7-5章 16世紀のイングランド1

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ヘンリー8世(1491-在位1509-1547)

 ようやくバラ戦争を収めたものの次々に登場する王位を狙う反乱分子を弾圧し続けてテューダー朝の安定に勤めたヘンリー7世。長男のアーサーがわずか11歳で亡くなったため、すでにスペインとの政略結婚でアーサーの妻となっていたキャサリン・オブ・アラゴン(狂女ファナの妹)を自らの妻としてスペインとの関係を保つと共に、ヘンリー7世の次男として次の国王に就任したのがヘンリー8世だ。始め(1509~1529)は父王の統治体制を継承し、フランスに対抗して教皇の発する神聖同盟に加盟し、1512年にはフランスに兵を進め大勝するなどフランスにターゲットを定めて対外政策を行なっていたが、1514年には方向を転換させフランスと講和を結び妹メアリをフランス国王ルイ12世と結婚させることに成功。何たることか2人の間に子供が出来る前にルイ12世はお亡くなりて、笑顔の素敵なフランソワ1世が後を継いでしまったが、同盟の糸は切れなかった。その新フランス王就任の年である1515年にはトマス=ウルジーを大法官に任命し、国政を任せてることにしたが、妻のキャサリンがいつまでたっても皇太子を生まないので苛々しているところに、「ええおなご」の王妃の侍女アン・ブリーン(1507-36)が現われたのでそっちに心奪われて、ローマ教皇クレメンス7世(在位1523-34)に離婚の許可を求めた。ところがすでにドイツでは宗教改革の嵐ルター派問題が大きくクローズアップさている上に、ローマは1527年に神聖ローマ帝国軍に略奪されて権威も失墜(しっつい)気味であるから、そう簡単に離婚を認めるわけにはいかない。それどころか教皇は神聖ローマ皇帝カール5世に軟禁状態にされていたし、そのカールはフランスに同盟的なイングランドに敵意を持っている有様だった。そんなヘンリー8世はカトリックに対しては熱烈な信者で、ジョスカンの亡くなった1521年には「マルティン・ルターに対する七つの秘蹟の主張」を発表してルターを批判、ローマ教皇レオ10世(在位1513-21)から"信仰擁護者"と讃えられるほどだったから、当時ルター派の影響を受けて、さらに後にはカルヴァンの影響を受けてイングランド内に広がる新教運動、つまりプロテスタント(カトリックから独立した宗教改革時の新教全体の総称)運動には大いに反対だったが、カトリックの教義はともかく、教会のトップは教皇じゃなくて俺様でも差し支えないだろうと考えながら、ウルジを罷免し、政治・社会を風刺した「ユートピア」でお馴染みのトマス・モア(1478-1535)を大法官に任命したが、教皇に反対するのを良しとしないモアはやがて大法官を辞任してしまった。その間にも1531年に聖職者達に国王がイングランド教会の首長だと認めさせる決議を行ない、次第にローマ・カトリックとの決別が進行。33年には教皇への上訴も禁止され、ついに離婚問題に対処出来る男トマス・クランマー(1489~1556)がカンタベリー大司教となると、彼によってキャサリンとの婚姻無効が認められ、1533年にヘンリー8世は大喜びでアン・ブリーンと再婚した。対して教皇クレメンス7世が必殺技の破門を宣言すれば、ヘンリー8世は翌年1534年に議会で首長令を可決、「以後指図(1534)を受けぬ」と叫ぶと、イングランド教会を国王を首長とする決議を行ない、1536年に首長令(国王至上法)を公布してイングランド国王をイングランド教会の首長とするイングランド国教会(アングリカン・チャーチAnglican Church)が発足した。最後まで大反対を叫ぶトマス・モアは反逆罪で1535年に斬首刑となった。そしていよいよトマス・クロムウェルらに国内修道院の解散と破壊を行なわせ、1536年と1539年の修道院ぶちこわし運動によって、修道院内の大量の写本楽譜も教会芸術も灰燼に帰した。この呪わしい既存文化踏みつけ運動によって、修道院後の土地をジェントリなどに転売して、莫大な財産が王室財政を潤し、国力を高めることに成功したヘンリー8世は、カトリック教義と類似の国教会信仰6条を発布して、それに従わないカトリック支持者を弾圧していった。
