7-2章 16世紀のイタリア

[Topへ]

ローマのルネサンス

 1378年の2人教皇時代以降、教皇庁所在地の座を回復し、1420年には唯一の教皇マルティアヌス5世によるローマ教皇庁の完全復活を遂げる、カトリックの最重要地であるローマは、古代ローマの遺跡が残り古代の首都という嘗ての栄光が伝説として残る大都市でもあった。フィレンツェの金細工師、彫刻家であり、建築家としてフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドームを設計したフィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)は、マショが亡くなった年に誕生した男で、彫刻家のロレンツォ・ギベルティ(c1381-1455)の好敵手を演じたこともあったが、彼は何度かローマを訪れ、古代の建築に感銘を受けたというし、ある時は親友のドナテッロ(本名ドナート・ディ・ベット・バルディ)(c1386-1466)も共にローマ入りを果たし、古代発見の情熱に酒が進みに進んで泥酔状態に陥ったこともあったかもしれない。ドナテッロはフィレンツェではメディチ家のコジモがパトロンになってくれたお陰で、数多くの作品を残している。彼らの活躍の場はフィレンツェであったが、2人の知人でもあり、次の世代のレオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)は、国外追放のフィレンツェ人の息子としてパドヴァで、ついでボローニャ大学で教育を受けた後、1432年頃からローマに入り、エウゲニウス4世下の教皇庁の役人となっている。やはりローマで古代ローマのキケローなどにのめり込んで、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの「建築について」を読みあさり、1451年に後の建築に多大な影響を与えることになった「建築論」を完成させた。彼は実際の建築はフィレンツェや、マントヴァなどで手がけているが、教皇シクストゥス4世(1414-在位1471-1484)は自らの名前を冠するシスティーナ礼拝堂を建設し多くの芸術家を動員、さらにウルビーノ生まれのドナート・ブラマンテ(1444-1514)も1499年にミラノからローマに移り活躍、ブラマンテは1503年に教皇ユリウス2世(1443-在位1503-1513)から、サン・ピエトロ大聖堂の建築主任を任されバチカン宮殿拡張を開始、これは彼の死後ラファエロ・サンティ(1483-1520)を抜けて、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)の設計に至るまで継続し、ローマ自身がルネサンス芸術の中心地として君臨した。  こうして教皇庁を中心に教皇が君臨し、数多くの枢機卿達が群がる宮廷持ち大貴族のごとくに存在するローマでは、重要なパトロンがあまた存在し、イタリア各地の要人も訪れ知り合うチャンスが大いに期待でき、古典古代の伝統もあり、芸術家達にとっても非常に魅力的な都市であったが、これはもちろん音楽家達にとっても当てはまった。
 アヴィニョン捕囚時代から教皇庁歌手達はフランドル人などが活躍していたが、教皇のすぐれた歌手養成センターであるフランドル地方から生粋の歌い手達を集めたいという欲求と、教皇や枢機卿の元で働くことによって出世して、さらに聖堂参事会員など何らかの教会役職を獲得して、後半生の定収入を確保したいという歌手達の願いが、相互に絡み合って、すでにヨハンネス・チコーニア(c1373-1412)の頃からフランドル音楽家のイタリア、ローマへの出稼ぎ状態が開始していた。1428年には教皇マルティヌス5世下の教皇庁聖歌隊にギョーム・デュファイが加わり、デュファイは次の教皇エウゲニウス4世の選出に当って5声のモテートゥス「戦う教会」を作曲し、教皇戴冠式でこの曲が高らかに鳴り響いたし、シクストゥス4世(1414-在位1471-1484)がシスティーナ礼拝堂を建設すると、教皇庁聖歌隊もこの礼拝堂に移され、後に聖歌隊自体がカペッラ・システィーナと呼ばれるようになって行く。

