7-7章 大航海時代とスペイン

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大航海時代

 長い十字軍の時代は東方への関心の高まりと、イタリア商業都市の東方貿易の隆盛が結びついていたが、13世紀にユーラシア大陸に帝国を築いたモンゴルが、交通路の安全と交易の保全を図ると、ヨーロッパの東方への貿易はさらに拡大し、ローマ教皇の使節がモンゴル帝国に派遣され、ヴェネツィアの商人であるマルコ・ポーロ(1254-1324)が「おいらは元までいっただ」と「世界の記述(東方見聞録)」に記すほどだった。こうしてイタリア商人達が、各種航海術を発展させながら、地中海貿易を通じて東方と行なう商業活動で莫大な富を獲得し、互いに都市同士で勢力を競い合うようになっていくが、一方北方ではフランドル、バルト海都市を結ぶもう一つの海の貿易ルートが存在し、こちらも漁業に羊毛業など大いに商業活動をたくましくしていた。レコンキスタが次第に侵攻し、グラナダ王国のイスラームが通商の妨げにすらならなくなった13世紀末から、ジブラルタル海峡を越えて2つの商業圏が海で結びつくようになり、イベリア半島には当初ジェノバ商人の商館が立ち並んだ。イベリア半島の都市は商業圏の中継地点として重要な役割を担うようになり、イベリアに勢力を持つ西のポルトガル、中央のカスティーリャ、東のアラゴンの王室が、この貿易のもたらす収益に目を付けるようになって行く。(他に北東の小さなナヴァールもあるが。)まず元々ナポリ王国を自らの勢力圏と考える、アラゴン王国があるが、ここはルネサンス期に入ってもフランスとナポリを奪い合い、大きく重心が地中海に向けられていた。一方西方のポルトガルはカスティーリャとの勢力争いの中で、すでに偉大な国王ジョアン1世(1357-在位1385-1433)が何度もカスティーリャ王国軍を打ち破りながら、フランスとカスティーリャの同盟に対抗して、1386年のウィンザー条約でイングランドと結びつくなどしていたが、1411年にカスティーリャ王国と講和を結んだ後、リスボンに商館を立てて大いに活気づくジェノヴァ商人などの情報を元に、いよいよ地中海外への貿易拡大を画策し始めた。ジョアン1世は息子のエンリケと共に、1415年に北アフリカはイベリア半島のすぐ南の現在モロッコにあるセウタという都市を攻略、この地でイスラーム商人から貿易圏や地理状況なども聞き出し、アフリカ大陸に向けた権益拡大に方針を定めた。また同年、今日ではスペインの一部になっているカナリア諸島を発見、遠くアメリカ大陸に向かう大西洋側への貿易ルート確立への第一歩を踏み出す。息子のエンリケが航海ルート確立の立役者として選ばれ、彼は地方総督としてポルトガル南端にあるザグレスを拠点に船乗り育成から情報収集、地図作製などを行い、航海学校設立すら行なったとも言われている。その後いよいよ冒険航海が開始、1418年には北アフリカはカサブランカの西方に浮かぶアデイラ諸島を発見し、22年からはヨーロッパ人の越えられない死の果て、「恐怖の海」と呼ばれるボジャドル岬越えを目指し、27年にはリスボン(ポルトガル首都)の遙か西方に浮かぶアゾレス諸島に到着、そして1434年に遂にボジャドル越えを果たすと、40年にはアゾレス諸島に植民し、1445年にはアフリカ海岸を南に進行し、北回帰線を突破した先にあるヴェルデ岬にまで到着した。最後にはシエラレオネまで到達したが、どうも驚く、イスラーム商人達は我々の世界の果てかと思っていた世界でもうろちょろ貿易をしてのさばっていやがるじゃないか。さっそくポルトガルも、アフリカ原住民との交易に参入し、金や砂糖をポルトガルに持ち込み、原住民を動物のようにとっつかまえて売りさばく奴隷貿易も姿を見せ始めた。こんな美味しい商売があるなら、もっと冒険せねば為りませんな、ほほほほ、と思ったかどうだか、エンリケ達には他にも、遙か南方に「プレスター・ジョン(聖ヨハネ)の(子孫達の居る)国」というキリスト教のまだ見ぬ大国が我々を持っているという伝説も信じて航海ルートを広げていったのだった。