8-2章 ドイツの世俗曲と宗教曲

[Topへ]

ドイツの世俗曲

 ドイツでは、フランスやイタリアで自国語の世俗多声曲が登場してくるのを横目に、ミネジンガーが14世紀を通じ単旋律の愛の歌を歌いまくり、騎士の代わりにギルド職人達が自らを歌職人と化した音楽組合であるマイスタージンガーに至っては、単旋律の歌を1450年頃から歌い始め、16世紀を通じて盛んに歌会など開いて盛り上がっていたが、16世紀前半にはドイツでもフランス・フランドル楽派の多声シャンソンなどが宮廷内で聞かれるようになっていった。そんな中、リート(Lied)と呼ばれるドイツ語による多声の世俗曲のジャンルが登場した。

リート

・都市商人の隆盛とも関係しているのか知らないが、最初期の「ロハマーのリート集」(1455-60頃)には単旋律のリートだけでなく、ソプラノではないテノール声部に主旋律を持つ3声のリートが収められている。元々テーノル声部的方法はヨーロッパ宗教多声曲誕生以来の伝統ではあるが、カンティレーナの旋律よりも内声で語られる響きを模索する辺りはドイツ人気質なのだろうか、1480年頃の「グローガウのリート集」では旋律が最上声に見られることも出てくると言う。作曲の代表選手には、ハインリヒ・イーザーク、ハインリヒ・フィンク(1445-1527)、マクシミーリアーン皇帝御用達のオルガン奏者パウル・ホーフハイマー(1459-1537)などが挙げられているが、特に大量のリートを増産したルートヴィヒ・ゼンフル(c1486-1542/3)こそ、定冠詞付きの「Theリート」と呼ばれるのに相応しい。彼らの作品は16世紀前半は主にニュルンベルクで続々出版され、1550年以降になるとイタリア風のマドリガーレやヴィッラネッラが好まれ、ドイツではフランス語かイタリア語が使用されるのが当然の宮廷事情もあり、宮廷内での多声ドイツ語曲としてのリートは黄昏れてしまったそうだ。

クオドリベト(ラ、好きなものは何でも)

・異なった幾つかの歌や旋律断片を対位法で縦に繋ぎ合わせて曲にしたら、歌詞が無頓着に異なる筋の通らないまま、音楽的には合わせて一つという、人に聞かせるよりも自分達で歌いまくるのに相応しいようなジャンルとして、ドイツで好まれていった。もちろんこの伝統はバッハのゴールトベルク変奏曲のクオドリベトの中にも歌詞は無いが取り込まれているわけだ。

立ち上がるドイツ宮廷?

・すでに神聖ローマ皇帝の宮廷で行なわれていたフランス・フランドルの作曲家達の登用は、ドイツ各地の宮廷で16世紀中頃になってようやく後を追い、ドイツ語圏宮廷でもようやくより国際的な洗練された様式を持つ世俗多声曲が演奏されるようになっていった。例えばミュンヒェンではバイエルン選帝候アルブレヒト5世の時に宮廷カペッラの楽長となったオルランド・ディ・ラッソ(ラテン風発音オルランドゥス・ラッスス)(1532-94)が7巻もドイツリート集を出しているし、1576年にはラッソの同僚のフランドル作曲家であるヤーコプ・ルニャール(c1540-1599)も「ナポリ風ないしはイタリア風のヴィッラネッラの様式による3声の愉快なドイツ・リート集」1巻を出版するなど、世俗ジャンルの隆盛が見られ、特に世紀後半になるとこのようなイタリア様式が大いに流行していくことになった。
・そんな世俗ジャンルの重要な作曲家にはニュルンベルクに生まれ、ヴェネーツィアでアンドレーア・ガブリエーリについて学んだハンス・レーオ・ハスラー(1564-1612)や、若い頃の作品ではあるがヨハン・ヘルマン・シャイン(1586-1630)、ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)などがイタリア様式の作曲を取り入れてリートやマドリガーレを作曲していった。

ではせっかく

・ラッソが登場したので、世俗ジャンルだけでなくルター派に毒されない南部ドイツのカトリック宗教曲作曲家としても重要な彼の生涯などをざっと見てみるのも悪くない。もちろん正式名称は「いらっしゃるらんでございますラッスス」が正しい。

