。彼はイタリアの14世紀(トレチェント)音楽の多く収められた写本を収めた写本を所有していたが、これは今日スカルチャルーピ写本としてトレチェント音楽の重要な資料になっている。また、この時期フィレンツェで修道士でありながら画家として人々に慕われていたフラ・アンジェリコ(天使のような僧)(本名はグイード・ディ・ピエトロ)(1387/1400-1455)が、エウゲニウス4世のお招きでローマに出て仕事をしている事も、付け加えておこう。

ピエロ・イル・ゴットーゾの時代

 続くピエロ・イル・ゴットーゾ(痛風病みのピエロ)(1416-1469)は虚弱体質の漲らない力で、それでもフェラーラと都市内反メディチ派を押さえ込み、メディチの独裁体制を維持しつつ、芸術家の保護者として大いに活躍、この頃フィレンツェでは、建築家のレオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)やら、画家のベノッツォ・ゴッツォリ(1420-97)やら、フィリッポ・リッピ(1406-1469)などが活躍し、このリッピはフラ・アンジェリコ同様の修道士でありながら、女性一筋駆け落ちして子供を作ってみたら、この子供はリッピのお弟子のボッティチェリに教わりながら絵画に目ざめ、次世代のフィレンツェの画家フィリッピーノ・リッピ(1457-1504)として活躍してしまうから驚きだ。

ロレンツォ・イル・マニーフィコの時代

 短い統治の後メディチ家当主は息子のロレンツォ・イル・マニーフィコ(偉大なロレンツォ)(1449-1492)の手に渡った。しかし、時の教皇シクストゥス4世(在位1471-1484)と対立、教皇庁銀行はメディチ家のライバルだったパッツィ家に移され、挙げ句の果てに1478年にフィレンツェ大聖堂でパッツィ家に暗殺されそうになった。ところが見事に討ち果たされた弟ジュリアーノはアルノ河にぷかぷか浮いていたが、兄のロレンツォの方はこの「パッツィ家の陰謀」を傷だらけで逃げ延び、たちまち市民を味方に付けて、パッツィ家を崩壊に追い込んだ。すると今度は教皇様が教皇庁の銀行に楯突くとは何事かとお叫びなさって、フィレンツェそのものを破門して、ナポリ王国と手を結んで攻め込んでくるから、さあ大変。この危機的な条件を打破すべく、ロレンツォはお馬をパカパカ走らせて、危険を顧みず、ナポリに乗り込んで、ナポリ王フェルディナンド1世に直談判すれば、「天晴れなその心意気、見事なり!」と感心したナポリ王たちまち和平に転じ、今度はオスマントルコが攻めてくるので、教皇も渋々ロレンツォと和解をする内に、やがて教皇もなくなってロレンツォの体勢は不穏の暗雲を通過したという。その後、当主前からプラトンアカデミーに学び知性豊かなだけでなく、音楽もスクアルチャルーピから学び、アルベルティから建築まで学んだという、ルネサンス君主の見本のような彼の時代を通じて、いよいよフィレンツェ・ルネサンスの頂点が築き上げられるのであった。プラトンアカデミーの精神を込めたサンドロ・ボッティチェリ(1444/1445-1510)の作品は先ほど述べたし、ドメニコ・ギルランダイオ(1449-1494)の工房で認められた若きミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)がロレンツォに紹介されて、ロレンツォの邸宅に住み込みを許されたり、その頃レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は「男色男色愉快愉快」と突進したのが原因で拘置所(こうちじょ)に入れられている内に、フィレンツェでの成功が遠ざかったりしている。またこの頃個人の名声高まり次第に芸術家がニョキン出てくるが、元来大規模な彫刻、フレスコ画や家具宝飾修飾物などは個人ではなく、当然ながら親方(マエストロ)筆頭の大工房で製作され、フィレンツェにもギベルティ工房や、ヴェロッキオ工房やら「ポッライウォーロ兄弟と愉快な弟子達」(・・・そんな名称ではないが)、さらにドナテッロ亡き後のフィレンツェ彫刻をリードする「甘美様式のテラコッタ彫刻すごっくいい!」でお馴染みのルカ・デッラ・ロッビア(c1400-1482)の工房など、多くの工房同士が、互いに企業的競争を演じ、そんな中から一芸が企業的価値に匹敵してしまう芸術家などが登場して来る。ドナテッロはロレンツォ・ギベルティの工房から独立して活躍したし、レオナルド・ダ・ヴィンチはヴェロッキオ工房で学んだ後一人旅に出てしまった。そして、ついにはレオン・バティスタ・アルベルティや、レオナルド・ダ・ヴィンチなどが、すべてにおいて秀でてしまった万能の人「ウォーモ・ウニヴェルザーレ」と讃えられてしまうようになっていくのである。そんな、愉快なフィレンツェルネサンス芸術については、皆様の好奇心にお任せすることにして、そんな時代にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と付属サン・ジョヴァンニ洗礼堂の聖歌隊員として、「サン・ジョヴァンニの歌手達」に加わったヘンリクス・イーザークの生涯に話を移しつつ、引き続いて、フィレンツェのその後の様子などを追っていくことにしよう。

