7-3章 16世紀イタリアのマドリガーレ

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マドリガーレmadrigale

 ペトルッチの出版物もフランドルの作曲家がひしめき合い譜面化されるタイプの音楽は宗教世俗とも外人部隊が活躍するイタリアだったが、一方15世紀フィレンツェデ活躍したイタリア人アントニオ・ディ・グイードは当時随一の演奏家として知られていたし、レオナルド・ダ・ヴィンチはリラ・ダ・ブラッチョの名手として、自ら作製した楽器でミラーノの宮廷でどの音楽家よりもすぐれた演奏をしたと、ヴァザーリが記入している。このような楽器の即興演奏や、楽器伴奏による歌の歌いまくりライブは、最も宮廷を賑わした音楽の一つで、また市民達が知りうる最も有名な巷の歌なども、当然ながらイタリア人達によって行なわれていた。ただし、何らかの楽器を手習い致す市民達が群がっているような、今日ならそうした楽譜を出版することが大いに出版側の利益にもなるが、当時のその手のポピュラー楽曲は譜面を購入して歌う需要が少ないし、あるいは即興的要素に身を任せたものだったので、演奏者の生前には高い名声と認知度を誇った音楽家・演奏家も、己が無くなると同時に、音楽だけは行方知れずになってしまうのが普通だった。しかし、フロットラの説明で見たように、この時期次第にイタリア語の世俗多声曲が、楽譜に残して宮廷で楽しむべき芸術的ジャンルとしてのし上がってきた。そして、丁度それに合わせるように、イタリア人作曲家の活動が少しづつ目立ってくることになる。
 さて、ブームに火を付けたのがどこの誰かは知らないが、何時の間にやらフロットラの地位を乗っ取って、イタリア語世俗多声曲の筆頭に躍り出たのがマドリガーレだ。14世紀にもマドリガーレという重要なジャンルがあったが、これはその時代のマドリガーレとは関係が無く、あるいは誰かが昔流行ったマドリガーレの名称を持ち出して、作曲を行なったら、大流行してしまったのか分からないが、このマドリガーレは丁度これまでフランスのシャンソンが頂いていた芸術的世俗曲の地位を奪い取りながら、とうとう各国に輸出されるジャンルにまで成長していくことになった。初期の例はフロットラの書法に似ていたようだが、ただしどちらかというと模倣や対位法のスタイルの傾向が見られ、フロットラと違い有節歌曲ではなく、歌詞に乗っ取って音楽が次々に進んでいく点が異なっていた。やがて当時注目されていた、宗教曲における言葉と旋律の関係を追究するように、詞と音楽の協和を図る古典古代以来の夢の再燃が、マドリガーレを中心に沸き上がっていくことになる。歌うための旋律が重要なフロットラに対して、マドリガーレにおいては詩と音楽を共に高尚なものにして、技巧性を持ちたいという野心が芽生え、マドリガーレは芸術的な音楽として、宗教曲のモテートゥスに相当するジャンルに成長していくことになったのだ。そんなわけで、詩もフロットラに対して、高尚とされるのもが選択され、フランチェスコ・ペトラルカ(1304-74)、ピエートロ・ベンボ(1470-1547)、ヤーコポ・サンナザーロ(1457-1530)、ルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533)、トルクアート・タッソ(1544-95)、ジョヴァンニ・バッティスタ・グアリーニ(1538-1612)などの詩がよく使用され、その詩の多くは自由な韻と7拍句か11拍句を中心にした余り多くない行数を持つ、単一の詩節から為っていて、主題は感傷的なものか、恋愛に関するものが多いそうだ。

初期のマドリガーレ作曲家

・フィレンツェでは北方人のフィリップ・ヴェルドロ(c1480-1545)、イタリア人のベルナルド・ピサーノ(1490-1548)とフランチェスコ・デ・ラヨッレ(1492-c1540)が、ローマではヴェルドロやピサーノと共にコンスタンツォ・フォスタ(c1490-1545)が活躍。フォスタは当時教皇庁礼拝堂楽団にいた数少ないイタリア人でイタリア人作曲家の活動の初期の例になっているが、全体的にはこの時期のマドリガーレでは、やはり北方人の活躍が非常に目につくことになる。一方ヴェネーツィアでも、アードリアーン・ウィラールトやヤーコプ・アルカーデルト(c1505-c1568)が活躍を開始するが、もちろん2人とも北方野郎だった。教科書によると、すでにヴェルドロやアルカーデルトには、頻繁な模倣や変化する声部の組み合わせ、終止の声部の重なりといったモテット風書法への移行が見られ、技巧的ジャンルへの推移が見て取れるそうで、続けてアルカーデルトの「ああ、かわいい顔はどこに(アイメ・ドーヴェル・ベル・ヴィーゾ)」が紹介されていたが、この曲こそベルナルディーノ・チリッロが新しい音楽として希望を見いだした曲なんだそうだ。

