18章 ロマン派のオペラと音楽劇

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初めに

 私は大部分のオペラが積極的に大の苦手であるために、「オペラ史」まで書いておられるグラウト氏に敬意を表した先生が、いつになく熱弁を振るうのもものともせず、ひたすら惰眠をむさぼり尽くした。人生時々には休養が必要なものだ。試験のため後から知人のノートを写しただけのために、この章は甚だしく簡単に出来ている。

フランス

 ガスパロ・スポンティーニ(1774-1851)が1807年に「ヴィスタール(ウェスタの巫女)」を作曲するころ、パリのオペラ座には同僚のルイージ・ケルビーニ(1760-1842)とエティエンヌ・ニコラ・メユール(1763-1817)がいた。一方、イタリア劇場においては初めスポンティーニが指揮をしていた地位に、フェルディナンド・パエール(1771-1839)がすべりこみ、さらにはジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)がその後を引き継いだ。その間にも革命が行ったり来たりするのに気を悪くして、だんだん王室からの援助が少なくなってしまった劇場は、作曲家のジャコモ・マイエルベール(1791-1864)を総動員して見せ物大好きの大衆をより沢山動員するための「グラントペラgrand opera」を編み出した。これは音楽であると同じくらい機械仕掛けやバレなどで彩られた見せ物で、マイエルベールの「悪魔ロベール」(1831)と「ユグノ教徒」(1836)を見聞きすれば、ほぼすっぽりと分ってしまう。1830年頃の真の傑作はロッシーニの「ギョーム・テル」(1829)とジャック・フロマンタル・アレヴィ(1799-1862)の「ユダヤの女」(1835)であった。そんなグラントペラ伝統のなれの果てが息づくさまを見たければ、1991年初演のジョン・コリリアー作曲「ヴェルサーユの幽霊」を見るに限るそうだ。

 さて、18世紀に分裂したままグラントペラと共に成長するもう一つのジャンル、「オペラ・コミーク」の方も負けてはいなかった。扱われる主題と規模以外にも、歌の合間に対話が交わされるという違いがあるコミークの傑作は、フェルディナン・エロール(1791-1833)の「ザンパ」とダニエール・フランソワ・エスプリ・オベール(1782-1871)の「悪魔(ディアーヴォロ)兄貴」(1830)を見聞すれば取りあえず十分である。「ザンパ」では残波岬に打ち寄せられる島珊瑚のはかない一生が、「悪魔兄貴」では紅3兄弟の一番兄貴に翻弄される兄弟達のどたばたコメディが劇になっているというのは、ノートを貸した知人の落書きであった。

 ナポレオンの甥が1851年に己惚て皇帝に就任するやいなや、彼の下での破廉恥なパリ社会を風刺したオペラ・ブフopera bouffeが誕生した。ジャック・オフェンバック(1819-80)の「地獄のオルフェ」(1858)のようなこのジャンルは、決して18世紀のオペラ・ブッファの血は受け継いでいない。そのころになるとオペラ・コミークの中でも喜劇的であるよりロマン的な作品は、何時しか叙情オペラlyric operaと呼ばれ始めた。これはシャルル・フランソワ・グノ(1818-93)の「フォスト」(1859)と、ジョルジュ・ビゼ(1838-75)の「カルメン」(1875)を見てさえいれば、ほぼ困ることがない。

 私は眠っていて知らないのだが、こうしたフランスオペラの流れから無頓着に離れた高みに達しているベルリオーズの劇場作品に、先生はつい感嘆のため息を漏らしたそうである。ベルリオーズのオペラではない劇場作品「フォストの劫罰」(1846)を見たまえ、オペラ「ベンベヌート・チェッリーニ」(1838)を見たまえ、そして壮大すぎる「トロイアの人々」(1856-58)に関心を示したまえ。この作品はバロック時代から連なるフランスオペラ伝統のロマン派的最終報告書である。先生はそう言うと天上を見上げたという。先生はそのまま時間が止ってしまったかのようで、生徒達が声を掛けるまで地上に戻ってこなかった。

イタリア

 オペラ発祥の揺るぎない情熱か、ロマン派の新技法には過剰反応を示さないイタリアでは、相変わらず数多くの作曲家達がオペラの新作を世に送り出していた。シーリアスなオペラ・セーリアと、喜歌劇なオペラ・ブッファは、19世紀に入っても相変わらず明確に区別さたまま、棲み分けによる共存共栄が続いた。オペラ・セーリアではヨハン・ジーモン・マイヤー(1763-1845)の名前が挙げられるとはいえ、喜歌劇を中心に19世紀初頭の代表選手といえば、美食家でお馴染みのジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)だろう。ドメニコ・チマローザの「秘密の結婚」初演を記念して生誕を迎えたロッシーニは、まさに歌劇の申し子のよう。旋律と舞台効果に対する的確な方法によって、あらゆる名声を獲得した。先生はオペラに興味がない人でも一度は見ておいて欲しい作品として、演奏されすぎて陳腐化の傾向のある「セビーリャの理髪師」(1816)を挙げたのだそうだ。大した革新家でなかった彼は、ピアノやチェンバロで行われていたレチタティーヴォ・セッコを管弦楽伴奏に切り替えるなどに止まって作曲をしていたら、「セミラーミデ」(1823)では聴衆の反応がめっきり乏しくなってしまった。それに気を悪くして、1824年になるとパリに住みかを変えたのだが、オペラ・コミーク「オリ伯爵」(1828)とグラントペラ「ギョーム・テル」(1829)は、その時に書かれたものである。