 さて前妻の子供で成長するのは娘のメアリ(後の女王メアリ1世)だけだったが、アン・ブリーンとの子供も女ばかりで成長するのはエリザベス(後の女王エリザベス1世)だけだったので、また怒り狂ったヘンリー8世は「他の男と寝たべ!」と叫んでアン・ブリーンを処刑してしまった。鬼か、悪魔か、マキャベリズムか彼はさっそく次の妻ジェーン・シーモア(1509-1537)と結婚して、始めて男の子エドワードが成長することになる。しかし妻は産後体調悪化で亡くなってしまったので、その後も何度も結婚を繰り返し、「6回結婚国王」として後の伝説を築いた。
 ヘンリー8世は中央行政機構の官僚的組織を整え、フランスに海を渡って侵攻された事もあり、海軍を創設、1546年には海軍委員会が設置されたというように、国内政治に置いて非常に有能な国王だった。その上、彼は5カ国語を話し、神学においては自ら抗議文を執筆するほどで、若い頃から音楽を学び、また武術においても「イングランド一番の弓引き」と讃えられるほどだったから、ルネサンス的君主のイングランド版と云えるかもしれない。その一方でトマス・モアや、トマス・クロムウェル、自分の妻達を次々に処刑する自己中心的ないさぎの良さは、彼の特質だった。また、彼の時代は、以前からのイングランドのフランドルへの毛織物輸出業がさらに発達する中で、羊さん達の放牧地を確保するべく、かつて農民達が利用していた開放耕地や荒地・共有地をじゃんじゃん奪って、囲いを張り巡らせる第1次囲い込み(エンクロージャー)が巻き起こり、例のトマス・モアが「羊だ、羊が人間を食っているのだ」とユートピアの中で揶揄したり、多くの人文主義者達が騒ぎ立てていたが、それほど莫大な領地が囲い込まれた訳でも無いようだ。最後に、音楽においては自ら作曲までしていた彼の曲は、3声のバラッド「仲間との楽しみ(Pastyme with good companye)」などが彼の作品ではないかとされ、今日では他の作品と彼にまつわる楽曲を合わせたCDなども存在するぐらいだ。

ルネサンス的芸術活動

 すでにヘンリー7世がブルゴーニュ宮廷の持つ芸術的側面に憧れ模倣を行なう時代から復興してきたイングランドの文化促進は、16世紀には以後流行ともなるフランドル地方の画家や職人のイングランド上陸が開始。
ドイツ生まれのハンス・ホルバイン(子)(1497/98~1543)は、「痴愚心礼賛」やギリシア語聖書で知られる人文学者のエラスムス(1466-1536)に友人を紹介され、トマス・モアを頼ってロンドンに立ち寄り、さらに36年からヘンリー8世の宮廷画家として多数の肖像画などを残して活躍している。しかし残念なことにホルバインの大陸で作製したと考えられる多くの宗教的絵画は宗教改革に伴う打ち壊し運動の犠牲に巻き込まれたそうだ。トマス・モアはイタリア人文主義者のマウリシオ・フィチーノの著作に影響を受けるなど、この頃から上昇線を描くイングランドのルネサンス的芸術活動は、後にエリザベス1世時代に最盛期を迎えることになる。

当時のイングランド音楽