ペトラルカ運動

・ペトラルカの詩を研究するピエートロ・ベンボ枢機卿(1470-1547)に導かれた詩人、読者、音楽家が皆さんご一緒にペトラルカ(1304-1374)のソネットとカンツォーネに飛びつき、その中に見いだされるイタリア詩の理想に活路を見いだす現象がこの時期にあった。ベンボは気が付いてしまったのだ。ペトラルカのカンツォニーレを1501年、ひたむきに編纂している間に気づいてしまったのだ。「ペトラルカの詩が、彼の詩は、何たることか、母音と子音からなるリズムを持った一種の音楽だったとは。」まるで響きを対位法的な旋律線で写し取るように誘っているようではないか、すぐれた宗教詩によるモテートゥス以上の見事さだ。ペトラルカが2つの相反する性質、快さ(ピアチェヴォレッツァ)と重々しさ(グラヴィタ)に着目して、感情の多様性を描き出そうとしていたのに思いをはせたベンボは、1525年に「俗語散文集」を出版し、また直接顔を出すアッカデーミアなどで説明しまくったので、作曲家達はこれに釣られてマドリガーレの音楽と言葉の実験に身を投じることになった。教科書ではアードリアーン・ウィラールトの「むごく残忍な心よ(アスプロ・コーレ・エ・セルヴァッジョ)」がペトラルカの詩を使用してベンボの理論から生まれたようだと解説を加えているので、ぜひ読んでみると良い。

半音階法

・この時代半音進行自体の効果が着目され、これは旋法外への逸脱(ある種の転調的な方法)と共に半音階実践に火を付ける原因となった。さらにニコーラ・ヴィチェンティーノ(1511-76)の「今日の実践に応用される古代の音楽(伊)ランティーカ・ムージカ・リドッタ・アッラ・モデルナ・プラッティカ」(1555)のように、古代の半音階、さらに四分音などが研究されたため、半音階への関心にわかに高まり、ヴィチェンティーノは仕舞いに半音や微分音進行を含んだ音楽の演奏のため、アルチチェンバロとアルチオルガノを自分で設計するにいたった。彼の議論はザルリーノから反論を喰らって、1551年には理論家のルシターノという奴とローマで公開討論を行ない、誰にも慰めの言葉が見つからないほどの大敗北を迎えたそうだが、この時期すでにアードリアーン・ウィラールトなどが半音階的なマドリガーレを作曲しているし、ヴィチェンティーノ自身多くの半音階マドリガーレに手を染めた。世紀前半のマドリガーレの代表選手の一人である、チプリアーノ・デ・ローレ(1516-65)もペトラルカに心酔しながら、半音階技法を取り入れ、詩の表現性を重視した作品を多数残している。

16世紀中頃のマドリガーレ

・この頃マドリガーレはあらゆる種類の貴族の社交的な集まりで歌われるだけでなく、イタリアで盛んだった学問研究討議の組織アッカデーミア([伊]accademia)集会などでも歌われ、1570頃からは君主や後継者達が、技巧的な本職の歌手達を雇うようにさえなっていった。芝居や、劇場の催しで使用する世俗多声曲も今やマドリガーレが順番待ち状態で、猫も杓子も追い掛けるサザエさんまでもマドリガーレを歌う時代が到来した。世紀半ば以降になると声部数も拡大し、5声の曲が一般的になり、6声以上の曲も珍しくなくなったが、どんなに声部が増えてもマドリガーレは基本的に全パートが人の声で歌われるために作られた。つまりモテートゥスの世俗版だと思って貰えば分かり易いが、もちろん世俗曲の自由さもあって楽器による重複や、楽器による代理の演奏が行なわれることもあった。また同じ16世紀の中頃、クローマ記譜法という2/2の代わりに4/4型の記入法で音楽を書き表し、細かい音符による黒い譜面になったので、「彩られた」つまりクローマ的と呼ばれたが、それとは関係なく夜とか、暗いという言葉の音符を黒塗りして遊ぶ「目で見る音楽eye music」もお盛んであった。