さて長男でなかった彼は、死ぬまで王子のままだったので、人々はそんな彼の航海繁盛っぷりを讃えて、「エンリケ航海王子」と讃えてみたそうだが、彼の後も冒険航海は続き、1470年にはアフリカの象牙海岸(コート・ジヴォワール)に、82年には赤道まで越えて、1488年とうとうバルトロメウ・ディアス艦長の遠征隊がアフリカ最南端に到着し、大喜びでリスボンに帰ると、西方へのアプローチを提案したクリストファー・コロンブスの提案を足蹴にした、時の国王ジョアン2世(1455-在位1481-1495)は大喜びで、これを「喜望峰」と命名した。実際はさらに東南東に向かったアガラス岬がアフリカの最南端だったのであるが、当時すでにアフリカを迂回すれば、へっぽこオスマン帝国とイスラーム商人が邪魔をするアジアと直接貿易が可能だと理解されていたので、いよいよヨーロッパ人の直接アジア圏への貿易ルートが確立するその時に近づいた感じだ。ちなみに、このジョアン2世は1479年に連合王国となったイスパニアのイザベル1世やフェルナンド2世と同時期の国王で、強権化を図る隣接大国に対して、ポルトガルの中央集権化を行ない、身分制議会コルテスの援助をもとに貴族を弾圧するなど強権をもって活躍したために、「無欠の王」と讃えられた人物だ。
 その頃ジェノヴァの商人クリストフォロ・コロンボ(c1451-1506)(英語クリスロファー・コロンバス、日本風発音クリストファー・コロンブス)は苛立っていた、航海貿易の最中辿り着いたリスボンでトスカネリの唱える地球球体説に感銘を受け、彼にお手紙を差し上げて、ポルトガルを西方大洋に乗り出せば何時かアジアに到着するの結論にいたった。実際地球球体説は当時かなり確実なこととされていて、コロンブスの出発する1492年にはドイツ人のマルティン・ベハイムが地球儀を作製しているほどだ。コロンブスは喜び勇んでジョアン2世に「グレートなアイディアを聞いてくれ」とお頼みたところ、体よくお断りされ、今度はイスパニアに泣きついてみたが、なかなか了承が得られない。しかし1492年にグラナダが陥落してレコンキスタが終了する年に、イザベル女王から「しょうがないわね」と援助を得ることが出来た。こうしてサンタ・マリア号を旗艦にアジアに辿り着くつもりで、カリブ海の島にご到着して、大喜びで命名したのが今日のサン・サルバドル島だ。1493年1月、大喜びでイスパニアに戻るコロンブスに対して、驚いた国王も新しいイスパニア領となったその地の総督に彼を任命し、さらなる探検とその費用を出したので、コロンブス勇んで何度もカリブ海とイスパニアを行ったり来たりした。イスパニアから植民がなされ、原住民はアジアと間違っていたために、うっかりインディオと命名され、それが今日までの名称になってしまった。ところが現地当地で大いに問題が起こり、最後には統治不能の逮捕と相成って、すべての権利を剥奪され、それでも自ら船団を組織して出かければ、港に入れて貰えなかったりして、最後には切ない難破救助後イスパニア送還となって、病に倒れお亡くなりた。
 一方大西洋を渡ればアジア行きが伝わると、イベリア半島からイタリアに掛けての国王から商人まで大変な騒ぎとなった。アフリカ経由でアジアルートの見通しが開けたポルトガルと、イスパニアがこれからも継続されるであろう新発見領土の権益を巡り、1493年中には教皇の仲裁の形でおおよそ新大陸アメリカの東側をぶった切るような分割線を設け、これは1494年に時の教皇アレクサンドル6世が仲裁したトルデシリャス条約によって、正式に定められた。さらに後1529年にはアジア圏、特に1512年にポルトガルが進出し遅れてスペインが利権を画策したモルッカ諸島の勢力範囲を巡り、アジアでの分割線を定めたサラゴサ条約も発効し、地球全土を2国間で勝手に分割してしまった。このモルッカ諸島はいい加減な説明ではフィリピンの南の方に沢山浮かんでいる島群のことで、大航海の究極目的であるアジアの胡椒など香辛料の産地であったために、2国とも目の色を変えて利権を争っていたのだ。