7-4章 16世紀のフランス

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ルイ12世(在位1498-1515)

 若き日にはオルレアン公の息子としてシャルル8世に反旗を翻し投獄されたこともあるルイ12世(在位1498-1515)は、後にイタリア遠征に加わり信頼を回復しつつ、シャルル8世が後継者無しで亡くなると、フランス国王となった。さっそくブルターニュ継承のために妻との結婚を無効にして、シャルル8世のお嫁さんだった王妃アンヌ・ド・ブルターニュを妻として、1500年には撤退したミラノ、そしてナポリまで進軍するが、結局教皇の呼びかけた神聖同盟によって追い出されてしまった。妻のアンヌが亡くなると、さっそくイングランドに使いを送りヘンリー7世の娘メアリー・チューダーと結婚したが、すぐ亡くなってしまったので、ヴァロア家の血を引くフランス西方に位置するアングレーム伯のシャルルの子であるフランソワ1世(在位1515-1547)跡を継いだ。

ルイ12世時代の宮廷音楽

 1501年から3年にかけては我らがジョスカンもルイ12世の宮廷に仕え、グラレアーヌスが「ドデカコルドン」に記すところ、モテートゥス「貴方の僕(しもべ)に対してだけは言葉を思い起こして下さいな」を書いて、ルイ12世に口先だけの聖職録斡旋(あっせん)を催促したりしていたが、さらにシャンソン「さようなら、私の愛する者達」すらルイ12世に俸給の支払いを早くしやがれと、催促した曲だと言うから驚きだ。教科書でも讃えられている傑作モテートゥス「深い淵から私はあなたに呼びかけました(ラ)デ・プロフンディス・クラマーヴィ・アド・テ」も恐らくルイ12世の宮廷での葬儀の際に使用されたのでは無いかと言われている。またジョスカンは、国王のためにファンファーレ合奏曲「国王に歓呼を(王様万々歳)」を作曲し、これがファンファーレとしては珍しく、後世に楽譜が残されることになったが、この種の音楽は、すでに王室の組織に組み込まれていた軍楽隊エキュリなどによって国王周辺を彩っていたし、この時期には、シャルル8世に始まるイタリア遠征の影響もあり、定型使用するブルゴーニュ風シャンソンから、歌詞に沿った自由形式のシャンソンへの変化が起こっていたので、特にジョスカンはフロットラのような和弦的にして単純化された美しさを求める場合以外は、シャンソンを通模倣様式でモテートゥス並に作曲したり、ロワール川沿いのブロワの国王出張宮廷で活躍していたが、恐らく捕われていたミラーノ公弟アスカニオ・スフォルツァに付き従うようにフランス入りを果たしたらしく、彼が釈放された1503年にはジョスカンもイタリアに帰っていった。
 しかし彼がイタリアに帰る前、1502年にはルイ12世のロワール沿いを中心にして歩き回る宮廷に、モテートゥスの作曲においては、ジョスカンの好敵手(ライバル)とも言われるジャン・ムトン(c1459?-1522)が加わった。ムトンは、1477年からネスレにあるノートルダム大聖堂の聖歌隊員、さらに楽長と出世し、アミアン大聖堂に移った後、ルイ12世の宮廷で「国王シャペル」の一因として活躍、次のフランソワ1世にも仕えることになった男で、後にヴェネツィア楽派を離陸させた男、アードリアーン・ウィラールトのお師匠様である。あるいは同時期にムトンとジョスカンがワインを交したり、ライバルとして凌ぎを削ったりしたかどうか、今となっては分からないが、いよいよムトンの仕える国王シャペルは、次の国王、笑顔の素敵なフランソワ1世を向かえることになる。

フランソワ1世(在位1515-1547)

