そんな訳でまたしても英語による国教会音楽を作曲開始したタリスだったが、公の場合以外は王室でさえもラテン語宗教曲を使用することがあったぐらいで、タリスの名作2曲の「エレミアの哀歌」もこの時期の作品である。またタリスのモテートゥスには40声部を持つ「御身よりほかにわれは(貴方以外に私は)」というのがあり、一説にはエリザベスの40歳記念に歌われたそうだ。エリザベス時代のラテン語宗教曲は治世後半にはいると次第に締め付けが強化されていく事になるが、16世紀中増大した王室の楽団が外国人作曲家傭兵達が活躍していたのと違い、王室礼拝堂は純粋にイングランド人の作曲家で固められていたので、その限りにおいてはラテン語宗教曲に対してもある程度寛大な措置が取られ続けていくことになる。しかも国教会をカルヴァン的なより厳格な宗教改革精神に改めたいピューリタン派勢力にとって、王室礼拝堂の豪華華麗な宗教曲は非難すべきカトリシズムの名残に思えたのだったが、王室とエリザベスはその宗教儀式を世俗音楽の大々的な祝宴と共に外国人要人などに対する、イングランドお披露目会として使用していたこともあり、またそもそも王室貴族達が自ら凝った音楽にシンパシーを感じていたこともあり、後々に至るまでこだわりの一品が演奏される伝統が途絶えなかった。アンセムなどは初期には改革精神に乗って和弦的なシンプルスタイルが模索されていたものが、ベスの時代後期にかえって手の込んだ音楽作品に発展してしまっているかのようだ。とは言っても、その手の楽曲はもっぱら特別な機械のために使用される、特殊なものだったのかもしれないが、とにかくタリスも虐げられることなく作曲を続けることが出来たわけだ。1572年には次世代の作曲家旗手となるウィリアム・バード(1543-1623)が王室礼拝堂に加わってきたので、オケヘムを見守るデュファイの心持ちで暖かく成長させながら、1575年からはタリスとバードで2人揃って21年間の楽譜印刷販売独占権というものを貰うことになった。当時王室礼拝堂の給料は他のどの聖歌隊と比べても圧倒的に賃金が高く、さらに実際は多くの異なる役職や仕事を手に入れることが出来たため、ベス時代の想像を絶するインフレーションで安泰とは言えない場合でも、それなりの生活を確保することが出来たが、このタリスのお貰いた楽譜印刷販売独占権というのは、国内楽譜印刷と輸入事業を
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ただしこの時期王室以外の礼拝堂歌手達がお幸せだったとは言い難い。特にロンドンではベスが即位する頃から、新教改革派、特にこの時期にはカルヴァン派プロテスタントであるピューリタン派が主流になりつつあったので、そのピューリタン派の勢力が拡大を見せ、ロンドン教会内のオルガン伝統が急速に廃れ、オルガンと聖歌の伝統の代わりに、皆さん一斉に詩編を韻文訳で簡単な旋律で歌うという伝統が、大流行してしまったので、かつての音楽伝統は都市市民が率先して崩壊させたようなものだった。すでにヘンリー8世時代から修道院歌手達の制度が崩壊し、ロンドンを始め都市の教会の音楽が変質していった16世紀も終わる頃になれば、音楽史に登場するような宗教曲を担う機関は王室礼拝堂と、その他数カ所の大聖堂などを残すのみとなってしまったのである。こうした変化が次の時代の世俗音楽大隆盛とも関係しているのかも知れないが、タリスはそんなことを知るはずもなく、やがて晩年を迎えてみた・・・・って、タリスの生涯じゃ全然無くなってるし。
さて、少年時代タリスに作曲を学んだとされるウィリアム・バードは、イングランド国教会組織に所属しながら16世紀カトリック教会音楽の最後の大作曲家となったユニークな一例である。成人後はリンカンで活躍中、川にはまって溺死した悲惨の音楽家ロバート・パーソンズ(c1530-1570)に取って代わって、1570年から王室礼拝堂聖歌隊員、つまりジェントルマンとなることが出来、リンカン大聖堂での後任が定まった1572年からロンドンに登った。さっそくタリスが世話を焼く。仲睦まじく2人の書いたモテートゥス集を1575年に女王に献呈するぐらいだったが、実は70年代からカトリック派の暴動や、メアリー・ステュアートとスコットランド事情や、ネーデルラント戦争介入や、スペイン動向など様々な要因があって、カトリックへの締め付けが強化されざるを得ない状況が強まって来ていた。