その後のマドリガーレ作曲家達

 世紀半ばをすぎても北方系のオルランド・ディ・ラッソ(1532-94)、フィリップ・デ・モンテ(1521-1603)、ジャヒェス・デ・ウェルト(1535-1596)がマドリガーレで重要な役割を果たしていたが、さすがに1560年代から次第にイタリア人達の作曲家の活躍が漲ってくるようになった。そして世紀末になると指導的マドリガーレ作曲家はイタリア人が軒を連ねるようになるが、例えばイタリア人のルーカ・マレンツィオ(1553-1599)は、ローマで活躍した後マントヴァのゴンザーガ家やフィレンツェのメディチ家とも関係を持ちながら、宗教曲と共に大量のマドリガーレを出版し、そこには特定音型を特定の言葉を表わすために使用するマドリガリズムの技法も見て取れるそうだ。さらにフェラーラではエステ家の宮廷音楽家として活動を行なうルッツァスコ・ルッツァスキ(c1545-1607)が活躍、大聖堂のオルガン奏者も行いやはり宗教曲と世俗曲に手を染めている。

世紀後半のマドリガーレの特徴

 すでに世界中が出版楽譜を待っているほど成長したマドリガーレは、この頃牧歌風の詩がますます好まれるようになった。イタリアの宮廷では「室内コンチェルト」という選りすぐりの歌手達による重唱団の結成が行なわれ、中でも1580年にフェルラーラのアルフォンソ・デステによって設立されたコンチェルト・デッレ・ドンネconcerto delle donne(女性の楽団)はあまねく賞賛を勝ち得た、マドリガーレ歌唱隊となったが、この女性歌手達は専門の男性歌手と共に宮廷音楽をリードし始めたので、「女性が歌いまくる専門歌手軍団」の遣り口に驚いたマントヴァのゴンザーガ家やフィレンツェのメディチ家が慌てふためいて真似をしたので、相互にライバル関係を結んでいる内に、大いに活気づいた。ウェルトとモンテヴェルディはマントヴァを念頭に作曲し、ルッツァスキとジェズアルドはフェルラーラ重唱団を念頭に置いて作曲するなど、作曲家もまたそのライバル関係の一員として活躍したわけだ。世紀末頃には、次に上げるジェズアルド、モンテヴェルディの他にも、ジョヴァンニ・ガブリエーリ(c1553-1612)やジローラモ・フレスコバルディ(c1583-1643)などがマドリガーレ州を出版し、さらに1592年にヴェネツィアのガルダーノ社から出版された「ドリの勝利」というマドリガーレ集は、ドリという女性を「ドリたらすごく素敵だぜ」と数多くの作曲家が讃えまくるという作品集になっていて、1601年にイングランドでベスをオリアーナに見立てて、皆で「オリアーナって美しい!」と叫ぶマドリガル集「オリアーナの勝利」を作製する原動力となった。そしてモンテヴェルディのマドリガーレ集を追っていけば分かるように、1600年をすぎると、このマドリガーレはモノディースタイルを取り込んで、バロックの開始を告げるジャンルとして最後にひと花咲かせるルネサンスジャンルとなった。

カルロ・ジェズアルド(c1561-1613)