 すでにルイ12世と妻アンヌの娘であるクロードと結婚していたフランソワ1世はやがてブルターニュ公として1532年にブルターニュ公国をフランスに併合することに成功。元来イングランドよりのブルターニュもここに至って完全にフランス領土となった。ルイ12世が撤退したイタリアにまたしても軍を進めると、1515年にミラーノ公国からスフォルツァ家を追放、ルネサンス文化に憧れ高いフランソワ1世は、この地にレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)が落ちているのを知ると、拾ってフランスに持ち帰ることにした。1516年には教皇との間に「ボローニャ宗教協約」を結び、フランス国内の教会をさらにフランス国王に従属させ、ガッリカニズムを確立させ、逆にイングランドのように劇的な国教会樹立を行なわなくても、その精神は同様だった。1519年のマクシミリアン1世の死去に伴う神聖ローマ帝国皇帝の選任に置いては、後継者の一人として大いに画策するが、アウグスブルクのフッガー家と結びつき莫大な資金で選任を勝ち取ったマクシミリアンの孫スペイン王カルロス1世がカール5世(在位1519-1556)として就任。これによってフランスは、スペインとハプスブルクの挟み撃ちに脅威を感じつつ、ジョスカンの亡くなった1521年からイタリア覇権を巡り、カール5世と熾烈な争いを演じることになった。ところがフランソワ1世、前線で指揮を執っていた勇猛果敢な態度が裏目に出たか、25年のパヴィアの戦いで見事にカール5世に捕らえられ、「3代目囚われ人」と相成り、泣きながら歌を歌っては月に吠えていた。しかし笑顔の素敵なフランソワ1世の事だから、さっそく条約を結んで釈放され、国に戻るやいなや条約無効を宣言し、教皇のお墨付きを貰って、「ホホホホ、出たもの勝ちでござる」と高らかに微笑めば、「何たる卑怯か」と怒り来るカール5世に対しては、教皇派と同盟を結び、ドイツで沸き起こっていた宗教改革の旗手プロテスタント諸侯を支援したり、挙げ句の果てにオスマントルコのスレイマン1世(在位1520-1566)とも握手して、1529年にはすでにハンガリーを占領していたオスマン・トルコ帝国軍がヴィーンを包囲して、滅びの呪文を唱えながら城壁を歩き回るという事態をもたらしたのだ。つまりフランソワ1世は自らの置かれたスペインとハプスブルクの挟みうちに対して、フランス、イタリア、オスマン・トルコの包囲で対抗したと云える。幸い補給線が伸びきった上に、恐ろしく寒い冬の到来でトルコ軍は撤退を余儀なくされたが、その後も驚く1700年近くまで、ハプスブルクはハンガリー方面を回復することが出来ないばかりか、1538年のプレヴェザの海戦ではカール5世がオスマン帝国海軍に返す言葉もない大敗北を喫し、1683年には第2次ヴィーン包囲に見舞われているぐらいだから、フランスとしては囚われ人の汚名以外は、挟み撃ちの危機を乗り切ることが出来た。
 また、フランス国内でもルフェーヴル・デタープルなどの人文主義者達が16世紀初めから聖書研究を行い、1522年には新約聖書のフランス語訳を出版するなどしつつ、カトリック教会の改革的な精神を持つ「モーの神学者達」がパリ東北のモーに集まったりしていたが、特にルターが1517年に大騒ぎしていらい、彼の著作物のフランス語訳が流入し、次第にプロテスタント勢力が国内に広がり始めた。これに対しては、すでにヘンリー8世が英国国教会を立ち上げた1534年に、パリなどでカトリックのミサや教皇、教会を非難した檄文(プラカード)がばらまかれたのをきっかけに、弾圧を強化していったが、この檄文は事もあろうに笑顔の素敵なフランソワ1世の寝室の扉にもプラプラと張り付いていて、その笑顔さえも凍り付いたという伝説が残されている。これにお怒りた国王の新教弾圧によってカルヴァンがスイスに逃れたのだが、彼がジュネーブでの改革長老教会による政治を成功させた40年代になると、改革長老教会系のプロテスタント勢力は、弾圧をものともせずに急激に拡大していくことになる。これらのプロテスタト勢力はフランスでは「ユグノー」と呼ばれ、16世紀後半にはユグノー戦争が巻き起こることになった。折角だから、脱線してフランス人であったカルヴィンの宗教改革周辺をここで見てみることにしよう。

カルヴィン方面の宗教改革

 フスやウィクリフの批判から人文主義的聖書研究やら、一方ではカトリックの内部批判の高まりや、狂信的なサヴォナローラがニョキン出てきたり、宗教改革的機運が高まる中に、ルターが登場して新教が誕生し、スイスでもツヴィングリの改革を経てカルヴァンが長老派教会の改革を強力に推し進める宗教改革の時代が幕を開ける。これまでも10世紀以前から何度も刷新の機運が高まったり下がったり繰り返していたが、今回大きく異なる点は、普遍であるはずのカトリックが分裂し、教皇を中心とした統一西ヨーロッパ教会が無くなって、北と南のカトリックとプロテスタント勢力が分離してしまった点にある。これには、イタリア世俗君主同様の教皇なんかになんで俺たちの宗教のことを左右されなくちゃなんねえんだ」という北方住人の素朴な嫌悪感が一枚噛んでいたかもしれない。

フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)

 ギリシア語ヘブライ語も読める人文主義者として大学教育を受け、司祭となり、1518年にチューリヒ司教座聖堂の説教師となったツヴィングリは前年に沸き起こったマルティン・ルターの17カ条の騒動を横目に眺めつつ、デジデリウス・エラスムス(1467-1536)の聖書解釈やギリシア語訳聖書などの影響から、聖書研究に没頭、次第にキリスト教に関することはすべて聖書を元に再構築しなければ為らないと、ルター的な考え方に到達し、カトリックからの離脱を試みた。そんなツヴィングリ、ルターの改革については、「いやあ、偶然ですねえ。私、ルターのことちっとも知りませんでしたよ。」とすっとぼけて居たが、後の学者の大半は、「見栄っ張りめ」と注釈を付けている。
 この改革の恐ろしいところは、理念だけの改革論ではなく、すでにチューリヒで信任を得ていたツヴィングリが、市参事会に働きかけ参事会と共に社会改革、政治改革を推し進めたことだった。もちろんカトリック派との争いがあったが、遂に改革の方向を決定したツヴィングリは、チューリヒで、教皇否定、聖職者の階位制否定、教会のイコン(宗教的絵画と彫刻など)をぶち壊し、オルガンを使った多声の華やか宗教音楽を廃し、さらにオルガンを「おりゃ」とたたき壊し、旧約聖書の音楽の記述も何のその、音楽自体を典礼から追い出したために、後でエンジェル・オブ・ミュージックが仮面を付けたまま追い掛けてきて、彼を亡ぼすことは目に見えていた。修道院も神はそんなものを必要とされた記述がないと廃止。でもすでに同棲状態にあった自分を省みてか、結婚禁止なんて誰もいっていないと開き直り、司祭独身制は廃止され、司祭悉く拍手喝采を持って迎え入れた。(という史実はないが。)そして満を持して1525年にミサを廃して、「主の晩餐」に取って変えたのだった。
 次第に音楽の祟りに取り付かれたツヴィングリは、チューリヒの成功を各都市の緩やかな連合体であるスイス全土に広め、同時に中央集権的スイス独立を持って良しと為そうとし、やがてスイスはカトリック勢力と改革勢力に分かれ、おまけにルター派と手を結ぼうとする案も、2人の一途な宗教改革者であるルターとツヴィングリの思想が一致せず破談に終わり、気にせずツヴィングリカトリック諸州を経済封鎖などしていると、とうとう1531年、音楽の天使に導かれたカトリック軍が奇襲でチューリッヒ軍を討ち果たし、ツヴィングリは剣でぐりぐりされて死んでしまった(第2次カッペル戦争)。その後チューリヒの改革指導者はハインリヒ・ブリンガーが跡を継ぎ、カルヴィンの登場を待つことになった。

ジャン・カルヴァン(カルヴィン)(1509-1564)