ヘンリクス(ハインリヒ)・イーザーク(c1450-1517)

 ヘンリクス・イーザーク(ようするにハインリヒ・イザーク)(c1450-1517)は、イタリア、フランス、ドイツ、フランドル、ネーデルラントからの音楽影響を吸収したために、彼の作品と様式は一層十全に国際的性格を持っている。したがって「一層十全青年」と呼ぶことが相応しい。このジョスカンと同じ頃フランドル地方に生まれたはずの一層十全青年は、1484年に登場する初めての記録まで何一つ分からない。間もなく神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1493-1519)がティロル伯領を吸収してハプスブルク家のものとなるインスブルックの宮廷に居た記録が残っている。その直後フィレンツェに向かって、例のメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコに招待されてか、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂と付属礼拝堂サン・ジョヴァンニ礼拝堂のための聖歌隊、名付けて「サン・ジョヴァンニの歌手達」の中に加わった。丁度1483年、レオナルド・ダ・ヴィンチがふて腐れてミラノに移り「岩窟の聖母」に取りかかるのと入れ替わるようにフィレンツェ入りを果たしたイーザークは、以後、この聖歌隊を中心に、周辺教会の歌手や、大聖堂付属小オルガンの演奏を行なって活躍することになった。大聖堂のオルガニストとしては、1480年にお亡くなりたアントーニオ・スクアルチャルーピ(1416-1480)が50年近く勤めミサなどでイタリア式の小型オルガンを演奏していたが、彼は14世紀のイタリア多声音楽(一般的にイタリア、トレチェント音楽)の数多くの作品が収められた写本を保有し、今日ではスクアルチャルーピ写本と呼ばれているが、イーザークがこれに目を通すことがあったのかどうかは皆目見当も付かない。ただし、過去への音楽との関わりは、当時から存在していたことを加えておこう。またロレンツォの息子達に音楽を教えるなど、様々な形でメディチ家と関わり、当時イタリア宮廷で大いに流行っていたフランス語シャンソンや、イタリア語の世俗多声曲フロットラなどを数多く残している。ロレンツォの息子ジュリアーノのためにまとめられた写本「メディチ・シャンソニエ」にも、一緒に活躍もした北方人のアレクサンデル・アグリコラ(c1446-1506)などと共に曲を提供し、ここには数多くのフランスシャンソンと、幾つかのフロットラなどが収められている。教科書によると、比較的和弦的なスタイルのフロットラや、フィレンツェの祭りの行列や見せ物で歌われた「謝肉祭の歌(伊)カント・カルナシャレスコ」を幾つか作曲して影響を受け、和弦的朗唱スタイルを学び取って、ドイツ語の民衆的な歌を元にしたドイツ語の多声世俗曲であるリート、例えば「インスブルクよ、私はお前から去らなければならない。」(「だが、お前もまた、私から去らなければならないのだ。」と答えたくなる。)のような曲に目ざめたのではないかと書かれている。そして最初期のコマーシャルソングでもあるこのフィレンツェでのギルドごとの宣伝歌から、「さあさあ、親愛な皆さん方(伊)オルス・カール・シニョーリ」をどうぞ、と曲まで紹介されていた。この時期のフィレンツェでは、ロレンツォの「共和制の名目で民衆を支配するためには、パンとサーカスが必要だっちゃ」(とは言っていない)のような考え方もあり、各種祝祭行事やら、トーナメント、スポーツ大会など次々に出し物が催され、フィレンツェの享楽ここに極まったありさまだったが、この宣伝歌の影響を受けたドイツ語リートの「インスブルックよさようなら」は、自身お気に入りの曲だったらしく、沢山のドイツ民謡をミサ曲の声部内に織り込んだ「ミサ・カルミナ(歌のミサ)」においても、「クリステ」の場所で2度登場している。調子が出てきたイーザークは、ロレンツォの息子達のポリフォニー音楽のお勉強という、一流のパトロンになるための学習の一環のための家庭教師を懸命に勤めつつ、ついでにロレンツォの紹介か肉屋の娘バルトロメアをお嫁さんに貰って幸せ者になってしまった。
 ところが1482年にジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)というドメニコ会修道士がサン・マルコ修道院に転任して来ると、彼は享楽腐敗の精神とメディチの独裁を市民中に批判しつつ信仰のみで生きろと叫び回り、その効果が少しずつ現れ始めていたのだが、働き盛りのロレンツォが1492年に、死の床に就くと、とうとう「私めの罪を聞いておくんなさいまし」と、サヴォナローラに懺悔までしてしまうほどだったという。こうして告白を済ませたロレンツォがお亡くなりて、悲しみ暮れる友人のポリツィアーノが追悼詩を捧げると、イーザークも奮発してこれを4声の挽歌モテートゥス「誰がわたしの頭に水を与えますか」に仕立てていると、93年にはサヴォナローラの勢力はさらに強まり、ついに享楽の批判にあった「サン・ジョヴァンニの歌手達」はあえなく解散されてしまった。これは一種北方の宗教改革と類似の動きであるが、翌年フランス軍のシャルル8世軍がナポリを目指して進行すると、これが恐ろしいので精一杯白旗を振ってフィレンツェを素通りさせたメディチ家に大批判が殺到。ロレンツォの後を継いで当主となっていた、ピエロ・デ・メディチ(1472-1503)というやつがピエロ・イル・ファトゥオ(愚鈍のピエロ)と罵られ追放され、なんとサヴォナローラの怪しい神権政治が開始してしまった。

