この時期、新型のお目見えに、北方人が南方で活躍するうちに自らに変化を来してしまったフランドル作曲家と呟いてみた。器楽もますます重要性を増してくる。
ミサは模倣ミサが、完全に定旋律ミサに取って代わり、聖歌旋律は自由な扱いながら、ミサとモテットの主題としての役割を果たしていた。今では4声を越えて、5声、6声が潮流となってきた。
・またしてもフランドル方面に誕生した作曲家のニコラ・ゴンベールは、理論家ヘルマン・フィンクによると、コンデ・シュル・レスコーに居た晩年のジョスカン・デ・プレから作曲を学びつつ、1526年にスペインのカルロス5世(神聖ローマ皇帝カール5世)の宮廷礼拝堂歌手として活躍。29年には宮廷少年合唱隊長に就任し、荒くれ少年どもの世話をしながら合唱を指導し、カール5世に付き従って彼の領土内を練り歩いたり、フランドルの歌手を引き抜きに出かけたり大忙しだった。
・その後、幾つかの聖職録を獲得して、1534年頃からは、トゥルネーの聖歌隊長としてその地を中心に活躍、しかし酒乱か、狂気か、はたまたただの教育熱心か、罠にはめられたのか、ただの八つ当たりか、2度目の少年合唱隊員に殴る蹴るの暴行を欲しいままにしたことが原因(ではなく性的な対象だったと云う意味かも)となって、恐らく1540年頃に貰った全部の聖職録剥奪の上、お船(お馴染みの地中海をのさばるガレー船)に乗せられて鎖で囚人となす刑に陥って、この時書いた名作を持って許された後も、創作活動に専念し、楽譜出版の熱気の中で多くの出版がなされたという。
・作曲はフランドルの気概を持って当世風(とうせいふう)のイタリア的な調性的な傾向や、和弦的で歌詞の聴き取りやすい飼い慣らされた対位法などに対して、対等声部の模倣に生き甲斐を見いだす緊密な対位法書法が、途切れることなくひたすら続いて行く傾向を持っていて、2度の不協和音さえ辞さないフランドル魂は、「バビロン川のほとりで(ラ)スーペル・フルミナ・バビローニス」を聞けば少しは理解できるかも知れない。なだらかな旋律と、常に濃密な対位法は、休止が少なく、不協和音は慎重に準備され解決され、劇的な情感を表現するよりも、深い瞑想に到達するようだ。特に偉大なジョスカンを追悼して作曲した6声のモテートゥス「ジュピターの娘である、ムーサ達よ」では、短2度、あるいは増1度の響きになる対斜の響きが、悲しみを表現するという。また、「ゴンベールが少年を何度も何度も」との証言を残したジローラモ・カルダーノは、8曲の《マニフィカト集》を「彼の白鳥の歌だ!この曲でカール5世の心を恩赦に向かわせて、ガレー船から脱出したのだ。」と叫んでしまったという。
・またの名を、教皇でない方のクレーメンス、つまり「クレーメンス・ノン・パーパ」と呼ぶヤコブス・クレメンスは、やはりフランドル地方から現われ、1544,5年にブリュージュ大聖堂に勤め、その頃アントウェルペンで出版業を行なっていた、吹奏楽部なら知っているかもしれないティールマン・スザートと交渉などを行ないつつ、45-49年はゴンベールの前任者として、神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷礼拝堂楽長を務めた可能性があるそうだ。(音楽の友社の辞典では、この時期はシャルル5世となっていたが・・・。)その後、1550年にはスヘルトーヘンボス(現オランダ)にあるマリア修道会で雇われ、ライデン(現オランダ)でも活動したかもしれないが、はっきりしないまま終わってしまおう。
・15ぐらいの模倣ミサ曲に対して、モテートゥスを230曲も作曲、80曲ほどのシャンソンと、民謡などを定旋律に用いたオランダ語による3声の詩編歌「(オ)スーテルリーデケン」がある。ゴンベール同様やは北方フランドルの対位法スタイルを好んだ彼の影響は、ドイツで活躍するオルランドゥス・ラッススなどに伝わっていくそうだ。
・そして、フランドル人じゃないスイスの音楽家がついに教科書に登場。恐らくバーゼルで86年頃生まれたんじゃないかしらと思われているゼンフルは、1496年から神聖ローマ皇帝マクシミリアーン1世の宮廷礼拝堂聖歌隊員として少年時代を過ごし、宮廷作曲家として活躍していたハインリヒ・イーザークに教わって、当時中心のフランドル作曲家達のスタイルを吸収しながら成長したと考えられている。彼は1517年の「以後居なくなるイーザーク」が亡くなった年に、後を継いで宮廷作曲家として就任した。19年に皇帝が亡くなると解職となったが、23年以降はミュンヘンのバイエルン公ヴィルヘルム4世の元で活躍した。フランドル対位法のモテートゥスなどの宗教曲や多くの世俗曲と、ルター派教会のためのドイツ語作曲が目立つ。