(ラ)オルランドゥス・ラッスス、(伊)オルランド・ディ・ラッソ(1532-94)

 コスモポリタンな多様な作曲ジャンルに掛けてはイーザークの後継者として、他作作曲家としてはパレストリーナと足並みを揃えるラッススは、1532年にフランドル地方のモンスという所で誕生した。当地の公用語はフランス語だったために、パトラッシュみたいに?オルランド・ド・ラッシュなどというのが正しい名前らしいが、自分では後年イタリア語でオルランド・ディ・ラッソと記入していたし、ラテン語によってオルランドゥス・ラッススと呼ぶことも幅を利かせている。同時代人であるザムエル・クヴィッケルベルクの伝記(ラッスス生前の1566年に著述)によると、モンスの教会であまり見事な少年聖歌隊員だったので、その声に高値が付いて、3回も誘拐されて、3度目の誘拐でイタリアに連れてこられて、神聖ローマ皇帝カール5世の元で活躍するマントヴァ家のフェルランテ・ゴンザーガ(1507-1557)の少年聖歌隊員となったという、嘘か誠か分からない経緯が語られている。とにかくフェルランテという奴はカール5世がスペイン国王カルロス1世だったため、フランスから奪い取って属州としていたナポリのさらに南、シチリアの総督を務めていた人物で、さっそくラッスス共々マントヴァなどを経由しつつシチリアはパレルモに到着して、継いで彼と共にミラーノの宮廷に移ったりしていたが、やがてナポリの貴族コンスタンティーノ・カストリオートという奴に雇われ直して、ナポリに向かうことになった。このナポリで3年ほど歌手として活躍したか、当地のジョヴァネ・ダ・ノーラ(1510/20-1592)などから影響を受けて作曲も開始したか、詳しい事は分からないが、奇しくも1551年にパレストリーナがローマに上京すると同時に、ラッススもローマで活躍を開始した。
 詳しい経緯は不明瞭だが、後4年間ローマで活躍するラッススは、やがてサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会の聖歌隊の楽長というとてつもない重大な職務に、わずか21歳で就任して、パレストリーナよりもいち早くビックな才覚を示しながら、死後出版される「シビュラの予言」などを作曲したのではないかと今谷先生が仰(おっしゃ)っている。この作品のもつ半音技法が、到着の年51年にローマを騒がせたヴィチェンティーノとルジターノによる「半音階公開討論」の熱気から生み出されたのじゃないかしらという訳である。このイタリア時代には同じ北方人であるフィリップ・デ・モンテと知り合い、酒を飲み交わした(に違いない)。

フィリップ・デ・モンテ(1521-1603)

・このフィリップ・デ・モンテと云う奴は、正式名称は「フィリップでもオーンて」と発音するのが正しいのだが、ジョスカンの亡くなった年に誕生したフランドル一味の最後尾を飾る、ラッススの同世代人であり、ラッススのように北方の少年聖歌隊で教育を受けた後イタリアに渡り、同胞のラッススとお知り合いたのである。その後1554年からはイングランドに向かい、例の血のメアリー女王の旦那さんで当時イングランドに来ていたフィリップ(フェリペ2世)の宮廷カペッラで活躍し、当地で大活躍中のウィリアム・バードと知り合いながら、イングランドを立ち去ってみたが、やがて68年ハプスブルク家の宮廷カペッラの楽長として雇われて、残りの人生をヴィーンなどの宮廷に捧げてみた。言うまでもなく、ハプスブルク家はパレストリーナの誘致に金銭面で失敗してのモンテ登用だったが、めげずに大量の世俗曲とともにラテン語のカトリック宗教曲を大量に生産して見せたのである。