シクストゥス4世時代

 このシクストゥス4世は、ガッリカニズムで教皇から国内教会を引き離そうとするフランスのルイ11世と交渉を行ないながら、ナポリ王国まで我が物であると考えるフランスに苦い思いを抱いていたが、一方フィレンツェのメディチ家に対しては、パッツィ家を優位に立たせこれを排除しようと明からさまに活動を行なった。結局メディチ家のロレンツォが危機を脱し、フィレンツェデはメディチ家の黄金時代が到来することになった。さらに独立の異端審問を認めて欲しいと迫るスペインに対しても、スペインの軍隊を頼みとする手前断れずこれを認め、次第に各地の教会や宗教施設は教皇ではなく国王に比重を移していく様相を呈して来た。しかし、そんなシクストゥス4世の時代、システィーナ礼拝堂はもとより、ローマの改築計画に莫大な資金が投入され、1481年に建物が出来上がった礼拝堂にはボッティチェッリやドメニコ・ギルランダイオなどがお呼ばれして、壁画を描いている。

インノケンティウス8世時代

 続く教皇インノケンティウス8世(1432-在位1484-1492)は、異教徒討伐を呼びかけながら、オスマン・トルコから賄賂と贈り物を頂きながら、1484年に「スンミス・デジデランテス」を発してドイツで流行中の魔術師や魔女に批判を行ない、1486年にイングランドのヘンリー7世の正統王位を認め、チューダー朝の船出に華を添え、同じ年「人間の尊厳」でお馴染みの(?)ピコ・デラ・ミランドラの著作物を禁書にして遣ったりしていた。この1486年にはジョスカン・デ・プレが教皇庁聖歌隊に加わり以後断続的に活動を行ない、聖歌隊メンバーのガスパール・ヴァン・ウェールベケや、マルブリアヌス・デ・オルトらと共にミサやモテートゥスを歌いまくることになったわけだ。オフでは3人でイタリアの世俗多声曲であるフロットラなどを歌いすぎて、教皇からおしかりを受けたことがあったかも知れない。彼は1492年にグラナダ陥落によるレコンキスタの完成を祝してお亡くなりたが、続く教皇こそジョスカンの所で少し詳しく見たアレクサンデル6世(1431-在位1492-1503)である。

アレクサンデル6世時代

 彼の時代の息子と娘を交えた政治的どんちゃん騒ぎは置いておくとして、この時期フランス軍の進行に関してミラーノからローマに来ていたドナート・ブラマンテ(c1444-1514)が、サンピエトロ・イン・モントリオ教会の小神殿の設計を行なっているし、サヴォナローラの助言でメディチ家が援助を止めてしまった切ないミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)もボローニャからローマに移り、サン・ピエトロ大聖堂にあるあまりにも有名なピエタの彫刻と、バッカス神の彫刻を残している。そしてアレクサンドル6世のお気に入りの画家ピントゥリッキオも、システィーナ礼拝堂の壁面に仕事を残してみた。

ユリウス2世時代

 その後26日教皇ことピウス3世を挟んで、ルネサンス君主を体現してしまった意味で偉大な教皇ユリウス2世(1443-在位1503-1513)の時代に突入。彼は例のアレクサンドル6世と枢機卿時代教皇を掛けたライバルだったが、複雑な経緯の後、こうして教皇様の座を射止めたのだった。その後対立勢力の掃討を行ないつつ、ローマにとって由々しき問題であるヴェネツィアの軍事力を押さえるため、フランスと神聖ローマ帝国に握手をさせヴェネツィア勢力に向かわせる政策を行い、ついでに自ら軍隊を率いてペルージャやボローニャを陥落させてしまった。その後フランスにも脅威を感じ同盟を結んでフランス軍を追い返すと、別の勢力がイタリアに権益を拡大するだけの内に、1513年身罷ってしまうようなものだが、芸術活動においては、1503年にドナート・ブラマンテをサン・ピエトロ大聖堂の建築主任に任命し、ヴァティカーノ宮殿の拡張に乗りだし、1508年にローマに来ていたラファエロ・サンティ(1483-1520)を雇って、ヴァティカーノ宮殿の署名の間などの壁画を製作させたりしている。例のビックなフレスコ画「アテネの学堂」もこの時に作製されたものである。しかしユリウス2世と云えば、何と言っても、ミケランジェロとの関係が有名で、互いに怒鳴り合いながら組んずほぐれつしているうちに、1508年から1512年まで掛けたシスティーナ礼拝堂の天上画「天地創造」が完成してしまい、満足したか翌年ユリウスが亡くなるが、やはりユリウスから頼まれていた墓廟(ぼびょう) は完成していなかったという、お馴染みの芸術逸話に辿り着くわけだった。

