昔、後漢に楊震(ようしん)という男がいた。彼は
「天知る、地知る、子知る、我知る。
何ぞ知る無しと謂わんや」
(天も、地も、あなたも、私も知っている。
知るところ無しとどうしていえるであろうか。)
といって賄賂を退けるほどの潔白の男であった。よく知られる四知(しち)の逸話だが、後漢書では「天知、神知、我知、子知」と言ったことになっているらしい。それはともかく、彼はあんまり潔白なものだから、安帝の怒りを買い、職を罷免させられてしまい、「我が事尽きぬ」と叫んで自害したという伝説を残す男だ。これから見ていく隋(ずい)(581-619)を興した楊堅(ようけん)(高祖・こうそ)(文帝・ぶんてい)(541-在位581-604)は、その子孫であるとされているのである。しかし、本当のところは鮮卑の血筋だったらしい。自らの漢民族への憧れが、進んで楊震の子孫を名乗らせたのかも知れない。ちなみに先ほど「高祖」と「文帝」と記したが、なんで沢山名前があるんだとお思いの貴方、実は「高祖」は廟号(びょうごう)という、歴代先祖の列に加えるための称号であり、「文帝」の方は生前の功績を賛えて贈られる名称である諡(し、おくりな)または諡号(しごう)というものだそうだ。したがって沢山の「文帝」の諡号を持つ歴代の皇帝が存在する。ちなみに楊震が本名で、楊家の震さんと言ったところだが、この本名は諱(いみな)と呼ばれ、皇帝の本名など口に出すことは許されなかったのである。漢を起こした劉邦の時などは、邦の字が公式に使用できなくなり、「国」という漢字が定着する原因になったそうである。こうした思想が、正式名称と異なる字(あざな)を使用して、普段呼びかけるような伝統を生みだしていった。今日の「あだ名(綽名・渾名)(あだは「他の」といった意味)」もまた、字(あざな)という言葉から幾分か派生したのではないかと考えられるくらいだ。まさに名前に歴史有りである。(そうやってまた、君は脱線するのか。)
路線を修復しよう。この楊堅は幼少より仏教に親しみ、北周に仕えていたが、娘を帝の妃とすると、ついに禅譲によって隋を興したのである。その後、仏の心を忘れたのか、北周の一族を皆殺しにして後の憂いを絶つと、589年ついに南朝の陳を亡ぼして中国を統一した。隋帝国の誕生である。
中央集権が進められ、中央政府には三省六部(さんしょうりくぶ)を設置し、地方は州郡県とあったうち群を廃して州県制とした。かつて群ごとに中正官を置いて人材登用を行わせる九品中正法(きゅうひんちゅうせいほう)があったが、これに代わる優れもの登用制度として、598年に名高き科挙(かきょ)を開始した。地方の豪族が官僚として身内や意に従う者を排出する悪弊を取り除くためである。理念上はあらゆる階級の優れた人材を等しく登用可能なもので、世界的に見ても画期的なシステムである。あまりにも画期的すぎて、平安時代の日本では消化できなかったと噂が立つぐらいだ。しかし当然それまでの貴族階級の牛耳る社会が急激に変化するわけもなく、唐の頃までは官僚の広い部分は貴族達が握って、完全に機能していた訳ではないようである。
貨幣の統一も進められた。漢の武帝が鋳造を開始した五銖銭がまだ生きていたが、隋は政府発行の五銖銭以外を没収して、貨幣の統一を進めていった。均田制(きんでんせい)が敷かれ、農民に等しく兵役を課す府兵制もいっそう整備された。これらの文帝の改革は後の唐に引き継がれて行くことになるが、彼の治世のことを「開皇(かいこう)の治」と呼んで賛えたりすることもある。
続く煬帝(ようだい・楊広)(569-在位604-618)は始皇帝と共に暴君としてお馴染みのやんちゃ者である。お父さんに気に入られるように倹約家の真似をしてみせて、父の死後に即位すると、たちまち豪奢な生活を営んでみせた。さらに弟たちまで抹殺する遣り口には、父も彼が殺したのではないかと噂が広まる始末。それでも彼は、父の進めていた長安の建設を進め、さらに大運河を建造し、華北と江南を連結させた。さらに対外政策として台湾を討ったが、3度の高句麗遠征にはことごとく失敗し、最後は各地の反乱の中、江南に留まり反乱鎮圧の指揮を執りつつ、現実逃避のどんちゃん騒ぎを繰り広げていたようで、結局殺されてしまったのである。