サヴォナローラ

 政権を握ったサヴォナローラは、「虚栄の焼却」と称して、贅沢品や美術品・工芸品を広場に出し寄らせては、燃えさかる炎の中に放り込む儀式を開始、彼の言葉に打ちのめされたピコ・デ・ミランドラは94年ロレンツォと同じ年に不可解な最期を遂げ、新プラトン主義の画家だったはずのボッティチェリは自らのキリストからの思い上がった脱却を恥ながら、炎の中に自らの作品を放り込んでいたと言われている。彼はその後、マニエリスムチック(なんだそりゃ)な硬質キリスト教宗教画の暗いトーンの絵画を描きながら、フィレンツェの人々から忘れられていったそうだが、乗りに乗ってきたサヴォナローラの方は、次第に教皇をも批判しまくり、1497年にはオケヘムまでも批判したせいか、なんと教皇アレクサンデル6世から破門されてしまった。こうしたことが契機となって、市民の中から反対の声も高まり、彼の所属するドメニコ会に対抗するフランチェスコ会修道士達があおり立て、ついには1498年の「汝に信仰有らば火の中も歩けん」の試練で、自ら火の中を歩かなかった途端に一大ブーイングが沸き起こり、逮捕され絞首刑にされ、その後燃されてアルノ河にくべられるまではあっという間だった。

宮廷作曲家

 それはともかく、当面職を失ったイーザークは、仕方がないのでフィレンツェから離れピサに逃れて斜めになって泣いていると、折良く神聖ローマ皇帝の戴冠に来ていた?マクシミリアン1世(在位1493-1519)に拾われて、翌1497年にオケヘムが亡くなったのにお祈りしてから、聖歌隊員として皇帝と移動する義務もない、皇帝の宮廷作曲家(Hofkomponist)という地位を獲得した。この宮廷作曲家の地位は、マクシミリアン1世が作曲家を歌手とは別の芸術家と見立てて作った役職かも知れないが、この頃から次第に歌手と作曲家が一体となった世界観から、音楽を作曲するものを作曲家と考える時代に突入していくと云えるかもしれない。マクシミリアンは結局戴冠を受けずに帰ったようで、戴冠されなくてもローマ皇帝就任の足掛けを作ったとされているらしい(?)。いずれ、オケヘムの精霊に導かれて1497年に宮廷作曲家となったイーザークは、マクシミリアン滞在のインスブルックの宮廷に出かけ、さらにザクセン選定公国のトルガウにある宮廷にも足を伸ばした。こうしてイーザークは、マクシミリアンが政治の中心としたインスブルックと、ヴィーンにある宮廷、さらに、南ドイツの幾つかの宮廷を中心に活躍し、さらに1499年からはサヴォナローラ亡き後のフィレンツェでも様々に活動を再開。マクシミリアンの宮廷にはすでに、「マクシミリアンの凱旋行列」の木版画にも登場する重要なオルガニスト、パウル・ホーフハイマー(1459-1537)が活躍していたので、気さくに挨拶を交し、少年歌手のルートヴィヒ・ゼンフル(c1486-1542/43)という才能豊か君を発見して、弟子として成長させたりしながら、イーザークは、典礼のための宗教曲だけでなく、宮廷で歌われる数多くのドイツ語歌曲を作曲していった。これらは俗謡をテーノル声部に使用して作曲されたものが多く、テーノルリートと呼ばれることもあるが、ドイツ世俗歌曲はお弟子のゼンフルによって、全面的に開花し、幾分出遅れたドイツ語世俗多声曲の重厚な伝統が開始することになった。さらに宮廷では室内楽も盛んだったので、歌詞を持たない「カルミナcarmina(歌)」(つまり無言歌集)なども多数残しているそうだ。