レオ10世時代

 その後、かつてハインリヒ・イーザークに音楽教育を受けたメディチ家のジョバンニ・デ・メディチ枢機卿が教皇レオ10世(在位1513-1521)として就任、詩人のピエートロ・ベンボ(1490-1548)枢機卿が秘書を務め、若きラファエロ・サンティ(1483-1520)がブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂の改造設計を任され、その頃には聖歌隊歌手も31人に増強され、おまけに祝宴や狩りなどで使用するための楽器奏者を含む歌手まで組織し、ルネサンスの世俗パトロンの筆頭となっていたが、の世俗音楽の殿堂は彼が始めた荒技というわけではまったくなかったらしい。レオ10世は皇帝使節との会見に当って、イーザークに当日演奏する音楽を頼み、イーザークが6声モテートゥス「気高い羊飼いよ」を作曲して、教皇と皇帝を交互に讃えてしまうというと、会見当事者達が交互に頷き合うというたちの悪い?一幕もあったという。そして彼がサン・ピエトロ大聖堂増築の資金を獲得するため、ドイツで「贖宥状(しょくゆうじょう、罪の許しを軽減させてくれちゃう教皇公認のありがたいお札)」の販売を許可すると、すでにローマに訪れて教会巡りを行なってドイツに帰っていたマルティン・ルターが17カ条も論題を大学に貼り付けて、宗教改革が沸き起こってしまうのは、よく知られている。しかし、彼はジョスカンと同じ年になくなるほど信任深い人物でもあった。(・・・意味が分からん。)

クレメンス7世時代

 その後、カール5世の家庭教師をしていたこともある、真の改革を成し遂げる事が可能な数少ない人物ハドリアヌス6世(1459-在位1522-23)が教皇となり、芸術削減と聖職者事実上婚姻の非難、贖宥状反対を掲げて立ち上がったが、残念ながらあまりにも早くお亡くなりて、ロレンツォ・デ・メディチの殺された弟の息子ジョヴァンニ・デ・メディチがクレメンス7世(1479-在位1523-1534)として就任。教皇以前からラファエロのパトロンであり、マキャヴェリに「フィレンツェ史」の依頼をしたりしていたが、教皇になったの後、イタリア戦争を巡りフランスと同盟を結んだ所、神聖ローマ帝国軍に進軍され、その途中指揮官を失った帝国軍は、ただの暴徒としてローマを「しちゃかめちゃか」に荒らし回る1527年のサッコ・ディ・ローマ(ローマ略奪)によって、サンタンジェロ城に封じ込められて、巷の惨状をがくがく震えながら眺めていた。あんまり恐ろしいので、カール5世に泣きながら和解を申し込み、正式に戴冠などして上げなさったので、この時をもってイタリアを巡る争いは、フランスよりも神聖ローマ帝国側が優位になっていった。その後、サッコ・ディ・ローマに合わせてメディチ家を追放したフィレンツェ共和国政府に加わったミケランジェロを許して、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」(1536-1541)を作製させれば、ミケランジェロもしぶしぶながらこれに着手。また、1532年に「こっそり息子(正式には教皇には子供は居ないはずなので)」のアレッサンドロをフィレンツェ公としてフィレンツェ公国を建国させ、これを持ってフィレンツェ共和国は完全に幕を閉じることになった。気をよくしたかクレメンス7世は、翌年33年のカテリーナ・デ・メディチとフランス皇太子のアンリ(後のアンリ2世)の婚姻に参加して、翌年亡くなった。こんなメディチ家と芸術三昧の教皇では北方のルター派の嵐も何のそのだったが、続く教皇パウルス3世(1468-在位1534-1549)の頃から、いよいよカトリック教会内の刷新の動きや、巻き返しの動きが表われてくるようになるのであった。

