古墳時代その3、ヤマト政権の発展

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4世紀のヤマト政権

 この時期の倭は鉄の確保に絡んでか、朝鮮半島と深い繋がりを持っていた。奈良県の石上神宮に所蔵する七支刀(ななつさやのたち・しちしとう)には文字が記されているが、泰和4年(369年)の年号と共に、百済王が倭王のために作ったことが示され、倭と百済の同盟的関係を見ることが出来る。この時期、高句麗の進攻を退けた百済が、逆に高句麗に攻め込んで371年に王を戦死させるなど、2国間の激しい戦さ(いくさ)を繰り広げていた。そのため倭と同盟を結ぶことにしたのかもしれない。

広開土王碑

 さて、広開土王碑(こうかいどおうひ)(好太王碑・こうたいおうひ)というものがある。高句麗第19代王である広開土王を賛えるため、414年に造られた石碑である。正式な碑文名称は「國岡上廣開土境平安好太王」であるから、呪文みたいで苦しくなって広開土王碑で済ませてしまう。これには、王が391年(文献資料では392年になっている)に即位してからの業績が書かれ、まず高句麗の開国伝承などが、続いて王の功績が記され、最後に墓を守る人のための規定が定められている。所々読めなくなっているが、王の功績にあたる部分で、当時の日本の行動を垣間見ることが出来るのだ。とはいっても、正確な翻訳など今の私には夢のまた夢、ほとんど捏造に近いお優しい説明を加えるのみ。まあ心持で読んでください。(そんな日本史があってたまるか!)

「永楽5年(395年)に王は契丹族の稗麗を撃った。ところで新羅・百残(百済)は元は高句麗の属民であり、我々に朝貢を行っていたが、倭が辛卯年(391年)に[不明](恐らく海)を渡り、百残、[不明]、新羅を破り臣民としていた。永楽6年(396年)、王はその百残を撃ち大成果をあげた。永楽8年(398年)、王は粛慎を撃ち朝貢させた。永楽9年(399年)には百残と倭が内通。王は平壌に下り、倭の攻撃に対する新羅への救援を決定。永楽10年(400年)、新羅救援に五万の兵を派遣した。軍を進め新羅・任那・加羅などで倭を退却させ、また安羅人を撃った。これによって新羅は高句麗に朝貢を再開した。永楽14年(404年)、倭が再び侵入し、王はこれを撃った。永楽17年(407年)、王は5万の兵を派遣し、?(たぶん百残)を撃った。永楽20年(420年)、王は東扶餘の国都にせまった。王の打った所は城が64で村は1400に及ぶ。」

 読み方自体に所説あって詳細は分からないが、とにかく倭が朝鮮半島に度々兵を進めていたことが分かる。また百済は比較的倭に近く、新羅は比較的高句麗に近いような連合関係が見えるようだ。朝鮮半島との関係はすでに弥生時代から繋がりを見せていたが、まるで半島から列島に至るまでの連続体としての国々が、相互に勢力を競い合っているように見えてくる。(というより、朝鮮半島と倭がまるで共通史で語れるような時期として、弥生時代以降が位置づけられるのかしら?)この半島政策はさらに倭の5王が南宋に朝貢を行う5世紀にも継続されることになった。

5世紀のヤマト政権

 南宋の「宋書」の倭国を扱った部分(宋書倭国伝とも)など、中国側の資料を元に、413年から502年の間に倭から中国の南朝に向け、少なくとも13回の朝貢があったことが分かる。
 朝貢(ちょうこう)とは、中国天子様にお仕えする臣下として貢ぎ物を差し出して、見返りに自国を統治したり、他国に睨みを効かせるための称号を授かるという、まことにありがたいお涙頂戴物のシステムで、貢ぎ物と代わりの品物の交換による貿易を朝貢貿易、天子様の配下となり称号を貰う体制を冊封(さくほう)関係などと呼んだりする。この時期の倭国は、朝鮮半島での抗争では高句麗に押され、慌てて馬術などの戦術を学ぶと同時に、すでに朝貢を行っていた朝鮮半島の国々にリードを許してはならないと、ヤマト政権もこれに習って朝貢を開始したのかもしれない。