 音楽に関しては、フランス宮廷と関係のあるフランス・フランドルの音楽の写本や印刷ものが流入し、音楽好きのヘンリー8世の宮廷で歌われたり、1509年から王室礼拝堂の少年聖歌隊監督を行なっていた(小)ウィリアム・コーニシュ(c1423没)が作曲家として活躍したりしていた。コーニシュは、1511年に「黄金のあずまやThe Golden Arbour」を少年達を使って上演し、以後流行する聖歌隊員芝居のブームを開始。ラテン語によるミサ曲、マニフィカトなどの宗教曲の他に、ヘンリー8世の宮廷のために16曲の世俗曲が残され、その中には「ああ、ロビン、優しい、ロビン(Ah obin, gentle Robin)」のようなロビン・フット伝説にまつわるような知られた曲もある。この時期は世俗音楽が盛んで3声または4声の歌や器楽曲が多く見られるが、一方で本格的な多声音楽はやはり宗教曲で残された。宗教曲の特徴としては大陸よりも声部の多い5声、6声の書法が好まれ、ぶ厚い響きと和声的効果を追求する傾向があった。この時期の作曲家達の作品は、イートン聖歌隊本(イートン・クヮイアブック)に残されていて、厚い声部書法だけでなく、ソロと合唱を対比させるような楽曲が好まれていたことを見ることが出来る。このイートンの中には(小)ウィリアム・コーニシュの他に、ロバト・フェアファクス(c1464-1521)や、幻のジョン・ブラウン(1490頃活躍)などの作品が収められているが、ロバト・フェアファクスはオケヘムの亡くなった1497年に王室礼拝堂(チャペル・ロワイヤル)の聖歌隊員(ジェントルマン)として記録されているが、殊の外(ことのほか)ヘンリー8世の覚え目出度く1514年にはナイト(騎士)の称号を貰ってしまうほどの作曲家で、セント・オールバンズ修道院とも関係を持ちながら、6曲のミサ曲や、モテートゥスに世俗曲が残されている。
 彼らの活躍の跡を継いでジョン・タヴァナー(c1490-1545)が登場し、ほぼダンスタブル百年後を生き抜いた男として、リンカン州を中心にして王室礼拝堂とは関係なく作曲活動を行なっていた。彼は1526年からオクスフォード大学の少年聖歌隊の監督をこなし、ルター派系の異端宣告でちょいとばかり投獄されたりしながら、リンカン州にあるボストンの聖ボトロフ教会の聖歌隊員として、さらに教会信徒組合の会員として生涯を全うしている。彼が作曲したイングランド俗謡「西風(Westron Wynde )」に基づくミサ「西風」や、1520年のヘンリ8世とフランソワ1世が夢の国王対面を果たした金襴平野(ブローニュとカレーの中間に位置する)で演奏されたという噂もあるミサ「三位一体である貴方に栄光がありますように(ラ)グロリア・ティービ・トリニタス」がある。これらのミサ曲は当然イングランド伝統に従ってキリエとクレドの1部は作曲されていない。さらにこの三位一体の「御名に置いて(イン・ノミネ)」の部分はヴィオラ・ダ・ガンバやらリュートやらの器楽曲の定旋律に使用され、「イン・ノミネ」と言う名の器楽曲の一連のグループを生み出す原動力となった。彼は一説によるとヘンリー8世が命じた修道院破壊運動の手先となって、「げへへへ」と修道院をあざ笑ったともされているが、証拠は上がっていない。その後クリストファ・タイ(c1505-c1572)、トマス・タリス(c1505-1585)、ロバト・ホワイト(c1538-1574)らが続き、イングランドのルネサンス音楽を継承していくが、彼らの生きた時期がイングランド宗教改革の時期と重なっていたために、それぞれ国教会の英語の宗教曲と、カトリックのラテン語の宗教曲の間で右往左往することになった。クリストファ・タイは、1536年にケンブリッジ大学の音楽学士号を取得して聖歌隊員から聖歌隊員監督に進み45年にケンブリッジ大学で音楽博士号を受けるような経歴の後、聖職者として作曲を行なっていったが、ラテン語作品では華麗なメリスマの目立つ対位法的書法で書かれている宗教曲が、国教会の音楽では、カルヴァンチックなシンプルな音楽指向を反映して、1音に1音節を当てるシラヴィック型で和弦的な作曲スタイルに変化している。彼はタヴァナーのミサ「西風」を模倣したミサ曲「西風」を作曲したり、タヴァナーの「イン・ノミネ」を元にしてヴィオール合奏曲である「イン・ノミネ」を沢山作曲して見せた。