7-8章 器楽曲の隆盛

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16世紀の器楽の隆盛

 1450頃から器楽独自の様式、種目、形式が目立つようになってくるそうで、記憶や即興から記譜楽譜の精神が現れ始めた。そうした器楽曲とは別に、もちろん当時様々な形で演奏され巷を賑わしていた、即興やら歌を元にした楽器演奏やら、舞曲やら名人芸など様々な器楽曲が存在していたのだが、数多くの文献や、絵画に描き込まれた楽器などを見るに付けても、失われた音楽の多様性はうかがい知れる物の、それらは肝心の音だけがすっぽりと抜け落ちてしまった。残された最初期の器楽曲の多くは鍵盤楽器用への編曲であるが、これは初めての器楽曲でも何でもなく、譜面化する必要があったので、最初期に譜面上に登場しているという訳だ。特に専門音楽家ではない趣味で音楽演奏を求める貴族や大商人の有閑層が、特にリュートにターゲットを定めて楽器の練習を行なうようになると、楽譜出版業の隆盛に合わせて、例えば1507ー8年にはペトルッチが4巻のリュート奏法譜曲集を出版し、またフロットラなどの声楽曲の最上声だけを独唱として、下声部がリュート伴奏譜となった、リュート伴奏付き独唱曲の楽譜も登場した。同時期の「ヴィンイェンツィオ・カピローラの写本」というものにもフランドル作曲家の声楽曲をリュートに編曲した物が収められ、しかもレガートや強弱記号が書かれた極めて書記の例になっているそうである。しかし当時の器楽曲は作者の書かれない物も多く、編曲でも元の声楽曲の作者だけが書かれることが多かった。16世紀の楽譜には「per cantare e sonare」歌っても、弾いてもよいという指示のある曲が沢山残されているように、当時の器楽曲は声楽を元にしたものがやはり一番多く、また踊るための伴奏から派生した舞曲も幅を利かせたが、譜面化されそれが器楽作品として認知されるようになると、次第に様式化し純粋な器楽曲となり、また新しい器楽曲のジャンルなどが開拓されていくことになった。楽器と奏法などを記した書物の出版も、この時期登場し、セバスチャン・ヴィルドゥングの「ドイツ語による音楽概観」(1511)などが書記の例として上げられているが、百科全書的なミヒャエル・プレトーリウス(c1571-1621)の「音楽大全(ラ)シンタグマ・ムジクム(ドイツ風発音?)ジューンタグマ・ムージクム」が重要だそうだ。  これを読むと、同族楽器の合奏用のひと揃い(チェスト、コンソート)は4~7のサイズの異なる楽器で構成されることや、ヴィオラ・ダ・ガンバは棹にフレットが付き、弦が6本であり、調律は真ん中が長3度になり、他は4度で調弦されるなど細かい説明が掲載されている。オルガンはイタリアでは比較的小型の物が使用されていたが、16世紀にはドイツや低地地方のオルガンに足ペダルの大ブームと大型化の波が押し寄せ、さらに鍵盤楽器として、クラヴィコードとハープシコードが流行を開始、1518年にはオルガン用のフロットラ編曲楽譜などがすでに出版され、以後様々な楽譜が残されることになる。ただし当時の貴族や裕福市民の家庭的アマチュア独奏楽器としてもっとも重要なものは、先ほども見たように一家に一台の必需品になったリュートluteだった。これは実際は500年以上前である中世の頃から知られていたが、この時期大爆発して奏法譜(タブラチュア)という特殊な記譜法を使ってフレットを押さえる場所がすっぽり分かるリュート用の編曲楽譜が多数出版され、猫も杓子も取りあえずリュートの譜面で演奏してしまう風潮だったという。もちろん鍵盤楽器のための出版物も増加していくことになるが、アマチュア楽譜が鍵盤楽器をメインに置くのはバロック時代に入ってからで、これはそのまま古典派の時代頃からピアノに替わられ、今日まで続いている。