 当時の中国は鮮卑(せんぴ)から興った北魏が華北を統一して以来、黄河方面と長江方面の二王朝が並び立つ南北朝時代(420-589)を向かえていた。ちょうど使いが送られた時期は、南朝の宋(そう・劉宋とも)(420-479)と北朝の北魏(386-534)が並び立ち、使いを南朝に送るという決定は、北朝に朝貢する高句麗などへの対抗策だったのかもしれない。

 この朝貢のおかげで、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という5人の倭王が中国側の資料に残され、彼らは「倭の五王」と呼ばれている。与えられた称号から推測すると、倭が朝鮮半島での実際の指導権を発揮できるような称号を熱望していたことがうかがえる。しかし実際は、冊封関係に置いて高句麗の下にあるなど、ヤマト政権の狙いが十分に果たされたとは言えない。

 重要なことは、朝鮮半島との戦争を含めた繋がりと共に、南朝へしばしば送られる使者を通して触れた先進文化が、ヤマト政権の発展に重要な意味があったであろう点にある。もちろん南宋から授かった称号が国内の統治支配の権力集中に役だったことは間違いないだろう。中国資料から讃と珍が兄弟であり、済の息子たちが興と武であること。したがって珍と済の間には血の断絶があったのかもしれないが、男子による王の世襲が行われつつある様子だ。この五王の名称は、記紀(古事記と日本書紀)などと照らし合わせて類推されているが、ここでは比較的可能性の高い最後の王「武」についてだけ見ることにしよう。

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)(後の名称)

 最後の「武」は雄略天皇(ゆうりゃく・オオハツセワカタケルの命)(418-179)(第21代天皇在位456-479)ではないかとされている。この天皇は後の時代まで偉大な命(みこと)として知れ渡り、万葉集では巻頭を飾る「天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)」は雄略天皇の作品となっていて、「こもよ、みこもち、ふくしもよ」と何だか「もこもこ」した状態で歌い始めているし、奈良時代の仏教説話集「日本霊異記(にほんりょういき)」でも雄略天皇の話から始まっているぐらい、名の知れた天皇(正しくはまだ大王)だった。宋の皇帝に記した倭王武の上表文(じょうひょうぶん)には、「自ら征服を行い、東は毛人(えみし)(後の蝦夷と同一か)を征すること55国、西は衆夷(熊襲か)を服すること66国、渡って海の北を平らげること95国」とあり、自意識漲る大王振りがうかがわれる。これが事実なら、5世紀後半にヤマト政権による列島広域統一が成し遂げられたと考えられるが、果たして海の北をどれほど平らげたものやら分からない。

 ちなみに、「毛人(えみし)」という言葉は、7世紀頃から「蝦夷(えみし)」という漢字が使用されるようになっていくが、もともとは蔑称(べっしょう)ではなかった。中華思想に基づいて東の服属されていない周辺民族を表す「夷(い)」という字が使用され始め、やがて平安時代になって「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるようになるまでに、次第に蔑称化していったらしい。

鉄剣

 さて、熊本県の江田船山(えだふなやま)古墳から出土した鉄剣には銀の文字が記されている。(銀象嵌鉄刀銘・ぎんぞうがんてっとうめい)その中に、

「獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)」

の記述がある。また埼玉県行田市稲荷山(いなりやま)古墳から出土した鉄剣には金の文字(金象嵌鉄刀銘)が115文字も記されている。辛亥年(471年とする考えが有力)の年号が記され、そこには自らを乎獲居臣(オワケの臣)であると述べ、

「杖刀人(じょうとうじん)の首(おびと)として仕え今に至る。獲加多支鹵大王(ワカタケルオオキミ)の寺であるシキの宮に居た時、我は天下を助けて治めた。よってこの刀を造り、名文を刻むものなり。」(文章は心持ちです、心持ち。)

 と記されている。このような地方豪族と中央との関係は氏姓制度(しせいせいど・うじかばねせいど)に発展していくのだが、あるいはこの頃に組織され始めたのだろうか。こうした銘文は漢字によって記されていて、本格的な文字の使用が大陸から伝来したことを告げている。