ローマの音楽事情

 ローマにあっては、数々の芸術愛好教皇達だけでなく、教皇を取り巻く数多くの枢機卿も非常に洗練された芸術的趣味をお持ちで、多くがイタリア人であった枢機卿達をルネサンス君主に見立てて、いかに枢機卿たるべきかを記した、パオロ・コルテーゼの「枢機卿職について」(1510)まで登場する始末だったから、それぞれに音楽家を支援したり、お抱えの歌手を雇ったりしていたし、教皇庁聖歌隊以外にもローマ内の教会にある聖歌隊ポストがあったので、北方の歌手達は続々とイタリアを目指して押し寄せてきた。特に教皇庁聖歌隊とは別にサン・ピエトロ大聖堂が雇っている聖歌隊が15世紀中頃からあって、ユリウス2世が1513年にこれにイタリア人歌手の養成所の意味を持たせユリウスの聖歌隊、つまり「カペッラ・ジュリーア」と命名すると、これをモデルに他の教会も少年聖歌隊と指導者を含む付属聖歌隊を整備、こうした聖歌隊からパレストリーナなどイタリア人作曲家が登場してくることになった。北方の歌手達の出稼ぎは、フランスと神聖ローマ帝国の争いに教皇が絡んだイタリア戦争の最中に軍隊が司令官を失って暴動を引き起こした1527年のサッコ・ディ・ローマ(ローマ略奪)にも影響なかったが、イタリア戦争の終結をもたらした1559年のカトー=カンブレジ和約によって、フランスの完全撤退と、イタリアでのスペイン優位がもたらされ、北方歌手よりもスペイン人歌手がチャンスを手に入れるようになり、さらにプロテスタントの宗教改革運動に対して、カトリック内部で改革を行なうための対抗宗教会議であるトレントの公会議が1563年に集結する頃には、聖職禄などの自由譲渡(じょうと)が出来なくなり、さらに以前のように聖職禄を貰って就任しない不在が認められなくなって、おまけに教皇の聖職禄の範囲がすっかり狭くなってしまったので、北方からの歌手達の出稼ぎがほとんど見られなくなった。しかし一方ではプロテスタント勢力の台頭(たいとう)と一連の戦争の中で、既存の伝統に終止符が打たれたという、北方の事情が大きかったのかも知れない。彼らに入れ替わるように、16世紀初頭から少年聖歌隊に加わり、北方低地地帯の作曲家に学んだイタリア人、さらにスペイン人の音楽家達が活躍を開始し、また世俗曲のマドリガーレの作曲などにおいても、16世紀後半にはイタリア人が指導的役割を担うようになっていくのだった。

