プレンティスホール音楽史シリーズ5
著作R・M・ロンイアーに基づく変奏的小説

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第一章ロマン主義と音楽

 その日もまたしとしとと、意味の変化を追い求めた意味論のような雨が、アーサー・ラヴジョイの思想史が雲の合間から明るい日差しを人々に照り付けるまで、ロマン主義の言葉を見失っていた。人々はかつてもそうだったように、1828年から1880年までの間を古典と対置するということには無関心で、巷で聞くことといったら、1790年のドイツの作家たちのようにとか、でなければ1830年のフランスの作家たちのようにといったお気に入りの時期の話ばかりだったのを覚えている。1740年も1910年もひとくくりにしようと考える野心家も確かにいたが、年代順的配列がクロノロジーと呼ばれるようには流行らなかった。そんなわけで人々は、ヴィクトル・ユゴーが今日の新聞ではロマン主義をある種の曖昧で取りとめのない幻想だと書いてはいても、明日にはもっと魅力的な地域からまったく別のロマンが表れてくるに違いないと信じきっているようだった。それは極端な対照の時代だった。思想という思想はすべてが反対の思想を生み出してしまうので、今ではもっぱら古典的な抑制や調和、適合などというものよりも合理主義を超えた霊感といったものに価値があるように思われてきたのだった。そう、あの頃は誰もが、真似など出来そうにない強烈な個性と、それから自分の命を賭けているかのような主観、手の届きそうにない主観に憧れていた。確かに、この今ではすっかり舗装された遊歩道を始めて切り開いたエルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(1776~1822)は、合衆国の記念碑として生み出されたロマン主義者としての情熱を、バッハやハイドンにまで向けたはずだった。ふと気がつくと、道の横にはテオフィル・ゴーティエ(1811~1872)が、ベルリオーズとショパンにロマンを送っている銅像が三つ飾ってあった。そしてその真中の器楽たちは輝いていた、そう確かに輝いていた。

 ヴェルトシュメルツだよと、突然誰かが言った。またいつもの無駄な議論が道の片隅で始まろうとしているのだ。お決まりの言葉がこんな風に続くのは分かりきっている。案の定、フラストレーションという名の挫折感が、物質世界の快楽にとどめを刺したと言っているのは、いつもの黒い帽子ののっぽだった。横からニヒリズム、ニヒリズムという冷やかしの声が聞こえて、ようやく雲の合間から顔を見せ始めた日の光を浴びて輝きだした。彼らは甘く憂鬱な気分にはなりたかったが、かといってメランコリを宣言され、医者達から憂鬱症の烙印を押されるのはまっぴらだった。一方では逆の楽天主義に走った人々達も同じなのだ。自殺へ導くほどの絶望も、不自然な楽天主義も、つまるところは産業の発展とそれぞれの国のナショナリズムに対して、ロマン的な逃避を試みているのだった。そう、それこそがヴェルトシュメルツのシーズンだった。彼らは知らないうちに、世界苦という訳の分からない言葉に当てはめられた、哀れなパッセッジャータに過ぎなかった。本当はもう既に世界共通語の時代は過ぎ去って、それぞれの民族の自覚と高揚、そして反抗と挫折の中で、ロマン的なものはそれぞれの地域の独自性までも手にしてしまっていたというのに。

 国家主義にも、防衛的なものと攻撃的のものの、二種が存在するのであります。突然また誰かが言った。音楽はもどかしく言葉のように思想を表す事が出来ない。それに漬け込んで言葉だけで攻めようと考えたらしい。彼は防衛的なものは東ヨーロッパの国民オペラであると言い切った後で続けて言った。1871年に、西ヨーロッパの防衛的国家主義が攻撃的国家主義へ変化致しまして、それは、これより後の作品を聞くとすべてが明らかなのであります。あるいは、そうも言えない事はなかった。それでも、19世紀前半のコスモポリタン的で開けっぴろげな気質に比べて、みすぼらしさが目立っていたのは、彼らの音楽自身ではなく、彼らの音楽に関する著作物だったのだ。そこには、何かもっと大きな意味が込められてはいないだろうか。結婚しないでいることや、早くこの世からいなくなってしまうことがトレードマークとされるという風潮には、確かに社会のひずみだけでなく、なにか一遍の真実、そう、切り捨てられない何かがあるように思えるのだった。確かに私たちは変わってしまった。1850年以降の時代の波は、ようやく30歳にもなって、音楽家たちを独り立ちさせることを許すようになっていた。