1580年にはカトリックの巻き返しを図るイエズス会が乗り込んできた事もあって、国教忌避(きひ)者への取り締まりが強化され、莫大な月極(つきぎめ)罰金が言い渡されることになったが、恐らくカトリックのパトロンからの支援のあったバードは、カトリック信者を明言したまま、ジェントルマンに留まる際どい均衡の上に活動を行ない続けた。85年には家宅捜索まで喰らっているのに、カトリックの女旗手メアリー・ステュアートが亡くなった際には、器楽合奏伴奏付き歌曲であるコンソート・ソング「名高く気高い女王」と「天使の羽衣で」を作曲して、カトリック魂を皆に示すバードは、さらに1589年と91年にはラテン語の「宗教声楽曲集」を2巻出版して、カトリック保護の貴族に献呈して、挑戦状を叩きつけて見せた。しかし、もちろん王室礼拝堂の英語宗教曲だって作曲して、一連の「グレート・サーヴィス」や「ショート・サーヴィス」やアンセムは非常に質の高いものに仕上がっているし、1588年のアルマダ海戦の勝利に対しては、コンソート・ソング「ああ主よ、見て下さい、そして耳を傾けて下さい」などを作曲して王室礼拝堂の公の仕事のケジメを付けるからこそ、王室も彼を放り出さなかったのに違いない。
93年になると「国教忌避者取締法が施行される中、カトリック信者のパトロンであるピーター卿の近くに引っ越したバードは、あるいはピーター卿の館で行なうこっそりカトリック礼拝のために、傑作中の傑作である「3声のミサ」「4声のミサ」「5声のミサ」の3曲ではないかと考えられ、キリエを含まないイングランド伝統ではなく、ローマ・カトリックのスタンダード型である5つの部分を多声化したミサであることも、よりローマ典礼に従うことが、この時期のカトリック信者の生き様と関係しているのかも知れない。
さて、人々から親愛なる「ベス」と讃えられたエリザベスが身罷ると、彼女が結婚せず子供を残さなかったために、どうも驚く、令の処刑されたメアリー・ステュアートの息子であり、すでにスコットランド国王ジェームズ6世(1566-在位1567-1625)が、イングランド国王ジェームズ1世(在位1603-1625)として即位。彼は、13歳にして男色に目ざめた漲るパワーを持って、スコットランドの国王より長老にしたがう教会のあり方を改革しようと試みたり、デンマーク王フレゼリク2世の娘であるアン・オブ・デンマークと結婚したりしながら、スコットランドで政治を行なっていたが、1603年にロンドンに遣ってきてイングランド国王となり、同時にスコットランド王とアイルランド王も兼任する形で、後のイギリスの正式名称「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」(略してユナイテッド・キングダム[U.K])(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの連合国家)の原型が成立した。彼はさっそくカトリックとピューリタン派を共に排除すると宣言し、それが元で1605年にはカトリック教徒による国王火薬爆破未遂事件(火薬陰謀事件)が起こるなどしたし、1620年に102人のピューリタン達ピルグリム=ファーザーズがメイフラワー号で北アメリカのプリマス植民地に到着する原動力ともなったが、このアメリカ植民地での奮闘振りは101匹ワンちゃんのお話の原型になった(だから、嘘をつくなって)。ジェームズ1世は王権神授説(王の権利はかつて神から直接由来するから、議会なんて関係ねえよ、というお考え)を信奉し、イングランドの議会制との付き合い方も知らない北方のならず者だったから、議会との仲が険悪になったものの、実際はエリザベス時代同様、ある程度寛容の幅が認められていたので、ウィリアム・バードはジェントルマンとして、王室礼拝堂に名前を置くことが出来、実際はもはや引退して、たまに出かけると「ご隠居様」と挨拶を受けながら、自作の出版などを行なっていた。