実際は当初のアジア貿易は、確立されていたアジア商業圏に局地的な拠点を築いて貿易を行なうもので、全体を植民化して属国のように東南アジアの国々に殴る蹴るの取り扱いを開始するのはもっと後のことであるが、これによってモルッカ諸島はポルトガルの勢力範囲となり、それに対してスペインはポルトガルから賠償金を貰って、オーストラリア全土の権利を獲得することで話が付いた。しかし実際フィリピンはフェリペ2世の名称で名付けられた国家名であるように、スペイン勢力は分割線の西側にもあったし、かなり先に植民したもの勝ちなところがあったようだ。
 さて、話を喜望峰発見の頃に戻すと、ポルトガルはイスパニアの西方ルートに脅威を感じ大いに焦るが、なかなか喜望峰の先が見えてこない。しかし、1497年オケヘムの亡くなったのに祈りを捧げた(とは思えないが)ヴァスコ・ダ・ガマ(c1649-1524)が、国王から提督としてサン・ガブリエル号に乗り込むと、遂に喜望峰を越えてインド洋に突入、誰もいない海に大喜びかと思ったら、何たることか、イスラーム商人が平然と海洋貿易を牛耳っていた。泣き笑え状態でイスラーム商人に先導されて、ついに1498年ガマはカリカットに到着すると、見事ポルトガルに帰還を果たした。港で「見事」「あっぱれ」の声が響く。以後ポルトガルはアフリカ・インド洋ルート貿易を確立独占し、ガマはインド洋提督として再度インドへ向かい、帰国後は伯爵の称号まで貰っているから、コロンブスとは雲泥の差だ。
 一方新大陸の方では、コロンブスの後を追い掛けたアメリゴ・ヴェスプッチ(1454-1512)がやはり1497年から新大陸へ航海を行ない、「これはアジアではない別の大陸であります」と主張したので、コロンブスさようなら、新大陸はアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形americaと呼ばれるようになってしまったのだった。これによってコロンブスは「詐欺師」「ペテン師」「芋虫野郎」「なにがこうすれば卵が立ちますだ、すこし反省しろ」などと罵声を浴びせられ、身も心もズタボロになってしまった。以後もイスパニアによって新大陸侵略が続いていくが、1500年にポルトガルのペドロ・アルバレス・カブラル(1467/48-1520)がインドに向かう積もりでうっかり漂流して南アメリカ大陸に流れ着いてみれば、この地は先のトルデシリャス条約による分割線の東側、つまりポルトガルのものであることが判明、さっそく新大陸貿易にも力を入れ始めたポルトガルは、ここに後のポルトガル領ブラジルを築いていくことになった。その後、イスパニアのバルボアという奴がパナマ地峡に上陸して、さらに西に広がる(後の)太平洋を眺めれば、ポルトガルの国王カルロス1世にお頼みたフェルディナンド・マゼラン(ポルトガル語フェルナン・デ・マガリャンイス )(c1480-1521)が1519年トリニダード号を旗艦に西回りアジア(特にモルッカ諸島)ルート発見の旅に出かければ、ついに南アメリカ南端の後のマザラン海峡を通り抜け、急に穏やかになって広がる大洋をマール・パシフィコ(平和の海、太平洋)と命名しつつ、1521年偉大なジョスカン没年にフィリピン諸島に辿り着いた。結局彼はこの地で原住民に「私が王だ」と叫んでしまったために、戦闘となって殺されたが、前にインド洋経由でアジア圏まで来ていたから、まあ彼個人も世界一周と云っていいだろう。マゼランが「一足先に帰って居るぞ」と呟いて亡くなったのを見届けたか艦長代理の指揮で航海を続け、その年の11月にはついにモルッカ諸島にたどり着いた一行は、最後には1隻18人となって1522年にインド洋航路でスペインに辿り着いた。この西回りルートは以後有用性が認められなかったが、この航海によって一つの船が地球を一周回って、地球が丸いことを実験的に証明してしまったわけだ。
