縄文時代その2、時代区分ごとに

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時代ごとに軽く見ていく

 さて、1万年の長きに渡る縄文時代にだって、いろいろ変遷があったはずである。特に温暖化が進行しピークを迎える6000年前にかけてと、その後の再寒冷化の時代にはいろいろな発展があったのだろうが、細かいことは私には不明瞭であるから、大きく温暖化が進行した6千年前頃に向けて、青森県三内丸山(さんないまるやま)遺跡のような大型遺跡が登場して来ること、それから地域ごとの多様性について幾つか例を挙げておくことにしよう。なおこの縄文時代になって、日本列島が大陸と分断してからも、大陸との関係が断絶していないことを付け加えておく。

早期縄文時代

 鹿児島県桜島の向かいにある大地から発見された上野原(うえのはら)遺跡。ここでは9500年前から集落が形成され、竪穴住居も52軒と異例の数が発見されている。これはもちろん大量の人が住んで居たというよりは、長期に渡って定住が行われていた事を示している。しかし、竪穴式住居が本土のものよりずっと高く、東南アジア型の石焼き調理の後や、薫製調理跡が残され、土器には貝殻で作った文様が見られるなど、関東や東北を中心とする文化とは異質なものが多々存在する。

 そのため、列島と大陸の分断によって南九州付近に登場した対馬暖流、この黒潮からの分流に乗って東南アジア方面の人々の渡来があり、彼らが中心になって、あるいは混じり合って形成されたのが、上野原遺跡ではないかとされている。(説としては、そんなこともあるぐらいの所か?)

 植物細胞の中に見られるプラントオパールというガラス質物質をもとに土器などから検出される植物跡を分析すると、雑穀と見られるヒエ属や、アワなどが含まれるエノコログサ属が検出され、穀物栽培が他の地域より早く開始していた可能性がある。また発掘された丸ノミ石斧も、東南アジア、沖縄、南九州で見つかっている南方タイプである。これは丸木船を作るのに利用され、縄文時代に重要になってくる海への適用がいち早く見られる特徴がある。

 他にも鹿児島市にある掃除山遺跡(そうじやまいせき)、加栗山遺跡(かくりやまいせき)など、早期の南九州での定住跡が発見されている。遺跡規模、集落規模、土器の使用量も多く、すり石、くぼみ石、石皿などの石器が使用されていることから、植物系の食糧確保が食生活に重要な意味を持っていたと考えられる。同時期の本土の遺跡を見ると、まだ石やりなど狩猟の道具が中心で、植物摂取のための道具に乏しいことから、植物摂取という縄文時代の新しい食生活は、後の弥生時代に水田が九州から日本列島を北上したように、この時期南九州から日本列島を北上して行った可能性もあるそうだ。

北方への伝播か?

 現在残された縄文遺跡を調べると、9000年前頃に入って関東で縄文の遺跡が急増し、竪穴式住居の定住と土器の使用が本格化している。そして海に対する適応もこの頃本格化するので、あるいは南の文化が北上している姿なのかもしれない。8000年前頃には北海道にまで土器の使用が及んでいる。(別の所では、土器はシベリアを経由して北から入ったような番組を遣っていたが?)日本最古の土器の発祥は分からないが、この時代以降の北海道の縄文土器は、決してサハリンのものとは文化的共有が無く、本土の亜流として位置づけられるものであるから、南から縄文土器が北上しても差し支えは無さそうである。無さそうではある。・・・・あるがよくは分からない。


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 九州の縄文文化はその後も継続し、東日本の縄文文化に対して、九州地方にもう一つの縄文文化の流れがあったかもしれないのだが、残念ながら6300年前に鬼界カルデラ(鹿児島南沖の海底にある)を生み出した巨大噴火によって、南九州一帯ことごとく火山灰の下に埋もれてしまった。

三内丸山遺跡、前期から中期に掛けて(約5,500年前~4,000年前)

