6世紀前半の中国は南北朝時代が続いていた。439年に華北を統一して、北朝時代を切り開いた北魏(386-534)は、太武帝(在位423-452)の時に道教に進むために仏教を弾圧。仏を廃する廃仏(はいぶつ)が行われ、これは三武一宗の法難(さんぶいっそうのほうなん・中国での4つの廃仏大事件)の一つに数え上げられている。仏教はすでに紀元前後頃、中国に伝えられていたが、893もの寺院を建立し華北に仏教を広めたとされる仏図澄(ぶっとちょう)(?-348)や、大量の仏典を漢文に翻訳して見せた鳩摩羅什(くまらじゅう)(344~413)や、インドに渡って帰国した後「仏国記」を記す法顕(ほっけん)(337?-422?)らが活躍し、非常に熱い時代を迎えていた。仏寺や仏像が大量に作られ、後に日本が被る仏教の影響を、一足先に高波のようにうけている。この時期信仰者も急増し、これに反対する反動があっても不思議ではない。
さて北魏では、後に唐まで使用され、また日本にも大きな影響を及ぼしたという、均田制(きんでんせい)が開始している。これは土地を国から授けることにして、授かった皆の衆は税を払い、やがては(例えば死んだ場合)国に土地を返すという制度だ。さらに493年には平壌から洛陽に都を移すなど、いっそうの漢化政策を推進した。これに対して、元来の鮮卑の誇りを忘れたかという反抗もあり、北方警備のための陳という役職が冷遇に不満を抱き、ついに523年に六鎮の乱(りくちんのらん)が勃発した。これにより王朝は弱体化し、最終的に2人の皇帝が立ち東魏と西魏に分裂した。これがそれぞれ北斉と北周に変わり、577年に北周が北斉を滅ぼしたが、581年には楊堅(ようけん)が皇帝を譲り受け華北一帯は随の治めるところとなった。譲り受けるとはいっても、お中元みたいに贈りつけるわけではもちろんない。禅譲(ぜんじょう)といって、体裁は譲り受けるのだが、実態は譲らなければならない状況を作って、王朝を奪い取るのである。
一方南朝は斉(せい)(または南斉・なんせい)から変わって、502年に梁(りょう)が成立。官僚を9等に分類して組織する九品官人法(きゅうひんかんじんほう)を改良し、仏教を保護しつつ国内を充実させていった。この時期、王位継承者の昭明太子(しょうめいたいし)(501-531)が当時の詩や文の選集を、自らの執筆も含めつつ完成させ、これは「文選」(もんぜん)という有名な選集として後世まで残されることになった。日本にも流入し、平安貴族のたしなみとなるなど、重要な書物として読まれている。陶淵明(とうえんめい)の「帰去来辞」や、諸葛亮「出師表」なんかも含まれているそうだ。好奇心旺盛の人は思う存分読んでみたまえ。
南朝も557年に再び禅譲が行われ、王朝名は陳(ちん)に代わったが、その勢力は弱く、やがて589年に隋によって中国が統一されることになる。ところでこの南朝は、建康(けんこう)(または、建業)に都を置いていたが、同じ都を使用していた三国時代の呉(ご)、さらに東晋を南朝に加え、[呉、東晋、宋、斉、梁、陳]を合わせて六朝(りくちょう)と呼ぶ。江南の開発によりこの地は大いに栄え、政治は流動的であったが、仏教芸術や文学などの各種文芸が大いに華やいだのである。これを六朝文化(りくちょうぶんか)と呼ぶが、例えば東晋時代には書道に秀で書聖と呼ばれた王羲之(おうぎし)(300頃から365、または379)や、絵画に秀で画聖と呼ばれた顧愷之(こがいし)(344?-405?)が活躍し、漢詩の大家であり、また最初期の小説家とも言われる、陶淵明(365-427)(陶潜・とうせん)も東晋から南宋にかけて活躍している。
他にも地理書「水経注」や、医学書「傷寒論(しょうかんろん)」、中国最古の現存する農業の「本斉民要術(せいみんようじゅつ)なども登場し、倭国との文化成熟度の違いは非常に大きい。
475年に高句麗が百済の都である漢城を落とし、百済王が殺されたことは前に見た。百済は都を大きく南に移し、538年にはさらに遷都して扶余(ふよ)に移ることになった。高句麗の南下政策は継続され、百済はこれをとどめながら南部の伽耶(かや)諸国に対して勢力拡大を目差し、512年、513年に6つの県を併合した。一方、6世紀に入って国内制度の整備などが進んだ新羅は、高句麗に隷属的同盟を結ぶ政策から離れ、やはり伽耶への進出を狙う。6世紀半ばには逆に高句麗に攻め込み、552年には大幅に領土を広げた。この進出の気運は南方にも向けられ、百済と倭の連合軍を討ち破り、562年に伽耶諸国を併合したのである。これをもってヤマト政権の朝鮮での拠点は失われ、以後は百済との同盟関係により、伽耶復興を掲げる遠征軍が組織されることになる。これは660年の百済滅亡と663年の白村江の戦いでの大敗まで続くことになった。
2007/08/05メールまで