 フランス軍が追い出され、スペインが直接総督を置いて支配する属州としてのナポリに生まれたジェズアルドは、ジェズアルド町の名門ジェズアルド家の次男坊としてお目見えば、お父様の宮廷に出入りする同時代のナポリの主要音楽家達に囲まれている内に、リュート演奏や歌だけでは我慢できなくなって、ついポンポニオ・ネンナ(c1550/55-1613以前)辺りから作曲を習いつつ、出入りするジョヴァンニ・デ・マックやジョヴァネ・ダ・ノーラなどから影響を受けて成長した。
 ところが跡継ぎの長男が亡くなったので、己がジェズアルド当主となってしまい、政略結婚としていとこの名門貴族の娘マリア・ダヴァロスを妻とすれば、根暗の夫に絶えかねた20歳のやんちゃ盛りのマリアは、さっそくナポリ名門の貴族ファブリッツィオ・カラッファと愛人関係を結んで、組んずほぐれつしていたら、その現場に夫が部下を連れて忍び込んで、さくさくと2人を殺害してしまったので、イタリア中でゴシップが沸き起こった。町を歩いていれば、遠くの集まりから「寝取られて」「自分で手を下せないで」「生まれた、子供まで」「まさか、殺害したのですか」「本当ですよ」など非難とも嘲笑とも区別のつかない話し声が聞え、カラッファ家は復讐に情熱を燃やすので、居たたまれなくなったジェズアルドは、自分の家系の発祥のジェズアルド城にすたこら籠もって、ジョゼッペ・ピロニイという偽の名前でこっそり作曲家の真似をして自分の作品を出版してみたりしていたのだ。
 見かねた叔父に勧められフェラーラ公国のアルフォンソ2世(フェラーラ公在位1559-1597)のいとこであるエレオノーラ・デステと結婚したこのヴェノーサ公ジェズアルドは、結婚式に出かける途中ローマでカヴァリエーリなどと挨拶をしながらフェラーラに到着し、敬愛するルッツァスコ・スッツァスキ(c1545-1607)とお知り合いた。彼は当地の宮廷音楽家として活躍して、後年のジェズアルドが呪わしく追求した半音階を多用したマドリガーレなどを多数作曲していたのである。しかもこのルッツァスキは、驚くべき事にヴィチェンティーノのアルチチェンバロや4分音オルガンでの即興演奏をこなすほどの音楽才能を持っていたから、1580年からフェラーラで誕生していたコンチェルト・デッレ・ドンネもルッツァスキが指導を任されていた。そんな音楽都市に解放されたかジェズアルドも調子に乗って、到着した1594年のうちに自分の名前でマドリガーレ集を2つばかり出版してやった。その歌詞の作者には叙事詩「解放されたイェルサレム」でお馴染みのトルクァート・タッソ(1544-1595)と、パストラーレ「忠実な羊飼い」で知られるジョヴァンニ・バッティスタ・グァリーニ(1538-1612)のものが多く含まれているが、この2人は共にフェラーラと関係を持っていて、特に丁度宮廷詩人の立場にあったタッソとお友達になってしまったジェズアルドは、後々文通など致して、ほほえましい関係を続けることになる。その後は、恐らく妻に嫌われながら、ヴェネツィアの音楽に触れたり、フィレンツェデのモノディーの実験を眺めつつ、何度もマドリガーレ集を出版、後にはモテートゥス集なども出版していくが、次第に目の前に自分の殺した無実の娘の影がちらつき、「お父っつぁんはどうして私を捨てたんでありんすか」と泣き濡れるのに怯えて、鬱状態が自らの健康さえも蝕んでいった。1511年には、そんな暗雲たる鬱(うつ)の魂をぶち込んだ魂の名作?「5声のマドリガーレ集5巻」「5声のマドリガーレ集6巻」に「聖週間レスポンソリウム集」が出版され、6巻の中に収められた有名な「私は死んでしまう」の楽曲には、嫌気のさした妻が「勝手に死んでしまえ」と心の中で呟いたかも知れないが、実際1613年にはぽっくりさんになってしまった。

クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)