声楽と器楽の関係

・16世紀前半、様式も演奏も声楽と密接だった。典礼は聖歌隊の歌とオルガンがアルテルナーティムという方法で、交替に声と器楽を交替させる方法が広く知られていた。通常歌われる部分に代わった短いオルガン曲を、ヴァース(文字通りには詩行)または(仏)ヴァルセと読んだが、場合によってはキリエとグロリアの部分をオルガンヴァースだけで行なうことも出来たし、そのうち独立したヴァースという曲が登場するようにもなっていった。声楽との密接な関係から、同族の楽器を一組にするフル・コンソートが好まれ、それぞれの楽器がすべての音域を網羅するだけの大小サイズワンセットの同族アンサンブがルネサンス的精神に相応しかったそうだ。一方異なる音色を組み合わせる喜びももちろん認識され、異なる楽器の組み合わせはイングランドではブロークン・コンソートと呼ばれた。

イングランドの器楽曲

・ここでは特にヴィオール属合奏が好まれ、管楽器の種類が非常に豊富な特徴があった。有名な器楽にジョン・タヴァナがミサ曲「三位一体である貴方に栄光がありますようにグロリア・ティービ・トリニタス」のベネディクトゥスの「主の御名によってイン・ノミネ・ドミニ」を自作編曲していらい静かなブームを呼んだ、一連の後続作曲家によるタヴァナのその部分をモチーフにした「イン・ノミネ」という沢山の楽曲がある。さらにイングランドでは、鍵盤楽器用と合奏用作品において、ヘクサコードの6つの音からなる主題により作曲する方法も流行し、特にジョン・ブル(c1562-1628)のヘクサコード・ファンシでは、ヘクサコードが順次に12の調全部に現われると云うから大した者だ。また、ブルの同時代人のフランス人オルガン奏者であるジャン・ティトルーズ(1563-1633)の「舌よ讃えよパンジェ・リングア」も器楽名作であると書いてあったので、ついでに載せておくことにしよう。

声楽曲に由来する器楽曲

 カンツォーナ・ダ・ソナール(楽器で奏されるシャンソン)、カンツォーナ・アッラ・フランチェーゼ(フランス風のシャンソン)と呼ばれ、要するにフランス語とフランス語によるシャンソンがフランスを越えてイタリアだのドイツだのそこかしこで使用され流行したため、シャンソン風の器楽曲が登場してしまったという訳だ。軽快で早く明確なリズムを持つ単純対位法の曲で、独奏用にも合奏用にも書かれた。

舞曲

 舞踏は上流階級の嗜みだったので、合わせるように大量の器楽舞曲が生み出された。はっきりした基本リズムを持ち、対位法的遣り取りはほとんどない、まったくもって声楽に基づかない楽曲であり、純器楽曲の離陸発展に大きな影響を与えることになった。次第に、舞踏曲に基づきながら、舞踏用ではまったくもっていない様式化された舞曲が生み出され、これはすでにルネッサンス期の出版楽譜にも見いだされるが、下り下ってバッハの様式化された鍵盤舞曲などでよく言われることだ。またバレもブルゴーニュ宮廷やイタリア宮廷からフランスに輸入され、バロック時代のバレに興じるフランスという伝統が、意外に伝統の浅い事に驚かされる。1581年パリで上演された「王妃のバレ・コミーク」が残された最初のバレだそうだ。一方様式化された器楽舞曲はやがて、2組のペアで作曲されるようになっていった。多くは2拍子形のゆっくりー3拍子形の早いものの組み合わせで、フランスで好まれた「パヴァーヌとガリアルド」やイタリアでの「パッサメッゾとサルタレッロ」などがあったが、やがて16世紀半ばになると、中庸2拍子形であるアルマンド(仏)が好まれ始め、後に組曲に入るもう一つのクラント(仏)もご登場してくる。
・舞踏の名手トワノ・アルボ(1520-95)と云う奴が「舞踏体系オルケゾグラフィ」(1588)において当時の舞踏を図版と楽譜入りで説明しているが、この出版物は「誰でもたやすく舞踏練習を行なえる対話形式による概説書」と銘打たれ、当時の舞踏マニュアル本となっている。アルボは教会の参事会員を務める傍らで、舞踏に生き甲斐を見いだし、架空の生徒カプリオールが「すてきなお姉さんと組んずほぐれつしたいんだけど、どうしたらいいだろう。」とお悩み相談に来ると、「結婚したけりゃ、ダンスが上手になるに限るぞなもし」と言って踊り方の説明に入るこの本を完成させてしまったという。
・踊りや舞曲の総称はイタリア語で踊るを意味する「バラーレ」の名詞形として、バッロと呼ばれていたが、15世紀には宮廷舞曲の総称だけでなく、舞踏の理論書などには「バス・ダンス、サルタレッロ、クアデルナリア、ピーヴァ」という4種類をバッロと呼ぶに相応しいという様な説明も見られる。また楽譜集などにバッロと書かれていれば、多様な舞曲を集めた舞曲集だし、踊るためではなく完全に器楽のための舞曲ジャンルがバッレットと呼ばれるようになり、それが元でガストルディなどが作曲した舞曲風の世俗多声曲のジャンルも、バッレットと呼ばれるようになった。