ところが、こうしたフランドル作曲家達の活躍は、16世紀後半にはすっかり崩壊してしまう。半解の徒はここに至ってこれを宗教改革と結びつけて、済ませてしまおうという作戦に出るわけだ。では、改めて低地地帯の歴史から振り返りつつ、話を進めることにしよう。ただし正しい道に進んでいるとは保証が出来ない。
東西フランク王国の分割線上にあったため辺境伯などの勢力が強くなったのか、ノルマン人の進出に対処した司教や伯の自立傾向か、そうではなくて商業と貿易の拠点となると、自立性が促進されるのか知らないが、ネーデルラントと呼ばれる今日のベルギーからオランダに広がる地域は、フランドル伯領などを含み、同時代のイタリアと同様、都市拠点を中心とする幾つもの勢力が競い合いながら、特にフランドルを中心にヨーロッパ最大級の商業圏を形成していた。フランドルの有力な都市では、百年戦争がイングランドの羊毛輸出に関係して述べられるように、毛織物工業が栄え、北方バルト海沿岸での漁業に、造船業など、さらに農業も充実し、豊かな商業活動の結果、イタリアと並んでいち早く金融業が栄え、また宝飾類などや芸術作品の生産地の中心として、音楽史に関係するとすぐれた聖歌隊歌手の養成所としても、大いに繁栄していたのだった。
そんなネーデルラントだが、15世紀中頃にかなりの部分をブルゴーニュ公国のフィリップ・ル・ボンが勢力範囲に収めると、各地域の代表を総督として任命し、大貴族達を金羊毛騎士団に加入させてブルゴーニュ公の名の下に連帯させ、各地域で行なわれていた議会の代表者を集め、低地地方全体の議会を開始するなど、全体の統一的支配を模索、この低地地方を中央集権的にまとめようとする傾向は、ブルゴーニュ崩壊後ハプスブルクのマクシミリアンが、さらに彼の息子フィリップ・ル・ボーが継承していくことになった。そしてちょうどこの頃、アントワープではドイツ方面から産出される銀や銅、イングランドの羊毛の取引拠点だけでなく、ポルトガルのアジア方面貿易による香辛料などもリスボンを経由してこの地で売買され、国際貿易都市として一大繁栄を成し遂げ、低地地帯でも最大の都市として君臨していたのである。
さてフィリップ・ル・ボーの妻が誕生したてのスペインの王女フアナだったから、続いて2人の子供であるカルロス1世がスペイン国王として就任し、さらに後に神聖ローマ帝国皇帝にも就任するに及んで、ドイツ・オーストリアにスペイン、さらに低地地方が彼の領土となった。この神聖ローマ皇帝カール5世は、低地地方には自分の教育係をしてくれたマルガレーテ・フォン・エスターライヒに任せる一方、まだ完全に組み込まれていなかったネーデルラント北部も併合し、1543年に低地地方を完全に統合、全17州を1548年にフランス及び神聖ローマ帝国から分離独立させたが、「もちろん私が17州の王だ!」という訳である。
その間、カルヴァン(カルヴィン)がジュネーブで成功させた長老派教会の運動に共鳴を覚える者達が、ネーデルラントでも増加、「宗教改革、愉快愉快」と低地中練り歩きだしていたが、1556年に退位したカール5世の代わりにスペイン王となったフェリペ2世(1527-在位1556-1598)の頃には、低地地帯北部のオラニエ公ウィレムといった大貴族が強権すぎるスペインに反感を持ち、それにプロテスタントの下級貴族達が「貴族同盟」を結成し、低地統治を任されていたマルガレーテの曖昧な態度もあって、プロテスタントが「貴族同盟」(ゴイセン)を中心に大いに活気づいて、1566年にはフランドル地方で「聖像破壊運動」まで開始。以後当地ではカルヴァン主義的新教徒がゴイセンと呼ばれるようになっていくが、彼らは教会の破壊、略奪を行ない、聖職者は追放され礼拝が停止した。こうした一連のプロテスタントの打ち壊し運動の嵐によって、フランドル作曲家達を送り出し、歌手の名産地だったフランドルの教会音楽伝統は、もう二度と立ち上がれないまでに打ちのめされて、教会の楽譜すら燃えて灰になってしまうのである。