 順次時代を変えて500軒もの竪穴住居が発見され、一度に200人も収容できる32mもの長さの巨大木造建築が発見された三内丸山。大量の円筒土器が出土し、1500以上もの土偶が見つかっている。中でも直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔4.2mの柱穴が6本、直径約1メートルのクリの木柱を非常に高くそびえさせて、何らかの行事に使ったか、物見台なのかは不明であるが、間隔4.2mはきちんと図られ、他でも使用例があることから、測量の単位があったのではないかと言われてもいる。

 周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も見つかっていて、特に有名なのは栗の木のDNA塩基配列が非常に類似していることから、栽培とまでは行かなくても、不用草木の除去、優秀苗の選別などが行われ、管理された栗林だったのではないかと言われている。栗の木は食料調達だけでなく、建築材としても優れ、マキ(薪)としても役にたったそうである。むしろ食料よりも建築材などとして利用されていたのではないかとの説もあるぐらいだ。

 周辺からは栗だけでなく、ウルシ(漆)の木や胡桃の木、ニワトコ(接骨木、庭常)の木などが管理された(?)跡があり、三内丸山から出たエゾニワトコの木の実をヤマブドウなどと一緒に絞ると、発酵して酒になる事から、酒を造っていたのではないかとも云われている。まあ酒に関しての歴史はそのうち詳細を調査したいものだ。ウルシの木はもちろん、器を漆塗りするもので、日本のウルシ伝統はすでに縄文時代から開始していたのであった。

 一説には最盛期で人口500人以上を越えていたともされる三内丸山だが、巨大集落の実態論争に終止符は打たれていない。当時は海が5mほど高かったので、海に近い交易都市的な存在だったとも考えられている。北海道の十勝地方や佐渡で産出する黒曜石が運びこまれ、日本では新潟県の姫川(糸魚川)でのみ産出されるヒスイ(翡翠)が持ち込まれ、広範な交易が行われていたことをうかがわせる。こうした交易品と交換に、漆や栗の実、栗の木などの輸出が行われていたのかもしれない。

 ヒスイは中国で珍重され、古代日本でも玉(ぎょく)と呼ばれた。「硬玉(こうぎょく)」と言う呼び方もあるが、ヒスイという名称には、見た目が似ている「硬玉」と「軟玉」という全く別の鉱物が含まれていて、特に価値の高いのは硬玉の方なのだそうだ。縄文も後期に向かって勾玉(まがたま・曲玉)管玉(くだたま)が登場し、古墳時代に掛けては石や土器などで作られた勾玉も大量に見つかっている。中でもヒスイの勾玉は糸魚川から産出されるヒスイを使用したもので、この糸魚川のヒスイは大陸側からも出土するので、広い範囲で知られていたのだろう。

 この時期は、海面が高く対馬暖流の勢いも活発なため、日本海沿いにも海のルートが整備され、多くの大型集落が生まれていたのではないかとされている。しかし4000前頃、3度から4度に及ぶ急激な気温変化が起こり、栗経済が崩壊したのだと、NHKはるかな旅では自信たっぷりに放送していた。はたしていかがなものでしょうか。

中期

 このような大型遺跡の反映は東北から広まり、中期前半には関東平野にまで達することになった。また多摩ニュータウンあたりの高台では標高100mの高台に森を切り開いた集落跡が見つかっているが、6000年前頃から開始された定住跡は800か所にも及び、1000を越える住居跡が見つかっている。やがて海岸線が後退すると、関東の居住地は平野に進出し、関東や近畿から実用的でない芸術的土器が多数出土するのは、ちょうどこの頃である。千葉県の加曽利貝塚(かそりかいづか)古墳には非常に大規模な貝塚跡が見られ、また「浜貝塚」という海岸に沿って残された貝塚は堆積物の厚さが4mにも達している。ここからは土器や石器がほとんど見つかっていないことから、貿易のために組織的に保存加工をした跡だと考えられる。ハマグリとカキという美味しい貝の、それも大きく成長したものだけを選別して採取している。小さいうちは取らない方が良いという知識が定着していたのだ。

