8-3章 宗教改革とパレストリーナ

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対抗宗教改革?

・1527年のサッコ・ディ・ローマや、北方で盛り上がる宗教改革の嵐を越えて、遂にカトリックの見直し刷新運動が始まった。反宗教改革という用法は今日適切でないとして使用されないが、対抗宗教改革も的を得ていない。カトリック内の見直しの動きは宗教改革以前から始まっていた一続きの運動だし、北方の動きに対抗したものであるという名称は、カトリック勢にとって我慢できるものではないからである。従ってこの内部見直し運動は、対抗だの抵抗だのを取り払って、カトリック宗教改革運動、あるいはカトリック宗教刷新運動と呼ぶのが相応しい。イエズス会は刷新委員としてあまねく世界に広がった。刷新委員いい響きじゃあないか。北方のほうはついでにプロテスタント宗教改革運動とでも命名しておけば宜しい。(・・・また、勝手なことを。)

トリエント公会議(トレント公会議)と意義

 アレクサンデル6世によって見いだされ1493年に枢機卿となったアレッサンドロ・ファルネーゼという男が1534年のイングランド国教会成立の年にローマ教皇パウスル3世(在位1534-1549)となるに及んで、マントヴァに公会議を開催することを発表。当時デュファイの活躍した時代に教皇主義と公会議至上主義の対立があったこともあって、ルネサンス教皇達は公会議を危険視していたが、ルターが北方で「公会議も開けない弱虫ヤーイ」とカトリックを非難していることもあり、カトリック内部にも改革の意識が大きくなりつつあったのだ。この公会議は結局延期となってしまうが、1540年にはイグナチオ・デ・ロヨラ(本名イニゴ、ラテン語読みイグナティウス)率いる小さな宗教グループを承認。このイエズス会は後のカトリック巻き返し運動の切り込み隊長の役割を果たし、日本にまで殴り込みを掛けることになった。
 一方プロテスタント側との和解は困難となり異端審問所でも作って見るべかと考えているところへ、神聖ローマ帝国皇帝のカール5世が「異端審問所じゃない、宗教は公会議で決まるんだ。」と熱を振るい、これが1545年にパウルス3世によるトリエント公会議(トレント公会議)を開かせる原動力となった。公会議は伝染病やら、ザクセン選帝候モーリッツの皇帝への戦争勝利やら様々な要因があり中断を挟みつつ、全25回の会議によって1563年教皇ピウス4世(在位1559-1565)の時に終会を迎えた、これによってニカイア・コンスタンティーノポリス信条(つまりミサのクレドの所)がカトリックの教義であることが再確認され、宗教改革の「聖書のみ」に対して聖書と共に聖伝も認め、また神の恩寵だけでなく人間側の魂の切磋琢磨もより良い救いに通じるとし、7つの秘蹟のような儀式にも意味を持たせ有効とし、修道院も支持、贖宥、巡礼、聖人や聖遺物への崇敬、聖母マリアへの信心などすべてを認めたので、変格と言うよりは、自らの立場の再確認と明確な定義付けを行なった公会議となった。さらに、世俗君主的教皇や枢機卿などのあり方が見直され、各地の司祭達の教育により知的水準とモラルの向上を図るとともに、以後カトリックの宗教心と学問教育による知性向上を情操教育とする子供のためのカトリック教育機関が設けられ、ヨーロッパを越えた諸外国にも布教の方針が取られたが、これらは前に任命したイグナチオ・デ・ロヨラ率いるイエズス会などを中心に行なわれ、南ドイツやフランスでもカトリック勢力の巻き返しが図られるなど、大いにカトリック勢力の舵取りを宜しくしたので、結構結構と安心したか、1869年の第1バティカン公会議まで、以後300年も公会議は開かれなくなった。

