マルティン・ルター(1483-1546)が「彼は音符の主人(あるじ)である」と讃え、「音符は彼の望むところに従わなければならないが、他の作曲家たちは音符の望むようにしなければならない。」とため息をつくと、コージモ・バルトリも1567年に「建築、絵画、彫刻におけるミケランジェロと同じく、音楽に置いて並ぶ者がない!!!」と言い切った。それだけではない、ヴェネツィアの楽譜印刷業者ペトルッチによってミサ曲が3巻全17曲も出版され、印刷楽譜出版物における初めての売れっ子作曲家として、ジョスカンはヨーロッパ中に名声を広めていたのだった。そんなジョスカンの生涯をざっと見てみることにしよう。
何だかよく分からない、親の出身地がエノにあるプレ村だったのでおとっつぁんの時からdes prezが付いていたようだが、本当の名称はルブロワットと云うのだそうだ。少年の頃はサン・カンタン教会で聖歌を歌っていたからその付近の出身だとか、そんな説は妄想だとか、オケヘムから多大な影響を被ったのだから弟子だったとか、証拠がないからSFだとか、ようするに判然としない状態で、フランドル地方から湧け出でて、彗星のようにルネサンス時代を駆け抜けた、ターバンを巻いた音楽の天使だったのだ。そんな訳で以前は1459年にミラーノ大聖堂に所属して、1473年にもミラーノのスフォルツァ公の持つ礼拝堂に居たと考えられていたのが、すっかり誤解だと分かったので、以前の1440頃生誕説すらいかがわしく、最近では1450-55年頃に生まれたのではないかと考えられているそうだ。要するにあれだ、最低ニューグローブの英語版の最新版ぐらい読まないと、問題外ってことか。問題外の読み物として、先を読んで下さいな。
さて、ジョスカンの公式記録としてのデビューは1475ー1478年までプロヴァンス伯を兼ねていてアンジュー公ルネのエクス・アン・プロヴァンスにある宮廷の礼拝堂歌手としてである。アンジューと云えばアリエノール・ダキテーヌとヘンリー2世の連合状態が生み出したアンジュー伯領を含むイングランド、アンジュー、ノルマンディー、ブルターニュの反イル・ド・フランス体勢は前に見たが、偉大な負け犬振りを演じたジョン王が大陸領土を失って以来、カペー家に吸収され、やがてチュニジアで転げた最後の十字軍でお馴染みのルイ9世の弟シャルルが、アンジュー伯の地位を与えられ、シャルル・ダンジュ(アンジュのシャルル)と呼ばれて、帝国建設を夢見てしまったのも前に見たとおりだ。彼はプロヴァンス伯の称号も獲得し、シチリアとナポリの国王の座を獲得したが、最後にアラゴン王に敗れて、イタリア南部の勢力を奪われると、何たることかカペー朝アンジュー伯は彼の息子シャルル2世の代で途絶えてしまった。そこで百年戦争の最中に、例の2代目囚われ人のジャン2世の豪華な子供達の1人、ルイが1360年にアンジュー公ルイ1世(1360-1384)となり、82年にはプロヴァンス伯、83年にはナポリ王と、嘗てのシャルル・ダンジュの勢力を回復、その後も例のアラゴン王国とナポリ王の地位獲得合戦が続くが、ルイ1世から4代下ったアンジュー公ルネ(在位1434-1480)(善良公)の時に再び1435年から1442年まで、ナポリ王を兼ねた。このナポリ王の地位は結局例のアラゴン王国のアルフォンソ5世との7年戦争に破れて、アラゴン朝に移るが、このルネさんの娘こそマーガレット・オブ・アンジューで、例のバラ戦争でお馴染みのイングランド国王ヘンリー6世の妻となった人物で、ジョスカンのお仕えする人物だった。
どのようにお仕え致したかは分からないが、このアンジュー公ルネが1480年に亡くなると、地方勢力を潰しに掛る中央集権の鬼ルイ11世(在位1461-1483)によって目出度くもアンジュー公領はフランス国王に返され、プロヴァンス伯はルネさんの甥に引き継がれたものの、ルイ11世にとっては大いに嬉しい、この甥も81年に亡くなって、プロヴァンス伯も見事にフランス国王の元に返された。大喜びしたルイ11世はついでにプロヴァンスの宮廷音楽家も引き抜いて俺様の王宮に集約して、音楽家の中央集権化をも進めようとした。ジョスカンも見事に引き抜かれてルイ11世の宮廷礼拝堂に勤めながら、一説によるとこの時4声のモテートゥス「主の慈悲を永遠に」がルイ11世のために作曲されたのだそうだ。それじゃあオケヘムと一緒にいたのじゃないか、酒でも飲み交わすことが無かったかと、大いに期待が膨らむところであるが、証拠がないから何とも云えない。