 重要な音楽家を生みだし、ネーデルラントの画家達を生み出した北方低地地帯は、重要な人文主義者や宗教改革者も生み出した人材の豊庫だった。デジデリウス・エラスムスも低地出身だし、このカルヴァンもまたピカルディー地方に誕生したのだ。パリ大学に神学を学び、その後オルレアン大学で法律を学んでいる間にすっかり人文主義の心持ちがしてきた彼だったが、1533年に不意に光を浴びて新教に目ざめてしまい、翌年フランソワ1世の背中に檄文が張られて(ではない)、「カトリックも国王ものほほん顔」と落書きされた時には、(だから、嘘を書くな)、お怒りた国王の新教弾圧を逃れて、バーゼルへ逃れ、わずか25歳にして「キリスト教綱要(こうよう、大元になる大切なところ)」を執筆、この著作は最終的に1559年の第5版で完成することになった。聖書の神学解釈を記したこの出版物は、改革長老教会の神学的基礎が記され、後にカルヴァン派と呼ばれる各国のプロテスタントに大きな影響を与えることになったのだ。
 その後うっかりジュネーブを通ったときに、かつて「モーの神学者達」の一員であり、ベルンでの宗教改革を経てジュネーブで格闘中のファレルという改革主義者が、「この地で改革に協力しないと神から祟りが下りたもう。」とカルヴァンを脅すので、1536年いよいよジュネーブの改革を開始するが、見事に追放されて、ふたたび改革派が優勢となった市参事会によって1541年に呼び戻され、長らく反対派や自由主義思想の一派と格闘しながら、ジュネーブでの改革を遂行していくことになった。彼はここで教会所属市民による代表と教会牧師(カトリックの司教)などからなる長老会によって教会と市民生活の統治監督を目指す長老制を組織し、次第に市参事会勢力の力を弱めながら、まるで教会政治都市ジュネーブのように仕立てていった。彼の厳格な倫理観に基づく教会運営に基づいて、洗礼式で笑い声を上げたら3日間拘留されたり、ヴァイオリンを弾いて踊らせたら追放されたり、大変なモラルが要求されたが、一方でジュネーブに新教との学ぶ大学を設立し、カルヴァンによって離陸した改革長老教会(自ら改革派教会、長老派教会と呼ぶプロテスタントの一派)の若手達が、各国から訪れてここに学び、各地に散っていくことになった。さらにカルヴァンの神学の中心は、「福音主義」であり、また偉大すぎる神への信仰をモットーに人間の救済のためではなく神に祈れというような「神中心主義」だったが、綱要に途中から入り込んだ「予定説」の周辺教義がカルヴァンの後継者達によって発展し、「神の救済もあらかじめ決定していて、あんたらの仕事も生まれたときに決まってるんだが、救済の有無は我々には分からないんだから、救済も職業も己のものと信じてそれに従え」というような説がご登場して、これがカルヴァン主義として各地の新教徒に影響を与え、フランスのユグノーやら、オランダのゴイセンやらと罵られる新教達の活躍がますます活気に満ちあふれていくことになった。

フランソワ1世時代の文化

 フランスにあってイタリアで大流行のルネサンス的芸術や思想に憧れを持って国内の芸術価値を高めようとしていたフランソワ1世は、武勇と芸術保護の精神は丁度ハプスブルク家の芸術復興に大きな意味を持った、マクシミリアン1世に比すことも出来るだろう。イタリアで行なわれていた古典研究への関心から1530年に国立教育機関コレージュ・ド・フランスを設立し、ヘブライ語、古代ギリシア語、数学などを科目に取り入れたり、ジャック・ル・フェーヴル・デタープルなどの学者のパトロンとなったり、王立図書館を設立させたりしつつ、イタリア人芸術家を招待し国内美術をさらなる高みに到達させようとする情熱は、国王の宮殿のあるフォンテーヌブローにレオナルド・ダ・ヴィンチや、ベンヴェヌート・チェッリーニらが遣ってきて活動を行なうほどだった。クレマン・マロ、ピエール・ド・ロンサールといった文学者達の古典を咀嚼した詩や文学も華開き、当然音楽も華やいだ。
 フランソワ1世の宮廷でもかつてのブルゴーニュ公国のように君主入城や戴冠や婚礼など様々な場面で豪華な音楽付きの祝宴が催され、1520年にカレー付近でイングランド国王と会見した「カン・デュ・ドラ・ドール(金襴(きんらん)の陣)」では、国ごとのグループで一方が歌えば、もう一方がオルガンで答えたり、ミサの部分を交互に歌いあったと言われている。宮廷にはすでにフランスの伝統的な音楽家のグループである「シャペル」「エキュリ」「シャンブル」が(シャルル7世かその後頃から?)成立していた。
 「王のシャペル(聖歌隊)」は10人ほどの単旋聖歌を歌う「シャントル」と20人ほどの多声音楽を担当する歌手が存在して、フランソワ1世時代にはクロダン・ド・セルミジ(c1490-1562)が音楽監督に当っていた。こうした歌い手達はすでにオケヘムやコンペールの頃から、各地の教会の役職を貰って、本業の他にも賃金を獲得していた。特に王室とは独立しながらも王室との関係が非常に強かったシテ島にある「サント・シャペル」(聖王ルイ9世がチュニジアで転げる前に建設を開始したという)などは、「王のシャペル」との重複が非常に目につく教会だった。そしてシャペルはフランスとフランドルの歌手達のなるものと定められ、外国人の侵略に逢わない唯一の音楽担当グループを形成していた。
 一方「エキュリ」は軍楽隊みたいなもので、祝祭などでの華やかなファンファーレなどを担当する、「国王のトランペット団」や、宮廷での舞踏のお時間に伴奏を担当するショーム軍団などがあり、このショーム団はすでに「オーボエ団」と呼ばれている。ここにはイタリア舞曲のパヴァーヌやガリアルドの演奏のために、イタリア人演奏家が活躍していた。
 対して「シャンブル」は数名の歌手とヴィオール・コンソート(ヴィオールの合奏用の高音担当楽器から低音担当楽器までのセット)の演奏者、そして1名のオルガン奏者と、1名のリュート奏者が、国王のための音楽を演奏するために集められ、シャンソンを演奏したり、歌に器楽の伴奏を付けてみたり、さらにこの時代器楽独奏曲も急激に流行り始め、リュート奏者のアルベルト・ダ・リーパはすぐれた技のために音楽家だけでなく宮廷内全体を見ても特別扱いになってしまったそうだ。

