旧石器時代その1、日本へ

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人間の登場

 さて、ほんの6500万年前に巨大隕石が落下して、恐竜が絶滅し、中生代(ちゅうせいだい)と呼ばれる時代にケリが付いたことは、記憶に新しい。その後100万年ほどで新たな生物たちの復興と隆盛が開始し、もっとも新しい時代、我々が所属する新生代(しんせいだい)の幕が開けたのだ。

哺乳類型爬虫類から誕生した哺乳類は、中生代には恐竜に怯えながら、小さくなって生き延びていたのだが、新生代になって急に態度がでかくなり始めた。ここだけの話、恐竜が居なくなったおかげで、浅ましく我が物顔をして、急激な発展を成し遂げたのぞなもし。もちろんその中には「見ざる、聞かざる、言わざる」でお馴染みのモンキー軍団を抱え込んだ霊長類も含まれていたから、ついに今から3000万年ほど前にはヒト科という新たな所属チームを加えて、チームの中で競い合い始めた。そして本来似たもの同士だったのだが、私たちの先祖は、他の類人猿たち、特に親しい仲間だったチンパンジーと大げんかをして、700-500万年前頃たもとを分かったと言われている。その時の進化はホンマモンの職人芸だった。彼らは自らマニュアルを作り出して、ついには2本足で立ち上がって、そのまま歩き出してしまったのだ。しかしそんな優れもの集団は、当時まだアフリカの中だけに存在していた。当時の化石はもっぱらアフリカの大地溝帯を中心に分布している。

 やがてアウストラロピテクス(540万年前から150万年前まで存続)などを経由して、250万年前、ついにアウストラロピテクスたちの中から、ホモ属(ヒト科ヒト属)という優れもの集団が登場し、ホモ・ハビリス(器用な人の意味)(250-200万年頃)はとうとう石器を使い始めてしまった。これはオルドヴァイ渓谷から見つかったものだが、ホモ・ハビリスじゃなくてアウストラロピテクスが生み出したのだという反論もある。 いずれ250万年前頃には石器が使用され、以後長らく続く旧石器時代の歴史的な幕が開けることになった。他にもホモ・エレクトゥス(ホモ属エレクトゥス種となる。以下同じ。)(200-150万年頃)、ホモ・ハイデルベルゲンシス(60-25万年前頃)、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人、30万年前頃から3万年頃前まで)などがある時は共に、あるいは時をずらし、チームを作って競い合っていた。ホモ・エレクトゥスの一部は200万年前を過ぎてしばらくした後、150万年前にはアフリカから周辺に広がって、これが初めての出アフリカだったようだ。火の使用もあるいは彼らの間で始まったのだろうか、100-200万年前の間に火を使用することが開始されたという発表もあるようだが、詳しいことは分からない。ジャワ原人(ホモ・エレクトス・エレクトス、昔はピテカントロプス・エレクトスだったが修正された)(70-120万年前頃)とか北京原人(ホモ・エレクトス・ペキネンシス)(25-40万年前頃)などが見つかっているが、北京原人の発見された中国周口店(しゅうこうてん)の遺跡からは火を使用したらしい灰の跡が見られるそうだ。

 その間にも、直立二足歩行が呼吸と飲料を一つでまかなう喉の構造変化をもたらしたために、構造変化によって複雑な発音が出来る喉を獲得し始めたホモ属は、次第に高度な言語を獲得していった。ネアンデルタール人は、すでにかなりの言語社会を形成していたようで、これはホモ・サピエンスの亜種なのだと主張して、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと呼んじゃう人達も居るが、現在はホモ・サピエンスには含めない説の方が有力だ。

 そして我々の所属チームであるホモ・サピエンス(ホモ属サピエンス種)は、ほんの最近、ネアンデルタール人が50万年前から30万年前にかけて人類のどこぞから枝分かれしたように、我々の祖先も20万年から10万年の間の中頃にどこぞから枝分かれして登場した。ある日突然ニュータイプが誕生して、そこから新型の大量生産が始まってしまったのだろうか。これもまたアフリカで始まり、肉食に生き甲斐を見いだし、智恵を心得て食物連鎖のトップに立とうとする恐るべきバイタリティーによって、現代にまで至ってしまったのかもしれない。したがって生物学的には、現在地球上の人間は分類する必要のないものだとされている。にもかかわらず、外見上の特色に合わせて人種に分類するのが、分類大好きっ子達の方針であるから、ここでもそれにしたがって先に進もう。