ところが1483年にはルイ11世がお亡くなりて、シャルル8世(在位1483-1498)が就任したので、これに合わせて宮廷を出てコンデで伯父と叔母の遺産相続をしながら、偉大な傑作モテートゥス「アヴェ・マリア」をこの時期作曲してしまった音楽の天使ではないかと、最近ではそんな意見も登場しているそうだ。1984年にはかつての亡命宮廷のあったブールジュの聖オバン教会で主任司祭(教皇側ではなくフランス国王から受けた物か)となるが、その年の内にミラーノのスフォルツァ家の要人であるアスカニオ・スフォルツァと知り合いミラーノに向かうことになった。
・紀元前にローマに征服されメディオラーヌムとなったミラーノは、ローマ分割後西の皇帝所在地となったが、402年には首都がラヴェンナに移され、ゲルマン転げでローマ帝国は崩壊して、ランゴバルト族の首都となった。1000年教皇の頃には大いに成長を遂げ、11世紀中頃には自治都市コムーネとなった。1162年にイタリア政策に絡んで神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が城壁を破壊させるが、周辺一帯のコムーネ都市がロンバルディア同盟を結成して1176年のレニャーノの戦いで、見事皇帝軍を撃退すると、13世紀には自治都市の内面的危機の時代に突入し、まずトリアーニ家が、ついで1277年からはヴィスコンティ家が事実上の支配権を握り、ミラーノ公として近隣の弱小コムーネを支配しつつ地域君主的な支配体制に変質し、かつての有産市民による共和制の伝統はほとんど壊滅した。このようにコムーネが変質した13世紀はイタリア全体で自治都市の危機が同時進行し、その後はミラーノのように半ば君主的な家柄の下で、周辺農村と周辺都市を収める小国的な統治方法であるシニョーリア制か、やはり周辺一帯を支配下に収めつつ、中心都市のごく一部の名門による寡頭共和制が行なわれるかの道を歩んでいったのである。また百年戦争もそうだが、イタリアの諸都市の勢力争いも、傭兵を雇って行なわれることが多かったことから、独自の傭兵部隊が幅を利かせ、1447年にミラーノでヴィスコンティ家が途絶えると、共和制が復活したもの不安定な状態を見て取った傭兵隊長のフランチェスコ・スフォルツァ(1401-1466)が、ヴィスコンティ家の娘婿の立場を利用してミラーノ公の座に着き、以後スフォルツァ家が治めていくことになった。
トレチェント音楽の作曲家達が活躍した北イタリアの宮廷は、ルキーノ・ヴィスコンティが例外的にヤーコポ・ダ・ボローニャを保護した以外、組織的な宮廷での音楽家のポストはほとんど無かったそうで、1400年の始めにようやく宮廷所属の音楽家が都市ごとに1人か、2人見られるぐらいだという。その後まず宮廷世俗音楽の中心であった即興的器楽演奏や舞曲伴奏や、世俗的な歌を歌う音楽家達を宮廷に所属させる傾向が強まり、フランチェスコ・スフォルツァの跡を継いだガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ(在位1466-1476)は自らの宮廷に20人のトランペット奏者に、4,5人のショーム・トロンボーン奏者、何人かの弦楽器奏者と歌手を雇い、宮廷の音楽を取り仕切っていたが、すでにブルゴーニュ公国の伝統を真似て1441年に宮廷カペッラを組織していたフェラーラの宮廷カペッラが主君の死と共に滅び去ったのを見て取ってか、1471年に宮廷カペッラを組織。宿命のライバルマントヴァも同じ年に宮廷カペッラを組織して、互いに張り合っていた。