マルガレーテがカトリック貴族達と結びプロテスタントを打ち叩くと漸く初めの嵐は収まったが、フェリペ2世がスペインの大貴族アルバ公に権力を与え、マルガレーテと政治を交替させ、戦費調達のため重税を課し、さらに低地地方の不穏分子掃討と中央集権を目指した。アルバ公によって、大量の貴族達が逮捕処刑され、こうしたことが引き金となって1568年にアルバ公への反対戦争が開始、これを持ってオランダ独立戦争(80年戦争)が開始することになった。しかしカトリック支持者の多い南部フランドル地方などと、プロテスタントの多い地域は、増税と低地地帯のスペインへの反対から統一戦線を結んだものの、絶えず宗教問題を複雑に絡み合いながら推移することになる。1576年にスペイン軍を撤退させて成立した「ガンの平和」では、カトリックを公認としながらプロテスタントも認める政治体制に一度は到達しながらも、結局宗教対立につけ込んだスペイン総督によって見事分裂し、ついに内戦状態に陥ったので、新スペイン総督パルマ公は大いに喜び、1579年カトリックの多数派を占める南部(エノーやフランドルなどを含む)はスペインに忠誠を誓う結果となった。これに対してオラニエ公ウィレムを中心とする北部7州が同年「ユトレヒト同盟」を結成し、スペイン国王を罷免したが、パルマ公の勢いはすさまじく、逆に崩壊寸前まで攻め込まれて、ついでにプロテスタントの数多く存在したアントワープが1585年にパルマ公に落とされ、都市は大崩壊を迎え、大量のプロテスタントがアントウェルペンなどに逃れていった。その後南部カトリックの都市としての命運が定まったアントワープは、今度は北部のアントウェルペンの海上貿易封鎖によって、結局16世の内に輝かしい国際貿易都市の座からすっかり転げ落ちてしまったのである。一方パルマ公迫り来る北部も、泣きながらイングランドのエリザベス1世に泣きついたりしていたが、詰めの甘いフェリペ2世が、今度はフランス、イングランドとの戦争に勢力を傾け始めたので、パルマ公は戦線から離脱しフランスに向かい、1588年にはスペイン無敵艦隊がイングランドに大敗北を被っている間に、ユトレヒト同盟は再度攻勢に転じて見せた。つまりこの年「ネーデルラント連邦共和国」樹立を宣言しほぼ北部を回復すると、1596年にはフランス、イングランドと共に3国同盟を成立させていったのである。さらにこれと同時にポルトガル、スペインに続いて世界貿易にも名乗りを上げ、中継貿易から自国商船の国際貿易の転身を成し遂げ、1595年にはジャワにオランダ商船が到着、1600年には日本にも始めてオランダ人が到着し、1602年には東インド貿易にあたっていた会社を統合して、世界初の株式会社と呼ばれる、東インド会社を設立。ポルトガルのアジア貿易勢力を奪い取りながら、急激に拡大を続け、スペインとは戦争を続けていたものの、遂に1609年12年間の休戦が定められ事実上の独立となった。その後休戦終了の1621年からはドイツの30年戦争と絡んで再びスペインとの対立が再開されるが、後の1648年ウェストファリア条約で国際的に共和国と認められたのである。
詳細
http://www.ne.jp/asahi/gaisui/iori/battle/battle5.html
15世紀半ばには、ヨーロッパ中の商人集まる商業都市として、ガレー船でイタリア商人達も押しかける、アントウェルペンでは、開かれる大市では見せ物まで見物でき、修道院や教会では様々な用途のための絵画まですでに販売され、衣料品、貴金属工芸品までも宗教の場で売られ、街路に並んだ大量の店で、ありとあらゆる物が売られていたと、記述が残されている。15世紀末にはイングランドとアントウェルペンで通商協定が結ばれ、毛織物の輸入と生産の関係を築き一層繁栄、同じ頃画家のクェンティン・マッシース(クエンティン・マサイス)(1465/66-1530)も活躍し、1514年には風俗画風宗教画の「両替商とその妻」を描き残し、今日でもルーブル美術館に行けば目にすることが出来るが、16世紀にはいるとヴェネツィアさえ凌ぐほどの商業都市として、「都市の女王」と讃えられるようになった。フランドル周辺都市の伝統として、都市で雇われるようになった楽師達や、同業者組合を組織する数多くの演奏家が活躍していた。都市楽師は「都市の吹奏者」や、「ミンストレル」、「ショーム奏者達」など様々に呼ばれる吹奏楽団で、サックバット奏者3,4人とショーム奏者2,3人が、都市中心での毎日の都外演奏会、宗教的祝祭的行事の音楽、教会典礼への楽器参加などで活躍し、14世紀前半にはすでに雇われ笛吹の記述が登場するそうだ。16世紀に入ると、トレンドが変化し、奏者達はそれぞれ異なる管楽器を演奏するようになり、さらに16世紀中頃になると、ヴィオール奏者も参加するようになり始めた。彼らは教会でのミサでも、祝祭的な特別のミサの場合に管楽器を参加させるため出張している。最も重要な聖母教会では、ヤーコプ・オーブレヒトも1492年からフェラーラに向かうまで聖歌隊楽長を務め、礼拝の音楽に合わせ、または聖歌隊と交互にアルテルナーティムでオルガンが重要な役割を果たしていた。