 ミラーノ公国の属領としてテラコッタ産業だけでなく当時(今日でも)楽器製造でよく知られたクレモーナ。この都市で、外科医職人のバルダッサーレ・モンテヴェルディがマッダレーナ・ツィニャーニを妻にお貰いて夜中にどたばたと励んでいる内に、長女が生まれ、続いて1567年にクラウディオがこの世に飛びん出て、さらにそのうち弟のジューリオ・チェーザレも誕生する。教会の洗礼者名簿(5月15日)にクラウディオ・ズアン・アントーニオ・モドゥヴェルドと記入されるるが、自分の手紙では何時もモンテヴェルディ(monteverdi)と記入しているから、まあクラウディオ・モンテヴェルディという事で音楽史上は統一が取れているそうだ。恐らく大聖堂の少年聖歌隊で歌いまくりの音楽生活で成長し、当地にあった大学で学び、人文主義に触れつつ、すでに15歳の時に処女作を出版し、3声体書法の中にも歌唱旋律のシラブル型の使用方法で、絡み合う対位旋律のネーデルラント型に反旗を翻している姿が見て取れるという。そして合計4つも10代に出版したこの才人は、20歳にして「5声のマドリガーレ集第1巻」を出版して習作時代に別れを告げ、90年には第2巻を出版し、ミラーノ大聖堂の職などを狙ったりしていたが、結局この年マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世(公在位1587-1612)の宮廷にヴィオール奏者として就任することになった。
 パレストリーナに己の作品の出来を尋ねた事もある音楽素養豊か君(くん)のグリエルモ・ゴンザーガ(公在位1550-87)がお亡くなりた後を継いだヴィンチェンツォ1世の宮廷では、引き続き楽長にジャヒェス・デ・ウェルトが君臨し、さらに彼は宮廷お抱えのサンタ・バルバラ聖堂の礼拝堂聖歌隊長も勤め、聖堂ではジョヴァンニ・ジャーコモ・ガストルディが仕事を補佐ていた。こうしてマドリガーレの巨匠ウェルトや、「ファララ」のバッレットでお馴染みのガストルディと知り合ったモンテヴェルディだったが、さらにマントヴァの宗教の中心であるサン・ピエトロ大聖堂には、モンテヴェルディ到着の後にロドヴィーコ・グロッシ・ダ・ヴィアダーナが就任し、モノディー様式の「百の教会コンチェルト集」(1602)を出版するなど、マントヴァの音楽生活は活気に満ちていた。後に台本を書いて貰うことになるアレッサンドロ・ストリッジョと、同名の父親も活躍し、調子の出てきたモンテヴェルディは、まあ高齢のウェルトに対しては「親愛なるジャッヒェス氏」とお慕いしながら、ヴィオール奏者の役を熟しつつ、1592年には「マドリガーレ集第3巻」を出版し、これをマントヴァ公に恭しく献呈して見せた。そのお陰か宮廷において歌手の地位に昇進し、神聖ローマ皇帝の呼びかけでマントヴァ公が対オスマン・トルコ戦に出かけたときには、音楽移動部隊の楽長の役さえ果たすまでになったが、96年お亡くなりたジャヒェス氏の後任に若造の天才ことわたくしモンテヴェルディが選ばれず、無駄に年配の作曲家に楽長職を与えたのに対してすね始めのか、さらに輝ける音楽都市フェラーラに職替えをしようかと目論んでいたらしい。結局フェラーラの音楽保護者であったアルフォンソ・デステもお亡くなったので、この計画は水に流れて、マントヴァに残ったお陰で同僚の娘さんクラウディア・カッタネーオと結婚した。その1599年の都市には、マントヴァ公に従ってスパの温泉保養に同行し、さらにブリュッセルに滞在し、北方旅行でフランスの新しい歌曲ジャンルであるエール・ド・クールと、その作曲家達に触れることが出来、自分のマドリガーレスタイル変遷の糧としたが、イタリアの音楽界はこの時期急速に新たな方向に向かって舵を取り始めていた。
 記念すべき1600年、音楽史上の重大イベントであるフィレンツェでのオペラ「エウリディーチェ」上演が行なわれ、これにマントヴァの歌手フランチェスコ・ラージも出演、もちろんマントヴァ公は正式にピッティ宮にお呼ばれし、もしかしたら証拠はないものの我らがモンテヴェルディも上演に立ち会ったのかもしれない。そして、この同じ年、ザルリーノに師事した事もあるボローニャで司祭を行なう音楽理論家兼作曲家のジョヴァンニ・マリーア・アルトゥージ(c1540-1613)が、モンテヴェルディのマドリガーレを名指しは避けたものの大いに批判して、「アルトゥージ、あるいは今日の音楽の不完全さについて」という批判書を出し、「行きすぎた不協和音や自由すぎる声部書法のなんと心地悪いことでありましょうや、ほほほ。」とお笑いなさって、以来17世紀の30年頃まで批判書を巡って音楽理論家などが陣営を張って論争を繰り返す事態になった。モンテヴェルディは後にマドリガーレ集に返書を加えて出版し、「私はつまり以前の「第1作法」に対して、「第2作法」で作曲したのだが、君はそれに着いて来れなかったのですか、今度詳しく説明して上げますが、この17世紀初頭に生きるには、あなた様はあまりにもお優しすぎるようにございますな。」と認(したた)めたのだが、詳しく説明するまでもなく急激に変化した作曲技法の変遷を見ただけで、事の勝敗があまりにも明白なので、アルトゥージは後に残酷な音楽学者から「お優しすぎた」とため息交じりで嘲笑される切ない後世を辿ることになる。