しかも1605年と1607年に出版された「グラドゥアリア1巻」「グラドゥアリア2巻」はまたしてもラテン語の宗教曲で、モテートゥスを集めた曲集になっている。さすが偉大な作曲家としてご老体の域に達していたバードは、カンタベリー大司教の公認を獲得して正式に検閲を受けてこれを出版することに成功したそうだ。これらは後に再販され、今だカトリック曲集の潜在需要を見せつけることに成功している。一方1611年には、「詩編、歌曲、ソネット集」が出版され、マドリガルやコンソート・ソング、合奏用の2曲の「ファンタジア」などと共に、国教会用のアンセムが収められた。折角だから、最後に教科書上巻を締め括っているモテートゥス「貴方はペトルスである。しかし私もまたペトルスなのだ。(ラ)トゥ・エス・ペトルス」の名前を上げておいて、バードの説明から離れることにしよう。
タリスやバードの国教会の音楽は、次第に国教会の英語音楽を芸術的高みに押し上げていったが、さらにラテン語モテットも英訳によって人気を保ち続けた。彼ら2人はまだラテン語による宗教作品により力を入れている感があったが、次第に新しい国教会音楽、アンセムとサーヴィスがイギリス教会音楽をリードするようになった。そして続くオーランド・ギボンズ(1583-1625)は「国教会音楽の父」と呼ばれるように、ケンブリッジ音楽学士の定番コースから王室礼拝堂に入ると、サーヴィス、アンセムなど英国国教会の音楽を最高の高みに到達させ、特に器楽伴奏付きのヴァース・アンセムで重要な作品を残している一方、オルガニストとしても活躍し鍵盤楽曲も数多く残し、ついでに世俗曲のマドリガルなどにも手を染めるなど、多彩な活躍を熟していった。もちろんこれはイングランドの王室礼拝堂作曲家は皆さんやっている方法である。さらにトマス・ウィールクス(c1575-1623)とトマス・トムキンズ(1572-1656)が義ボンズの傍らに控え、英国国教会を大いに盛り上げたそうだが、次の時代、ロンドンではピューリタン革命が勃発し、これまでの音楽環境は激流に飲み込まれて変質することになっていくのだった。
さて、バードは生涯に器楽合奏による伴奏付きの歌曲であるコンサート・ソングや、イタリアのマドリガーレのような重唱型の楽曲マドリガル、1591年にパトロンのネヴェル夫人に捧げられた鍵盤楽曲集「マイ・レディ・ネヴェルス・ブック」のような多数の鍵盤独奏曲も作曲しているし、純粋な器楽合奏曲である「ファンタジア」や、タヴァナーのミサから取られた「イン・ノミネ」という楽曲なども多数残しているが、この種の楽曲は、16世紀後半になって急激にイングランドでブームを呼び起こしつつあった世俗曲達で、その筆頭である舞曲と共に本格開始された印刷楽譜の隆盛と共に、大いに王宮や貴族、ジェントリ達の館を賑わせていた。バードを始め、ジョン・ブル(c1562-1628)、オーランド・ギボンズ(1583-1625)、トマス・トムキンズ(1572-1656)と云った鍵盤楽器奏者作曲家達は、イングランドの鍵盤楽器として定着した小型チェンバロであるヴァージナルにちなんでヴァージナリストなどと呼ばれて、数多くの舞曲や、「イン・ノミネ」などと共に、各種変奏曲の大流行を引き起こした。このような各種鍵盤楽曲は、この時期最大の曲集「フィッツウィリアム・ヴァージナル曲集」(1610代)や、王室礼拝堂ジェントルマンだったジョン・ブルがジェームズ1世の娘エリザベスの婚礼の贈り物として編纂した鍵盤楽曲集「パーセニア、あるいはヴァージナルのために印刷された最初の曲集」(1613)(パーセニアはギリシャ語の「処女」に由来する名称だとか)の中に見ることが出来る。おまけに翌年にはヴァージナルとバス・ヴィオラ・ダ・ガンバのための「パーセニア・イン・ヴィオラータ」も出版され、ここには鍵盤楽器の運指法まで記入されているというから驚きだ。