またロバト・ホワイトもまた、ケンブリッジ大学で音楽教育を受け、1560年に音楽学士号を取得。各地の聖歌隊員監督などの職を行ないながら、国教会とカトリックのために作曲を行ない、特にラテン語で書かれた「エレミアの哀歌」はすぐれた作品だそうだ。彼もやはり器楽曲を多数残し、ヴィオール合奏のファンタジアと呼ばれる一群の作品の口火を切ったとも言われている。もう一人のトマス・タリスについては、今谷先生が「ルネサンスの音楽家達」の中で紹介しているので、それに従いながらすこし細かく覗いてこの時期の作曲家の生き様を探りつつ、宗教改革の経緯などを見ていくことにしよう。

トマス・タリス(c1505-1585)Thomas Tallis

 1532年に始めて記録の現われるトマス・タリスは、ドーヴァーの小さな修道院でオルガニストの仕事をこなしていたが、事もあろうヘンリー8世の1536年の小修道院解散命令によって、彼は仕事を奪われ、つてでもあったかロンドンに出て活躍、1538年にはエセックスにある(解散されなかった)ウォルサム大修道院でオルガニストの職を得ている。ところがまたしてもヘンリー8世が1539年に大修道院解散令をお出しになり、タリスはまたしても失職してしまった。ところが幸か不幸か世の中分からない。次の職探しで辿り着いたカンタベリー大聖堂の教会書記の仕事を通じて国教会成立の重要人物大司教クランマーと知り合ったらしく、1543年王室礼拝堂(チャペル・ロワイヤル)の聖歌隊員(ジェントルマンと呼ばれた)に任命された。こうしてタリスのちゃっかり伝説が幕を開けるのである。
 ヘンリー8世はカトリック式のラテン語典礼を改める気はなかったので、国教会が出来ても典礼音楽に変化はなかった。ただ、一時大流行した聖母マリア崇拝が邪道だとされ、次第に衰えてしまったぐらいのところだ。ところが1547年にヘンリー8世が地上にお別れをすると、状況は大きく変化した。
 エドワード6世(在位1547-1553)がわずか9歳で国王となると当然摂政が政治を行なう。摂政のサマセット公エドワード・シーモアも次の摂政ノーサンバランド公ジョン・ダドリーも新の意味でカトリックから離れる宗教改革に染まっていたから、まず1549年の「信仰形式統一令」によって例のクランマーが作製した「英語共通祈祷書(きとうしょ)」(第1祈祷書)が定められ、52年にはさらにカルヴァンなどのプロテスタント的精神を込めた「第2次信仰形式統一令」(第2祈祷書)が出され、これを持って新の意味での宗教改革がイングランドにもたらされることになった。これによって今や典礼はラテン語ではなく英語で行なわれ、当然宗教曲も英語で作曲されることになったのである。
 カトリックでの聖務日課の朝課が早祷式(Morning Prayer)となり、晩課が晩祷式(Evening Prayer)となり、さらにミサは聖餐式(Holy Communion)と呼ばれることになったが、これらに使用するミサ通常文や(Prayer)のカンティクムなどの多声曲音楽のセットをサーヴィス(礼拝)に使用する音楽なので、そのままサーヴィスと呼ぶようになった。やがて楽曲の規模や楽器の動員や声楽人数など、または書法の特性に応じてグレイト・サーヴィス(おおきなサーヴィス)とショート・サーヴィス(短いサーヴィス)という言葉がよく使用されるようになっていくが、明確な作曲上の違いがあるわけではなかった。さらにラテン語によるモテートゥスに掃討する楽曲は、英語でアンセムと呼ばれ、後にはフル・アンセムは無伴奏合唱の対位法的書法で、ヴァース・アンセムはオルガンやヴィオラ・ダ・ガンバ伴奏の1声か2声以上の独唱声部のための曲などと分類されることも出てきた。特にタリスがこの時期に作曲したアンセムは非常に和弦的な非対位法的作品に仕上がっているので、当時フランスで作曲された詩編唱の多声曲のように、歌詞を邪魔することのない音楽が模索されていたように考えられる。もちろんちゃっかりもののタリスのことだから、さくさくと新しい遣り方に移行したに違いない。ついでに1552年には妻まで見つけてご結婚なさってしまった。
