弥生時代その1、弥生時代の総括

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概説と期間について

 静岡県登呂(とろ)遺跡で1947年に発掘が行われ、弥生後期の遺跡として水田跡が発見されてから、本格的な研究が始まったとも言われる弥生時代を見ていこう。

 水稲耕作(すいとうこうさく)が大陸よりもたらさせ、環濠(かんごう)や高床式の倉庫、新しい土器の焼き方や、鉄器や青銅器といったあたらしい技術が、戦(いく)さを辞さない新しい思想と共に、おそらく複数の波として日本に押し寄せた。(最近の弥生時代の早期開始説が正しければ、水稲耕作はその第1の波として紀元前9世紀近くに入り込み、緩やかに北九州に広まっていった。それが弥生を特徴付ける社会として劇的に広まっていく時代とは異なる可能性がある。)

 穀物生産と貯蔵を基盤とする社会が成立し、有力者から奴隷まで階級を持ち、支配者が治める集落という概念が、自然に派生したというよりは、恐らくそのような思想自体が流入したことによって、否応なく成立していった。日本では中国やその他の早期文明のように青銅器時代、鉄器時代を隔てず、鉄器や青銅器がほとんど同時にもたらされ、金属器時代が開始した。これによって武器の発達も進み、金属器と穀物貯蔵を握る権力者が登場し、集落同士の争いや征服・服属が行われ、次第に小国家のようなものが成立して行く。同時に中国の資料にも登場し始めるので、まずはこの資料を眺めてみよう。

中国側の資料より

 「後漢書」は25年から220年まで続いた中国の「後漢」時代、それを記した歴史書である。ただしこれは各種資料をもとに、5世紀になってから作成されたものである。この中の「東夷伝(とういでん)」には

「建武中元二年(西暦57年)、倭国の極南界にある倭奴国(倭國之極南界也)が貢ぎ物を奉じ、これに対して光武(在位25-57、後漢の創始者)が印綬を賜う」

とある。印綬(いんじゅ)とは印と紐(ひも)のことで、当時中国では様々な素材の印と色の異なる紐を組み合わせた印綬によって位を表し、皇帝に仕える官僚から、冊封(さくほう・皇帝を君主とあおぐ代わりに官職を貰い自国を治める)を受ける周辺の国王まで、天皇を中心とするランク付けを行っていたのである。これは周辺諸国の王達が、強大な中国に認めて貰おうと、進んで皇帝に貢ぎ物を持ってその配下となったからである。

 ここにある倭奴国とは「倭の奴国(なこく)」の事であり、博多付近の国を指すと考えられている。つまり日本を代表する王というわけではない。この印は(金印とは書いていないが)、1784年に福岡県においてお百姓がひょっこり発見したという、ちょっと聞くとびっくりするほどいかがわしい経緯で発見された「金印」がそれに当たると考えられ、今日では国宝に指定されている。印の真偽はいかばかりか知らん。これを持って

「剛な名前(57年)の倭奴国(わのなこく)、
光武(または後漢)の印を授けよう」

となす。(・・・年号暗記術か。)

「後漢書東夷伝」にはほかにも安帝永初元年(107年)に

「倭国王帥升(すいしょう)が生口(せいこう・奴隷の一種だったらしい)を160人献上」

とだけ記され、この人が記録に名称残す日本人の最初の人物だ。さらに倭国大乱についても桓帝・霊帝の間(146-189年の間)にあったことが書かれているが、これが確かなら、この時期に倭国で大乱があったことになる。

 他にも後漢時代に王充(おうじゅう)(27年生まれ)という思想家が書いた「論衡(ろんこう)」というものがある。これは正式な史書(王朝の歴史書)ではないが、

「周の時代(紀元前1046頃-紀元前771年)、天下太平、倭人来たりて暢草(ちょうそう)を献ず」

「周の成王の時(在位紀元前1021-1002年だとも)に、越裳(えっしょう・越の人)は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず」

などと書いている。暢草は酒に浸す薬草らしいが、この倭人が明確に日本人をさすのかどうか幾分心許ないところだ。時代も遡りすぎて、正確な資料はあったのだろうか。

 1世紀後半、後漢の時代に前漢(紀元前206-紀元8年)についての史書が書かれたが、この「漢書」には、

「楽浪の海中に倭人有り。分かれて百余国、歳時をもって来たりて献見する」

と記されていて、中国史書としては一番初めに書かれた「倭(わ)」という我が国の呼び名が登場する。「倭」という漢字を当てたのは遙か遠方の国だったからだとか、当時の日本人が自分を「我(わ・あ)」と呼んでいたとか言われるが、真相は不明である。

