飛鳥時代その2、蘇我馬子の時代前半

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蘇我馬子な年頃

 さて蘇我稲目は2人の娘、
蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)、
蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)
を欽明天皇の后とすることに成功。
蘇我堅塩媛
用明天皇(在位585-587)、
推古天皇(554-在位592-628)の母となり、
蘇我小姉君
崇峻天皇(在位587-592)、
穴穂部皇子、
穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)などの母となった。

 この穴穂部間人皇女の息子が厩戸(うまやと)皇子であり、彼は死後100年ぐらいたった頃に聖徳太子という名称で呼ばれるようになった。一昔前は蘇我馬子に対抗して、国政改革を目差したと考えられた事もあったが、彼はまったくもって蘇我氏一味であり、むしろ蘇我馬子とは協調しながら国政を行っていったらしい。

 そして堅塩媛や小姉君の兄弟、すなわち稲目の息子である蘇我馬子(550年頃?-626)の登場を持って、政権は新たな局面を迎えることになっっていく。

権力集中を目差して

 蘇我馬子は崇仏(すうぶつ)に邁進(まいしん)した。司馬達等(しばだっと・しばたちと・しめだちと)のような仏教を信奉する渡来人達を通じ、仏のありがたみを知ったのか、それとも国際社会の動向を見て取ったのかは分からない。この司馬達等という人は、後に自分の娘を出家させ善信尼(ぜんしんに)とし、彼女を筆頭に日本で初めての尼が3人誕生することになる。蘇我馬子は仏法に帰依して仏殿を造り、彼女たちを敬ったとされている。ところが585年に疫病が大流行して馬子も病に伏していたところ、物部守屋らが馬子の仏崇拝が原因で災いが起きたと大王に具申(ぐしん)し、かつての稲目の時のように、その寺を破壊し、仏を難波の堀江(なにわのほりえ)(実際は飛鳥の池か何か?)に投げ入れ、さらに3人の尼を裸にしてムチ打ちする所業に及んだ。しかしこれによっても疫病が治まらず、尼の3人は最後には馬子に還さ、仏教の道に戻ることが出来た。この善信尼は後に百済に留学までして仏教をさらに深め帰国し、仏教を広めたという。

 585年のうちに敏達天皇が亡くなり、用明天皇(厩戸皇子の父)が即位。587年に病になると、「余は三宝(仏法のこと)を信仰しようと思う」と皆に伝えると、怒り狂ったのは廃仏の物部守屋である。彼は欽明と小姉君の子であった穴穂部皇子と結託し、天皇の座を狙っていたのだが、同意者が少なくこれを機に河内に退いた。その年のうちに、用明天皇が亡くなると、泊瀬部皇子を押す蘇我馬子と、穴穂部皇子を押す蘇我守屋の間で後継者争いが起きることは明白だった。

 先手は馬子だった。馬子は、自分の姉妹の子供ではあったものの、物部守屋が押す穴穂部皇子を見事に殺害、豪族達を説得して河内に攻め物部守屋を亡ぼす決定を下した。これを丁未(ていび)の役と云う。このいくさは始め守屋が優位に進めていたが、厩戸(うまやと)皇子が四天王像を彫って戦勝祈願、勝利したら寺を建立すると約束し、蘇我馬子も寺塔を建てることを祈願して、劣勢を跳ね返したのである。クライマックスで木の上からあざ笑う守屋を、迹見赤檮(とみのいちい)が射抜くシーンは圧巻である。(・・・。)この勝利の後に立てられた四天王寺こそ、厩戸皇子が約束に酬いるために建立したものだ。そして今日飛鳥寺(あすかでら)と呼ばれる法興寺(ほうこうじ)こそ、蘇我馬子がこの約束に酬いるため建立したものである。

 物部氏滅亡の後、大連に任じられる者は無く、大臣蘇我氏の体制が確立した。そしてまたしても「欽明と小姉君の子」の一人、崇峻天皇(在位587-592)が即位し、しばらくは協調路線が行われる。しかし崇峻天皇が自らの傀儡(かいらい)ぶりをよしとせず、「馬子を討ちたい」と発言したことが原因となって、592年に馬子によって殺されてしまった。(だからといって「瞬殺の馬子」とは呼ばれない。)

 592年。今度は「欽明と堅塩媛の子」であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)が初の女帝となり、推古天皇(554-在位592-628)として即位。初の女帝ということ自体、馬子の相当強引な手腕が裏で働いていたかもしれない。彼女も「我今蘇我より出でたり」という言葉を残している。