 さて1601年に働き盛りの宮廷楽長が(毒を盛られたわけではないが)急に大仏転げて、さっそくモンテヴェルディは日頃の鬱憤をマントヴァ公に書き送り「私に宮廷楽長を今すぐ下さい」と明言すれば、さすがにヴィンチェンツォ1世もこくりと首を縦に振り、「その代わり一発殴らせろ」と娘を取られた父親のように言い返したかどうだか、モンテヴェルディは楽長の地位と、マントヴァ市民権を獲得し、大いに嬉しくなって1603年には「5声のマドリガーレ集第4巻」を出版した。しかし、マントヴァの財政が壊滅状態に近づいたこともあって、次第に賃金支払いが滞り、また過重な仕事内容から体を壊した我らがモンテヴェルディは、クレモーナの実家で療養気味のまま1605年に「マドリガーレ集第5巻」を出版したが、このマドリガーレは当時彼が今まで経験したことの無かった大成功を収め、また今日では彼が新しい舵を取った作品として重要視されている。つまりここには「クラヴィチェンバロ、キタローネ、または他の同種楽器による通奏低音つきで」の記入があり、モンテヴェルディが通奏低音の作品に乗り出した船出の作品になっているわけだ。彼の最初の器楽曲も収められたこの5巻には、序文に先ほど述べたアルトゥージへの返報が乗せられ、私はいずれ「第2の作法、あるいは今日の音楽の完全性について」を出版して見せますと、ユーモアと皮肉たっぷりに切り返したので、これを見たアルトゥージの脳みそは活火山状態に陥ったのかも知れない。  こうして名声上り詰めたモンテヴェルディの元に、フィレンツェで誕生したオペラ上演をマントヴァで行なうべと、マントヴァ公の息子達が大いに働きかけ、遂に1607年、オペラの事実上の離陸を成し遂げた傑作「オルフェーオ」が上演された。余りの出来映えにフィレンツェなどでも上演され、総譜が2回も出版され直すほどだったが、悲しいかなその年妻のクラウディアは毒蛇に噛まれた訳でもないのにお亡くなりて、彼女を呼び戻すべく、三途の川の渡し守カロンの所に、交渉に出かけたモンテヴェルディだったが、オルフェオのようには旨く行かず、さあさあ帰った帰ったとお断りされ、おまけに散歩中のケルベロスに追い掛けられて逃げ帰り、しばらくは2人の息子をどないすんべと心神喪失に陥ってしまったのだ。しかしマントヴァの仕事が待っている彼は困ったときのクレモーナのお父さんの所からお戻りて、1608年の公の息子の結婚式用に2つのオペラに祝祭音楽を背負わされ、大変な仕事が背中にのし掛ってきた。そして1608年の謝肉祭にはリヌッチーニ台本、マルコ・ダ・ガリアーノ作曲によるオペラ「ダフネ」が上演され、直後にリヌッチーニ台本、モンテヴェルディ作曲によるオペラ「アリアンナ」が上演、続いてグアリーニ台本のオペラ「水腫の女」(すいしゅ=浮腫、「ふしゅ」とは皮下組織や臓器組織間に水分が多量に溜まったもの)と、「情け知らずの女達のバッロ」がモンテヴェルディ作曲によって上演され、驚異的仕事を熟したのにも関わらず、「はいはい、ご苦労ご苦労」とマントヴァ公が渋々賛辞を送る程度だったので、身も心もズタボロになったモドゥベルド氏は、またしても困ったときのお父様のクレモーナに泣きながら逃れていった。あんまり腹が立ったので財務官に向けて「もはや暇をよこすように取りはからってくれろ。それ以外に幸福などありましょうや。」と手紙をしたためたので、さすがにマントヴァ公が給料増給と年金支給を約束した。しかし、さすがは財政転げのマントヴァ公、この年金はただの一度も払わずに済ませたから大した者だ。いち早くガストルディがミラーノに去ると、モンテヴェルディは礼拝堂音楽の仕事なども幾分増えて、宗教曲を多数残すシーズンが訪れたが、ゴンベールのモテートゥスのパロディミサであるミサ曲「その時に」と「聖母マリアの夕べの祈り」という大規模な作品が立て続けに作曲され、これらはローマに出かけて教皇様に献呈する目論みも兼ねていた。残念ながら教皇謁見は叶わず、出版もヴェネツィアで行なうことになったが、この時期に彼がヴェネツィアを訪れた可能性もあるそうだ。しかし職探しが旨く行かないままマントヴァで作曲を続けていたら、ヴィンチェンツォ1世がついにお亡くなりて、1612年にフランチェスコが後を継ぎ、お父上の取り巻きの掃討を開始、ついうっかり我らがモンテヴェルディ氏も掃討されて、髪の毛が一夜にして白髪するかしらと気を揉むほどの放心状態に陥った彼は、泣きながらお父上の元にお帰りたが、しまったと思ったフランチェスコは天然痘に掛ってこの世を去ったので、弟フェルディナンドがマントヴァ公となった。そんなこんなでどたばたしている間に、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長もこの世を去ったので、立ち所にモンテヴェルディはその後継者として、その年の内にヴェネツィアに旅立ってしまったのだ。フェルディナンドが「しもうた!」と叫んだのは言うまでもない。