 ところがまたしても動乱が遣ってきた。改革の旗手エドワード6世が若くして亡くなると、かつてヘンリー8世に離婚させられたキャサリンの娘メアリーが女王メアリー1世(在位1553-1558)として就任し、キャサリン・オブ・アラゴンの故郷スペインのカトリックの情熱にどっぷり浸かったメアリーさんの、カトリック巻き返し運動が開始するのである。彼女はさっそく先の第1,第2祈祷書を廃止し、何もなかった事にして、典礼にもラテン語を復活。さらにスペインの偉大なるカトリック保護者である国王カルロス1世の息子フェリペ(1527-1598)と結婚して、1555年に教皇権を回復してカトリック復帰を果たしてしまった。暗黒の情熱漲るメアリーさんは、英国国教会支持の300人あまりを火の中に投げ入れ、憎きカンタベリー大司教クランマーも炎の中に放り込んで、「2倍だ2倍、苦労と苦悩、ごうごう燃えろ、ぐつぐつ煮えろ!」と雄叫びを上げた。あんまり恐ろしい叫び声なので、人々は彼女のこと「血に染まったメアリー(Bloody Mary)」と呼び、後にシェイクスピアが叫び声をマクベスの中で魔女の言葉として使用している有様(また虚構に脱線したか)だし、今日はカクテルの名称にBloody Maryがあるのは皆さんお馴染みだ。燃えるクランマーには気の毒だが、今は己の保身が第一だ、すらりと身をひるがえすタリスは、さっそくラテン語の作品を作曲し、6声のモテートゥス「誉れのある神の母よ」と7声の「ミサ・プエル・ナトゥス・エスト・ノビス」を書き上げたそうだ。しかし56年にカルロス1世引退の跡を継いでスペイン国王フェリペ2世(在位1556-1598)となった夫がスペインに戻ると、国民の反動の声がメアリーに高まり、おまけにスペインとの接近がフランスとの戦争を巻き起こし、大陸側に唯一勢力を持っていたカレーを見事に奪い取られると、めまいがしたかメアリーさんあっさりお亡くなりて、女王の中の女王と名高いエリザベス1世(在位1558-1603)が即位することになったのである。あのヘンリー8世とアン・ブリーンの娘のエリザベスである。

エリザベス1世(1533-在位1558-1603)(グロリアーナ)

 人文主義の教えを易々と吸収してみせる若き日の才女は、後に王となっても学問に励むほどのルネサンス的知的君主の見本となるほどだが、父の死後にはエドワード6世時代に権力争いに巻き込まれてみたり、メアリ1世とは宗教の違いから白い眼で見られて、改宗致しますと言っても、ますます白い眼で見られて、トマス・ワィアットの反乱(1554)に際しては、「ベス、あんたも十分怪しいわよ」と血のメアリーさんにロンドン塔に投げ込まれる悲劇に遭ったりしていた。しかしメアリーさんが早くに亡くなったので、次の国王として選任され、有能なるウィリアム=セシル(後にバーリー教)などを登用なさって政治デビューを果たされることになるのだった。当然まずメアリーさんが火にくべた国教会を再度拾い上げ、1559年に「首長令(国王至上法)」と「第3次祈祷統一令」を議会通過させて、1570年には教皇ピウス5世から正式に破門を頂戴すると、「あら我が国では、キリスト教会の最高者は私なのに、教皇って何かしら、一族登用ネポティズムでネポってばかりの下手物じゃないかしら。」とすっとぼけながら、今度こそ「英国国教会」を完全に定着させることになった。ちょうどイギリス国教会の重要な詩編歌集であるトマス・スターンホウルドとジョン・ホプキンズの「英語詩編歌集」(1562年)や、「スコットランド詩編歌集」(1564年)などが出版され、国教会の門出を祝っているかのようだ?