トレントの公会議による宗教曲への影響

 典礼音楽については、世俗定旋律を使用したり、シャンソンなどに基づくパロディミサの否定や、「ポリフォニの複雑化が神の言葉を理解できなくしているのだ」「楽器の不適当な使用は堕落だ」といった非難の声がそこかしこから上がったが、具体的な禁止令は何一つ出されなかった。それにもかかわらず、カトリック音楽家達は進んで自覚を持って分かりやすく聞き取りやすい声部諸法、控えめな進行、パトスよりも秩序を重んじる作曲法を模索したが、これは半分は言葉の抑揚とあった旋律、歌詞が理解できる上に音楽により高められる作曲法、という当時の命題の結果でもあった。
 しかし、典礼聖歌の中にははっきり無実の罪で追放を喰らったものもあった、ローマ聖歌よりも幾分後の時代に登場した単旋律聖歌であるトロープスは全員追放となり、またセクエンツィアも次の4つを残して追放となった。

①復活祭用「過ぎ越しの生け贄に賛美を捧げよう(ヴィクティメ・パスカリ・ラウデス)」
②精霊降臨祭用「精霊よ、来て下さい(ヴェーニ・サンクテ・スピリトゥス)」
③キリストの聖体祝日用「シオンよ、讃えよ(ラウダ・シオン)」
④死者の為のミサ用「怒りの日(ディーエス・イーレ)」
⑤その後1727年になって13世紀にヤコポ・ダ・トーディが作曲したとされる「母は悲しみに(スターバト・マーテル)」が運良く再導入され、現在では5つが典礼の中に居残っている。

 公会議中に歌われた宗教曲としては、パレストリーナ伝説でお馴染みの「教皇マルチェッルスのミサ曲(ラ)ミッサ・パーペ・マルチェッリ」(1567)が歌われた逸話は信憑性に欠けるそうだが、フランドル人のヤコブス・デ・ケルレ(c1532-1591)の「特別の祈り(ラ)プレーチェス・スペチャーレス」(1561)は歌われたことが知られているそうだ。しかし伝説というものには、当時の人々の思いが込められている物である。公会議中に歌われようと歌われまいと、トリエント公会議に沿った作曲をした人物としては、当時も今もパレストリーナを第1に挙げるのだから、ここで彼の生涯を眺めてみるのも理に適っている。

ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525/26-1594)