ただし彼については唐の政治家達が、打ち破られるべき悪しき者として、負の虚飾を加えた可能性もあるようだ。それにしても彼は、完成した大運河を竜船でくだり、大王であるわたくしを全国民に知らしめるデモーストレーションを行うほどの天晴れ者であり、文学史上に名を残す詩人でもあった。(・・・なんだかネロ帝を彷彿とさせるような。)ただし煬帝という名称は追謚といって、唐になってから与えられたもので、煬には礼を弁えず、民衆を虐げるような意味が込められているそうである。したがって彼の廟号は世宗、謚は明帝である。それなのに煬帝が今日の歴史の教科書に載るのは、勝者の原理が果てしなく継続した証しなのだろうか。
さてやはり北方異民族鮮卑の血を引くらしい李淵(りえん)(565-635)は、隋では太原留守(つまり長官代理)の職にあったが、隋の内乱に対して長安を攻め、自らの傀儡(かいらい・操り人形)となる帝を擁立。隋の煬帝が殺されると、この傀儡から禅譲を受けて自らが皇帝となった。これによって唐(618-907)が興り、彼は高祖(こうそ)(在位618-626)となったのである。
各地の反乱豪族を収め中央集権を進めるが、長男を後継者と定めると、次男李世民(りせいみん)の名声が高まってしまった。これを排除しようとする長男が李世民暗殺を計画するに及んで、李世民が逆に兄の抹殺を成し遂げるという事件が勃発。これを626年の「玄武門の変」という。李世民はこれを機に父に禅譲を迫り、皇帝太宗(たいそう)(598-在位626-649)として即位。後に「貞観(じょうがん)の治」と賛えられる優れた政治を行っていった。
唐代の国内政策について見てみよう。まず三省六部(さんしょうりくぶ)という官僚組織が完全整備される。
これは提出された案件(上書)を皇帝と共に審議し成文化する
中書省(ちゅうしょしょう)。
それを審議する
門下省(もんかしょう)。
法案を実際に行う行政機関の
尚書省(しょうしょしょう)の三省を設け、
行政機関である尚書省をさらに、
吏部(りぶ)・・・官僚人事
戸部(こぶ)・・・財政と地方行政
礼部(れいぶ)・・・倫理などを司る礼制と外交
兵部(へいぶ)・・・軍事
刑部(けいぶ・ぎょうぶ)・・・司法・警察
工部(こうぶ)・・・公共工事
として政治を行うものである。たしか学生の頃は「工兵敬礼りこ六部」と覚えていた気がするが、語呂合わせにすらなっていないようだ。
地方は州県制を維持しつつ、さらに県の元に郷を、郷の元に里を置く郷里(きょうり・ごうり)制が新たに敷かれた。隋代の政策が引き継がれ、均田制(きんでんせい)が採用されたが、これは土地を成人男子に対して、
一代限りの口分田(くぶんでん)
世襲可能な永業田(えいぎょうでん)
を支給して耕作させるものだった。
ただし貴族達の荘園(しょうえん)はお抱えの隷属民によって耕作され、大土地所有は継続されたのである。税金は租庸調(そようちょう)制がおこなわれ、田を支給した見返りとして、生産物の税である租、労役(または絹などでもOK)としての庸、絹・綿を納める調が課せられた。また均田制により田を支給された者に兵役を課す府兵制(ふへいせい)が採用され、兵農一致を旨とした。
そんな唐は、対外進出も活発で、最大時には東突厥、西突厥、チベットを服属させて広大な領土を支配している。唐が百済や高句麗を亡ぼす時には、日本にも大きな波が押し寄せて来ることになる。南ではヴェトナム北部まで支配し、周辺統治のために6都護府を設置した。
2007/09/06掲載