ラッススに戻そう

 その後両親病気にモンスに戻れば、どちらもすでにお亡くなりて、楽長の居なくなったサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会では後継者に例のパレストリーナが就任した。ラッススの方は、両親喪失の旅でも無かろうがイングランドに足を伸ばした噂もあり、またアントウェルペンで出版業者のティールマン・スザート(c1500-1561/64)らと知り合って、1555年にスザートの元から初めての曲集を出版。これまでに書いた「マドリガーレ、ヴィッラネスカ、シャンソン、及びモテートゥス」を集めた第1巻という事で出版業界に殴り込みを掛けて見せた。同年ヴェネツィアの知られた出版業者アントーニオ・ガルダーノの元からも「5声のマドリガーレ集第1巻」が出版され、これはペトラルカの詩に多くの曲を付け、当時のイタリアの高尚な詩の熱気に参加しているようだ。
 そして遂に1556年には以後当地で職を全うするミュンヘンに遣ってきて、1557年からバイエルン公国アルブレヒト5世(在位1550-1579)の宮廷に所在が定まった。当時ミュンヘンはアルブレヒト5世の宮殿建築熱によってヨーロッパでも重要な芸術的宮廷にのし上がり、宮廷図書館も設け、芸術家を集めるその情熱が、宮廷カペッラの改編で、すぐれたフランドルの作曲家を手に入れる望みが、ラッススを呼び込む誘い水となった訳だ。そんな訳で彼の初任給は、宮廷カペッラの楽長の給料の上を行ったと言うから驚きだ。かつて名オルガニストのコンラート・パウマンが宮廷に仕え、イーザークのお弟子のルートヴィヒ・ゼンフルも1523年から亡くなるまで作曲家として活躍したミュンヘン宮廷では、すでに有数の宮廷カペッラが存在していたので、その一員となったラッススも、宮廷カペッラの歌手として活躍し、また楽器奏者共々バイエルン公の「ターフェルムジーク(食卓の音楽)」などの娯楽世俗音楽にも参加し、もちろんすぐさま重要な作曲家と見なされたラッススは、宗教世俗両方のために驚くほどの作曲を任されたのである。調子が出てきた彼は「ダヴィデ懺悔(ざんげ)詩編曲集」やら「ヨブ記に基づく9つのレクツィオ(パート1)」などを作曲し始め、多くの曲はやがて出版されたが、宮廷のための作曲家と出版の関係は、200年後のヨーゼフ・ハイドンとエステルハージの宮廷をちょいとばかり思い起こさせる。ヨーロッパ中の楽譜出版物で圧倒的な君臨を誇る点でも同様だ。あんまり嬉しくなったので、1558年には宮廷の侍女をお嫁さんにお貰いて、昼も夜も大忙しだった。
 そのうちチャンスが訪れた。1563年、プロテスタントの楽長がカトリックの都として足を進めるバイエルン公国から解職させられて、代わりにカトリックのラッススを宮廷カペッラの楽長に任命したのである。ますます調子に乗りだしたラッススは、以後イタリア語のマドリガーレ集だの、ヴィッラネッラだの、フランス語のシャンソン集だの、次々に出版していった。1565年にはミュンヘンに居た、学者で医者のザームエル・クヴィケルベルクが、ラッススの「悔悛詩編唱」についての著述の中で「音楽を言葉の意味に合わせて作り、一つ一つの異なった情感の力を表現し、事物をあたかも実際に私達の目の前にあるかのように示し・・・」と述べ「この種の音楽は(ラ)ムジカ・レゼルヴァータmusica reservataと呼ばれる。」と締め括っているため、ラッススの音楽は当時北方対位法的作品の最高の賛辞「ムジカ・レゼルヴァータ」として、人々に認知されていたことが分かる。
 さらに1568年にはバイエルン公跡継ぎのヴィルヘルムの結婚式では、イタリア即興喜劇であるコンメディア・デッラルテの上演に、自ら役者として活躍するほどの多才ぶり。仮面を付けて歌われるマスケラータとして大流行したムーア人に仮装した舞踏歌曲であるモレスカなども多数作曲しているが、一方婚礼の祝祭の様子は、トロイアーノという宮廷カペッラの一員が細かく記している。それによると花嫁が到着する時には歓迎の管楽器が100本以上同時に吹き鳴らされ、祝祭中活躍し続け、ヴィオラ・ダ・ブラッチョなどの弦楽器のコンソートやら、ミサのための聖歌隊やら、大いに賑わって、さらに祝宴のとっておきの場所で演奏される祝典モテートゥスが重要な役割を果たした。もちろんラッススの作曲したものも多数演奏されただろうし、先ほど挙げたコンメディア・デッラルテも上演されて、宮廷は大フィーバー状態に陥ってしまった。