ワンポイントJ缶

・やあ、ワンポイントのジョスカンだよ。今日は推古天皇が即位した年号さ。いい国造ろう鎌倉幕府に対して、
「いつ国(592)造ろう崇峻天皇の瞬殺」
または
「いつ国(592)造ろう推古天皇の即位」
と覚えるのさ。それじゃまた。

推古天皇の時代へ

 推古天皇は593年に厩戸皇子(後の聖徳太子)を皇太子、あるいは摂政として政治に参加させ、蘇我馬子と3人で国内体制の強化と外交を執り行ったとされている。(ただし三位一体体制とは呼ばれない。)摂政とは、天皇が女性の場合やまだ子供の場合に、補佐して政治を行う役職である。ただし皇太子とか摂政というものは当時まだ制度としては確立していないらしいので、まあ王位継承資格者の一人としての政権参加であったのかもしれない。{天皇の後継者としての皇太子の名称は、7世紀後半頃成立したとされている。]

 595年には高句麗の仏僧である恵慈(えじ)が渡来して、厩戸皇子も彼から教えを受けたという。馬子も厩戸も共に仏教推進派であった。さらに馬子の娘である刀自古郎女(とじこのいらつめ)が厩戸皇子の妻となり、蘇我一族の絆を深めているのは、蘇我馬子の策略だろうか。しかし皮肉なことに、刀自古郎女と厩戸皇子の息子、山背大兄王(やましろのおおえのみこ)は、後に同じ蘇我氏の蘇我入鹿(そがのいるか)によって悲劇の最後を遂げることになる。

 さて、馬子は大夫(まえつきみ)制度を改変して、自らを大マエツキミとした。さらにこの地位を馬子から子の蘇我蝦夷(えみし)(586?-645)、その息子の蘇我入鹿(いるか)(?-645)へと世襲させ、また蘇我氏同族が会議の1/3を握るように画策した。政治は相変わらず非官僚的な豪族によって握られ、冠位12階や憲法17条などの効果は限定的なものであるのが、この時代の精神である。

遣隋使と内政改革

 591年には加耶(かや)(または倭国は任那・みまなと呼ぶ)の失地回復を目論み筑紫に2万の軍を派遣し、新羅へ使者を送るなど、相変わらず朝鮮半島への介入を試みる政策が続けられたが、ついに600年新羅への派兵が行われると共に、中国を統一し巨大な勢力で迫りつつあった隋に対して、ヤマト政権から使者を送ることが決定された。第一回遣隋使(けんずいし)である。

 しかし、これが大失敗だった。あんまり大失敗だったので、恥じ入ったせいかヤマト政権側の資料には一切残されていないのだが、世の中そんなに甘くない、中国側の「隋書」にはしっかり残されているのだった。もちろんこれが失敗に恥じて忘却されられたかどうかは知るよしもないが、もしそうだとしたら、恥ずかしき失敗を黙殺し焼却し忘却し、まるで検証する所を知らないという悪しき風習の一部は、はるか古墳時代より変わらぬ我々の性質なのかも知れない。それとも、これより先の様々な政権改革を見て、明治維新のように既存伝統を打ち壊しても革新を断行する行動力と、機敏さを、古来より続く我々の伝統として見い出すべきなのだろうか。

 失礼。話が脱線した。その中国側の資料によると、倭からの使者は、時の皇帝である文帝から政治体制について聞かれ、

「倭王は天をもって兄となし、日をもって弟となす。天の明ける前にあぐらをかいてマツリゴトを行い、日が出ればそれを中止し、言うのである、我が弟に委ねる。」

 あまりの酔っぱらいみたいな発言に、なんのこっちゃと目眩を覚えた皇祖(文帝)は「これは大変義理のないことだ」(義理のないとは、理屈があってないというような意味)と言って、訓戒をたれてこれを改めさせるように説教しまくりだった。(・・・そうは書いていないが。)

 さらに朝鮮半島の例の三国を自らの下だと主張するはずが、なんと朝鮮三国の使節達は隋より地位を与えられ、堂々たる外交を行っている。よっぽと文化水準が高そうな有様だ。はたして律令体制を整えた先進国家の皇帝と久しぶりの正式外交を行って、自国の政治機構の不甲斐なさにカルチャーショックを受けたのだろうか。使者の帰国と共に隋の政治体制の摂取が急激に進められることになった。