システィーナの聖歌隊の伝統

 この教皇庁歌手達は生え抜きの北方人歌手達が名を連ね、典礼で単旋律聖歌に即興で北方的な凝った対位法を付けて歌う伝統があり、またオルガヌムのなれの果てであるかは知らないが、元の聖歌に平行進行によって対旋律を加えるフォーブルドンやファルソボルドーネといった遣り方も行なわれていた。そしてそれとは別に、記譜された音楽作品としてのミサ曲やモテートゥスが歌われたが、1483年に完成したシスティーナ礼拝堂にはオルガンが置かれず、その時始まったと云うよりは、前からの伝統があったのかも知れないが、カッペラ・システィーナでは楽器を使用しない声だけによる宗教多声曲演奏が一般的で、ここから後に楽器を使用しないで声だけの無伴奏をア・カッペラ(礼拝堂風)と呼ぶことになったそうだ。ただし、教皇でさえも他の場所では声とオルガンの交替である「アルテルナーティム」(交互に)による典礼を行ない、16世紀にヨーロッパ中で流行して当然のごとく行なわれ始めたオルガン以外の楽器参加による典礼も行なわれ、教皇庁の祝祭行事では聖歌隊員も楽器奏者も悉く動員されて、ルネサンス的な壮大スペクタクルを満喫していた。さらに後のバロックオペラの花形男優であるカストラート(子供の内に去勢して男性ホルモン分泌を抑えて声変わりさせない歌手)達も、実はカペッラ・システィーナの歌手から開始している。1560年代半ば頃スペイン人のカストラートが、男性の裏声(今日のカウンターテナーの歌い方)に割り込む形で採用され、こりゃあいいと評判になって急激に認知されていくことになった。もちろん普通の方法で高い声を望む場合に少年聖歌隊に歌わせるのは、一番の方法で有り続けた。

 

ナポリ

 フランス領土に広がるアンジュー家が支配していたナポリ王国を1442年に征服したアラゴン王国アルフォンソ5世(アラゴン王在位1416-1458)は、本国の政治は妻のマリアにお任せて、1443年にナポリ入りするとアルフォンソ1世(ナポリ王在位1443-1458)として即位した。彼と共にナポリ入りを果たした宮廷カペッラの面々だったが、ナポリを一気に芸術都市に仕立て上げるべくカペッラの拡大にも怠らない国王の下、同時代のイタリアで最大の聖歌隊がナポリに登場することになったそうだ。当然ながら数多くの楽器奏者達も宮廷に雇われていたが、カペッラではお馴染みの北方歌手達ではなく、イベリア半島の王国のカペッラがそうであったように、イベリア半島の住人達が歌手として雇われ、断じて領土回復を狙う憎きフランスや北方の歌手達が幅を利かせることは無かったのである。もちろん公用語もイベリア半島のお言葉で、フランス流行の北イタリアとは異なる精神で、不気味な眼差しで北方を眺めつつ、独自の文化を継承していったのである。この時期のナポリの最大の作曲家として、莫大な給料をお貰いたフアン・デ・コルナーゴで、宗教曲やら、世俗曲であるカンシオン(歌)などを作曲し、その宮廷は独自のポリフォニー多声曲を楽しんでいた。
 アルフォンソ1世の死後、ナポリは彼の私生児であるドン・フェランテがフェルディナンド1世(フェランテ1世)として即位、この時アラゴンは1世の弟が国王となり、アラゴンとナポリは別の国となったので、急激にイタリア趣味を満喫し始めた。それに釣られて、北方のフランス語シャンソンも流行を開始、1460年代にはイタリアでのシャンソン集写本の最初期のものがナポリで生み出され、新しい地元の世俗多声曲であるバルゼッレッタやストランボット・シチリアーノといったジャンルが誘発されてか譜面に登場し始めた。これらの曲は、多くが楽器で伴奏される独唱歌曲の形であり、元々は演奏家が即興的に叙事詩などに曲を付けて歌うような世俗伝統が元になっているらしい。フェランテ1世の宮廷では、カペッラも70年代頃から、他のイタリア宮廷と競い合うように北方音楽家を雇い入れるようになり、同時に南イタリアの歌手達も雇い入れることにしていた。丁度その頃に北方の歌手であるヨハンネス・ティンクトーリス(c1430-c1511)がナポリに遣ってきて、王女に音楽を教えながら理論書を書きまくり、大いに活躍したうえ、「ミサ・ロム・アルメ」など曲も書いている。折角だから中世音楽研究会が翻訳している国内版「音楽用語定義集」の付録にCDでも付けてくれたら面白かろうが、私生児のナポリ王を認めない教皇と、同盟関係の減少があり、危機迫る中ティンクトーリスは、ローマの方にすたこら逃げていった。そしてめげずにアレクサンデル・アグリコラを宮廷に呼び入れようとしていたフェランテ1世が1494年に没すると、フランス軍シャルル8世軍が「アンジュー家のナポリは、すなわち俺のナポリだ」と叫びながら、ナポリ入城を果たし、直後にイタリア・イスパニア・ハプスブルクの連合に追い出され、イスパニアの領土として総督が送られて支配する次の時代を迎えることになった。