そんなマントヴァ公が差し向けた罠でも無かろうが、モンテヴェルディ氏見事にヴェネツィアに向かう途中に山賊に襲われて、命は奪わず拳銃を振り回しながら、十分吟味して荷物を奪って去っていく心優しい追い剥ぎにまたしても脳みそが真っ白になりかけたが、何とかその後も旅を続け、ヴェネツィアで楽長に就任したのだった。  その様子を事細かに手紙に記す几帳面さと、組織をまとめるハイドンみた様な企業人的才能によって、さっそくサン・マルコ大聖堂の礼拝堂歌手達を取りまとめた彼は、バロック的通奏低音ではなくもっとしっかりした対位法的作品を演奏しなくっては駄目だ、とア・カッペラの楽器無しによるミサとモテートゥスの伝統を育成させつつ、自ら数多くの宗教曲を作曲していったが、これらの作品は1640年の「倫理的・宗教的な森」に収められることになった。そして就任すると彼はオペラ「アリアンナ」の曲を編曲したマドリガーレなどマントヴァ時代末期の作品集をまとめた「5声のマドリガーレ集第6巻」(1614)を出版し、マントヴァからはこの台本でオペラを書けと脅迫状が送られてきたが、その時の台本を巡る手紙の応酬がモンテヴェルディの音楽観の重要な資料となっているそうである。そして自らを常に支えてくれた偉大な父が1617年にクレモーナから天上に帰ってしまったので、恐らく故郷でお線香の一つも上げて来たのかも知れない。1619年になるとマドリガーレ集も7巻目が出版され、これはマントヴァ公妃に献呈されたが、今だ劇風の音楽の演奏を行なう場所は、モンテヴェルディにとってマントヴァぐらいしか存在しなかったのだった。マントヴァとの交渉はもっぱら文通友達のアレッサンドロ・ストリッジョ(息子)を通して行なわれ、次第にメディチ家出身の公妃カテリーナも良好なパトロンであることも分かってきたので、息子の医学勉強の進路の世話を見て貰ったりと、なかなかマントヴァとの関係も切れないものがあり、やはりマントヴァの宮廷書記のマリリアーニとは互いに医学・錬金術・科学の世界に興味を示す手紙仲間として、「錬金術書簡」を遣り取りしているが、これはモーツァルトの何とか書簡よりも遙かにレヴェルの高い内容になっている。
 その後健康は良好とは言えないものの、大聖堂の仕事と、さらにその半分の賃金が入る副業など合わせて行ないつつヴェネツィアで活躍していたモンテヴェルディだが、息子の一人はサン・マルコ大聖堂の礼拝堂歌手として、もう一人はマントヴァで医者となり、肩の荷物も降りたようだ。作曲の方は「興奮様式」と呼ばれる荒技を編み出した「タンクレーディとクロリンダの戦い」を1624年のヴェネツィア謝肉祭シーズンに上演したり、25年にはボローニャの「アッカデーミア・ディ・フィロムージ」で名誉会員となったり、喜劇オペラ「偽りの狂女リコーリ」をマントヴァのために作曲したりしていたが、このオペラは上演されることなく今日行方知れずとなってしまった。28年にはハインリヒ・シュッツがウェネツィアを訪れ、モンテヴェルディと対面したようだし、パルマからも仕事の依頼が来たりとしている間に、マントヴァの方は後継者争いが勃発して1630年には神聖ローマ皇帝軍が雪崩れ込んで宮殿は崩壊し、モンテヴェルディの大量の楽譜はこの時行方知れずになってしまったらしい。
 1638年に遂にマドリガーレ集の8巻が出版、理論書出版を目論んだモンテヴェルディ氏の計画の一部が序文に乗っているこの8巻は、「戦いと愛のマドリガーレ」と銘打たれ、かつて作曲した「情け知らずの女達のバッロ」や「タンクレーディ何たら」なども収められた、モンテヴェルディのマドリガーレ選集として傑作揃いの作品集に仕上がっている。彼は40年に「倫理的・宗教的な森」で宗教ジャンルの傑作集を出版すると、どうも驚く、1637年に開演したサン・カッシアーノ劇場に続くヴェネツィア公開オペラのために1641年に「ウリッセ(オデュッセウス)の帰還」と「エネーアとラヴィーニアの婚礼」が作曲上演され、42年にはバロックオペラの中でも一際際だつ名作「ポッペーア(ぱっぽ・・・じゃなかったポッパエア)の戴冠」が完成上演された。さらに「愛の勝利」というバッレットまで作曲して脅威の作曲翁(おきな)として名声がヴェネツィア中に高まったが、さすがに高齢を押してクレモーナとマントヴァに出かけ、疲れ果てたか、76歳にして1743年の11/29に天上に帰っていった。ご苦労様なり。葬儀の指揮は、彼の後任となるジョヴァンニ・ロヴェッタだったそうだ。 
 こうして、マドリガーレを通じてポリフォニ的重唱曲から、楽器伴奏の独唱や2重唱楽曲へ大変身を遂げたモンテヴェルディだったが、最後に教科書から、5巻の「つれないアマリッリよ(クルーダ・アマリッリ)」を挙げて締め括ることにしよう。この曲は、ジョバンニ・バッティスタ・グアリーニ(1538-1612)の牧歌劇「忠実な羊飼い(イル・パストール・フィード)」(1590刊)のせりふに曲を付けたもので、音楽的動機が後の叙唱のように朗誦的で、しばしば、諸声部対等から離れ、和声を支える低音上の2重唱になり、修飾的不協和音や修飾音が丁寧に書き込まれたが掲載され、例のジョヴァンニ・マリーア・アルトゥージ(c1540-1613)が「アルトゥージ、別名、今日の音楽の不完全性について」で型破りな対位法の扱いを批判して、モンテヴェルディからお返しを喰らった楽曲である。