 ローマ近郊のパレストリーナという都市で誕生したとされるジョヴァンニ・ピエルルイージだから、パレストリーナと呼びかけても都市の名前にすぎないのだが、没年から勘定しておよそ25年か26年初めに生まれたのだろうとされている。やがてサッコ・ディ・ローマの崩壊から立ち直りつつあるローマに出て、サンタ・マリーア・マッジョーレ教会の少年聖歌隊員として活躍を開始し、礼拝堂楽長として活躍した北方低地域の作曲家達から作曲を学びつつ成長を遂げた。44年には生地のパレストリーナの大聖堂で聖歌隊長兼オルガニストの職を獲得したが、20歳前の就任には、当地の司教を勤めていたジョヴァンニ・マリア・デル・モンテ(1487-1555)枢機卿(枢機卿=カーディナル)も大いに目を掛けてくれ、47年には若くしてルクレツィア・デ・ゴーリという女性と目出度く結婚してみた。
 北方宗教改革の運動に対するカトリック刷新運動の要(かなめ)として始まったトレント公会議の最中、先ほどのデル・モンテ枢機卿が事もあろうに教皇ユリウス3世となった。会議の方は踊りも進みもしなかったが、彼はローマにおけるカトリック教育機関として1551年にコレジウム・ロマーヌム(ローマ学院)を創設、翌年は外国人を学ばせるためのコレジウム・ジェルマニクム(ドイツ学院)も設けて、これらをカトリック巻き返しの先鋭部隊であるイエズス会に任せた。さらに教皇庁ではカペッラ・システィーナに対して、ユリウス2世(在位1503-1513)がイタリア人歌手達の育成を兼ねて設立したカペッラ・ジュリーアが存在し、共に重要な役割を果たしていたが、そのカペッラ・ジュリーアの意義を高めようとか、それとも溺愛のあまりか分からないが、フランドル人の楽長を追い出して、1551年にパレストリーナが楽長に就任することになった。喜んだパレストリーナは54年にはローマの出版業者から始めて自らの楽譜を出版。「ミサ曲第1巻」は当然ながらユリウス3世に献呈され、一方では同年イタリアのガルダーノが出版したマドリガーレ集の中には、パレストリーナの名前がちゃっかり登場するなど、宗教世俗共に漲る作曲を開始していた。喜んだのはユリウス3世である、パレストリーナよ良くやった、すばらしい宗教曲だと讃えたかどうだか、立ち所にジュリーアより格上のカトリック音楽宗教機関最高峰であるカペッラ・システィーナの歌手に任命され、審査もメンバーの同意もなく教皇のコネで出世したのをねたむ同僚達が、そこら中に落とし穴を掘っていると、間違って教皇の方が穴に落ちたか、パレストリーナ就任の3ヶ月後にお亡くなりてしまった。これは大変、一大事と思ったパレストリーナが、新しい教皇マルケルス2世(在位1555)のために「教皇マルケルスのミサ曲(ミッサ・パーペ・マルチェッリ)」を作曲したかどうか分からない、最近の学者はこの教皇が就任するやいなや亡くなったよりずっと後に筆写譜が書かれたことに注目しているが、題名自体はマルケルス就任中の作品ではないかと悩みは尽きないらしい。この曲はかつて、トレント公会議の中で和弦的で言語が明確に聞えるのが望ましい宗教曲だとの指針が出されたのに答えて、見事にお眼鏡に適った作曲を行なった作品だと考えられ、パレストリーナをカトリック的対位法宗教曲の救世主とする伝説を生み出したので、20世紀初頭にはハンス・プフィッツナー(1869-1949)がこれをオペラ「パレストリーナ」にして上演してしまうほど、音楽史中の既成の事実となってしまったが、最近では伝説を取り除きすぎて、返って身も蓋もなくなってしまうことが多い。伝説とは、その当時の人々の思いを背負っているものだから、その意味では真実と言えないこともないのである。(また、無責任なことを。)
 次の教皇パウルス4世(在位1555-1559)が即位するとパレストリーナの境遇は怒濤の渦に巻き込まれた。かねてよりの不満のためもあってか、パウルス4世はカペッラ・システィーナの歌手は妻帯禁止だと叫んで、パレストリーナを1555年のうちに放り出してしまった。しかし運良くオルランドゥス・ラッススが去った後のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会楽長にすぐさま就任し返すと、やはり55年のうちにこってこての世俗曲である「4声のマドリガーレ集第1巻」を出版して、ローマのペトラルカブームに乗って7曲もペトラルカの詩を音楽に変えて見せたのだ。  ラテラノ教会の待遇かはたまたトラブルでもあったか少年聖歌隊員に所属していた息子共々教会職を退いた彼は、61年にかつて少年時代を過ごしたサンタ・マリア・マジョーレ教会にお帰りて、楽長職に就任すると、「年間祝日用モテートゥス集」など出版しながら活躍していると、教皇ピウス4世(在位1559-1565)の時終結したトレント公会議によって、カトリックと宗教音楽の新しい舵がおぼろげに決定され、パレストリーナはトレント公会議のお眼鏡に適った人物として、65,66年頃ローマに創設されたセミナリオというカトリック神学校のための音楽教師として抜擢され、71年のレパントの海戦の年まで職を全うしたそうだ。
 またこの時期にフェラーラ公でお馴染みのエステ家のイッポリート・デステ(1509-1572)とお知り合いたりしていたパレストリーナだったが、このイッポリート・デステ枢機卿は、前に見たフェラーラ公アルフォンソ1世とその妻ルクレツィア・ボルジアの息子の一人で、フランスとの外交に嫌気が差して、ローマ近郊にあるティヴォリに超豪華な別荘ヴィラ・デステをナポリの建築家ピルロ・リゴーリオ(c1510-1583)に建造させた人物として知られている。後にこの地を訪れたフランツ・リストが巡礼の年第3巻で「エステ荘の糸杉」だの「エステ荘の噴水」だのを作曲してしまうくらい、美しい景観を持つ庭園は、今日でも観光の要所の一つである。パレストリーナは64年にこの地に滞在して、自らの曲を演奏したりしていたが、67年からはマジョーレ教会から離れて、イッポーリト・デステの私設カペッラの一員としての仕事を開始した。