モンゴロイドの登場

 ホモ・サピエンスの一部はやがて出アフリカを果たした。この時期は最終氷期(ヴュルム氷期)(7万年前から1万年前頃)にあたる。氷期は短いサイクルで寒暖を繰り返している(ダンスガードサイクル)のだが、ちょうど6,7万年前前後に強い寒冷化の時期が当てはまることから、環境変化に対応するためだったのかもしれない。最終氷期のグラフを見ると、以前の部分に比べて寒冷傾向が見て取れるだけでなく、気温変動の周期が非常に短いサイクル(数百年から数千年周期)で大きく変動しているのを見て取れる。もちろん地球規模の気温変動は最終氷期終了後もあるので、有史以後も気候変動が引き金になって歴史が動いていることも多々あるようだ。

 いずれホモ・サピエンスはまず中東地方に6,7万年前頃渡ったと考えられている。その後一部が東に向かいユーラシア大陸に進出。しばらくして西に向かった者たちがヨーロッパに進出したが、そこはホモ・ネアンデルターレンシスが生活する土地だった。

 それはともかく、この時期は積雪として氷河として大陸を覆った莫大な水分量によって、今日より100-140mも海水面が下がっていたとされている。これによって現在の東南アジアを形成する入り組んだ半島や諸島一帯は巨大なスンダランドを形成して、島々ではなく大陸からの陸続きとなっていた。今日海底に川のあった跡が残されているそうだ。日本も青森から北海道、樺太、ユーラシア大陸のルートと、九州から朝鮮半島のルートが確保され、大陸と往来が可能になった。特に2万年前の氷床拡大のピークには、北アメリカとユーラシア大陸もベーリング地峡として陸続きになり、人類が1-2万年前に初めてアメリカ大陸に到達することを可能にして、ホモ・サピエンスが地球全体でのさばるための、切符を手渡してしまうのだ。

スンダランドのスンダラ節?

 スンダランドは寒冷化の時期でも赤道付近で草原、森林が広がりホモ・サピエンス達の東方での活動拠点となった。また陸の拡大により南のオーストリア方面(サフールランドという)とは非常に近い距離にあり、早くも筏により海に乗り出した人々が、5万年前-4万年前頃に渡って、彼らが4大人種と呼ぶところのオーストラロイドを形成していったそうだ。一方スンダランドに活動する者たちはモンゴロイドの原型となり、中東に留まったものやヨーロッパに流入した者たちからコーカソイドが登場。さらにアフリカに残った者達がニグロイドとなった。

 さて改めて、中東から東に向かったホモ・サピエンス達が、人種を使うならモンゴロイドになっていくのだが、これにはシベリア方面に活動する者たちと、スンダランドに活動する者たちがある。このうちおよそ5万年前頃、スンダランドの草原と森林に進出した者たちは、狩りや採取の生活を行いながら、海にも適応した社会を形成していったらしい。人々が海を越えてサフールランドに渡る(何時?5万年前とどこぞに。だとすれば、やって来るなり?)までには、彼らは素朴な筏などを作り、海洋に乗り出す新たな生活を獲得していた。一方シベリア方面に活動する者たちについては、この南方系のホモ・サピエンスがやがて北方に渡ったという考えや、中東を出て北方に向かった者たちが居たという説もあり、私にはよく分からない。