フェラーラ

 イタリアの北方宮廷もナポリに負けじとカペッラを作り、シャンソン集を生みだし、私設カペッラの歌手達はフランス語のシャンソンを作り歌い、また楽器奏者達によって器楽曲として演奏されたりした。
 フェラーラのエルコーレ1世のすぐれた英才教育の賜物か、彼の子供達の時代になると、それぞれに自らの宮廷で芸術家のパトロンとして活躍し、エステ家によるルネサンスはいよいよ満開のシーズンを向かえることになった。フェラーラ公を継いだ息子のアルフォンソ・デステは、すでに1501年3度目の政略結婚であるルクレツィア・ボルジアを妻として貰っていたが、アレクサンドル6世の娘にして、チェーザレ・ボルジアの妹で有るがために、壮大な大根チェルト状態に巻き込まれた(各自ボルジア家についてはリサーチをどうぞ)ルクレツィアは、漸くこの地で子作りと芸術保護に安息を見いだし、もとより父の血筋を受け継いだアルフォンソは、見事のこのこ遣ってきてペストに掛って無くなってしまったヤーコプ・オーブレヒトの代わりに、アントワーヌ・ブリュメルを1506年からカペッラの楽長として迎え入れ、その後カペッラは一旦解散したものの、1520年頃にはアドリアン・ウィラールトがカペッラに参加しているし、アルフォンソはフランスで王宮入りを果たしたジャン・ムートンと 関係を持っていたそうである。奥さんのルクレツィアも、トロボンチーノなどイタリア語世俗歌曲フロットラの作曲家兼歌手兼楽器奏者を保護して、イタリア世俗曲の芸術的離陸に大いに力を貸していた。
 他にも娘のベアトリーチェ・デステはミラーノのルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ、つまり「ムーア人のルドヴィーコ」)(1452-1508)と結婚し、1501年に夫がフランスに連行されるまで当地の芸術活動を大いに支援している。そしてもう一人の娘、イザベラ・デステ(1474-1539)は、1490年にマントヴァのフランチェスコ・ゴンザーガ(マントヴァ候フランチェスコ2世、在位1466-1519)に嫁ぎ、以来ルネサンスきっての女性パトロンとして大いに活躍するとともに、音楽においても重要な発展が見られることになった。

マントヴァとフロットラ(frottola)、ラウダlauda([伊]賛美)