パリ風シャンソン

 フランソワ1世(在位1515-47)の長い治世の間に詩と音楽の両面で民族性を一層際だたせた新しい型の、しばしばパリ風シャンソンと呼ばれる、シャンソンが発展し、印刷業者のピエール・アテニャンが1528年から1552年の間に50巻以上ものシャンソン集を出版してヨーロッパ中に広めてみせた。当然イタリアにも広まって、大量のリュート独奏用やリュート伴奏用が編纂されたり、当時のバスダンスやら、パヴァーヌとガリヤルドやらの舞曲ものに変えられて、ダンスミュージックとしての第2の生を享受したり大忙しだった。そのパリ風シャンソンの最初期の例は、イタリアにおけるフロットラ的なもので、実際にイタリア戦争に出かけたり、イタリアルネサンスに憧れた影響があるのかも知れない。軽妙で早くリズムのはっきりした4声の歌で、音節的で同音反復の多い2拍子形で作曲され、曲は幾つかの短い部分に分けられ、繰り返されてaabcやabcaのように楽曲を形成した。教科書ではクロダン・ド・セルミジ(c1490-1562)の「生きている限り」が紹介されているが、最も重要な作曲家であるクレマン・ジャヌカン(c1485-c1560)の生涯でも見ながら、何となく当時の状況を覗いてみよう。

