卑弥呼の使いは239年魏(ぎ・220-265)に使節を使わしたが、この時期の中国は三国時代(220-280)をむかえ、蜀(しょく・221-263)も呉(ご・222-280)も健在で、互いに3人の皇帝が並び立っていた。魏では蜀を討ち果たした後、曹操の孫にあたる皇帝曹奐(そうかん)が、臣下の司馬炎(しばえん)に「お優しすぎるようにございますな」と禅譲(ぜんじょう)を迫られ、帝位を奪われてしまった。これをもって洛陽を都とする晋(しん・265-316・西晋とも)が成立し、280年には呉を滅ぼし中国が統一された。
ところがどっこい4世紀初頭になると北方異民族が押し寄せてきた。昔から華北を悩ませていた周辺異民族達が、晋の体たらくに付け込んだか北から雪崩れ込んで、316年晋は匈奴(きょうど)に亡ぼされてしまったのである。晋の一族である司馬睿(しばえい)という人が、長江下流で東晋(317-420)を建設して王朝を続けることになった。一方かつて都のあった華北では、異民族と漢人が乱れて16国が興亡(こうぼう)する時代に突入した。これを五胡十六国時代(304-439)と呼ぶ。
この晋の滅亡に合わせるように、4世紀に入ると中国東北部にいた高句麗(こうくり・こくりょ・後には高麗とも)が朝鮮半島を南下。中国の直轄地だった楽浪(らくろう)郡・帯方(たいほう)郡を亡ぼし、朝鮮北部の支配権を拡大した。これに対して南部でも勢力を拡大した百済(くだら・ひゃくさい・ぺくちぇ)が馬韓(ばかん)と呼ばれた半島西部を、新羅(しんら・しらぎ・しるら)が辰韓(しんかん)と呼ばれた半島東部を統一し、三国時代を向かえることになった。半島の先にある弁韓(べんかん)と呼ばれた南部地方は、この頃加耶(かや)とか加羅(から)とか任那(みまな・にんな)と呼ばれ、小国が分裂していたらしい。
鉄の大部分を朝鮮半島南部に依存していた倭国は、百済と結びつつ半島南部を確保する朝鮮政策を進めていくことになる。百済との結びつきは、当時の百済は371年に高句麗軍を破って王を討つほどの勢力を持っていて、新羅などより強大だったからだろうか。加耶(かや)は倭が政治的に最も関わりの深い地域であり、以前の説では任那日本府が置かれて、半ば統治していたように考えられていたが、最近ではこれが政府機関なのかなんなのか、名称だけは日本書紀に書かれているものの、どうもよく分からんのです。
ただし韓国にあるウォルゲドン古墳などは、5,6世紀の前方後円墳であるが、日本の近畿や九州北部のものと類似が見られ、これは倭国から古墳が持ち込まれたものではないかとされている。つまり何らかの関係が示唆されている。
2007/07/20