 中期の代表的な遺跡として有名な長野県茅野(ちの)市尖石遺跡でも、現在180軒を越える住居が発掘されている。ここでは「縄文のビーナス」と呼ばれる、不思議な形の宇宙人的土偶が発見され、縄文時代の国宝の第1号となった。近くの茅野市中ッ原遺跡からは、まるでウルトラマンを彷彿とさせる「仮面の女神」も出土している。これらの展示物や、発掘された沢山の遺品を展示する尖石縄文考古館や、遺跡公園を巡り、近くには尖石温泉縄文の湯などもあるので、のんびり観光を楽しめる縄文スポットのようだ。

 国宝といえば新潟県十日町市中条にある笹山遺跡から発見された火焔(かえん)土器20点あまりを含む57点の土器も、1999年に国宝に指定されているが、この遺跡の繁栄時期もやはり中期の前5000年から前4000年の間になっている。

稲作

 島根県頓原町(とんばらちょう)の縄文遺跡から稲作の形跡が発見されている。植物の中のガラス質であるプラントオパール(植物ケイ酸体・地中のケイ酸を吸収し蓄積されたもの)を調べたところ、稲であることが分かったからだ。実はすでに幾つかの西日本の縄文遺跡から稲作の跡が見つかっていて、早いものは中国の雲南省より早く6000年前に遡るという。

 米にはインドを中心として作られている粒の長いインディカ種と、中国、朝鮮半島、日本や欧米で作られている粒の短いジャポニカ種があり、ジャポニカ種はさらに、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカに分けられる。今日日本で栽培されているのは大部分温帯ジャポニカである。稲作の起源については激しく学説の塗り替えが進行中のようだ。

稲の大陸での起源

 12000年前の人の住んでいた岩地遺跡である、長江中流域にある湖南省玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡から、もしかしたら栽培された可能性がある稲籾(いなもみ)が出土している。長江下流域の浙江省上山遺跡からも、1万年頃前の土器と稲籾が出土し、栽培種である可能性があるそうだ。やはり海岸沿いの浙江省河姆渡(かぼと)遺跡(7000年前ー5300年前頃)からも7000年前頃の籾や米が出土し、骨角器による農耕具が発見され土器にも稲の姿が記されている。ここでは大量の柱の上に住居が建ち並び、一説では稲を重要な食料として数百人が生活していたとされている。しかも栽培稲と野生の稲の両方が発見され、栽培への移行が極めて自然な環境にあったことを伺わせる。この時期は現代より気温が上昇している時期であり、野生の稲の生息地が北上していた事と、長江という大河の流域であることから、稲作を中心とする社会が完成していったのかもしれない。流域の沢山の沼地や湿地に自生する野生の稲を手なずけ始めたのが、その始まりかもしれない。やはり6000年前頃の江蘇省の草鞋山(そうあいざん)遺跡でも同じような稲の出土が見られ、初期の水田跡も見つかっている。

 日本でも岡山県の彦崎貝塚や朝寝鼻貝塚から、約6000年前の稲のプラントオパールが発見され、彦崎貝塚では小麦のプラントオパールも見つかっている。あるいはこの頃から焼き畑による(あるいは自然湿地などでの自生?)栽培が行われていたかもしれない。いずれ生活に稲作が決定的な役割を果たすような「稲作社会」が、まだそこに無かったことは間違いなさそうだ。

 そんなわけで現在のところ野生の稲が栽培に適化して、栽培種が生まれたのが長江中下流域で生まれたという説があり、これが直接長江下流域から日本に伝播したとも考えられる。また稲作については始め焼き畑のような陸作があり、その後水田耕作が生まれたというよりは、湿地耕作などから後に東南アジアなどで行うような焼き畑稲作が生まれたのだという説もある。簡単に調べただけでは煙に巻かれているようで先が見えない。この話は、現時点では打ち切り御免とあいなった。