クレマン・ジャヌカン(c1485-1558)Clement Janequin

 フランスのシャテルローで生まれた彼もまた近隣の少年聖歌隊として活躍したはずだが、1497年にオケヘムが亡くなったときには、子供心に涙するような感心な逸話すら残されず、1505年になってようやくボルドーに住むすぐれた政治家兼聖職者の元で聖職者見習いとして記録に登場し、彼のためにシャンソンを作曲し始めたらしい。フランソワ1世のミラノ再征服の一戦マリニャーノの戦いの勝利を描いたとも云われる4声のシャンソン「戦争」の様な曲を残しつつ、23年からはボルドー大司教ジャン・ド・フォアの元で仕事をこなしつつ、そろそろ様々な地位を獲得し始めた。
 ところがどっこいペトルッチの3回刷りを立った1回で済ませる荒技をひっさげて、ピエール・アテニャン(c1494-1552)が1528年にパリで楽譜の活版印刷を開始した。彼は王室と深い関係を保ちながら、パリでの楽譜出版と楽譜販売の独占権を勝ち取り、同時に市場の新しいシャンソンへの欲求やら、鍵盤楽器の編曲ものなど、さらに大流行のリュート用の楽譜販売などを開拓していった。彼は一流シャンソン作曲家として、クロダン・ド・セルミジやピエール・セルトン(1572没)と共に、クレマン・ジャヌカンに目を付け、彼のシャンソン集を28年のうちに出版すると、そこに収められた長作の標題付きシャンソン「鳥の歌」や「戦争」、さらに「ひばり」「狩り」といった作品が大いに広まりを見せ、1530年には「パリの物売り声」という楽しいシャンソンも出版された。だんだん調子に乗ってきた彼は、うっかりカール5世に捕まって3代目囚われ人を満喫したフランソワ1世が息子を人質に変えて自ら釈放して貰っていたのだが、その息子の解放に合わせてボルドーでシャンソン「歌いなさい、そして鳴らすのです、トランペットを」を作曲したと言われている。
 その後1530年代に入るとアンジェ大聖堂の聖歌隊長の職に就き1532年にはアテニャンからシャンソン「戦争」に基づく模倣ミサ「ミサ・ラ・バタイユ」を出版するなど、宗教曲も書きながら、やはり沢山のシャンソンを書き殴っていたが、1537年にこの職を辞めていらい、長らく資料のない暗黒時代に突入するのであった。ただアンジェのあるロワール河流域の様々な城で宮廷生活を営むフランソワ1世の宮廷と直接知り合ったのじゃないかしらと、今谷先生があれこれ考えているようだ。クレマン・ジャヌカンというと卑猥な13,14世紀モテートゥスの開けっぴろげな歌詞を持った例にあるような、ロバンが上に乗っかったり、組んずほぐれつしたり、女性の裸身を風呂の水がぶ飲みしながら見ほれたりするような、率直すぎる表現のシャンソンばかり書いていたように思う人もあるかも知れないが、それは特に率直な歌を歌って大はしゃぎするフランソワ1世と愉快な仲間達の宮廷や、当時のフランス気質に従っただけのことで、新しい詩を追い求める詩人のクレマン・マロ(1496-1544)なども、「美しい乳房(おっぱいすごっくいい!)」といった詩を書いて、これにジャヌカンが曲を書いているくらいだ。なおこの女性の胸に対する賛美に呼応した日本の作家川端康成(ノーベル川端)氏が、乳房を形どって銀のお碗を製作して水杯として死地に赴くという超絶技巧の情景を演出し、フランソワ1世の宮廷に愛着を示したことはよく知られている。(・・・そりゃ「虹いくたび」の話ですか、またとんでも無い出鱈目を。)またシャンソン「恋のいろはなど伝授されたき娘さん」では、あまりにも露骨な歌詞に美しい音楽を付けてしまったので、リヨンの出版業者ジャック・モデルヌによって舞曲に変えられて、「パヴァーヌ、た・わ・む・れ」として大流行した。ジャック・モデルヌ(c1495/1500-1562以降)は、元々写本製作で知られ、木版と活字印刷を合わせた2度刷り印刷が開始していたリヨンで、1532年からパリのアテニャンを真似て1度刷りによる楽譜印刷出版を開始した人物で、大量の楽譜ネタを各国から取り入れ、各国に販売していた。当時リヨンは国際商業と金融業の都市としてフランス国王のイタリア遠征を可能にするほどの財力を提供するほど華やいでいたが、芸術も栄え演劇が盛んで、シェイクスピア時代のイングランドのように歌曲が重要な役割を果たし、様々な歌曲を替え歌である「タンブル」として使用していたという。1538年には常設劇場が建設され、16世紀半ばにはインテルメーディオ付きの凝ったイタリア劇などが行なわれたりしていた。イングランドで16世紀後半に起こったような上流階級の音楽素養への関心が、すでにリュートや鍵盤楽器を習わせ、そのための出版物が販売され、国王入城祝祭や、謝肉祭、結婚式など各種祝祭ごとには大いに音楽も華やいだ。しかし後にプロテスタントとカトリックの対立によって衰退への道を歩んだそうだが、ジャヌカンの方に話を戻そう。
 その後ジャヌカンは、ようやく消息が掴めたと思えば、エリック・サティもビックリの60歳を過ぎてアルジェの大学などに所属致しておりまして、何だろうと思っていると、今度はパリにのこのこ遣ってきてパリ大学に入学などしまして、ついでにフランスでも次第に勢力を拡大してきた宗教改革のカルヴァン派の流行にシンパシーを感じたものか、クレマン・マロが詩編をフランス語にしたものを多声曲に仕立て上げて、1549年に「マロ訳詩編曲集第1巻」などを出版しまして、この手の新教的作品を好まないパリ大学に所属してることと精神的不一致があるようですが、このパリ大学で後にプロテスタントであることによって虐殺に巻き込まれた作曲家クロード・グーディメル(c1514-1572)と知り合いになったりしているようでございます。
 と急に丁寧な言葉になったりしているうちに、ジャヌカンはすでに次の国王に変わっていたアンリ2世(在位1547-1559)取り入るべく立ち振る舞い、齢(よわい)70歳にして念願の「王室聖歌隊歌手」となることが出来た。この醜いまでの情熱に恐れ入ったかアンリ2世は、彼を「国王の常任作曲家」として遣ったのだが、それを聞くとぽっくり亡くなったようなものだった。