世俗重唱曲も、1588年にニコラス・ヤングが英語翻訳のイタリアマドリガーレ集「アルプスの彼方の音楽((イ)ムージカ・トランサルピーナ)」を出版し、以後じゃんじゃん出版を重ねると、貴族、ジェントルマンや商人達のイタリア音楽熱から大流行を収め、これが1590年代から1630年代まで花開くイングランドのマドリガル創作に刺激を与えた。トマス・モーリ(1557-1602)、ジャイルズ・ファーナビー(c1563-1640)、トマス・トムキンズ(c1572-1656)、トマス・ウィールクス(c1575-1623)、ジョン・ウィルビ(1574-1683)、さらにオーランド・ギボンズ(1583-1625)らが代表選手で、特にトマス・モーリは、「ファララ(fa-la-la)」のリフレインでお馴染みのガストルディのバッレットの影響を受け、「ファラ(fa-la)」のリフレインの目につくバレットや、キャンゾネット、マドリガルを作曲して、「Theマドリガル」と定冠詞付きで呼ばれるほどだったし(・・・いや、呼ばれても可笑しくないなと。)、1601年には、エリザベス女王を中世スペイン騎士物語のヒロイン名オリアーナとして賛美するという、23人の作曲家によるマドリガル集「オリアーナの勝利」をモーリが編纂。この曲集はすべて「Long live fair Oriana(美しいオリアーナ、万歳)」と締め括られることになった。またマドリガルもバレットもキャンゾネットも、元々は無伴奏重唱のためだったが、声部譜本の多くには「人声にも、ヴィオラ・ダ・ガンバにも適する」と指示されて出版の便宜が図られているが、16世紀末から17世紀初頭には、イングランドで各種器楽合奏曲の黄金時代が到来し、同種楽器による高音から低音までの楽器セットによるフル・コンソートと、異種楽器を組み合わせるブロークン・コンソートが盛んに作曲されるようになった。特にヴィオール属(ヴィオラ・ダ・ガンバもヴィオール属)の弦楽器をセットにするフル・コンソートは最も好まれたため、出版楽譜にも、取りあえず「ヴィオールでもいけるぜ」と宣伝を入れておくことが出版の増加に繋がったのだろう。鍵盤楽器のヴァージナルと共にアマチュアの学習が開始したリュートの流行と楽譜出版も開始していたが、リュートとヴィオラ・ダ・ガンバの伴奏付き独唱歌曲(または2重唱歌曲)は、大陸に大きく遅れること1600年初頭、イングランドで最盛期を迎え、特にマドリガル衰退と共に流行するようになったそうだ。トマス・モーリーや、トマス・キャンピオン(1567-1620)、そしてジョン・ダウランド(1562-1626)などがリュート歌曲を作曲し、ダウランドはマドリガルの詩よりもずっとすぐれていたエアですぐれた作品を残している。最も有名な「流れよ、私の涙(ラクリメ)」は、あまり見事な旋律だったので、ラクリメに基づく変奏曲だの器楽曲だの様々な編曲ものを生み出すことになり、これは今日まで継続している。こうしたイギリスの世俗器楽曲の音楽家達は、17世紀初めになって特にヨーロッパ北部で求められ逆に変奏曲のジャンルなどで影響力を与えるほどだったが、折角今谷氏の本に長々と紹介されているので、自ら署名に「ラクリメ(涙)のダウランド」と臆面もなくサインしちゃう、鴨ネギのダウランドについてざっと眺めてみることにしよう。
今谷先生が推測するところ1580年から4年間パリに留学に出かけていたダウランドは、あるいはリュート演奏の本まで出していたリュート奏者にして印刷業者のアドリアン・ル・ロア(c1520-1598)に師事した可能性があるそうだが、ついでにアンリ3世の宮廷音楽家トップのウスタシュ・デュ・コーロワ(1549-1609)と知り合い影響を受けたのではないかと推論を広めている。ところが、何時もマイブームだけで事を決めちゃう単純明快なダウランドは、さっそくフランス宮廷に被れて国教会を辞めてカトリックに改宗してしまったから、後々面倒なことになった。イングランドに戻った後は、オクスフォード大学に入り、音楽学士を得るという16世紀からのイングランド音楽家の定番コースの一つを辿り、リュート奏者として王室に近づこうとし、あるいはそのためもあってかカトリックになったのに国教会のための詩編曲集に参加したりしている。その後王室リュート奏者の一人ジョン・ジョンソンが1594年に亡くなったので、俺の出番だ、と志願してみせれば、見事にお断りされて、悲しみを癒す外国旅行に出かけてしまった。南に行けば行くほど元気になるから、各地を巡り巡りながら調子に乗って尊敬するルカ・マレンツィオ(1553/54-1599)が居るローマに向かっていたところ、フィレンツェで女王暗殺計画のイングランド人集団に絶好の鴨として仲間に取り入れられ掛けて、漸く気が付いて大あわてでローマにも行かず北方に逃げ帰って、泣きながら釈明の手紙を本国に送ったりして、余りの体たらく振りに、おい32歳と今谷先生呆れておしかり気味であった。