そしてこの時にフランドルの音楽家であるガスパール・ヴァン・ウェールベケ(c1445-1518以降)がこの宮廷カペッラの歌手捜しを命じられ、やはりフランドル人のアレクサンデル・アグリコラ(c1446-1506)などを起用、他にもヨハンネス・マルティーニ(c1440-1497/98)や、ロワゼ・コンペール(c1445-1518)など皆々フランドル出身の優れた音楽家が活躍していたが、マントヴァと張り合いすぎて莫大な資金投資をしすぎたためか、1476年にサン・ステファノ教会のミサに出席するガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが、聖歌の響く教会入り口に向かった途端にナイフで刺されて殺されると、わずか8歳の息子ジャン・ガレアッツォ・マリア(在位1476-1494)が公妃ボーナを摂政にミラーノを継承し、この宮廷カペッラの人員を大幅に縮小してしまったのだ。この後、スフォルツァ家は内部抗争が沸き起こり、1479年からはガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの兄弟のルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)(モーロとは北アフリカのイスラム教徒のこと)がボーナを追い出し実権を握り、ブラマンテやレオナルド・ダ・ヴィンチを招き文化政策に力を入れながら、ジャン・ガレアッツォを監禁状態にして、最後には1494年に暗殺してしまった。丁度この時期フィレンツェからミラーノに移っていたレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、1482年から1499年までの間当地に工房を開きイル・モーロの元で仕事をこなしていたのだが、その最大傑作であるスフォルツァ騎馬像は、後にシャルル8世のイタリア遠征に対抗するために、大砲に変えられて世間から消滅してしまった。ダ・ヴィンチはこの地で、お気に入りの弟子サライも引き取って、心も躍る心境だったが、再度のフランス軍イタリア侵攻後は、マントヴァ、ヴェネツィア、を巡りフィレンツェに戻っていったのだ。
さて、暗殺されることになるジャン・ガレアッツォは、ナポリ王の姪と結婚していたので、教皇がナポリ王フェランテ1世を認めないと、イル・モーロはこれを盾にナポリ王位継承を主張し、ナポリとの対立を深めたが、94年にフェランテ1世が亡くなると、フランス国王シャルル8世をイタリア戦争の遠征に出発させる呼び水となった。それはともかく、ジョスカンが仕えたアスカニオというのは、このイル・モーロの弟で、後に1484年に枢機卿となる人物だ。
その後アスカニオの私設礼拝堂で働きながら、一説によると有名なフロットラ「こおろぎは良い歌い手」によって「こおろぎは軽薄ですぐ飛んでいく鳥と違って、いつもそこで歌うのだ」のような歌詞でひたむきな歌手としての自分にもっと報酬よこせと催促したとも言われている。こうして彼に仕えながらも、ローマやパリに行ったりしていたようだが、1489年から枢機卿なアスカニオの尽力かローマ教皇庁の付属礼拝堂聖歌隊員となり、教皇シクストゥス4世(在位1471-1484)時代に建設された新しい礼拝堂システィーナを拠点として、インノケンティウス8世(在位1484-1492)の元に仕えることになった。この教皇様は、表では異教徒討伐だの、魔導士と魔女を抹殺するだの云って、「スンミス・デジデランテス」などで幻術やろうどもを激しく糾弾してた教皇で、しかし一方では、オスマン・トルコのスルタンから資金を獲得し、イエスの脇腹を刺したとされる聖槍(せいそう、Holy Lance)を貰い受けて、内心「おいおいロンギヌスの槍なら、カール大帝が振り回してたじゃねかよ、これは偽物じゃないか」と思いながらも「ありがとう」と受け取るような駆け引きをなさるような、したたかな人物だったが、しかも教皇様の地位にありながら大量の子供達を生んで、彼らを重役に就任させるネポティズム(親族登用主義)にどっぷり浸かって、教皇生活を楽しんでいた。最後は1492年、グラナダ陥落とレコンキスタの終了をお祝いしてから亡くなったそうだ。