アンリ2世(1519-在位1547-1559)以降

 ジャヌカンが死ぬ間際に辿り着いたアンリ2世は、メディチ家からお貰いた妻のカトリーヌ・ド・メディシスが、後にユグノー戦争に絡んでお騒がせ人物を演じることと、ハプスブルク家とのイタリア戦争を1559年のカトー・カンブレジ条約で終結させ、イタリアへのフランス権益を放棄するという切ない最後を向かえた国王で、これによってすでに勢力的には失っていたミラーノ、ナポリ、シチリア、サルディーニャ、トスカーナ地方の一部がハプスブルク家に渡り、ロレーヌだけ貰ってアンリ2世は泣きながら笑って握手を交わし、やけを起こしてか同年の馬上剣試合で、転げ落ちて亡くなってしまった。その後就任後わずかで亡くなったアンリ2世の息子フランソワ2世(1544-在位1559-1560)の後、フランソワ2世の弟シャルル9世(1550-在位1561-1574)が即位するが、もちろん実権はお母さんのカトリーヌ・ド・メディシスが握り、プロテスタントのコリニー提督らが政治を行なっていたが、その頃フランスでは貴族同士の勢力争いがプロテスタントとカトリックの宗教的立場を織り交ぜて激化、次第に不穏の様相を強めていった。やがて対立の中心にあるギーズ公がカトリックの代表に、ブルボン家とコリニー提督がプロテスタントの代表となったとき、1560年ユグノーが弾圧の中心ギーズ公アンリを襲撃する計画を立案、見事しくじって処刑が行なわれ(アンボワーズの陰謀)、1562年にはギーズ公派がヴァシーでユグノーを襲撃し300人ほど殺戮したため、以後断続的に8回の戦闘が繰り広げられるユグノー戦争(1562-1598)が開始した。特にプロテスタントを支持する、ナヴァル王を継承したブルボン家のアンリ(アンリ・ド・ブルボン)とカトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリットの結婚式が行なわれた1572年には、プロテスタントとカトリックの要人達が集結したことが、サン・バルテルミの虐殺事件を引き起こした。結果としてコリニー提督は殺され、プロテスタント側が大量に虐殺され、各地に同様の虐殺が飛び火し、それに巻き込まれてプロテスタントの作曲家クロード・グーディメル(c1514-1572)が殺され、アンリ・ド・ブルボンは捕らえられるという大変な騒ぎになった。何とか逃亡に成功、以後シャルル9世が亡くなると、その弟がアンリ3世として即位、それに対してギーズ公アンリも国王乗っ取りを目指し、プロテスタントのアンリ・ド・ブルボンも「俺が正統の血筋だ」と主張し、3人を中心に勢力争いを演じていると、ギーズ公アンリと、アンリ3世が交互に暗殺されて、ヴァロア家の血筋が途絶え、アンリ・ド・ブルボン(1553-在位1589-1610)として即位。カトリック勢がこれを認めないで、スペインに援助を求めるのに危機を感じたアンリは、自らをカトリックに改宗する演出を行ない、1594年にシャルトル大聖堂で正式に戴冠式を上げた。そして1598年に出されたのが、カトリックが国家宗教だが、プロテスタントにも同等権利を認めるというナント勅令で、これを持ってユグノー戦争終結という訳だ。
 さて、サン・バルテルミの虐殺事件の時に結婚した妻マルグリット・デ・ヴァロアとは口も聞きたくない状態だったので、最終的に結婚は無効だったというお決まりの遣り方で離婚に成功したアンリ4世は、目出度くメディチ家の娘さんマリ・ド・メディシスと結婚して、これを記念してフィレンツェでモノディースタイルの劇が上演され、またルーベンスが「マリ・ド・メディシスの生涯」という連作を作製し、バロック時代に突入していくことになった。