 ここにある楽浪(らくろう・つまり楽浪郡)とは朝鮮半島に置かれた漢の朝鮮直接支配地であり、実は前漢の武帝(ぶてい)が紀元前108年に朝鮮半島北部を直轄地として、楽浪など合わせて4つの郡を置いたのがその始まりである。これにより紀元前108年から紀元後313年までの長きに渡り、半島政策の拠点となっていた場所だ。ただしその支配は朝鮮半島南部には及ばず、多くの小国家が成立していたのは、当時の倭国と似ている。

 初期の中国資料で最も詳しく、また最も学者達を煙に巻いたのは(?)例の邪馬台国騒動を沸き起こした「魏志倭人伝」である。もちろん今でもお祭り騒ぎだが、これは後ほど眺めることにしよう。

時代区分

 さて、渡来人上陸による北九州での水稲(すいとう)耕作の開始や、新しい集落の始まりは最近の研究によって、弥生時代は紀元前9世紀頃、あるいはもっと遡る可能性も出てきたという。そうだとすると、中国では確認可能な最古の王朝である殷(いん)(または商とも)が亡ぼされ、周(しゅう)王朝(西周)が成立していた時期であり、紀元前771年に周が遷都して東周となる前、広く中国を治めていた時代になるかもしれない。ただしまだ定説ではないので先走ってはいけない。

 さて中国では、上で述べた周の遷都以後が春秋(しゅんじゅう)時代と呼ばれ、さらに紀元前403年からが戦国時代の動乱であり、独立的な諸地域を取り込んだ中国の原型が誕生したのは、この時期だとも言われている。殷の時代から開始した甲骨文字はやがて漢字に進化し、諸子百家による様々な書物が残されるのもこの頃だ。そして従来の定説では、この春秋戦国時代の頃、いくさを逃れたり、定住地を追われた人々が渡来人となって、先進技術を北九州に持ち込んだと言われている。

定番の時期区分

早期→紀元前5世紀中頃から
前期→紀元前3世紀頃から
中期→紀元前1世紀頃から
後期→1世紀中頃から3世紀中頃

最新の時代区分

 一方、国立歴史民俗博物館の研究グループによる、炭素14年代測定法に補正を加えた場合の水田耕作開始時期。(可能性もあるといった程度か。)

早期→紀元前1000年頃
前期→紀元前800頃から
中期→紀元前400年頃から
後期→紀元50年頃から、3世紀中頃まで

(これはただの覚え書きだす。)
→曲り田遺跡での最初期の鉄が遡りすぎて説明出来ないという反論も。これに対して、見つかった鉄器は従来の時代区分でも不可解な点があり、初めから信用性に問題があるという意見も。)

弥生の派生と広まり

 気温グラフを見ると縄文後期に3000年前頃(紀元前1000年頃)を谷底とした気温低下が見られ、この頃大きな人口減少が見られる。ある試算では縄文海進の進んだ温暖期には30万人にも達した縄文人も、晩期には8万人前後にまで下行してしまったともされている。しかし縄文人が行き詰まって打開策を模索し、すぐに水田に飛びついた訳では無いだろう。むしろ大陸からの新しい波が押し寄せて、その葛藤の中から弥生時代が進行していったらしい。

 しかし弥生が後期に入ってもなお、全国が弥生時代に染まったわけではなかった。もともと縄文人の活動の盛んな東日本地域は、弥生社会の取り込みが行われた後でも色濃く縄文伝統が残っていたし、北海道では縄文伝統がそのまま継続すると同時に、弥生を代表する稲作などは行われず、最近では続縄文文化として括られている。また沖縄では、縄文の影響を受けつつ土器を使用しない貝塚時代がそのまま継続し、貝塚時代後期文化と呼ばれる。そしてこの3つの文化が同時進行で進んでいたと考えるのが、最近の方針のようだ。

新しい文化の流入の例

・あたらしい土器の焼き方

・水田が、技術も道具もかなり発展した段階で流入している

・高床式倉庫など新しい建築

・環濠(かんごう・水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。)を持った環濠集落の誕生。周囲を堀で囲った集落は中国では新石器時代から開始し、韓国にも中国の影響から検丹里(けんたんり)遺跡などが登場している。そんな中国や朝鮮半島からの影響をうかがわせる。中国で造られ出した頃には、獣から村を守る側面もあったのだろうか。後の吉野ヶ里遺跡のように、集落の内部にさらに内堀を持ち聖なる場所や支配階級の居住地を区別したらしい例も見られる。ある意味では、空間の区切りとしても利用されていた。

・バラバラに解体されて発見される犬の骨から、中国や韓国では現在にまで継承される犬食いの伝統も流入したと思われる。犬食いは仏教で肉食忌避が出されてからも、他の肉と共にお食事タイムに提供され、明治維新まではお食事なさる習慣が残っていたらしい。よっぽど旨いのかしら?

・いくさで身を守る、攻め取って自らを有利に置くような思想自体が流入したらしい。

2007/07/10

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