 いずれ北方でマンモスなどを狩るためにシベリア方面に向かう者があり、彼らは厚い衣服で体を覆い寒さに適応するうちに、南方とは性質の異なる特質を持つようになっていった。これによって南方モンゴロイド(旧モンゴロイド)と、北方モンゴロイド(新モンゴロイド)が生まれたのだとされている。新と旧のモンゴロイド分類は、南方が初めにあり後にシベリアに進出したという考えに基づくものだろう。他にもホモ・サピエンスの拡散によって、原住民の旧人たちと混血の可能性も無きにしもあらずという説もあり、それが地域ごとの性質を生み出したのかもしれないとも言われ、新しい発見によって次々に歴史が塗り替えられつつ、共通のイメージが定着するまでに至っていないこの時代については、学者達が互いに槍を持って自説を掲げて乱闘を繰り広げているようだ。まあ、とにかくある段階からシベリア方面の北方系と、スンダランド方面の南方系に分けられるとしておこう。

 この時期の気候は、ユーラシア大陸の北部、内陸部は雨が少なく、今日の中国北部も広く黄土と乾燥した草原が広がり、シベリアに至るまで共通の文化圏とでもよべるようなものがすでに形成されていたようだ。それに対して長江以南では、カシやシイといった照葉樹林が海岸を中心に、針葉樹林と落葉広葉樹林の混合林が内陸と北方に広がり、この豊かな森を利用した南方文化圏が形成されていた。今日の熱帯雨林は、僅かな地域に限られていたようだ。

北方と南方のモンゴロイド

 1万年もあれば骨格自体が変わってしまうぐらい、人は環境や社会に適応して変化している。北方系と南方系は、寒冷と温暖、紫外線の量など様々な要因によって変化していった。南方系が毛深く髭男で、二重まぶた、背が高めで、耳たぶを持ち、アセトアルデヒド分解能力が高く酒に強いといった傾向を持つのに対して、北方系は毛が薄く、一重まぶた、背はずんぐり体系で手足も短く、耳たぶはなく、酒に弱いといった特徴の違いが見られるそうだ。ただし中国中部山西省峙峪遺跡から3万年近く前のホモ・サピエンスの遺跡が発掘されているように、北方と南方の2か所だけにホモ・サピエンスが留まっていたのでは全然無いので、実際は簡単に括れない。

 スンダランドのホモ・サピエンス達は、次第に豊かな環境を利用し尽くし、森林での狩猟だけでなく、海の幸を得るために、貝を採りついには筏(いかだ)を、そして丸木をくり抜いた丸木船まで生み出して、海洋漁業を開始した。一説ではその頃までに、スンダランドの内陸を中心として狩猟と採集の生活を行う文化圏である「礫器文化」に対して、外洋にまで乗り出すことを覚え漁撈と海幸の採取などを生活に取り入れた「不定形剥片石器文化」(剥片とは細かい石の片をもとにした石器であり、これを原石から打ち欠いて作る方法に共通の特徴があるので、このように命名されたらしい。)が登場したらしい。これは北方の旧石器時代の遺跡でよく見られる「ナイフ形石器」が使用されないという特徴がある。また丸ノミのように石が凹んで木を掘り出すような磨製石器(研がれた石器)が、彼らの活動地に分布しているので、これで丸木船を作ったのではないかと考えられている。

 一方、シベリアで活動した北方系の活動を見てみると、2万3千年前頃のマリタの遺跡などからすでに50人ぐらいが半ば定住する村が形成され、膨大な数の動物を狩りながら、肉食を中心に生活をしていたことが分かる。北極ギツネを毛皮にし寒さを凌ぎ、炉のある住居を建て、数多くの石器を駆使して狩りを行うが、寒さのため肉を保存しやすいのは、実は非常な利点だったようだ。またマンモスもかなり狩られているが、圧倒的に多いのはトナカイの狩猟であることが分かっている。

 やがて最終氷期(ヴュルム氷期)がピークを迎え、北方と南方の生活がハッキリ分かれていた2万年前頃には、おおよそ九州から朝鮮のラインより北方には、ナイフや細石刃の石器群が多く見られ、沖縄や中国南部より南方では、不定形の石の剥片を利用した旧石器群が見られる。その事から日本の文化圏がむしろ南方と北方の境界線を挟んでいるので、あるいは南方と北方から旧石器時代に人間達が流入していったとか、始めに南方が北方に進出し、その後北方からの流入があったり、北方が南方に追いやられたりしたことがあったのかもしれない。

2007/06/09

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