倭の5王の最後を飾る武(おそらく雄略天皇)の死後何代か後、506年に武烈天皇が亡くなった時、天皇直系の血筋が途絶えた。ここに武烈を即位させた人物でもある、大連の大伴金村(おおとものかなむら)が、越前の男大迹王(おおどのおう)を迎えて天皇に即位させた。彼は越前という近畿地方から離れた豪族だったのだが、先祖が応神(おうじん)天皇であることから、抜擢された。もしくは自ら勢力拡大を目差して画策したのかもしれないが、詳細は分からない。実際は天皇とは関係のない豪族で、力で天皇の位を奪い取ったという説を唱える人もあるようだ。いずれ、これによって継体天皇(けいたいてんのう・正しくは天皇という名称ずっと後の呼び方だが)、またの名をオオド(古事記の袁本杼命・おほどのみこと)が迎えられ、507年に即位した。
彼は大阪府枚方市の方にある河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位したが、なかなか大和に入れなかった。これは異なる土地の王であったためだろうか、大和に拘らなかったためだろうか。526年になってようやく大和に宮を置くことになる。
ところが翌年、新羅遠征軍を派遣しようとすると、北部九州の豪族たちをまとめた筑紫国の国造である磐井(いわい)が反乱を起こし出兵を阻止。時に527年。これを磐井の乱という。親新羅派の磐井らが新羅側について、新羅の最前線防衛ラインを築いた争いとなったらしい。様々な経緯があって、大連の物部麁鹿火(もののべのあらかい・もののべのあらかび)が翌年になって鎮圧に成功した。
・やあ、ワンポイントのジョスカンだよ。今日は磐井(いわい)が反乱反乱を起こした527年についてさ。
「何時にな(527)っても磐井(いわい)は落ちぬ、
物部麁鹿火に任せよう。」
それじゃまた。
閑話休題。継体天皇の即位により、近江や越前など北方との結びつきが強化されたと考えられる。しかし古事記ではまさに磐井(いわい)の乱の勃発した527年に継体天皇は亡くなっている。日本書紀では531年とされているが、そのかわり一説が引用され、「天皇・太子・皇子が共に亡くなった」という説が記されている。どうも不穏な時代精神を感じさせるようだ。なお彼より以後の天皇系譜にはおおむね現実性があるらしい。
そうは言ってもさっそく不明瞭な状況が生まれてくる。継体の後、わずか4年、3年の政治だった安閑(あんかん)天皇、宣化(せんか)天皇の後に、欽明天皇(きんめいてんのう)(509-在位539-571)が登場するのだが、一説にはこの時期は2つの朝廷が並び立つ「二朝並立(にちょうへいりつ)」の時代だったともされている。
これによると以前からの有力豪族である大伴金村が安閑、宣化天皇の後ろに付き、これに対して、葛城(かずらき)氏から分立して完全独立を果たした蘇我稲目(そがのいなめ)(?-570)が、欽明天皇を押し立てて、二人の天皇が並び立っていたというのである。この説を「辛亥の変」(しんがいのへん)説という。
蘇我稲目というやつは、数々の天皇を補佐し続けた伝説のヒーロー(?)建内宿禰(たけのうちのすくね)を先祖に持つとされる家系の出身で、蘇我氏は彼の時に一躍政界メジャーデビュー(ああそうかい)を果たしたのである。蘇我氏は渡来系氏族との関係を強め、財政をつかさどる三蔵(みつのくら)を管理し、非常に強い勢力を持つように行くのであった。
いずれ539年、ヤマト政権は欽明天皇によって統一継承されることになったが、翌年の540年には大伴金村が朝鮮半島政策で物部尾輿(もののべのおこし)に失脚させられ、代わって物部氏が台頭。6世紀後半には物部氏と蘇我氏が対立を深めていった。
欽明天皇(509-在位539-571)は継体天皇の息子であり、一説では彼が即位した後、552年(日本書紀による説)に百済から仏像と経文が伝わったともされている。またより有力な説では、彼の即位直前の538年に初めての仏教公式伝来があったと考えられている。もちろん渡来人が私的に仏教を信奉するようなことはもっと前から行われていただろうが、この公式伝来によって、国家的宗教としての仏教の受容が開始したと言えるかもしれない。これから後、物部氏と蘇我氏の対立は、仏教を推進する蘇我氏と廃仏(はいぶつ)を目差す物部氏という宗教争いの体裁を取って行われることになった。日本書紀ではこの時の経緯を次のように記している。