 以後の歴史は諸君ご存じの通りだ?。1530年代には中国にも進出し、1543年には種子島に鉄砲と一緒にポルトガル人が顔を出し、アジア圏では当初アジア商業圏に負ぶさるように貿易を開始したヨーロッパ人達だったが、新大陸とアフリカ大陸ではやりたい放題を極め、新大陸では植民地経営で原住民をこき使いながら、1521年にはスペイン人のコルテスがアステカ帝国を亡ぼして、本人がちっとも喜ばないジョスカン記念とし、1533年にはやはりスペイン人のピサロがインカ帝国を滅亡させた。こうしたスペイン・ポルトガル人の征服者達は、コンキスタドーレスと呼ばれ勝手放題現地を荒らし回りながら、成果を国家に吸い上げられつつ、酷使・殺戮だけでなくヨーロッパから免疫のない疫病を持ち込んで、想像を絶する現地民を病気で抹殺してしまった。そして人手が足りなくなると、やはりやりたい放題のアフリカで人間狩りを行なって、船に詰め込んで、黒人奴隷として新大陸に投げ込んだのだ。特に16世紀後半から新大陸のポトシ銀山などの銀山が次々に発見されると、大量のアフリカ奴隷を動員して銀を掘り出しては、本国に送り込んだ。こうして特にスペインは銀によってヨーロッパ随一の富を獲得し、貿易港セビーリャは各国商船で大いに賑わったという。イタリア人達の地中海貿易はもちろん継続していたし、敵対するオスマン・トルコとも貿易活動自体は活発だったため、スペイン・ポルトガルの遠洋貿易と地中海貿易が結びつき、当然華やぐイタリア商人達もセビーリャで活躍していたわけだ。
 なお、この新大陸の発見によって、カリブ海の原住民がすったり吐いたりしている謎の煙、すなわちタバコがヨーロッパにもたらされ、ジャン・ニコがリスボンに来ていたタバコをフランスの方に紹介してしまったら、16世紀後半から喫煙の習慣が開始してしまったり、コロンブスがジャガイモをお持ち帰りになって、しばらくの間観賞用植物として楽しまれたり、他にもトマト、ヨーロッパでは育ちが悪くアジアにもたらされて大ブームを巻き起こした?サツマイモ、さらにトウガラシも新大陸からの贈り物だそうだ。アフリカからはカカオ、さらに17世にブームを巻き起こすコーヒーもトルコ方面からの習慣を取り込んだもので、新大陸からもたらされた恥ずかし御病気の梅毒の流行は、風呂に入らず香水振りまく薄汚いヨーロッパ人の伝統を生み出す原動力となった。

統一スペインの音楽

 ここでカスティーリャ王国(半島中央に広がる)の女王イサベル1世(1451-在位1474-1504)とアラゴン王国(ピレネー山脈側)のフェルナンド2世(1452-在位1479-1516)が王同士の結婚によって、フェルナンドが同時にカスティーリャ国王フェルナンド5世(在位1474-1504)となって共同統治を行ない、イスパニア(スペイン)王国を誕生させることになった後の、スペインの音楽事情について見てみることにしよう。ブルゴーニュ公国の宮廷が持っていた新しい騎士道やら祝祭行事や私設礼拝堂楽団や宮廷楽団の華やかな音楽やらを含めた宮廷振りは、丁度ブルゴーニュ公国が崩壊する頃から本質的に周辺地域に取り入れられていった。ドイツではマクシミリアン1世が、イングランドではヘンリー7世から8世に掛けて、そして北イタリアでは芸術パトロンとしての宮廷が都市ごとに登場し、フランスでも取り込まれた宮廷文化は、後にふらんそわ1世の時に完全に花を咲かせるに至った。もちろんこれは、ブルゴーニュ公国などから影響を受けつつ古典古代の芸術復興に目ざめ芸術文化の擁護者としてのパトロンを兼ねた支配層としての、イタリアにおけるルネサンス型宮廷振りの輸出とも同時に絡み合うような感じで、ヨーロッパ全体の宮廷文化水準を押し上げていったのだが、アルプス以北の国々ではそのような動きが、中央集権と国家的意識の成立と結びつきながら進行し、官僚制や国王軍隊の成立や各種インフラ整備などと共に、発展していったのである。そして連合国家となり(実際はアラゴンとカスティーリャの性質の違いが果てしなく残っていたものの)中央集権化を目指すイスパニアにおいても、政治上の整備と共に、宮廷礼拝堂の歌手達や、宮廷楽器奏者達の拡充が行なわれ、イザベル1世は間違った歌手を訂正して見せるほど、音楽に関心を示し、当然自分の子供達を宮廷礼拝堂の歌手達に習わせる、文芸にも堪能な指導者養成という当時のブームに従った。