 この天皇の時には、朝鮮半島で大きな争乱が起きていた。高句麗は例の広開土王の後を継いだ長寿王(ちょうじゅおう、在位413-491)が427年に都を平壌に移し、朝鮮半島南部への圧力をさらに強め、ついに高句麗の最大版図を実現。危機感高まる百済と新羅がついに結び、北魏に援軍を要請したが、百済は475年に首都漢城を落とされ王が戦死、次の王が都を移して苦しい時期を迎えていた。「日本書紀」の雄略紀には、百済は475年に滅び、雄略天皇が477年に百済を再興させたことになっている。

 その直後のことである479年、中国では宋の皇帝から禅譲を受けて南朝の斉(せい・南斉とも)(479-502)が興った。倭は引き続き南朝から称号を得て、朝鮮での優先権を得る政策を継続。しかし最終的に502年を最後に、倭と南宋の関係は途絶えることになった。高麗が次第に北朝との関係を深め、百済・新羅も6世紀後半には北朝との関係を深める時代に、南朝に朝貢する理由が無くなったのだろうか。それとも朝鮮半島の相手国より良い称号を貰える可能性が無いので、方針を変えたのだろうか。後に中国を統一する隋が興り、遣隋使を送るようになるまでの間、ヤマト政権は中国側との正式外交を行わなくなっていく。もちろんこれは、政権の交渉についてであり、日本人の交易魂というものは、すでに縄文時代から育まれ、例え罰則を設けて差し止めても、海に旅立ってしまうのが、我々の本質なのである。

渡来人

 さて弥生時代が大陸との深い関係によって始まったのに続いて、古墳時代も、大陸と列島がダイナミックな人の流れによって発展していく時代だった。
この時期の倭は後に見る乗馬や、
朝鮮半島の硬質焼き物の伝統を輸入した須恵器(すえき)、
鉄器の新しい技術や、
漢字の本格的使用、
さらに学問や思想までも一緒に入ってきたらしい。

 特に結びつきの深い朝鮮半島南部の伽耶や百済から、沢山の渡来人が押し寄せたことは重要な文化流入の柱となった。特に多くの渡来人が押し寄せたのは、

[1]高句麗が南下し、倭が出兵したが破れた5世紀前
[2]高句麗の百済への圧力が高まり都を陥落させられた5世紀後半
[3]ついに百済が滅亡して大量の人々が列島にたどり着いた7世紀後半、

という3つの時期になる。特に5世紀後半頃、今来た渡来人たちを、日本書紀では「今来の才伎(いまきのてひと)」と呼んでいるが、高い技術を持った渡来人たちは、進んでヤマト政権に迎え入れられた。

文化勃興

 このような渡来人達を取り込みながら、やがてヤマト政権の手工業集団である品部(しなべ)が組織されると、彼らの代表には姓(かばね)が与えられ、
その下で須恵器を作る陶部(すえつくりべ)、
養蚕や織物の錦織部(にしごりべ)、
衣縫部(きぬぬいべ)、
鉄鋼技術者である韓鍛冶部(からかぬちべ)などが整備されていくことになった。
他にも忌部(いんべ)や、
書類に携わる史部(ふひとべ)などが存在する。

 韓鍛冶部という名称は、まさに韓の鍛冶技術の高さがそのまま名称になっていて面白い。彼らを率いる代表者には、もともと秦の始皇帝の子孫を名乗る弓月君(ゆづきのきみ)が、養蚕と機織りを伝えた所に始まる秦氏(はたのうじ)。民衆を率いて渡来した阿知使主(あちのおみ)の子孫である漢氏(あやのうじ)などがいる。漢氏は政府の記録を司り、そこから漢字が使用されるようになったという落ちまで付いているようだ。

 漢字はすでに弥生時代、三重県の遺跡から墨書土器(ぼくしょどき)が発見され、3世紀には土器に漢字の形を書き込んだ形跡が見られるのだが、これは文字列というよりは記号か文様として使用されたものだ。千葉県稲荷台1号墳からも鉄剣が出土し、5世紀半ばのものとされているものは、「王賜」という文字が見られるが、恐らく倭の五王の誰かを指すのかもしれない。そしてワカタケル大王の所で見たように、5世紀後半には何本かの鉄剣碑文が見つかっている。やがて「論語」などの思想も流入し、6世紀初めには、五経博士(ごきょうはかせ・儒教の専門学者)が医療や暦の博士と共に来日し、次第に有力者の教養が整えられていくことになる。