やはりレパントの海戦の年71年まで活躍していたが、その年船に乗り込んで、海戦の戦闘でマストにへばり付きながらメガホン片手に歌を歌いまくってビザンツ軍を驚愕に陥れたという伝説は残されていない。ちなみにこの海戦で中心的役割を果たしたスペインの無敵海軍を率いる国王であるフェリペ2世(在位1556-1598)に対して、パレストリーナは67年出版の「ミサ曲集第2巻」と70年出版の「ミサ曲集第3巻」を献呈しているが、第2巻には「教皇マルケルスのミサ」や全体が2重カノンで書かれた「フーガによるミサ曲(ラ)ミッサ・アド・フーガム」が収められているし、3巻に収められた4声の「ミサ・ブレヴィス」はその声部数と時間とパロディでない作曲態度が、トレント公会議に乗っ取ったものだとはよく言われる解説だ。この3巻には「作曲せずば作曲家にあらず」とまで歌われた「ミサ・ロム・アルメ(他にもある)」や、「ミサ・ウト・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」といった曲も収められている。69年には「モテートゥス集第1巻」を出版して、イッポーリト・デステに献呈して、パトロンのバランスを保った。さらに67年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世(在位1564-1576)から宮廷カペッラの楽長を頼まれたが、さすがにパトロン過剰なのでこれはお断り致して、代わりに北方作曲家のフィリップ・デ・モンテ(1521-1603)が就任した。またこの時期にはマントヴァのグリエルモ・ゴンザーガともお手紙の遣り取りなどを開始して、作曲の依頼などを受けているが、これは後々大変なことになった?
 71年になると転機が訪れた。名声とどろくパレストリーナに再び教皇庁聖歌隊のカペッラ・ジュリーア楽長が廻ってきたのである。レパントの海戦を見届ける前にお亡くなりた、有名なイタリア人作曲家のジョヴァンニ・アニムッチャ(c1500-1571)の後任として再就任を果たした彼は、スペインの無敵艦隊アルマダのマストでビザンツに向かってマドリガーレを歌いまくったという伝説はないが、オスマン・トルコ軍を打ち破ったレパントの海戦を記念して、5声のマドリガーレ「エウジーノの海岸の周囲に」を作曲した。そのうちマントヴァのグリエルモ公が調子に乗りだして、「私の作曲した作品を添削してくれろ。」と送りつけてきたので、赤ペン先生を試みたかどうだか、72年に出版した「モテートゥス集第2巻」はグリエルモ・ゴンザーガに献呈することにして、さりげなく息子のマントヴァ歌手就任をアシストしてみたのだが、残念ながらこの息子はペストでお亡くなりてしまった。
 その後75年に出版した「モテートゥス集第3巻」はフェラーラ公アルフォンソ2世に献呈され、分割合唱の8声曲が6曲収められているが、同じ頃「エレミアの哀歌」を作曲したり、教皇グレゴリウス13世(在位1572-1585)からローマ・カトリック聖歌(グレゴリオ聖歌)の改訂などを任されたりしたが、この改訂版は中断を挟んで1614年にメディチ版の「グラドゥアーレ(ラ)ミサ聖歌集」として出版され、1908年にソレーム修道院が「ヴァティカン版」を出すまで用いられた。
 しかしどうもこの時期ペストが流行ったり沈静したり土産のように転げ回るローマで、多くの家族を亡くし遂に妻まで80年にお亡くなりたので、もはや聖職者になるしか道はないと覚悟を決めたのだが、決めた途端に、顔を上げると、あちらの方では、美しき女性が目の前をすうと素通りしては、逆の方から返ってくるので、つい感情が漲ってきて、妻の死からわずか7ヶ月後にヴィルジニア・ドルモーリという新しい女性と結婚し直してしまった。とかく男子の生涯は女性によって四六時中に左右されるものである。この亡くなった夫の毛皮商を引き継いでいた未亡人との結婚によって、莫大な財産と土地と家がパレストリーナの元に転がり込んできたからと云って、財産目当てに違いないなどと、深く詮議立てをしては物の哀れが損なわれる。損なわれはする物の、この81年にさっそく「4声モテートゥス集第2巻」と「5声マドリガーレ集」を出版し、特にモテートゥス集には「バビロン川のほとりに」と「谷川を慕って鹿が喘(あえ)ぐように」といった猫にでも分かるパレストリーナ入門に取り上げられるような作品が収められているが、これ以後の出版は、羅列的になるのでここでは放棄致そう。84年には教皇グレゴリウス13世に献呈された「ソロモンの雅歌」に基づくモテートゥス集「5声モテートゥス集第4巻」の序文で、「私は若き日の信仰から外れた歌詞に対する作曲を深く恥ずるのであります」と書いておきながら、後に平気な顔して次のマドリガーレ集を出版するなど、自由自在に活動しながら、1584年「ローマ音楽家団体」(聖チェチェーリアのアッカデーミア)という音楽の守護聖人チェチェーリアを讃えて音楽を演奏する音楽家団体が出来るとこれに所属、初代リーダーであるフェリーチェ・アネーリオ(c1560-1614)らと共にマドリガーレ集を作製出版したり、7人の作曲家の合作ミサ「ミサ・カンタンティーブス・オルガーニス」の一部を担当したり活躍をしたが、この合作ミサは実はパレストリーナの5声のモテートゥス「チェチェーリアは楽器を奏で」に基づくパロディミサだった。晩年は壮絶な出版量で自らの作品を生前に整頓すると、90年には教皇が編纂した写本の中に分割合唱の名作8声の「スタバート・マーテル」も含まれるほどだったが、オルランドゥス・ラッススと同じ年1594年に亡くなってしまった。
 そして彼はすでに1600年代初期から生涯の伝説化が開始して、「音楽の君主、Prince of Music」と讃えられ、バロック時代の教会対位法の正しいあり方と見なされながら、パレストリーナ風の様式「(伊)スティーレ・ダ・パレストリーナ」の合い言葉が登場、ヨハン・ヨーゼフ・フックスが「グラードゥス・アド・パルナッスム」(1725)はその様式を教える教科書となった。そして豊富な逸話に彩られて、19世紀の研究が進む中、うっかり後期ロマン派のプフィッツナーがオペラ「パレストリーナ」を仕立ててしまうほどの、たぐい希なる死後の名声を轟かせるのだった。