 ところで、ラッススの名声がヨーロッパ中に轟き始めると、とうとう1570年には新しい皇帝マクシミリアーン2世(在位1564-1576)が世襲爵位下されて、見事ラッススは貴族になってしまった。翌年にはパリの宮廷に滞在した時には、楽長を遣ってみないかと薦められたりもした。そのパリでは、出版業を行なうリュート奏者のアドリアン・ル・ロワと友人関係を結び、ル・ロワ=バラール社から出版を行なったり、70年に創設された「詩と音楽のアカデミ」のメンバーなどとも知り合いながら、1575年に開始したフランスでの作曲コンクールで優勝したりしていると、どうも驚く、教皇グレゴリウス13世(在位1572-1585)から、教皇庁出入りが可能で裁判権が免除されたり大変な特権が授与される黄金拍車勲章を授けられ、後のモーツァルトと共に音楽家として極めてまれな栄誉を獲得した。落ちのない栄光に「ドイツ語リート集」だの「8つの旋法によるマニフィカト集」だのさらに出版を重ねれば、後に12巻まで続くモテートゥス集「音楽の守護第1巻」(1573)も出版され、その中にはやがて「受難曲」も登場し、アウグスブルクのフッガー家ともお知り合いて、親交のあるアンドレア・ガブリエーリ(1533-1585)や、ラッスス率いる宮廷カペッラに加わった若きジョヴァンニ・ガブリエーリ(1553/56頃-1612)らの影響もあって、ヴェネツィアで好まれた分割合唱の作品にも手を染めている。1577年にはトレント公会議の決定をまるで踏まえない北方型の4声の「レクイエム」も作曲したが、これはオケヘムに対して敬意を表したに違いない。(またか。)
 70年代の後半からは頻繁にイタリアなどへも出向いていたが、宮廷カペッラの人員も大分イタリアよりの傾向を強めてきた。1579年になるとバイエルン公はアルブレヒト5世からヴィルヘルム5世(在位1579-1597)に替わり、途端に財政危機にメスを入れる改革に巻き込まれた宮廷カペッラは大幅縮小の道を辿ることになった。しかしラッスス自身に対する敬意は十分払われ続け、相変わらず公のお供として、または私的に各地に出張し、出版活動も継続していったのだ。85年の出版物には聖週間木、金、土曜のための9つの「エレミアの哀歌」のレクツィオ(朗読)を5声曲とした「エレミアの哀歌」の姿もあり、89年には5声の方の「レクイエム」も出版され、こちらはトレント公会議以後の1570年に出された「ローマ式ミサ典礼書」に乗っ取って作曲されている。そのうち2人の息子もミュンヒェンのカペッラに就職するなど、まあ幸せな音楽家として余生を送るが、次第に健康を害し、「聖ペテロの涙」という20曲の宗教マドリガーレにモテートゥスを1曲加えた連作物を作曲し、時の教皇クレメンス8世に献呈すると、3週間後の1594/6/14にこの世にさようならをした。同じ年、イタリアのパレストリーナと、画家のティントレットが現世を離れ、「以後奇し(1594)くも亡くなる巨匠達」と呼ばれるようになったわけだ。

東ヨーロッパ(教科書より)

・中世後期からルネサンスに掛け、西ヨーロッパ音楽の発展を反映していた。16世紀までにポーランドとボヘミアの作曲家達は、シャンソンやミサやモテットを夏期、リュートやオルガンや合奏曲を作曲していた。ポーランドのオルガン用奏法譜は特に重要。代表選手にはポーランドのヴァッツワフ・ス・シャモトゥイ(c1520-c1567)や、ボヘミヤにいたスロヴェニア人、ヤコブス・ガルス(ヤーコプ・ハンドル)(1550-91)らが居るそうだ。

2005/11/23

[上層へ] [Topへ]