16世紀中頃のフランス音楽事情

 ジャヌカン後のパリの小粋なシャンソン作曲家達は、クロード・ル・ジューヌ(1528-1600)、ギヨーム・コストレ(1531-1606)、ジャック・モデュイ(1557-1627)などが続き、イタリア世俗歌曲に影響を受けたような短めでウェットに富んだシャンソンを送り出していったが、同じ頃リヨンのジャック・モデルヌや、アントウェルペンのティルマン・スサートといった出版業者達は、ニコラ・ゴンベールやトマ・クレキヨン(1557没)などフランドル作曲家のシャンソンをより多く出版していった。これはフランドル伝統の対位法的で声部書法が充実したシャンソンで、この方向のなれの果てが、オランダの作曲家ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562-1621)が1594年と1612年に出版したシャンソン集なんだそうだ。
 一方小粋なパリでは、1550頃になると、ヴォドヴィルという新型シャンソンが流行し始めた。これは短くホモフォニ的な有節歌で、しばしば反復句を持っていた。最大の特徴はクレマン・ジャヌカン達のような全声部を歌うためのシャンソンではなく、最上声部だけを歌い、他の声部はリュート伴奏を行なうという独唱歌曲として演奏されるもので、これは同時の王や貴族達のリュート熱に合わせて登場したシャンソンだった。そしてこれが元になって、後のエール、またはエール・ド・クール(宮廷歌曲)が登場してくることになる。

韻律音楽

 パリ大学の教えや音楽学者の理論書はやはり現実とは関係のない比率のもたらす「天上の音楽」の世界が広がっていたが、パリ大学のギリシア語教授だったジャン・ドラが1540年代に「古代の音楽を拠り所として今日の音楽と文学の刷新を行なう」運動を開始したとき、この考えに触発されて「プレイヤード」というグループが組織された。ジャン・アントワーヌ・ド・バイーフ(1532-89)やピエール・ド・ロンサールなどが参加したこの集まりは、やがて古典詩の韻律に基づく音楽を作曲してみる野心に取り付かれ、やがてジャン・アントワーヌ・ド・バイーフ(1532-89)は、近代的な強弱アクセントの代わりに古典的な音節の長短の原則を用いて、古代ギリシャ語とラテン語の韻律による有節的なフランスの詩を書いた。フランス語に長短の母音の間に一貫した区別がなかったので、韻律詩の理論家が母音に長さを割り当てて、作曲家はそれに従って音を付けた。これはクロード・ル・ジューヌ(1528-1600)やジャック・モデュイ(1557-1627)らによって作曲が残されているが、韻律音楽はあまりにも人為的すぎて廃れた。しかし教科書によるとここでのリズム実験が、1580以降のフランス標準曲であるエール・ド・クールに不規則な拍節を導入したんだそうだ。

フランスでのプロテスタント音楽

 改革長老派の流れを組んだプロテスタント勢力が優位のフランスでは、多声音楽を重視するルター派とは異なり、音楽の余計な虚飾はすべて罪悪的な精神が強かったために、フランス語詩編歌ぐらいにしか重要な音楽作品は残されていない。カルヴァンもラテン語詩編歌をフランス語に翻訳し、宮廷詩人のクレマン・マロ(1496-1544)と神学者テオドール・ド・ベーズ(1519-1605)も旧約聖書の詩編翻訳に力を貸し、ルイ・ブルジョワ(c1510-c1561)が曲を選択したり、あるいは自ら作曲した旋律を付けて楽譜付きの「ストラスブール詩編歌」(1539)や、「ジュネーヴ詩編歌」(1551)などを出版、これらは最初期の詩編曲集になっている。教会礼拝では初めのうち、改革派の人たちはユニゾンで伴奏無しの聖歌スタイルを徹底させていたが、それだけじゃあ寂しすぎるので、家庭用として主旋律がテーノルやソプラーノにあり、和弦的な多声曲から、さらにはモテートゥス風の4声以上の曲も作曲されるようになり、そのうち礼拝でも4声が入り込んだ。作曲家としては、宗教に死すでお馴染みのクロード・グディメル(c1505-1572)や、韻律音楽でも重要なクロード・ル・ジューヌ(1528-1600)、さらに詩編音楽においてはすこし遅れて、ネーデルラントのヤン・スウェーリンク(1562-1621)が重要な仕事を行なっている。
・このフランスで生まれた詩編翻訳は各国の長老改革派系列のプロテスタント地域に広まり、その地の改革派が採用したり、またドイツではすぐれた旋律が平気でコラールに取り込まれたりしている。独立戦争に突入していくオランダでは、すでに1540年にはオランダ語による詩編歌集も登場し、イギリスの重要な詩編歌集であるトマス・スターンホウルドとジョン・ホプキンズの「英語詩編歌集」(1562年)や、1564年に出版された「スコットランド詩編歌集」にもフランスの詩編翻訳が影響を及ぼしている。しかし、コラールと違い、音楽的な発展はその性質上あり得ず、多声音楽の豊かな素材を提供したコラールとは全く異なる道を歩むことになった。

2005/11/05

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