 一つの考えとして、例えば河姆渡(かぼと)遺跡からは漆の使用なども確認されているので、この地域の民が海に乗り出して、日本列島に漆や稲などを伝えたのが、縄文時代の稲の発見に繋がっているのかもしれない。この数百人規模の集落跡からは、土器にも稲の絵が描かれ、当時の米が大量に出土し、稲作が生活の中心になっていたことを示している。河姆渡は当時は海岸線に近く、漁撈(ぎょろう)にもいそしみ、海を漕ぎ出し、船には米が炊けるように移動かまどと土器が持ち込まれたという。

 あるいは縄文人達の間では遠隔交易もかなり行われていたから、自ら外洋に乗り出して大陸文化を知ったのかもしれない。くり抜き船とは言っても、10人は乗れる大型のものまで発見されている。長江流域から日本列島本州ぐらいまでは、海は隔てても、豊かな森林が広がる共通文化圏のようなものを持っていたのかもしれない。

 いずれ日本で稲作が行われたとしても水田耕作ではなく、また気温の高い西日本の方でしか栽培されず、そのため長らく知られてこなかったと考えられる。おそらくヒエやアワと一緒に稲が栽培(あるいはその手前)されて、西日本では食されることもあったようである。やがて水田による組織的な耕作を開発した長江流域の稲作文化圏から、新しい水稲耕作の波が押し寄せた時、次の弥生時代にいたるのだろうか。なんだか断言できないことだらけだ。

長江文明

 長江流域での組織的な稲作の開始は、やがて分化された社会を生み出していった。最近ではこれを北方の黄河文明に対して、長江文明と呼ぶ。5000年前頃になると、城壁都市が登場し、争いのための武器が大量に出土される。ここでは轆轤(ろくろ)を使った土器、養蚕(ようさん)と絹織物。登場した王侯などのために優れた玉器の登場。河姆渡では豚の家畜化なども行われる。

 この長江流域の文化は、4000年前よりすこし前に大きく衰退した。この時期長江に大洪水があったらしく、それが原因とも言われている。また、北方で6800年前頃から興り、発展していった畑作を中心とする黄河文明から、何らかの軍事行動を受けた可能性がある。歴史上の発見はないが、紀元前2000頃に中国最古の王朝夏(か)が誕生したとされているのである。この頃から黄河方面では銅の鋳造が行われ、やがて銅と錫を混合する青銅器文化が誕生することになっていった。そして長江流域地域では、以後黄河文明と相互に結びついたような新しい時代を迎えることになった。この新しい流れが、水田稲作や金属器の使用として、日本にも押し寄せてくることになるだろう。

縄文後期

 後期にはいると塩の精製が行われ始め、これも交易品になっている。しかし遺跡の数をグラフにすると、劇的に減少しているのが分かる。特に東北から西関東などで、海岸線の拡大に逢わせてしばらく向上が続いた東関東も晩期には減少し、変わって西日本では集落の増加、拡大など一定の傾向が見られるのは、気候の変化によるものかよくは分からない。

 この時期の九州地域では韓国と共通の釣り針が見つかるなど、海を越えた貿易の姿を見ることが出来るが、決定的な大陸からの影響は弥生時代を切り開くことになった。この時期の縄文文化は、土偶がより人間から離れ、男性器を形どった石棒も発展を遂げ、土面や土版といったお守りを使用して、祭儀的呪術的行動が拡大していたことを感じさせる。集団墓地に石組みを加えたストーンサークルや、墓地の周りに土手を囲った方法など、ある種の打開できない閉塞感や、天候不順や災害といった要素から、人々がこのような傾向を強めていったのかもしれない。関東平野の遺跡からは、トチの実が沢山出土するようになるが、これは冷涼で湿潤を好む栃が森に増加して、食料不足のため何とか食料に出来るように対応した結果だとされている。複数の集落が利用した協同作業場としてのアク抜き施設などが登場している。

2007/06/19

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