(仏)ブランル

・フランス語のブランレ、つまり「揺れる」に由来し、ある時バス・ダンスの舞踏ステップの一種から独立するようにフランスで大流行し、男女ペアが一周輪を作る「輪舞」として、「ブランル・サンプル」「ブランル・ゲ」など数多くの種類を持って君臨し、3拍子のバス・ダンスがブランル・ゲ(陽気なブランル)と呼ばれ、別の拍子のブランルと区別されるように、ステップも拍子も異なる一連のブランルという舞曲セットみたいなものだった。

(伊)パヴァーナ、(仏)パヴァーヌ、(英)パヴァン、(独)パドゥアーナ

・一説にはパドヴァ風という意味で、イタリアのパドヴァが発祥でもないだろうが、何時しかパドヴァ風のダンスということになったというが、別の奴は、いやそうじゃないんだ、スペイン語の孔雀(pavon)の尾っぽの舞踏という意味なんだという。いずれ2拍子型の幾分重厚な舞曲の代表選手に躍り出たが、ペアで列を組んで前進後退で踊っていくという宮廷的な舞曲で、次には3拍子の軽快な舞曲であるガリアルダなどが続いて踊られることが多い。すでに1508年のペトルッチのリュート曲集の中にも見られる。

(伊)ガリアルダ、(仏)ガイアルド、(英)ガリアード

・15世紀中にイタリアで生まれたらしい舞曲で、「快活な」という言葉がそのまま舞曲の名称になった。パヴァーヌに対して、3拍子型の代表型で、もともとは民衆的な踊りから派生していると言う。

バス・ダンス

・中世時代のバス・ダンス(低い踊り)とは大分変化したバス・ダンスは特に16世紀前半頃に流行した舞曲として、元々は有名な旋律をベースラインに置いて上声が即興を行なっていたが、16世紀になると最上声に旋律を置くようになっていったとか、教科書に書いてあった気がする。男女を1つのペアとした踊り手が行列を作って踊る優雅で穏やかなダンスだったようで、2拍子型が多い。同種のジャンルは16世紀後半になるとパッサメッゾなどに移り変わった。

(伊)サルタレッロ

・イタリア語のサルターレ、つまり「跳躍する」が語源で「小さな跳躍」という意味が舞曲名になったもの。中世からバロック時代まで生存する息の長い舞曲ジャンルだが、バス・ダンスや後にパッサメッゾの後に演奏されることが好まれた3拍子型の代表型で、踊りに跳躍的な動きが含まれるのが特徴だとか。

(伊)パッサメッゾ

・有名な旋律をバスラインに置いて、その土台の上に舞曲楽曲を形成する方法も重要な舞曲ジャンルを形成し、「フォリア」「ロマネスカ」「ルッジェーロ」「ベルガマスカ」などと元の旋律の名称で呼ばれたが、パッサメッゾもそのようなオスティナートバスの上に繰り返される舞曲として、低音ラインとそれに基づく和声進行型である「パッサメッゾ・アンティーコ」「パッサメッゾ・モデルノ」などの繰り返されるパターンの上で2拍子型の舞曲を行なう楽曲として、パヴァーヌよりも軽快な楽曲を形成し、16世紀後半にバス・ダンスに取って代わるように流行した。