やはりイスパニアでも宮廷が各地を移動しまくりな状況の中、礼拝堂の歌手達は、宗教曲と共に比較的単純な世俗曲も残しているフアン・デ・アンチエタ(1462-1523)を楽長として活躍していたし、王室の宮廷では、イタリアとスペインで活躍したスペイン人のファン・デル・エンシーナ(1468-1529/30)の曲なども演奏されただろう。エンシーナは1492年からスペインの名門アルバ公爵の宮廷で歌手・作曲家としてだけでなく、劇作家としても活躍していたが、彼の戯曲の写実的精神が込められた「牧人劇(エグロガ)」などは、教会で使用された可能性のある宗教的題材のもの以外に、完全に世俗的な愛だの恋だのを描いた公爵の宮廷用のものが含まれていて、しかも彼は自らの詩と戯曲を纏めて「カンシオネーロ」(1496)として出版したため、スペイン劇を離陸させただけでなく、ルネサンス演劇のお父様と呼ばれることまである始末。1499年からはローマにも出て、例の教皇アレクサンドル6世のご寵愛などお受けしながら、16世紀初めの戯曲作家達に大きな影響を及ぼした。そして、そんな彼は、晩年の1519年にはスペインノレオン大聖堂付き修道院の院長となる聖職者でもあり、特にビリャンシーコやロマンセなどの多声世俗歌曲を70曲以上残した世俗曲のヒットメーカーでもあったのだ。ビリャンシーコというのは複数の詩節と繋ぎの反復句を持つイスパニアの民衆的素材を扱った歌曲で、「王宮の歌集(カンシオネロ・デ・パラシオ)」(1516)には300曲以上の多声曲が治められ、エンシーナ以外にも多くの作曲家が曲を書いているようなイスパニア馴染みの楽曲で、少し前に流行っていたブルゴーニュ風のシャンソンに取って代わって、15,16世紀に大いに流行したものだ。
 さて、共同統治の国王の子供達はイスパニアの国家安泰を兼ねて各国と婚姻関係を結ぶために大いに利用されもしたが、特にナポリなどを争うフランスに対抗するため、ハプスブルク家と手を結ぶ政策が敢行された。そのうち、息子フアンと神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルガレーテ・オブ・ネーデルラントの結婚はフアンの急な死で双方に実りのないものに為ってしまったものの、娘のフアナとやはりマクシミリアン1世の皇太子であるフィリップの婚礼によって、目出度くも次のスペイン国王カルロス1世が誕生することになった。
 そうなる前の、1500年にフランドルの宮廷で充実した聖歌隊を組織していたフィリップは、その聖歌隊を引き連れてイスパニアを訪れ、フランドルの音楽伝統をイスパニアに伝達する役割を果たし、帰っていくことになったが、そのフランドル宮廷の聖歌隊の中には、知られた作曲家であるピエール・ド・ラ・リューの姿も見ることが出来る。しかしイザベル1世が亡くなりフィリップがカスティーリャ王に就任するためにスペインに到着すると、突然お亡くなりて、カスティーリャ女王となった奥さんのフアナは狂乱状態に陥って、ピエール・ド・ラ・リューが率いるフランドルの歌手達にミサと慰めの宮廷音楽を歌わせながら、1年のあいだ夫の遺体を埋葬しないで地上に留めて狂女と化してわんわん泣き濡れていた。その遺体をうっかり覗いたかやはりフランドル歌手としてイスパニアに来ていた作曲家のアレクサンドル・アグリコラ(c1446-1506)はぽっくり急死してしまう事件もあり、イスパニアの王室礼拝堂楽長だったフアン・デ・アンチエタも仕方がないんで、フランドル歌手と共に行動を共にした。そしてようやく1508年にフアナが幽閉状態にされてアラゴン王フェルナンド2世が国王代行を勤めると、フアナの囲っていた聖歌隊が解散を命じられ、歌手達はフランドルに帰っていった。