この教皇庁聖歌隊にはその時期、ガスパール・ヴァン・ウェールベケやマルブリアヌス・デ・オルト(c1460-1529)などの作曲を熟すすぐれたフランドル歌手達がいて、ここにジョスカンも加わり、皆で宗教曲を作り合って歌いまくっていた。今谷和徳の「ルネサンスの音楽家たち」(東京書籍)では、もしかしたらジョスカンにはアスカニオを教皇にするための取り持ちの使命が合ったのかも知れないと、推測されている。ジョスカンはその後も教皇庁とミラーノを行き来しながら活躍していたようで、1489年のジャン・ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの結婚式では、リラ・ダ・ブラッチョという弦楽器を熟したレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が監督する祝典で、ジョスカンの「どんな悪よりも早足なのは噂だろ」が演奏されたんじゃ無かろうかと、今谷氏の本は続く。
1492年になるとインノケンティウス8世が亡くなって新教皇選出の運びとなったが、アスカニオ枢機卿は自らの選任が劣勢なので、スペイン人のロドリーゴ・ボルジア(1431-1503)を押し立て、金をばらまかせて教皇にする道を選んだ。こうしてアレクサンドル6世(在位1492-1503)が教皇となると、93年にスペインとポルトガルの海上勢力争いに関して、教皇境界線を定め、94年トルデシラス条約ですこし西方に線を移し確定させたりしながら、ネポティズムによって息子達を重要役職に付け、勢力安定を目指した。彼の息子こそこの時代のどんちゃん騒ぎの張本人、マキャベリが「君主論」で讃えるチェーザレ・ボルジア(1475-1507)である。チェーザレ・ボルジアについては妹のルクレツィアとの近親相姦だの、噂の毒薬カンタレラだの、伝説と逸話で真実が不明瞭なので、まあ調べるときは気を付けたまえ。さて、1497年にアレクサンドル6世の息子の一人ファン・ボルジアがローマ内で暗殺される事件があった。まさか2月に亡くなったオケヘムに哀悼を捧げなかった咎で、オケヘム親衛隊からつけ狙われた訳ではないが、驚いたジョスカンも、アレクサンドル6世のためにモテートゥス「アブサロン - 我が子よ」(それともピエール・ド・ラ・リューの作品か?)を作曲しつつも、恐れを感じて、すぐさまジャン・モリネ(1435-1507)が作詩した哀悼詩に曲を付け「オケヘムの死を悼む挽歌(森のニンフNymphes de bois)」を完成させたうえ、ルネサンス曲の中でも最も有名なモテートゥス「アヴェ・マリア」(もしくはとっくに作曲していたとも)と、「ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ」を完成させ、オケヘムをすら越えた神業音楽によって彼に別れを告げたとされている。そしてオケヘムを嘆くモリネの詩には4人の音楽家が登場して、「お前達、音楽の父さんに向かって泣きなさい」と呼びかけるが、その中にはジョスカンの他にも、アントワーヌ・ブリュメル(c1460-1520)、ピエール・ド・ラ・リュー(c1460-1518)、ロワゼ・コンペール(c1445-1518)の名前が上げられているが、ここではグレゴリウス聖歌のレクイエムが定旋律として使用され、オケヘム的な対位法から、ジョスカンによる今風の様式に楽曲が移り変わっていくという作曲方法が採用されている。