ワンポイントJ缶

 やあ、ご無沙汰してるね。ワンポイントのジョスカンさ。今日はもちろんアルトゥージではなくモンテヴェルディのワンポイントさ。
「以後ろくな(1567)時代じゃないけれど、いいさ(13年)本でも読み(43年)ながら。」
もちろん13年はモンテヴェルディがヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂で楽長に就任した年さ。それじゃ、また。

その他のイタリアの世俗的な声楽種目

 もっと軽い気分の様々な世俗多声曲ももちろん、発展していった。一般的に軽快なリズムのホモフォニー的書法による有節歌曲で、おおよそ1音符1発音で進行する様な多声曲で、中でもカンツォーン・ヴィッラネスカ(農民の歌)、またはヴィッラネッラなどがよく知られている。これは1540代に現われ主にナポリ地方で栄えた歌で、教科書によるとホモフォニ的3声の有節的で活発な小品で、作曲家達はしばしば故意に平行5度を使用したそうだ。16世紀末になると、カンツォネッタ(小さい歌)とバッレット(舞踏)と言う曲種が重要になってくるそうだが、バッレットというのはもっぱら代表選手のジャーコモ・ガストルディ(1622没)の名前と結びついた楽曲で、やはりホモフォニ的で活気をおびた小品で、「ファ・ラ・ラ」というような反復句が定型的に使用される特徴があった。あんまり人気が高いので、イングランドのマドリガルなどにも影響を与えたほどだ。

2005/11/15

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