 自治都市コムーネから、1273年シニョーリア制に移行し君主的家系が支配する体制に変化したマントヴァは、河から派生する湖に四方を囲まれた美しく侵略に備え有りの都市として、その後1328年にゴンザーガ家がシニョーリアを奪い取って以来、直系の絶える1726年までゴンザーガ家によって支配されていた。
 ジャン・フランチェスコ・ゴンザーガ(1395-1444)が1433年に財産をはたいてマントヴァ候の称号を神聖ローマ帝国皇帝から獲得したが、この時代このような称号は、金銭で売買可能で、イタリアでは教皇と皇帝のどちらが与える事も、互いの主張により可能だった。彼は大喜びで、フェラーラに人文主義的な教育施設を設け、自分の子供達の教育も行なってみたが、傭兵隊長からウルビーノ公国君主にのし上がった偉大なフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422-1482)もここで学んでいるそうだ。
 ジャン・フランチェスコの息子のルドヴィーコ2世(在位1444-1478)の時代には、1444年すでにピサネッロをフェラーラから招き入れて、仕事に当らせていたが、とうとう1450年にパドヴァ生まれのパドヴァ派代表選手のアンドレア・マンテーニャ(1431-1506)を招き入れ、彼は1460年以降は宮廷画家として、数多くの作品をマントヴァで残すことになった。また彼の時レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)もこの地を訪れ、教会を2つばかり設計し、特に1470年のプランに基づくサンタンドレア聖堂建築は彼の代表的な作品として名高いそうである。
 そのルドヴィーコ2世の後フェデリーコ1世の次に登場するフランチェスコ2世(フランチェスコ・ゴンザーガ)(在位1484-1519)が就任すると、1490年にフェラーラのエルコーレ1世の娘であるイザベラ・デステ(1474-1539)と結婚し、以後2人の宮廷は大いにルネサンスを謳歌することになったのだ。「宮廷人」でお馴染みのカスティリオーネや、ペトラルカ運動の推進者ピエートロ・ベンボ枢機卿(1470-1547)と親交を結んだイザベラ・デステは、ベンボが訪れたときには、歌を歌い楽器を演奏してしまうほど音楽的才能豊かで、宮廷画家のマンテーニャはもちろんのこと、ウンブリア派の画家ペルジーノ(c1450-1523)やら、パルマで多くを費やした内気な才人コレッジオ(c1489-1534)を招いたりして、宮廷を大いに華やかにしていた。また1500年にはフランス軍がのさばるミラーノを逃れたレオナルド・ダ・ヴィンチがマントヴァを訪れ、その際にイザベラのために書かれたデッサン画が残されているし、「「モナ・リザ(モーナ・リーザ)」のモデルはジョコンダ夫人でもダ・ヴィンチ自身でもねえ、実はイザベラさまだあね。」と主張する学者まで登場する始末だ。ヴェネツィア派の偉大な画家ティツィアーノ(1488/90-1576)のパトロンでもあり、彼からもデッサンを描いて貰っちゃったりなんかして、そうかと思えば、ベンボの親友であるルドヴィコ・アリオスト(1474-1533)がイザベラの次男誕生祝いに1507年に執筆中の「狂ったオルランド」を朗読して上げちゃったりと、芸術の保護者兼女神様的な存在として大いに文芸活動の中心に君臨してみた。
 もちろん旦那だって負けちゃいない、戦に出かけたり、ヴェネツィアの捕虜になったり忙しいフランチェスコ2世だったが、宮廷の器楽奏者を大いに保護し、さらに古典喜劇に力を入れ、1510年にはマルケット・カーラ(マルコ・カーラ)(c1470-c1525)を楽長に宮廷カペッラを創設、ジョスカンやオーブレヒトなどの北方ポリフォニーなどの最新宗教曲を演奏したりしながら、下り下って後にモンテヴェルディが楽長に就任する伝統の開始を告げた。ところでこのマルケット・カーラは、フロットラという多声のイタリア語世俗歌曲も残し、教科書にもフロットラ「私はもう希望を買わないIo non compro piu speranza」が掲載されているが、このフロットラはナポリで見たバルゼッレッタのように、弦楽器や鍵盤楽器の伴奏の上に行なわれる独唱歌曲であり、元々は記譜されることもない即興的な詩を歌う遣り口だったものが、1490年代から次第に記譜されるフロットラというジャンルが顔を現すようになってきた。