 儒教だけではない、仏教だって早くも(と言うよりはようやく)伝来している。渡来人たちの私的な仏教信仰が行われ、例えば司馬達止(しばたつと)が仏像を安置して拝んでいたという記録が残されている。そして公式の記録では恐らく538年(または552年)、百済の聖明王(せいめいおう)が欽明天皇(きんめい)に経論(きょうろん)と仏像、仏具を送ってきた時に、大乗仏教が流入したとされている。

馬具

 5世紀以降の遺跡からは、突然大量の馬具が出土するようになる。この事から大陸の北方騎馬民族が朝鮮半島から海を渡り・・・騎馬民族が海を渡るのは非常に不可解な気がするが・・・・とにかく海を馬と共に渡り、彼らがヤマト政権を成立したという騎馬民族征服王朝論という説がまことしやかに語られたことがあるくらい、沢山の馬具が登場するのである。魏志倭人伝にあるように日本には馬が居なかったか、居たとしても乗馬の伝統など無かったと思われるのだが、ここに来て円墳の外などに馬を殉葬したらしい後まで発見されるようになった。このような例は5世紀中頃に開始したと考えられる、馬の飼育場である牧(まき)を営んだ河内・信濃・上野などで見ることが出来る。好太王碑の所で見たように5世紀に移り変わる頃、高句麗の騎馬軍団に打ちのめされたのが原因で、倭の豪族たちが同盟的関係にある百済などから乗馬技術者と馬を渡航させ、最先端の戦闘技術を学び始めたのかもしれない。

生活と宗教観など

 群馬県の黒井峯(くろいみね)遺跡を見てみよう。ここは6世紀初頭と6世紀中頃に2度の大噴火をなさった群馬県榛名山(はるなさん)の火山灰によって、まるでヴェスビオ火山に消えたポンペイの町のように、当時の集落がそっくり残っていたのだ。運良く(しかし学者にとっては残念ながら)居住者の逃げる時間はあったようで、遺体がそのまま残ってはいなかったが、当時の集落の様子がすっぽりと時を止めて横たわっていたのだった。集落はある大きさの柵に囲まれた土地を一括りとして、この中に7-10棟程度の平地住宅(竪穴式ではなく)があった。この平地住宅は全てが同じものではなく、屋根の形や寝間があるかないかなどによって、幾つかの用途に分かれていたことが分かっている。住居や納屋や作業小屋などを含めた柵の中のひとつのグループが形成され、これを単位として、恐らく血縁関係の数家族が住んでいたと考えられている。黒井峯遺跡ではこのような柵のまとまりが8-10ぐらい存在しているそうだ。耕作地を持った農家が集合しているような集落と言えるかもしれない。柵の外には謎の竪穴式住居がグループごとに設けられて、これは貯蔵穴だとも冬のための住居だとも、異なる身分の棲み分けだとも言われている。

 当時の宗教観は、自然界の森羅万象、自然物や自然環境を神的に見なすものだったので、そびえる榛名山も神としてあがめ奉られていたのだろう。この榛名山にはかつて巨人族ダイダラボッチたちが富士山と浅間山と榛名山を競争して造った時に、富士山に負けたという伝承すら残されている。そんなわけで標高1390mの頂きを持つ「榛名富士」も霊験あらたかな山には違いない。大和の三輪山にある大神神社(おおみわじんじゃ)などは、三輪山こそが神であることから、本殿が設けられていないほどの徹底ぶりだ。[その山には大物主神(おおものぬしのかみ)、別称三輪明神(みわみょうじん)が奉られています。]

言葉のコーナー(ものは試しに)
霊験(れいげん・れいけん)
・神仏が示す不思議な感応(かんのう・下)や利益(りやく)験(げん)。利生(りしょう)。

あらたか
・神仏の霊験や薬効が著しいさま。いやちこ。あらた。

感応(かんのう・かんおう)
①人々の信心に神仏がこたえること。
②事に触れて心が感じ動くこと。
③電気・磁気の誘導の古い言い方。

 三輪山のように円錐形の神聖なる形の山は、当時、神奈備(かむなび)と呼ばれて崇められていた。自然崇拝は山だけではない、福岡県に属する玄界灘の沖の島などは、島自体がご神体として当時から崇められ、今日でも女人禁制、一般人もほとんど禁制に近い。島には宗像大社沖津宮(むなかたたいしゃおきつみや)があり、常に人を寄せ付けなかったおかげで、当時の大量の祭祀用遺物が発見されたことでも有名だ。