・さてナポリ王国は元々アンジュー家とスペインのアラゴン家が互いに国王の座を奪い合いながら長年戦闘を繰り広げていたが、アンジューを直轄したシャルル8世が、「ナポリ王国もしたがって私の国ではあるまいか」と軍隊を進め1494年に広義のイタリア戦争(1494-1559)が開始、フランス軍に恐れ入って都市内の通過を認めてしまったフィレンツェでは、メディチ家が追放され、禁欲の修道士運動を説くサヴォナローラの台頭を生んだ。フランス軍は調子が出てきてナポリを占領するが、教皇アレクサンドル6世に、すでにマリ・ド・ブルゴーニュと結婚してフランドル地方を獲得して上がり調子の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、さらにスペイン、ヴェネツィア、ミラノが神聖同盟を結んで、出て行け出て行けと叫ぶので、結局事実上の撤退を余儀なくされた。この辺りから、互いにイタリア勢力拡大を目指す、フランスはヴァロワ家と、神聖ローマ帝国のハプスブルク家のイタリアを巡る争いの構図が浮かび上がり、一連のイタリアでの勢力拡大戦争をイタリア戦争と云うわけだ。
・シャルル8世は軍隊を引いた後、うっかり伝説に取り付かれて扉を通過し損なったか頭を出入り口に壮大にぶち当てて亡くなってしまったので、かつてのシャルル5世の曾孫が受け継いでいたオルレアン公シャルルの息子が、ルイ12世(在位1498-1515)として国王に就任した。就任するやいなや、イタリアに目がいった。1499年に「オルレアン公からミラノ継承を引き継いだのが私なのだ」と主張し、さっそくミラノに進軍し、哀れスフォルツァ家のルドヴィコ・イル・モーロを引っ捕らえると、1513年までミラノ公国を占領し続けるのである。 一方もう一つの懸案であったナポリの方は、1479年に誕生したアラゴン王国とカスティーリャ=レオン王国の同君連合であるスペイン(イスパニア)王国が、すでにグラナダ陥落(1492)によるレコンキスタ完了の漲る力で、1503年に奪い取った。以後ナポリはスペイン王家から送られるナポリ総督が支配する状態が続くのである。フランスは翌年1504年にブロア条約でナポリ放棄を認めさせられた。さらに1511年になると、ミケランジェロと殴り合った(・・・心の中では殴り合っただろうと・・・)有名な教皇ユリウス2世が、スペイン、ヴェネツィア、イギリス、スイスと神聖同盟を結び、嵐屋のフランスに対抗すると、とうとう1513年に、ミラノから軍隊を撤退させ、スフォルツァ家が一時復帰を果たすことになったので、ふて腐れたかルイ12世は1515年に亡くなってしまった。いよいよイタリア戦争は笑顔の素敵なフランソワ1世と、戦いの鬼神聖ローマ皇帝カール5世の好敵手同士が交えるメインイベントを待つばかりとなるのである。
話をジョスカンに戻すと、1500年に捕らえられたミラノ公のルドヴィコ・イル・モーロと一緒に、彼の仕えるアスカニオ・スフォルツァも捕まってしまったので、一説によると半ば彼の捕虜先に付き添いながらルイ12世に仕えることになったのだという。ここで聖職録を約束した王に催促するため4声のモテートゥス「貴方の僕(しもべ)に対しては言葉を思い出してちょうだいな」見たいな内容の曲を書いたり(グラレアーヌスの「ドデカコルドン」に書かれた逸話)、まだ残されるのが珍しい純粋な器楽ファンファーレ「国王に歓呼を」などを作曲したというが、今谷先生の仰(おっしゃ)るところ、シャルル8世のイタリア戦争でフロットラなどの世俗音楽に刺激を受けて、ブルゴーニュ式の定型シャンソンが、自由スタイルに変化した様子も、ジョスカンのシャンソンから見て取れるそうだ。
→参考りんく
1503年にアスカニオが釈放されるのと時を同じくして、イタリアに戻ったジョスカンは、今度はエステ家の支配するフェラーラ公国に向かい、宮廷礼拝堂の聖歌隊長として活躍した。彼を選任する際には一つの逸話がある。それは候補者としてイーザークとジョスカン挙がった時、選任中の手紙に「ジョスカンは、己の意志を曲げずに作曲するが、イーザークなら人を楽しませるために作曲してくれるし、それにジョスカンは年間200ドゥカートでなきゃ勤めないと云いますが、イーザークは気さくに120ドゥカートで構わないと云っていますぜ。」と書かれているのだ。