欽明天皇が「百済より送られた仏を信奉すべきであるか」と問えば、物部尾輿、中臣鎌子らが「国つ神(伝統的な神)を蔑ろにしてよいものか」と反対したのに対して、蘇我稲目が「西方の国々皆仏を敬う。日本もそうすべきである」と答える。「そんじゃまあ、お前が拝んで見るがいい」ということになって、稲目は向原(むくはら)にあった家を仏寺(向原寺、後の豊浦寺)として、御仏を一心不乱に拝みまくったのである。ところが意に反して疫病が大流行。たちまち蘇我が仏を拝んだ罰が降ったのだとされて、稲目の寺は仏像諸共に火に包まれた。それでもしぶとく仏像だけは燃え尽きなかったので、これを「おらあ」と叫んで難波の堀江に投げ捨ててしまったという。ここで難波の堀江というのは、当時大阪湾の内側にあった河内湖(草香江・くさがえ)から海に向けて造られた堀江のことであるかと思えば、そうではなく向原寺跡にある池がそれにあたると紹介されている。
こうして有力者たちへの仏教の浸透は一度頓挫したものの、次の蘇我馬子の時代に大きく前進を見せることになるのである。
さらに562年には、ヤマト政権の朝鮮政策の要であった伽耶(かや)が新羅に亡ぼされてしまった。この時期の伽耶は諸国が同盟を結ぶ諸国連合体として新羅などに対抗していたのだが、この年、盟主である大伽耶国が新羅に降伏して、事実上新羅の下に付くことになったのである。
衝撃を受けた欽明はただちに軍隊を差し向けることになった。ところがこの戦さがどうもまずかったというか、なんというか、つまりあまり人がええものじゃけれ、お騙されたんぞなもし。
つまり白旗を掲げる敵に「降伏でござるな」と油断したら、はい残念まだでしたと攻め立てられ、ぼこぼこにされてしまったらしい。これを卑怯と罵っては、当時の精神には一致しないだろう。ヤマトタケルだって、悪質なだまし討ちをして、その後で歌まで歌っているじゃないか。この年は新羅だけでなく高句麗にも出兵したが、結局どちらも戦果を挙げることが出来なかった。
ヤマト政権直轄の水田である屯倉(みやけ)の整備や、部民(べのたみ)の制度が整えられ、また中央政治においても有力豪族たちの代表(大夫・まえつきみ)による合議制で政治を行う体制が整っていったようだ。大夫の代表はもちろん蘇我稲目であった。またヤマト政権の財源を管理する大蔵(おおくら)、大王の財産を管理する内蔵(うちくら)、祭儀用財産の管理を行う斎蔵(いみくら)を合わせて三蔵(みつのくら)と呼ぶが、これらを管理するために、蔵司(くらのつかさ)が設置されるなど国家組織の進展も見られる。
当時財政などの職務は渡来人などによって行われていた。蘇我稲目は、渡来系氏族の掌握によって三蔵(みつのくら)管理権を握る。また準備周到に自分の娘を欽明天皇の后となし、蘇我体制への礎(いしずえ)を築いていった。「大臣(おおおみ)」という「臣(おみ)」の代表者としての称号は、彼によって生み出されたものである。また欽明の墓とされる、奈良県見瀬丸山古墳(みせまるやま)古墳、ここは蘇我氏一族の土地でもあった。
仏を巡る物部氏と蘇我氏の抗争も、実際は仏そっちのけの政権抗争だったのかもしれない。この争いは、蘇我稲目と物部尾輿の子供達である蘇我馬子(そがのうまこ)(?-626)と物部守屋(もののべのもりや)(?-587)の戦争にいたり、587年に馬子が物部氏を亡ぼすことになった。これによって蘇我氏の体制は黄金期を迎えることになる。
雄略天皇から欽明天皇の時代についてまとめておくと、この時期鉄の国内生産が本格化し、ようやく朝鮮半島一辺倒体質から離脱を始めた。しかし大陸から訪れる渡来人は非常に多く、文字の読み書きや、諸芸術、仏教や、潅漑技術など、中国発の先進文化がどんどん流入してきた。同時に倭の五王以来、中国の冊封体制からは離脱し、国内においては屯倉の整備や、国造制が組織され、7世紀初頭には東国にまで政権組織の波が押し寄せた。土地の直轄は、水田だけでなく、鉄採掘場や塩の産地にも及んでいる。
2007/08/16メールまで