 その後、フェルナンド2世は1511年に教皇ユリウス2世がフランスに対して同盟を組織した神聖同盟にも参加、12年にはピレネー山脈の西側北に位置するナバーラ王国を併合し、ナバーラ王はフランスに逃れて領地奪還に情熱を燃やした。そして、彼が本当はスペイン生まれでスペイン育ちの息子フェルナンドを国王にしたいのを押さえて、フランドル生まれの長男のカルロスを国王に指名して亡くなると、スペイン語のしゃべれない偉大な国王カルロス(1500ー在位1516-1556)が国王として就任し、さらに神聖ローマ皇帝カール5世(在位1519-1556)にも選出されたのだ。面白いことに、スペイン生まれのフェルナンドは、カール5世の後任として神聖ローマ皇帝フェルディナント1世(1503-在位1556-1564)として即位し、オーストリア系ハプスブルクに腰を下ろすことになったのだが、カルロス1世が自分の聖歌隊を引き連れてスペイン入りした後、王室礼拝堂の歌手達からはスペイン人が閉め出され、スペイン人作曲家の活躍の場は、すでに聖歌隊が整備され十分なポリフォニー訓練も為されている大聖堂聖歌隊を通じて、宗教音楽を奏でながら、貴族の宮廷などで世俗曲を作曲する方向に移っていった。
 一方カルロス1世の宮廷礼拝堂の歌手達には、1526年にはニコラ・ゴンベール(c1500-c1557)が加わり、犯罪を犯し三段櫂船(かいせん)の刑で聖職録を剥奪される1538年頃まで活躍していたし、王妃イサベラの宮廷音楽家の中には、スペイン人であるアントニオ・デ・カベソン(1510-1566)が盲目のオルガニストとして活躍、後のフェリペ2世時代に掛けて、スペインのファンタジアの呼び名であるティエントや、変奏曲ディフェシンシアスといった題名の数多くの鍵盤楽曲を生み出していた。そして当のカルロス1世はジョスカン・デ・プレ(?)の「千々の悲しみ」が大好きなので、世俗音楽家はスペイン人だって続々登用の王室宮廷のビウエラ(スペインでの弦楽器の総称)奏者であるルイス・デ・ナルバエス(c1500-c1550)がこれを編曲して、「手で引くビウエラ」(まあええ加減にギターみたいな楽器か)のために「皇帝の歌」として捧げた物を、「これはいい、俺のテーマ曲に使用」と言って、開戦の時にはこれを演奏しながら戦場に赴いたりなんかしても・・・まあ、可笑しくはないだろう。

カルロス1世(スペイン王在位1516-1556、神聖ローマ皇帝カール5世在位1519-1556)

 フランドル地方のガン(ゲント)生まれの彼は、ハプスブルク系の父親と、スペイン系の母親を持ち、フランドル地方の公用語的存在だったフランス語を母語として成長し、しばしばパリに滞在して宮廷に出入りして、フランスがお気に入りという、真の国際人だった。ブルゴーニュ宮廷伝統を引き継ぐマルガレーテ・フォン・エスターライヒに育てられ、後の教皇ハドイアヌス6世に家庭教師をして貰いつつ成長した彼は、1506年のフェリペ1世(フィリップ・ル・ボー)の死によって、低地地方の後継となり、さらにイザベラ1世と共同統治を開始してスペインを成立させたフェルナンド2世がお亡くなると、脳みそがご病気のおっ母さんフアナと共同統治名義でカスティーリャ王となり、事実上の国王就任を成し遂げたのだった。スペインにやってきたら、さっそく諸侯と争いが生じたが、これを目出度く収めて国王たるところを見せつけると、「外人国王めが」と陰口を叩かれながらも、必死にスペイン語を習ったりしてみせた。1519年にはマクシミリアン1世もお亡くなりたので、ハプスブルク家も継承、フランスのフランソワ1世とノストラダムスもビックリの皇帝争奪戦を演じ、アウグスブルクの大銀行フッガー家から莫大な選挙資金を借り受け、見事選帝侯達を味方に付け、1519年のうちに皇帝に就任、翌年イングランドのヘンリー8世と会談など致しながら、アーヘンで戴冠式を挙げた。しかし彼は、劣等な言語として決してドイツ語だけは覚えようとしなかったそうである。