 古墳から大量に出土する石釧(いしくしろ)、車輪石、鍬形石(くわがたいし)などは、弥生時代に沖縄から沢山輸入されていたゴホウラガイの腕輪を模した石型腕輪ではないかともされる。これらの腕輪は巫女などシャーマンとの関係が取りざたされ、当時の有力者が軍事と宗教を司るものとして古墳に納められていたことをうかがわせる。

 呪術的なものとして、祭祀の場所として整備された社(やしろ)では、けがれを除くための禊(みそぎ)や、悪霊をはらう祓(はら)えが行われ、政治においても神意を窺うことが重要な意味を持っていた。そのため鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占(ふとまに)や、熱湯に手を入れさせて焼けただれたら嘘を言っているという盟神探湯(くかたち)といった遣り方が行われた。

埋葬について

 当時の埋葬は土葬であり、それが人々の生死観に大きな影響を与えている。もとの体のまま土に返された遺体は、魂さえ戻れば起きあがるかもしれないもの、怨霊として蘇りうるものとして考えられた可能性が高い。葬儀の儀式は、殯(もがり)儀礼と呼ばれ、有力者の葬儀では、遺体を安置した部屋に残された遺族がこもり、共に生活をし、初めは魂を呼び戻すための儀式が行われ、それでも生き返らない場合は悪霊となって蘇らないように慰める儀式が行われた。隋書東夷伝の倭国の所には、それが3年間に及ぶことが記されている。長い殯(もがり)の期間は古墳完成のためにも必要だったのかも知れないが、農民など一般の人々にも短い同種の儀式があったかも知れない。現在のお通夜は、モガリの名残だと考えられている。

かまどと米

 5世紀頃、炉ではなく壁側に置かれる竃(かまど)が登場した。薪を焚いて土器の甕(かめ)などを乗せて調理を行うもので、この竃を中心にして貯蔵と調理の施設が整備され、今日の台所のルーツにもなっていると言えるかもしれない。弥生時代の遺跡からすでに甑(こしき)が発見されているが、この時期になると、米を蒸すことが広まった。つまり甕に水を入れて火に掛ければ、やがて沸騰して水蒸気が立ち上るだろう。そこでその上に甑という下側に穴の開いた土器を置き、中に米を入れて蒸すのである。弥生時代には、水で煮て出来上がった、姫飯(いいめし)というおかゆのような米が食されていたのが、これによって、今日のおこわ(蒸し米)ような強飯(こわめし)が食卓に上るようになったようだ。

 土器は、弥生時代からの伝統である土師器(はじき)の他に、朝鮮半島から伝わった須恵器(すえき)が使用されるようになっていった。これはろくろを使用して形を整え、焼成音度の高い窯焼きで堅く焼き上げるもので、数多くの渡来人と共に日本に伝わった新技術の一つである。色も赤褐色の(つまり埴輪の色の)土師器と違い、灰色をしている。

有力者の館

 群馬県三つ寺Ⅰ遺跡というものがある。40mもの幅を持つ堀で囲まれた、一遍が90mぐらいの館で、南と北に平面を真ん中で区切って分離させているのが特徴的だ。その南側は、集落を統治する有力者が祭りを行うための祭儀場であったらしい。堀の外からわざわざ水道が引き込まれている。北側の居住地らしい遺跡からは、鉄器の加工した場所も見つかっている。この遺跡もそうだが、古墳時代にはいると、有力者の館は、集落の中ではなく、集落から離れた場所に置かれるようになり、集落の環濠や防御施設が取り除かれる一方で、有力者の館には堀が張り巡らされ、防壁が築かれるようになった。

覚え書き

 農村の祭りは、弥生時代同様、農耕催事によって行われ、特に収穫を期待する祭りと、収穫を祝う祭りを中心にして成り立っていた。また有力者の間で、自らの先祖を氏神として奉る信仰が行われ出したかもしれない。人口はまだ500万人未満ぐらいの所でしょうか。

2007/08/04メールまで

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