ヘッセンで滞在してようやく1597年に本国に帰国した彼は、「リュート用タブラチュア付きの4声歌曲、あるいはエア集第1巻」を出版し大成功を収めることになった。もちろん楽譜には「すべての声部を歌っても良いし、ヴィオラ・ダ・ガンバ伴奏で歌っても良い」と便宜が図られているわけだ。リュート奏者としての名声だけはもともと高い彼は、結局デンマーク王クリスチャン4世(在位1588-1648)の王室リュート奏者として高額の給料で雇われデンマークに渡るが、彼こそはルター派の旗手としてドイツの30年戦争に参戦し、結果としてデンマーク大敗北状態を築く悲劇の国王であった。彼の宮廷で「デンマーク王のガリアルド」など多くの作品を作曲しながら、同時にロンドンで「歌曲第2集」を出版したり、大いに活躍しているが、この第2集に収められたのが「私の涙(ラクリメ)よ、流れるのです」であり、以後1603年には「第3集」が出版された。
イングランドにお出かけて次の国王ジェームズ1世の妻アンと知り合った彼は、さっそく1604年に「ラクリメ、あるいは7つの涙」というリュートとヴィオールかヴァイオリンのための5声の合奏曲を献呈、元の歌曲「ラクリメ」の編曲と、冒頭4音に基づく6つのパヴァーヌは「涙のパヴァーヌ」として有名だ。ところがデンマークに戻った彼は1606年には借金地獄の無一文になって、あげくにリュート奏者を解任された。理由は分からないが、素人博打に手を出して、鴨ネギよろしく有り金全部かっぽがれたのかもしれない。出来の良い彼の息子ロバート・ダウランド(c1591-1641)は1610年に各種リュート曲集を出版し出来の良い自立を果たすと、駄目親父の方はその曲集の中に「暗闇に僕は住みたい」という名曲歌曲を提供し、公にすねてみせることにした。1612年にはダウランド最後の歌曲集「巡礼の慰(なぐさ)め」が出版され、最後にまたしてもラクリメを使い回して3拍子の「ラクリメによるガリアルド」で曲を閉じたら、さすがにラクリメ効果がじわじわ伝わったか、1612年に国王付きリュート奏者に任命された。もちろん目的を果たしたダウランドの創作意欲は事の他乏しくなって、目立った作品が無くなったのは言うまでもない。
ヘンリー7世時代からブルゴーニュ公国の宮廷音楽を模倣して拡大開始した宮廷世俗音楽の組織は、特に楽器を熟し作曲を行なうブルゴーニュ宮廷の精神の乗り移ったかのようなヘンリー8世の時代に大きく拡大した。彼は王の音楽「キングズ・ミュージック」に外人演奏者どしどし採用して、エリザベス時代に入って「クイーンズ・ミュージック」になっても2/3が移住組みの外人部隊で占められていたそうだ。特に虐められて彷徨うユダヤ人達の音楽家が、多く採用されているのは、この時期のイングランドがユダヤ人にとって非常に寛大だったので、要するに定住を決め込んでイングランドに渡ってくる多くのユダヤ人と、また音楽家があったという。宮廷音楽は祝祭や儀式など様々な形で華やいだが、王室礼拝堂聖歌隊と共に宮廷内で好まれていた演劇芝居にも関わり、特にヘンリー8世が踊り狂っているうちに踊れないものは宮廷に入れないほどのダンス熱が沸き起こったか知らないが、パヴァーヌとガリアルドなどの各種舞曲のための音楽も彼らの仕事だった。このダンス熱は宮廷に限らず広くブームを呼び起こしていたから、宮廷に所属する音楽家達は印刷楽譜を出版する形で、市場に各種舞踏音楽を送り出し、やがて実践舞踏から離れた独立した器楽曲の心持ちがしてくるほどだったし、こうした舞曲は自ら演奏を試みるアマチュア層の成立に合わせて、鍵盤楽器やリュート用楽譜に編曲され、市場を賑わせることになった。16世紀半ば頃からようやく国王から他の貴族達に伝染した楽器学習と演奏熱が、16世紀後半には、裕福な都市市民にまで及び、ヴェネツィアやパリに遅れて、漸く実質的な市場を当て込んだ印刷楽譜の販売が開始することになった。
ロンドンではまた町の楽師団ウェイツが、ロンドン内の各種音楽を行なう団体としていて、1571年には冬以外の日曜日ごとに塔上から器楽を演奏する定期的な公開コンサートが事実開始したんだそうだし、それ以外の楽器演奏家達もギルドを組織しながら、居酒屋ムージクムや、どんちゃん騒ぎ用音楽に参加すべく、凌ぎを削って都市音楽を賑わせていた。
2005/11/10