時のフェラーラー公エルコーレ1世(在位1471-1505)は以前からジョスカンと知人だったらしく、「自己をセールに出すべからず」と云ってジョスカンを採用したのかもしれない。ところが1503-4年初めに掛けてペストが大流行したので、フェラーラ公と避難していたジョスカンも、こりゃいけないと思ったか、「私、一身上の都合これありて、フランドルのエノ伯領にあるコンデ・シュル・レスコに向かい、ノートル・ダム聖堂の主任司祭としての職を全うしたく存じます。」と書いてさくっと北に逃れると、ジョスカンの後任を目論んでフェラーラに遣ってきた作曲家のヤーコプ・オーブレヒト(c1450-1505)は、肝心のエルコーレ1世が亡くなって、おろおろしている間に、さっそくペストに掛ってこの世からさようならになってしまったという。
コンデ・シュル・レスコーでは、その地を治める、マクシミリアン1世とマリー・ド・ブルゴーニュの子供マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(仏名マルグリット・ドートリッシュ)(1480-1530)と知り合い、恐らく彼女のフランドルの宮廷のために曲を書いたりしながら、晩年の曲を作曲していったらしいが、1515年頃には、ミサ曲の中のミサ曲として名高い「ミサ・パンジェ・リングァ(Missa Pange Lingua)」も書かれている。グレゴリオ聖歌の同名のイムヌス(讃歌)の旋律に基づいた、通模倣様式の傑作だ。最後は遺言に6声のモテートゥス「天上の我らが父よ/恵みに満ちるマリアよ、おめでとう(Pater noster/Ave Maria)」を死後に歌ってくれと頼むと、1521年7/27に天上に帰って行ってしまった。しかし何たることかその墓は教会諸共、フランス革命の動乱に巻き込まれて、オケヘムの祟りか、1797年(93年?)に打ち壊されてしまったそうだ。
ミサが約18曲で、モテートゥスが100ぐらい、世俗歌曲70ぐらいが残されている。この頃次第に、作曲の新しい試みや実験、歌詞と音楽の模索をモテートゥスで行い、それに対してミサ曲はより整ったスタイルでまとめ上げるようになっていくが、ジョスカンのミサ曲は以前からの様式から、最新技法を取り入れた最先端の作品まで、幅広い。さらにルイ12世のためのファンファーレ合奏「国王に歓呼を」や、何のための作品だか分からない3声の純粋な器楽合奏曲「ジョスカンのファンタジー」(という題になっている)など、10曲以上の器楽合奏用作品が残されていて、そろそろ器楽曲の楽譜保存のシーズンが到来し始めたことを見て取ることが出来る。
「諸音上の戦士のミサ曲(ミッサ・ロム・アルメ・スーペル・ヴォーチェス・ムジカーレス)」においては、冒頭のキリエはハ音で、グロリアはニ音で開始するというように、ヘクサコードの各音上に次々と移調して作曲されていて、定則カノンの手法も取り入れられて、オケヘムのマニアックな探求を思い起こさせる。また、フェラーラ公エルコーレ1世に献呈したであろう「フェルラーラの公爵エルコレのミサ曲(ミッサ・エルクレス・ドゥクス・フェルラーリエ)」では、主題が、ソジェット・カヴァート・ダッレ・ヴォカーリ([伊]母音から引き出された主題)で導き出されている。つまり「Hercules Dux Ferrariae」の母音を引っこ抜いて、「e-u-e-u-e-a-i-e」として、ドレミファ音階を当てはめると、「re-ut-re-ut-re-fa-mi-re」となり「レドレドレファミレ」の音階が取り出せるという言葉遊びのような方法だ。「ミサ曲不幸が私を打つ(Missa Malhur me bat)」では、シャンソンの1つの声部だけでなく、すべての声部を自由に練り直してミサ曲の土台としている。教科書の名文によると、『こうしたミサ曲は「もじりミサ曲parody Mass」とも呼ばれてきたが、「模倣ミサ曲imitation Mass」と言う名称がもっとも相応しい。