やがてバルゼッレッタ、カピートロ、テルツァ・リーマなどの定型を持った型から、カンツォーネのような自由な楽曲で多くの作品が生み出されていくことになるフロットラだが、決して民衆の歌ではなく、宮廷内で行なわれる宮廷歌曲の一種だった。さすがに宮廷カペッラは自分で持てないイザベラ・デステが、夫とは別に音楽家を雇い入れ、自分が歌い保護すべきジャンルとしてフロットラにスポットを当てたとき、夫の元でトロンボーン奏者を務めていたバルトロメオ・トロンボンチーノ(c1470-1535以後)などに大量のフロットラを書かせ、しかもより高尚な詩を使用させているうちに、後のマドリガーレに続く高尚なイタリア世俗歌曲伝統が開始してしまったのではないかと、「西洋の音楽と社会2華開く宮廷音楽」(音楽之友社)に書かれていた。いずれフロットラは、1504年にはペトルッチの出版にも登場し、4声で音節的にしてホモフォニ的な楽曲と、を旋律最上声に置く明確リズムと全音階的な和声という特徴が見て取れるそうだ。さらに1509年からはフランチスクス・ボッシネンシスのリュートと声用の編曲出版も登場して大いに流行したが、続いて登場したマドリガーレに主役の座を奪われて行くことになる。そうはいっても、ストランボット、ソネットやカンツォーナなどと呼ばれる多くの楽曲は、皆々フロットラタイプの世俗曲で、フィレンツェの謝肉祭などでは「謝肉祭の歌」などと共に仮面舞踏などのどんちゃん騒ぎで大いに使用され、劇の付随音楽にも使用され、大いに華やいでいたが、要するにこの手の曲はこの時期になって漸く記譜されて残されるようになった世俗ジャンルで、前々からイタリア語の世俗曲が、この手のお祭りや劇を賑わしていたことは言うまでもない。
 一方フェラーラは、比較的早いうちから多声の「ラウダlauda([伊]賛美)」の伝統を保護していたそううで、このジャンルは典礼のための曲ではないが、宗教的行事や行列の時に使用する準宗教音楽的な分野で、同時期のフロットラに似た作曲スタイルで書かれている。やはり4声で、無伴奏か、あるいは下3声が楽器で、最上声を歌う、音節的ホモフォニ的規則的リズムの楽曲で、旋律にはしばしば世俗歌曲が転用されて、ペトルッチが1507年と1508年に2巻のラウダ集を出しているぐらいだ。このジャンルでも、先ほど登場したバルトロメオ・トロンボンチーノや、マルコ・カーラなどが曲を残している。このラウダは16世紀中継続して出版され、集会や家庭の祈りなどにも使用され、後にフィリッポ・ネーリが1564年に創設する「オラトーリオの集まり」でも多声のラウダが重要な役割を果たしている内に、次第にバロック時代の心持ちがしてくる訳だ。
 こうしたイタリア的な楽曲の単純な効果は、北方低地地帯の作曲家達にも影響を与え、ジョスカン・デ・プレがフロットラの名作「スカラメッラが戦争に行く」や「こおろぎは良い歌い手」を作曲したり、イーザークもフロットラを残しているように、直接的にイタリア世俗多声曲を作曲する一方、その和弦的規則リズム的効果が、北方作曲家のスタイルにも影響を与えたのでは無いかしらとも考えられている。
 マントヴァではその後、イザベラの息子フェデリコ・ゴンザーガの時に画家のジュリオ・ロマーノが活躍し、さらにグリエルモ・ゴンザーガ(マントヴァ公在位1550-87)の時には、グリエルモ君があまりの音楽好きについ我慢できなくなってきて、「私の作品の出来はいかがでしょうか」とパレストリーナに送りつけるという珍事が発生。呆れたパレストリーナやルカ・マレンツィオは、宮廷カペッラの楽長就任をお断りしてしまったが、親愛なるジャヒェス氏こと、ジャヒェス・デ・ウェルト(1535-1596)が楽長に就任し、ガストルディやパッラヴィチーノが活躍する時代を迎えることになる。しかしフロットラが無事離陸を成し遂げたこの当りで、話をイタリア世俗多声歌曲に移して見て行くことにしよう。

2005/11/10

[上層へ] [Topへ]