 その後、1521年にレオ10世と結んだカール5世がフランス支配下に陥っていたミラーノを奪還すると、狭義のイタリア戦争が開始、1525年にはパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕獲してみたが、釈放を条件に講和条約を結んでパリに帰っていった。これを第1次イタリア戦争と云うが、フランソワ1世はパリに着くやいなや、笑顔を回復して条約を破棄。以後フランソワ1世はすでに国内不穏の度合いを強めていたルター派の宗教改革運動のプロテスタント勢力に肩入れし、オスマン・トルコのスレイマン1世(在位1520-1566)とこっそり同盟を結んで、カトリックもへちまもあった物か、対ハプスブルク路線をひた走っていった。さらに今度は教皇クレメンス7世もフランス側についたので、ついに反ハプスブルク同盟が結成され、真っ赤になってお怒りたカール5世がローマに進軍を開始。この途中司令官を失った軍隊によって1527年にローマ略奪(サッコ・ディ・ローマ)の惨事が起こり、それに対してフランソワ1世の働きかけもあってオスマントルコの軍隊がウィーン親交を開始。1529年の第1次ウィーン包囲を辛うじて切り抜けたカール5世は、「カンブレーの和約」でフランスにイタリア放棄と賠償金支払いを行なわせ、1530年には刃向かった教皇クレメンス7世を脅して神聖ローマ皇帝の戴冠を行なわせて見せた。ここまでが第2次イタリア戦争で、以後第3次、第4次と続くがすでにハプスブルク家の優位は覆らず、1559年のカトー=カンブレジ条約をもって、フランスはイタリア権益を放棄する定めとなった。
 これを眺めていた医師で占星術師のミシェル・ド・ノートルダム(ペンネーム、ノストラダムス)(1503-1566)は後に2人の一連の諍(いさか)いを「ミシェル・ノストラダムス氏の予言集」に織り込んでみたようだが、彼はリヨンで

『若干の魅力的な処方についての知識を得たいと思う全ての人々にとって優良かつ大変有益な二部構成の小論集。第一論文は顔を麗々しく、一層美しいものにするための美顔料や香料の作り方。第二論文は目次で多く言及されている通り、蜂蜜、砂糖、濃縮ワインなどをたっぷり使ったいくつかのジャムの作り方の手ほどきを示すもの。プロヴァンス州サロン・ド・クローに住む医学博士ミシェル・ド・ノートルダム師が新たに編纂し、新しく公刊されたもの』(ウィキペディアより引用)

という長いタイトルの出版物を出版して、化粧とジャムの作り方について説明を加えたりして遊んでいたようである。
 すでに1517年にイーザークの死に呼応して開始したルター派宗教改革運動に対しては、ジョスカンの年である1521年に開かれたヴォルムスの帝国会議にルターを召還し、異端宣告を行なったが、ルターはヴァルトブルク城に逃れて、ドイツ語訳聖書などを執筆する内に、改革過激派の活動やら農民戦争(1524-25)が勃発して、ルター派諸侯や都市も1529年にカール5世に改革を求める「抗議書(プロテスタティオ)」を送りつけた。「抗議する者」を意味するプロテスタントという名称はこの時に誕生したのだそうだ。この帝国内乱状態の争いは結局1555年のアウグスブルクの和議まで続くことになるが、このプロテスタント拡大に合わせて行なわれたカトリック側の見直し運動の焦点となる1545年からのトリエント公会議に力を入れ、カトリック再生の念願を抱いていた。
 もちろんその間にもオスマン・トルコなどとの戦闘が続き、笑顔の素敵な西の奴に続く宿命のライバル、オスマン・トルコのスレイマン1世と激しく渡り合ったが、35年にオスマンの海と化していた地中海を回復し、翌年フランソワ1世と同盟を結んでオスマンに当るライバル転換を成し遂げたが、結局フランスはオスマン戦から離脱して、カール5世は1538年のプレヴェザの海戦で、放心状態に陥るほどの敗北を喫して、地中海の制海権を失い、オスマンとも一時講和を結ぶ結果と相成った。
 疲れ果てたるカール5世は、56年にスペイン王位を息子のフェリペ2世に、帝国の方は弟のフェルディナンド1世に継承し、58年までの短いご隠居生活を過ごしてから亡くなったそうである。

2005/11/11

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