1543年にティールマン・スザート(c1500-1561/4)が楽譜出版をこの地で開始すると、ピエール・ファレーズ(1510-1573)もすぐ後を追い、アントウェルペンはたちまち出版楽譜印刷業においても主導的中心地になり、多くの地元のシャンソンやモテートゥス、ミサ曲などを出版。すでに多声世俗曲を楽しみ、特にチェンバロとリュートを嗜む都市市民(の大商人や貴族など富裕層)のために、リュート編曲用の楽譜なども出版された。(鍵盤用は出版されずだとさ。)さらにヨーロッパ中で需要の高まった舞曲のための音楽では、例えばシャンソンを元に1551年には舞曲編曲楽譜である「舞曲集」を出版し、これは今日でも比較的良く演奏されているほどだ。楽器作製においても重要な都市で、15世紀から活躍する制作者達は16世紀後半以降管楽器や、弦楽器、さらにリュカース一族活躍する鍵盤楽器を求めて、各地の購入者がアントウェルペンを訪れることになった。
その後のプロテスタント増加と1566年の教会破壊運動によって、アントウェルペンの聖母教会も楽譜・オルガン・宗教画など悉く破壊破棄され、カトリックの宗教音楽家は周辺に逃避、スペインとの戦争はやがてプロテスタント側をアントウェルペンからアムステルダムなどに移動させ、居なくなったオルガン奏者の枠をイングランドから来たピーター・フィリップスやジョン・ブルなどで補ったと言うが、アントウェルペンの黄金時代は過ぎ去ってしまった。
こうしてプロテスタントの国として独立を勝ち取ったネーデルラント連邦共和国では、ポルトガルのアジアにおける貿易拠点を次々に奪い取りながら、17世紀を通じて世界貿易の中心を担っていくことになるが、寄生的にアジア貿易に負ぶさり気味だったそれまでの貿易形態から、次第に原住民弾圧や、強制労働による栽培などを開始し、同時にイスラーム商人の香辛料貿易にも決定的なダメージを与えて遣った。台湾を占領し中国との貿易の拠点にし、日本においても、幕府に働きかけて、カトリックに警戒する徳川幕府からポルトガル勢力の追い出しに成功し、鎖国下の日本での唯一の貿易国として、長崎の出島貿易を任されることになっていく。イギリスの東インド会社ですら、オランダの勢力に打ち負かされ、東アジア方面から当面インド経営に向かうことになったそうだ。これによって、共和国の首都となったアムステルダムには、町中に水路が張り巡らされ、人々から北のヴェネツィアと讃えられ、世界最高の商人の都と歌われ、海洋貿易の富を一手に集め、世界都市・世界銀行としての成長を遂げてることになったのだ。為替が流通し、銀行、株式取引所が建ち並び、東インド会社からの莫大な収入により裕福になった市民達は、数多くの技術者や職人を必要とした。数多くの外国人労働者が流れ込み、金儲けが人々の合い言葉となる頃、レンブラントが当地で活躍を開始し、17世紀オランダ絵画が華開くことにもなっていく。音楽においては、教会の音楽は新教の改革によって詩編唱などが歌われる伝統に移り変わり、今日の音楽史に名を連ねるような大楽曲宗教曲が大量生産される場所では無かったが、しかしアムステルダムでは、人々のオルガンへの愛着が、オルガンを取り除くという改革運動を拒否させ、17世紀前半に古教会のオルガニストとして活躍するヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクなどによる、典礼以外のオルガン演奏を活発化させるという、新たな音楽スタイルを定着させていったのである。さらに、世俗的なある種のポピュラーソングは、大いに華やいでいたそうであるから、決して非音楽的な都では無かったのであるが、西洋音楽史というカテゴリーに登場する機会は、同時代の画家達に比べて豊かではないというだけの話だ。
2005/11/12