 ロッシーニの抜けた後、イタリアオペラ界では、マイアーの弟子である庶民派オペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティ(1797-1848)が「ドン・パスクアーレ」(1843)のようなオペラ・ブッファを作曲したが、貴族的でオペラ・セリーアに生き甲斐を見いだしたヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-1835)は「ノルマ」(1831)や「聖教徒(イ・プリターニ)」(1835)のような作品で応戦した。

 その攻防の間隙を縫って現れ出でたるジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)によって19世紀後半のイタリアオペラは覆い尽くされることになる。その全貌を把握することは困難であるから、ここでは試験対策として、次の6曲だけなんとか聴いてヴェルディを知った振りをすることをあえてお薦めしよう。まず、初期の代表作「ナブッポ」(1842)「トロヴァトーレ」(1853)、さらに「道を誤った女(椿姫)」(1853)を通って、先生が2期の締めくくりとして挙げている「アイーダ」(1871)に達する。締めくくりはアルリーゴ・ボーイトによる新しい台本に基づいて晩年に書かれた2作、「オテッロ」(1887)と「フォールスタッフ」(1893)である。この6曲を何とかクリアした後に「トゥット・ネル・モンド・エ・ブルラ・ルオーメ・ナート・ブルローネ」と唱えるとあら不思議、先生は採点の替わりに「人生は生まれながらの道化者」と書いて合格にしてくれるそうだ。

ドイツ

 現実逃避の意味も兼ねてロマン主義哲学とロマン派の小説にのめり込んだドイツの知的階級の一翼を担ってか、ドイツでのオペラは文学と音楽を統合する高次のジャンルとして確立した。ホフマンとシュポーアを踏み台にしてドイツロマン派オペラの開始を告げたのは、カール・マリーア・フォン・ヴェーバー(1786-1826)の「魔の弾を射る者」だ。この名称は、先生が言い切ったのだから間違いない。しかし、残念ながら、1821年の初演は、ジョスカン・デ・プレ没後300年を記念とはなんの関係もない。

 中世の伝説やおとぎ話から台本を生み出す所はまさにドイツのロマン派オペラ、民族的要素が率直に埋め込まれ、普通の会話と背景の音楽を緊密に繋ぎ合わせたメロドラマの手法を持つ場面も忘れがたい。実際は、地の会話調を多分に含む、大衆的なミュージカルの傾向のあった、ジングシュピールが、発展したものと見なした方が、相応しいかと思われる。

 注目されるのは、その序曲はメロディーの寄せ集めではなく、十全なソナータのような、形式を備えている点で、そのためこの「魔弾の射手(まだんのしゃしゅ)の序曲」は「十全序曲」と呼ばれることがあってもよいらしい。好奇心旺盛な人は、後の作品「オイリュアンテ」(1823)まで見るようにと、知人のノートにはわざわざ注意書きまで書き込まれていた。

他のドイツのオペラ作曲家として先生は初めて聞く名前を羅列していった

シューベルト(13曲ものオペラがある)
ハインリヒ・マルシュナー(1795-1861)
アルベルト・ロルツィング(1801-51)
オト・ニコライ(1810-49)
ペーター・コルネーリウス(1824-74)

リヒャルト・ヴァーグナー(1813-83)

 言語道断な政治的大混乱を避けてスイスに居住した10年間、以前の「さまようオランダ人」(1843)や「タンホイザー」(1845)などドレースデンで上演したオペラを思い起こして自分のオペラ理論を「オペラと劇」(1851)といった論文にまとめ上げた。彼は当初論文歌劇というジャンルを考案し、オペラ「オペラと劇」の作曲に取り掛かったが、まだ時代が早すぎると悟ったか、代わりにドイツの伝説的説話を基にした詩を書いて暇を潰していた。これこそやがて1876年に4つの連作としてヴァーグナー専用劇場バイロイトで上演されることになる、あまりにも巨大な指輪伝説「ニーベルングの指輪」の原型である。さらにヴァーグナーは劇と音楽の主従関係を超えた完全一致を目指し、総合芸術作品Gesamtkunstwerk(独)を掲げる一方で、具体的手段として特定の人物、情感、出来事などを指し示し劇中で様々な役割を持たせて使用する"示導動機Leitmltif(独)"を編み出し、旋律が明確に開始終止を告げないで続いていく"果てしない旋律(endless melody)"を駆使して「トリスタンとイゾルデ」(1857-59)を書き上げた。4つの指輪連作と「トリスタン」を夏休み中に見終わった学生は、なんとしてももう一頑張りして「ニュルンベルクに住まう職業協同組合の親方達」(ニュルンベルク親方、またはニュルンベルクのマイスタージンガー)も視聴して欲しい。ノートにはそんな先生の思いが、知人の書いた下手な似顔絵と共に書き込まれていた。

2004/3/24
2004/4/26改訂

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