教科書より

・彼は皆さんが5声以上で作曲しているのに4声を基本に置いた。そして声部は単線聖歌的性格を持ち、弓なりの弧を描いて、大体順次進行で、跳躍は稀で幅が狭い。当初のフランドル的な対位法技法は、後年縦の響きの和弦的連続の上にシラブル型の歌詞進行を行なう美しき単純化に向かう。その半音階性を避け全音階的で、増和音や減和音を避ける穏やかな響きは、定冠詞付きのザルリーノ(ザ・ルーリーの)が記した「調和教程」に継承された、ウィラールトとその弟子達による教えと細部まで一致しているそうだ。ほぼ全体がCに縦線のアッラ・ブレーヴェで書かれ、不協和音は掛留によって導かれる。
・しかし彼は例外的に1つの不協和的な声部が順次進行で協和音に進む代わりに3度跳躍下行して協和音にいたる「カンビアータ(伊)取り替えられた」と呼ばれるようになった技法をこよなく愛してしまった。
・リズムは書く声部の独立性と、全体で聴く時の和弦的なリズム認知が計算されている。結果独立声部に基づきながら、規則的リズムが支配する彼の技法は、「まるちゃんミサ」を聞けばすっぽり分ってしまう。
・このような彼の様式は、意識されて保存された西洋音楽史上初めての例となった。古様式(伊)スティーレ・アンティーコ、厳格様式(伊)スティーレ・グラーヴェとよばれ讃えられた。

パレストリーナの同時代人(教科書より)

・ジョヴァンニ・アニムッチャ(c1500-1571)はフィレンツェの司祭フィリッポ・ネーリ(1515-95)が組織したローマのオラトーリオ会((伊)コングレガツィオーネ・デッロラトーリオ)のために書いたラウダで知られている。オラトーリオとは始めに会合の行われていた聖堂の冷凍所(伊)oratorioから来ている。
・ほかにパレストリーナの弟子ジョヴァンニ・マリーア・ナニーノ(c1545-1607)。そのナニーノの弟子フェリーチェ・アネーリオ(1560-1614)などが。

2005/11/24

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