 雨上がりのひりひりと肌を刺すような初夏の日差しの中、気が付けばいつものようにJ・J・ルソー(1712~1778)の前に立っている自分がある。いつもより少しまぶしい光に照らされたプレートが、相変わらず諸芸術の相互浸透の始まりを称えていた。そう、確かに、18世紀は違っていた。若きウェルテルの悩みでロッテが恋をなだめるために、そしてクリンガーのシュトゥルム・ウント・ドランク(1776)の中でレディ・カロリーネが何の気なしにクラヴィコードを弾き始めた頃とは、もう日差しの強さだけでなく、むしむしとシャツの下にまで伝わってくるようなこの湿気までが違っていた。私たちが子供の頃はまだ、先生たちはみんなヴァイマールクラシズムの事ばかり考えていた。例えばヴィーラント(1733~1813)、ゲーテ(1749~1832)、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744~1803)、フリードリヒ・シラー(1759~1805)のような作家たちの、描き出された文章の音楽と呼んでもおかしくないような数多くの批評も、ホフマンが御伽噺の音楽評論家クライスラーを生み出す前までは、とても新しい事のように思えたのだった。今となってはその中にある音楽の保守性も、それは確かに見える。でもまだ当時の人々にはようやく大きな影響が、ハインゼ(1746~1803)はともかくとして、ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダー(1773~1798)から遣ってきて、ホフマンやルートヴィヒ・ティーク(1773~1853)に大きな影響を与えてしまう事になるなんて、まるで誰も気が付いても居なかった。そう、確かにジャン・パウル(1763~1825)の音楽論は、矛盾に満たされていてロマン的だった。彼はハイドンのシンフォニーでさえも、血が吹き出るまでくすぐったり引っ掻いたりしつつ、心臓を舐めまわすような気分の中で聞く事が出来たのだった。そしてヴァッケンローダーは、一時間ほどしか音楽を聞く事が出来ないという特別な自分を弄んだりしながら、音楽が思想や想像力に及ぼす影響について考えてみたりしていた。そして誰もが、アマチュアではあったティークと、音楽家でも事業家でもあったホフマンの言葉を、1814年の交響曲の論表に書かれていた、器楽以上にロマン的なものはないという言葉を賛美した。そう、今よりもずっと熱く賛美したのだった。ホフマンが浅はかな名人芸に対して共同戦線を張ろうと申し出たときに、ドイツ人達の誰がそれに反抗しただろうか。そうなのだ、反抗したのは決まってのっぽのトーイの連中だった。

 フランス人を忘れている。不意にそう目の前のルソーにささやかれたような気がして、私は慌ててその通りを過ぎていった。確かにフランスの銅像が多いわけではなかった。シャトーブリアン(1768~1848)の像だけは早くからこの道の脇の方に恥ずかしげに建てられてはいたけれど、1830年まではそれだけの事のように思えるのだった。そうだ、アンリ・ベール(1783~1842)がいた。ここにも像が一つあったはずじゃないか。私は少しばかり弾ませた心を慌てて押し戻しながら、スタンダールと書き込まれた像の前にまで急ぎ足を進めた。彼の書いたロッシーニ伝は今でも、人気だけでなく学問的な意味があることは、みんな良く分かり過ぎるほど分かっているはずだった。これはベートーヴェンの名前を挙げたバルザック(1799~1850)や、シューベルトの名前を口にしたミュッセ(1810~1857)達が、本当はイタリア・オペラやフランスのグランド・オペラに興味を示したという烙印が、人々を彼らの銅像から遠ざけているだけの事なのだ。熱い熱い夏の太陽がまだ西に傾かないで、人々に余計な事など考えないで気楽に時間を過ごせたらいいと考えさせているうちは、テオフィル・ゴーティエが1874年にロマン主義の歴史を世に送り出して公にベルリオーズを擁護してはみても、ヴァーグナーをフランス人として始めて認めてみはしても何もかわらなかった。だがそれが何を意味するというのだろう。そうなのだ、確かにそんな事はどうでも良かった。だって音楽家たちはそのような思想や文章には耳だけを預けては見ても、何も影響なんか受けてはいなかったはずだ。彼らはむしろ考えたがる人々や、批評家と呼ばれるような人たちにあらゆる影響を与えながら、自分たち自身が驚くほど多彩な活動の中に身を任せていたから、そんなくだらない枠組みや対立には半ば飽き飽きしながら、のらりくらりと逃げを打ち、むしむしとした太陽にも無頓着だった。