 その議会通過の1年前、メアリーさんがフランスと戦闘状態に入り見事にカレーを奪われたりして険悪状態だったフランスとの間に、さらに余計な火種が生じていた。1558年にスコットランド女王メアリー・ステュアート(1542-在位1542[生後6日]-1567)とフランス国王アンリ2世(在位1547-1559)の皇太子フランソワが結婚してしまったのだ。このメアリー・ステュアートというのはスコットランド国王ジェームズ5世の娘として、生まれるやいなや国王が亡くなってわずか6日目に女王となった人物で、彼女はやんちゃもののヘンリー8世の無理難題に翻弄されてか、彼の息子であるエドワード(後のエドワード6世)と婚約させられていたのだが、摂政がイングランドで政権を握るサマーセット公と戦闘状態になって敗北する事態となった時に、ヘンリー8世も亡くなった事だし、お母様の提案で1548年にフランスのアンリ2世の元にすたこら逃れていた。その彼女が、エドワード6世と結婚することなくフランスに過ごし、フランス国王の息子と結婚した訳だが、即位したエリザベス1世に対してアンリ2世が「庶子(しょし)の下賤(げせん)の血の流れる「ベス」よりも、嫡子(ちゃくし)の血を辿ってきたメアリーの方が、よっぽど正統だ」とイングランド国王継承に口を挟んできた。メアリーは、ヘンリー7世の娘マーガレットがスコットランド国王ジェームズ4世と結婚して生まれた子供がスコットランド国王ジェームズ5世で、その娘に当るから、取りあえず口を挟んでおいて差し支えないと判断したのだろう。さらに1559年にはスペイン国王フェリペ2世とフランス国王アンリ2世の「2世コンビ」が互いに「俺も2世」「お前も2世」と合意を交し、カトー=カンブレジ和約によってフランスがイタリアのナポリやミラーノにおける領土権を放棄する事が条文化され、これを持ってようやくイタリア戦争が終結することになったのだが、フランスは国内の新教勢力ユグノーの弾圧などもあり、強力なスペインの軍事力に対して和平の道を模索したようだった。その直後にアンリ2世が亡くなって、メアリーの夫がフランソワ2世(在位1559-60)として即位すると、メアリーは目出度くフランス王妃となったが、ちょうどスコットランドで新教の反乱が勃発、のこのこ介入を果たしたフランス海軍は、同じく介入したイングランド軍に大敗を被り、今度はフランスは、イングランドと泣きながらエディンバラ条約を結び、フランスのスコットランド介入禁止が定められ、メアリー・ステュアートは「イングランド王じゃねえよ、タコが。」と注意を喰らった。
 その後フランソワ2世が病弱でお亡くなると1561年にはスコットランドに戻り正式にスコットランド女王の舵取りを開始したメアリーだったが、拡大する新教派貴族達とカトリック派貴族達の融和を目指したが、1565年に従兄弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと再婚した際に、夫に不当な優遇をしたところ、皆さんから白い眼で見られるようになってきた。その後今度は夫との仲が険悪になり、愛人をつくって囲ったら、目の前で殺害されてみたり、大騒ぎのうちにジェームズ(後のスコットランド国王ジェームズ6世にして、イングランド国王ジェームズ1世だ)が生まれてみたり、ついに夫を殺害させてか、不可解な事情で丁度良く亡くなったのか、次の夫ボスウェル伯と結婚してみたり、それが元で反乱軍に破れて、とうとうイングランドに泣きついてみたり、大忙しで、せっかく比較的自由な立場でイングランド引退生活を送れていたのに、何度も女王廃位を画策するものだから、最後には裁判で死刑が求刑されて、1587年に生命が途絶えてしまった。