ジョスカンの生きた時代にはこのミサ曲は、「不幸が私を打つの音楽を模倣したミサ曲」と呼ばれたであろう。』とまとめられているが、もはや定旋律を使用せず、全声部を同等の書法で作曲し、フーガのような順次導入フレーズや、ある声部の旋律の類型を他の声部が次々に引き継いだり、かと思うと2声部が類似の進行をする間に他の声部が異なる進行を見せたり、またあるところでは全員が同一の進行で和弦的な提示を行ないながら、全体は定旋律と楽曲がまとめられるスタイルは、例えばデュファイの「ミサ・ス・ラ・ファス・エ・パル」のキリエに見られるような定旋律声部テーノルとコントラテーノルが比較的響きの下支えをする上で、2声が、特にカントゥス声部が豊かに進行するような作曲スタイルに対して、より全声部が等しい立場にあり、後の対位法の各種技法のプロトタイプと形成しているために、通模倣様式(through-imitation)と呼ばれている。この通模倣ミサは、教科書によると1520頃から代表的形式として定旋律ミサ曲に取って代わり始めたそうである。
ジョスカンの時代、人文主義の様々な議論を通じて、音楽の強勢を言葉に一致させ言葉を聞きやすく理解しやすくしたり、聞き取りやすい多声書法を使用して、言葉を旋律同士の混沌から解き放つことに関心が集まり始めた。フランドル楽派の好む華やかな旋律線による対位法的作品から、均質的でリズムが明瞭で、歌詞の聴き取りやすいパレストリーナ的な対位法スタイルに変遷するトレンド変化が、すこしづつ浮かび上がり、それに合わせてシャンソンやイタリアのフロットラのような一層直接的で音節的な作曲法に関心が向けられたのである。教科書ではジョスカンのモテートゥス「奇跡をなすのはあなた一人(トゥ・ソールス・クイ・ファーチス・ミラビリア)」が上げられ、イタリアの民衆的音楽を聴くことによって得られた心地よい単純さを讃えているが、当時3度と6度の平行進行による即興のフォーブルドンに対して、イタリアでも詩編唱式に和音を基本3和音で付けるファルソボルドーネという技法が典礼音楽に使用されていたが、その技法もこのモテートゥスに用いられているといって、楽譜を載せた後で、そんな彼を讃える言葉こそムジカ・レゼルヴァータmusica reservataなのだと話を進める。ジョスカンの弟子だったらしいアードリアン・プティ・コクリクスが、1552年に出版した「音楽提要(ラ)コンペンディウム・ムジチェス」の中で、「この理論書の目的は、ただ一つ。ジョスカンから学んだ技能のうち、「一般にレゼルヴァータと呼ばれている音楽に再び光を当てることである。」と著述しているから、彼がムジカ・レゼルヴァータの事実上の第一人者なのではないかと云うわけである。その直後、1565年に書かれた(ミュンヘンにいた、学者で医者の)ザームエル・クヴィケルベルクも、オルランドゥス・ラッススの「悔悛詩編唱」についての著述の中で、「音楽を言葉の意味に合わせて作り、一つ一つの異なった情感の力を表現し、事物をあたかも実際に私達の目の前にあるかのように示し・・・」と述べ「この種の音楽は(ラ)ムジカ・レゼルヴァータmusica reservataと呼ばれる。」と締め括っている。このムジカ・レゼルヴァータは、文字通りには「控えめな音楽」「取って置かれた音楽reserved music」といった意味だが、16世紀半ばを過ぎてまもなく当時の作曲家達の新しい様式を指すために用いられ始められ、今日でも本当の意味は不明瞭なままなので、ついうっかりアカデミア・レゼルヴァータという言葉が誕生してしまった。教科書では、ジョスカンの優れた傑作であるモテートゥス「深い淵から私はあなたに呼びかけました(ラ)デ・プロフンディス・クラマーヴィ・アド・テ」を見ながら、深い淵で5度跳躍下降し、私は呼びかけましたで助けを求めるように短6度上行する歌詞と旋律の関係に感嘆しながら、モテートゥス「ああ、マリア様・・・清らかな処女よ(ラ)アーヴェ・マリーア・・・ヴィルゴ・セレーナ」で締め括っている。
2005/10/07