 もう少しいけばチュルリョニス(1875~1911)の作った蛇ソナータのオブジェが見えてくる。こんな風に彼らはみんな画家であったり小説家であったりした、そんな時代がかつてあったはずだったった。今ではもう文学の学者たちは、1843年のヴィクトル・ユゴーの戯曲「城主」が失敗に終わったのをロマン主義の終焉の原因にして、1849年の革命の失敗までの間のどこかに置けばそれで済むものだろうと、気楽にことを構える積りでいるらしい。そして視覚芸術の歴史家たちはといえば、ドラクロアの死や落選者展覧会の熱気にすっかり意気消沈してしまった、1863年ごろにその終焉を置こうとしているように見えた。レアリズム、ナチュラリズム、シンボリズムは、もうロマンの大きな河が下流にまで来てしまった為に一本にまとまる事など到底出来なくなってしまったかのように、芸術のデルタ地帯を形成しつつあったようにすら思えるのだった。そんな中で、音楽はと言えば相変わらずのマイペースで、1850年も過ぎる頃には、すっかり自立的な自己従属の世界に閉じこもってしまおうとするか、以前のロマン主義をさらに超えて、もはや誇張と分裂の中に身を任せようとする積りらしかった。ヴェリズモ・オペラは写実の精神などちっとも描く気もないくせに、名前だけを借りてみたことは見え透いていた。ようするにヴァーグナーやリストたちの写実とは、クールベーが実際の社会を明らかにしようとしたようなものでは最初からなかった。ただそれだけの事だった。彼らはわくわくするような内面の描写や、行き届いたライトモティーフを描写する事こそがレアリズムだと決めていたから、他の人が何を言ってみても無駄なのだった。シンボリズムのようなものは、その言葉自体がシンボルに過ぎなくて、もうすっかりぼんやりしてしまった。そうして、ロンイアーにはロンイアーのシンボリズムが生まれていく。それがドビュッシーの音楽であると言うだけの有様だった。

 そして最後に新古典主義で作られたたった一つのオブジェが私の前に残った。ここを過ぎればこの遊歩道も終わり、また蒸し暑い道路の中に紛れ込んでいくだけの事なのだ。このオブジェはロマン派という自覚には無頓着であったために、最後には最もロマン的なもの、古典への憧れと、どうしても離れられない秩序と形式に自ら喜んで入り込んでしまった。そう、バロックやルネサンスからの空気までも、自分たちの遣り方で表現して見せた、古典的自己表現主義というものに属しているように見える気もした。夏の太陽はようやく西に傾き始めて、プリミティヴィズムの原始主義のような不思議なビルの谷間に影が差し始めている。デカダンス、ヒューチャリズム、ヴォルティシズム、エクスプレッショニズム。そうか、ヴォルティシズムのような渦巻派による文様的な機械主義は、確かにそこらじゅうに転がっているだけの事に過ぎなかったのだ。それに気が付かないで、すべての方向にさ迷い出してしまったと言い切れないで、枝分かれを下流という聞こえの良い言葉を使って、逃げ延びているだけだったのだ。結局河の終わりの後には海が続かなければならないのに、ロマン派の後に海が現れたわけではなかった。人々は相変わらずロンイアーがデルタと言った所を、右往左往と道を歩きつつ、あれこれと考えたり、時々立ち止まっては、傾いた熱い西日に顔をしかめて見せるのだった。

                                

制作2001/8
2004/3/22

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