 このどんちゃん騒ぎに頭を痛めたエリザベス1世だったが、スコットランド政策では新教派を支持して、イングランドに近づける政策を取りながら、1563年には貨幣を改め、囲い込みと都市に溢れる貧民などに対しての政策を開始、後々続く各種救貧法の第1弾が制定されている。こうしてしばらくは平穏な季節が続くことになったが、しかしハプスブルク家を経由してスペイン国王フェリペ2世の支配する地域となっていた、ネーデルラント(フランドル地方から今日のオランダ方面まで)では、国王の自治政治奪い取りや、重税、増加する新教(カルヴァン派)の弾圧などから、ついに1568年オラニエ公ウィレムが中心に反乱を起こし、ネーデルラント独立戦争が勃発。これは後にフランドル方面がスペインと和睦して、北部とスペインの戦争として継続しオランダの独立に繋がっていくため、オランダ独立戦争(1568-1609)と一般的に言われているが、ネーデルラントの毛織物工業と羊毛輸出産業で密接に結びつくイングランドは、ネーデルラントを援助、スペインとの関係が悪化していった。さらにエリザベスは私掠船(しりゃくせん)(政府から政府敵国のものである商船捕獲を認可された民間の武装船)の船乗りであるジョン・ホーキンスや、親戚でホーキンスの下働きからのし上がったフランシス・ドレークなどを保護し、世界的貿易に乗りだし新大陸からの銀流入で巨大な勢力を確立していたスペインに対して、その商船を次々に海賊行為の標的とさせると、スペインはますますいきり立ち、こいつは恐ろしいと思ったか、今度はフランスとイングランドで1572年に2国間同盟ブロワ条約を終結、大いに牽制して見せたが、カトリックの女神様と讃えられていたメアリー・ステュアートを「ベス」が処刑するに及んで、フェリペ2世も鬼と化し、スペインの沈まない無敵の艦隊をイングランドに送り込んだ。こうして1588年にアルマダの改選が勃発。大型船衝突型のスペイン艦隊の戦法に対して、フランシス・ドレークの指揮したイングランド艦隊の小回り大砲すたこら作戦で応戦したか、それとも嵐のお陰か知らないが、見事スペイン海軍を打ち破り、これを持ってスペインが転落人生を歩み始めた訳では無いが、後から見たら記念碑的な勝利を収めたわけだ。ただ実際のところその後もスペインとの戦争状態が継続し、財政を圧迫したし、1595年にはスペインノ支援するアイルランドで反乱が起こり、その間1594年から5年ぐらい不作と食料品不足によるインフレが不安と暴動を多発させたり、救貧法もほとんど役に立たず、苦しい晩年となったうえ、可愛がっていた愛人のエセックス伯まで1601年に反乱を起こし、切ない独身女性を演じきることになったが、「私はイングランドと結婚しているのです」の一言に女王の覚悟のほどが伺えるそうだ。そんな最中にも、1600年には東インド会社が設立され、対アジア貿易の独占貿易権を与えられた会社が、以後のイングランド植民地運動に大きな役割を担っていくことになるし、イングランド植民地獲得のため新大陸にも進出している。そして彼女の時代に華開いた文化芸術運動は、例えば劇作家のシェークスピアや詩人のエドモンド=スペンサーなどの生涯を眺めただけでも分かるし、これから見ていく音楽家達の活躍を見てもよく分かることだろう。

2005/11/10

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