舞曲セット

・このような舞曲は楽譜で出版される際に2拍子型の穏やかなものと3拍子型の快活なものなどがペアにされたり、さらに3つの舞曲が組み合わされることがあった。恐らく元々の舞曲がそのように行なわれていたのが原因だろうが、特に「パヴァーナとガリアルダ」のセットはカツ丼のような定番メニューになってしまった。従ってドイツでは2拍子型のゆっくりした舞曲を普通にタンツ(tanz,舞曲)と呼んで、続けて奏される3拍子の早い舞曲をナハタンツ(nachtanz,後舞曲)と呼んだりしている。
・器楽舞曲では、こうしたセットで調性を同じくし、時には変奏曲のように同じ旋律をモチーフにした楽曲を形成する事がある。また世紀後半にはオスティナートバス舞曲である「パッサメッゾとガリアルダ」などの組み合わせも流行し、特にリュート用と鍵盤楽器用の純粋な器楽曲としても知られるようになっていった。

即興的な曲

 もとより純粋な即興的演奏は鳴り響いた瞬間に消滅して、その演奏家が亡くなった後には、蘇ることもないし、他にも旋律を修飾的に変奏したものや、元の旋律に対旋律を加えて多声化したような即興は中世時代からあった。特に後者は聖歌を歌うときに何度か離れた音程で並行的に旋律修飾を加えるフォーブルドンだの、ファバーデンのようなオルガヌムのなれの果てのような方法に見ることが出来るが、対位声部の形成は歌手達のディスカントゥス・スプラ・リブルム(聖歌隊本をもとにして即興されるディスカントゥス)から名前を貰ってディスカントゥスと呼ばれたり、コントラップント・アッラ・メンテ(頭による対位法)と呼ばれたりした。
 世俗的即興では、15世紀前半から16世紀前半に好まれた方法、借用テーノルの上で即興を行なうバス・ダンスなどから譜面化された様子を垣間見ることが出来るという。

非舞曲的器楽曲

 やがて、舞曲でない器楽曲に前奏曲(ラ)プレアンブルム、(伊)ファンタジーア、(伊)リチェルカーレなど様々な名称が与えられるようになり、特に世紀後半になると(伊)トッカータがクローズアップされてきた。ルイス・ミラーン(c1500-c1561)や、クラウディオ・メールロ(1533-1604)といったイタリア人の作曲家が活躍を開始。ソナータという言葉も使用され始め、元々15世紀以来合奏・独奏の種々の楽曲を表わす漠然たる言葉だったのが、16世紀末ヴェネーツィア型のソナータはすでに、カンツォーナ型の器楽曲の、宗教的な曲として定義されている。教科書ではジョヴァンニ・ガブリエーリ(1553/57頃ー1612)が1597年に出版した「聖なるシンフォニア集」から「強と弱のソナータ(ソナータ・ピアーン・エ・フォルテ)」が紹介され、楽器用の2重合唱モテットとして複合唱形体が声楽からみごと器楽化されているが讃えられている。そしてこの合奏曲が印刷された声部ごとに使用楽器を指定している最初期の例であり、ピアノとフォルテの強弱記号の最初期の例でもあることは、しばしば言われることだ。

変奏曲

 すでに、パッサメッゾ・アンティーコやパッサメッゾ・モデルノといったオスティナートに基づく変奏の記譜や即興が盛んになり、これは後のシャコンヌやパッサカーリアの原型となる。(伊)ロマネスカ、(伊)ルッジェーロ、(ス)グアルダメ・ラス・バカス(私に雌牛を取って置いておくれ)といった旋律をオスティナートに使用した即興も盛んに行なわれ、スペインのアントニオ・デ・カベソン(1510-66)とリュート奏者のエンリケス・デ・バルデルラーバノ(1500半ば活躍)が際だっているそうだ。
 また、イギリスの鍵盤楽器奏者(ヴァージナリスト)も16世紀後半に変奏曲ブームを巻き起こし、ウィリアム・バード(1543-1623)、フォン・ブル(c1562-1628)、オーランド・ギボンズ(1583-1625)、トマス・トムキンズ(1572-1656)らが活躍した。その様子はこの時期最大の曲集「フィッツウィリアム・ヴァージナル曲集」でも見て貰うことにして、最後にダウランドのエア「私の涙よ、流れてください」にもとづく、バードの鍵盤用パヴァーヌをどうぞ。こうしたイングランド音楽家達は17世紀初めには逆に諸外国で求められ、ヨーロッパ北部で影響力与えてみたと教科書が締め括っていた。

2005/11/16

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