コンスタンツにて

 その後ボーデン湖畔にあるかつてのコンスタンツの公会議の開催地、コンスタンツでマクシミリアンが帝国議会を開くと、その際に2曲のモテートゥス「私たちに精霊の恩恵が有りますようにSancti spiritus assit nobis gratia」(4声)と「とても聡明な乙女Virgo prudentissima」(6声)を作曲、これが開催に合わせて歌われたという。その頃フィレンツェの書記官を勤めていた、世界の名著、政治家の必見、起業家もがっぽり、実は喜劇作家でもある、でも政敵に投獄され田舎送りとなった切ない晩年、でお馴染みの「君主論」の著者であるニッコロ・マキャヴェリ(1469-1527)がコンスタンツに来ていて、手紙の中に「肉屋の旦那の奴が来ています」(とは書いてない)とイーザークの滞在を記しているそうである。彼は当時共和国政府の第2書記官長(1498-1512)として、国家主席ピエロ・ソデリーニ(1452-1522)率いる政府に勤めていたが、フランス軍と教皇アレクサンドル6世(1431-在位1492-1503)に、6世の息子チェーザレ・ボルジア(1475-1507)が絡み合い、教皇庁領土の回復からさらに勢力拡大を目指して画策するこの時期、1502年にはチェーザレ・ボルジアと交渉を行ない、丁度その頃建築技術監督としてチェーザレ・ボルジアの元にいたレオナルド・ダ・ヴィンチとも顔を合わせているが、運悪くアレクサンドル6世もチェーザレ・ボルジアも1503年のうちに崩壊し、1512年にメディチ家がフィレンツェで復活すると見事に失職してしまった。さて、イーザークの方は、さらにコンスタンツ大聖堂参事会から、ミサ固有文(毎回歌詞が替わる方)の典礼歴1年分の多声曲を依頼され、皇帝の宮廷のために書いたものと、この地の大聖堂参事会のための書き下ろしを合わせて、後に「コラーリル・コンスタンティヌス全3巻」として、彼の死後出版される運びとなった。その最後は、イーザークの弟子のルートヴィヒ・ゼンフル(c1486-1542/43)が加筆して完成させた上、後に宮廷作曲家の称号も彼が引き継ぐことになるのである。

ラスト

 それはさておき、1512年にはフィレンツェでメディチ家が再び勢力を取り戻すことになった。すでにイーザークが音楽を教えた事のある、ロレンツォ・デ・メディチの長男である愚鈍のピエロは、アレクサンドル6世が亡くなったのと同じ年、チェーザレ・ボルジア軍と共に行動中、戦闘からの逃走にあってうっかり橋で足を滑らせて(かどうかは知らないが)、「ああ我ピエロ・ロ・スフォルトゥナート(不運なピエロ)なり」と叫びつつ河の中に消えてしまったが、フランス軍に対抗するハプスブルク家およびスペイン軍の力でメディチ家がフィレンツェの支配権を軍事力で回復し、おまけにロレンツォの次男のジョヴァンニ枢機卿が、翌年1513年に時の教皇レオ10世(在位1513-1521)として即位。フィレンツェは愚鈍のピエロの息子であるロレンツォ(1492-1519)に任せ、メディチ家の教皇庁及びフィレンツェ支配が確立した。また、前任のユリウス2世に続きローマのルネサンス芸術はクライマックスを向かえることになるわけだが、イーザークの方は、晩年マクシミリアンからもフィレンツェ永住が認められ、年金まで御貰いて、まあほどよく1517年に亡くなってみた。