国内の改革

 602年には再び新羅遠征軍が組織され、実際の支配権獲得を目差すが、これは渡航することなく終わった。翌年603年には小墾田宮(おはりだのみや)が建設され、これは今日の古宮遺跡、あるいは雷丘(いかづちのおか)東方遺跡がそれにあたるのではないかとされている。日本書紀の記述によれば、その南門を入ると朝廷・朝庭(ちょうてい)が広がり、その両側には朝堂という堂が置かれている。そして奥に大門があり、その先には大殿(おおどの)が置かれていた。

 同じ603年には冠位十二階(かんいじゅうにかい)も制定された。百済や高句麗の制度をもとに考え出され、徳・仁・礼・信・義・智の6つに大と小をもうけて12階となし、それぞれを6種類の色の付いた冠を授けることによって分類したものである。しかしこれは地方豪族や大臣(おおおみ)などには適応されず、当時のヤマト政権が人材登用の基盤としたかった一般中央豪族達から、優れた人材を登用するために生み出されたもので、世襲される姓とは異なり、個人の能力や功績によって本人1代限りに授けられるものである。しかも昇進も可能だった。仏像製作で有名な鞍作鳥(くらつくりのとり)や小野妹子などは、伝統豪族の肩身の狭さを突破して冠位を授かった初期の例に上げられる。

 翌年604年には憲法17条が制定され、これは法律というより、有力者として行うべき道徳と倫理を記した訓戒のようなものだ。第1条の「和を持って貴しとなし、逆らうこと無きを宗(むね)とせよ。」とか、第2条の仏教を敬うようになどは良いとしても、第8条で早くに出仕して遅くに退出するように書かれているのは宜しくない。遅刻を旨(むね)とする私にとっては到底付いていけない無い話しだ。私もシューベルトの冬の旅の主人公のように、帽子を拾うことなく政界を立ち去ることであろう。(・・・なんのこっちゃ。)

第2回遣隋使(607年)

 こうして国内制度を整えると、再び隋に使者を送った。607年第2回遣隋使である。小野妹子(おののいもこ)が派遣され、以前の遣隋使では考えられなかったような立派な国書を、時の皇帝煬帝(ようだい)に渡している。やはり「隋書」にその時のことが残されているのでちょっと見てみよう。

 使わされた国書には
「日出づるところの天子、
書を日没するところの天子にいたす。
つつがなきや、云々」
と書かれていた。これを見た煬帝が大層ぶちきれなさって、
「蛮夷の書に無礼があれば、今度は余(よ)に見せるな」
と叫んでしまったのである。

 これは対等の外交を目差したのではなく、あくまでも朝貢の体裁を取っているというが、「2人の天子」が居るという体裁の書面が、煬帝の頭の中を駆け巡って、小野妹子は捕らえられそうになる始末だった。中国だけに許される天子という言葉を確信的に使用し、「日出づるところ」と「日没するところ」のニュアンスの強烈さも、単なる仏教用語で朝廷が没するような意味はないとされているが、はたして「出づる」と「没する」の意味が、没するを上とはせずとも、上位下位のない中立的な言葉として、当時の中国では捉えられたものであろうか。やっぱりぶちきれなさる気がするのであるが・・・・。

 いずれかなりの決断を持って作成された国書なのだろう。しかも中国の皇帝から臣下の称号を貰うことを避け、冊封関係を結ぶことをせず、ただ貢ぎ物を送り、代わりに優れものを戴くという、朝貢関係だけを行い、朝鮮半島とは異なる態度で唐に接しようとしたのである。この「朝貢すれども冊封受けず」の政策は、後の足利義満の時代まで一貫して全うされることになった。

 あるいは国際情勢を旨く読み切ったのであろうか。はたまた運が良かっただけなのか。戦争中だった高句麗と倭の結びつきを恐れた隋は、無礼の国書を認めることとし、翌年608年の使節帰国に際して、裴世清(はいせいせい)を国使として使わせている。つまり今回の遣隋使は成功だったのだ。

 裴世清が唐に帰国する608年、これに合わせて第3回遣隋使(608年)が行われ、614年には第4回遣隋使が続くことになる。特に第3次の時に大陸に渡った者達は、中国が隋から唐に変換を遂げる姿を確認し帰路についた。高向玄理(たかむこのげんり)(-654)南淵請安(みなぶちのしょうあん)(?)、学僧として渡った後の旻(みん)(?-653)などがその代表者であり、彼らは帰国後、ヤマト政権の指導者層に先進知識を与える塾を開設して、大陸の制度文化の一層の学習をはかった。

2007/09/08掲載

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