ワンポイントJ缶

・やあ、みんな、今日は元気にしていたかい。曇り空で心寂しい時には、気分を変えてワンポイントのジョスカンさ。もちろん今日はルターが「95カ条の論題」をヴィッテンヴェルク大学の扉に貼り付けて、宗教改革の火ぶたが切られた事でも知られる、イーザークの没年さ。
「宗教改革始まる年に、以後居な(1517)くなるイーザーク」
それじゃあまた。

その後のフィレンツェ

 教皇レオ10世は1521年死去するが、2年後、例のパッツィの乱で殺されたロレンツォの弟の息子である枢機卿ジュリオが、なんと教皇クレメンス7世(在位1523-1534)として即位。メディチ体勢は引き続き維持されることになった。しかしお父様の悲しい血筋かフランスと同盟を結んだことで1527年のローマ略奪で、サンタンジェロ城に封じ込められる負のクライマックスを築いてしまう。これに合わせて神聖ローマ皇帝によってメディチ家もフィレンツェを追放され、1530年には「私が悪うございました」とクレメンスが頭を下げて皇帝カール5世に戴冠を与えたため、メディチ家がフィレンツェに帰還し、クレメンスのこっそり息子であるアレッサンドロが1532年に「フィレンツェ公」となり、メディチ家は正式な君主となった。もはや名目上の共和制は完全に行方知れずとなったのである。このアレッサンドロが暗殺されると、メディチの本流が途絶え、支流のコジモ1世がフィレンツェ公を継承し、1569年にトスカーナ大公となるあたりで、この話は終わりにしておこう。

フィレンツェルネサンス後半期

 フランス軍乱入とサヴォナローラの禁欲がフィレンツェルネサンスのイエローフラッグかと思えば、実際は1499年にお帰りたレオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」を製作しているし、1501年にフィレンツェに戻ったミケランジェロはさっそく政府から「ダヴィデ」の製作を依頼され、1504年に完成させた。ウルビーノ生まれのラファエロ・サンティ(1483-1520)もフィレンツェに出てきて活動を開始、ミケランジェロやダ・ヴィンチの作品に影響を受けつつ、己の絵画制作を開始している。さらに1503年には史上最強の芸術家バトルであるレオナルド・ダ・ヴィンチVSミケランジェロが、共和国政府のパラッツォ・シニョーリア(フィレンツェ市庁舎)大広間の壁画を巡って開催された。これはダ・ヴィンチに「アンギアーリの戦い」を依頼、ミケランジェロに「カッシーナの戦い」を依頼することで成し遂げられたのだが、レオナルドは新しく使用した絵画技術があまりにも斬新すぎてお優しく乱れてしまい、呆れたかミケランジェロは1505年にユリウス2世に招かれローマに去り、レオナルドも翌年ミラノに立ち去ってしまった。おまけにラファエロさんも1508年にユリウス2世にお呼ばれてローマに向かい、いよいよローマルネサンスのクライマックスが遣ってくるが、天才の抜け落ちたフィレンツェが落ちぶれた訳ではなく、異色の画家で古典均衡無視のピエロ・ディ・コジモ(1462-1521)や、迷亭一押しのアンドレア・デル・サルト(1486-1531)が活躍し、彼の下からヤコポ・ダ・ポントルモ(1494-1557)やロッソ・フィオレンティーノ(1495-1540)、さらに芸術家列伝のジョルジョ・ヴァザーリ(1511-1574)など、一般的にマニエリスム期の芸術家と呼ばれる強者達が活躍し、なかなかフィレンツェの芸術の息は途切れない。その間カテリーナ・デ・メディチ(1519-1589)が1533年にフランス皇太子のアンリ(後のアンリ2世)と結婚したり、マリア・デ・メディチ(1575-1642)が、1600年にフランス国王アンリ4世と結婚したり、その度にどんちゃん祝宴が繰り広げられて賑わっていたが、この1600年の神秘のご結婚に関連して、バロック時代の到来を告げる重大音楽イベントが開催される運びになっていくのであった。・・・といいつつ、ほとんど作曲家と関係なく、美術家ばかり並べているわけですが。

2005/11/04

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