飛鳥時代その4、飛鳥文化

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推古文化、すなわち飛鳥文化

 推古朝時代を中心とする飛鳥文化。それは仏教が浸透し始め、王族や豪族が氏寺など造り出した時期の文化であり、同時に唐や朝鮮半島はもとより、シルクロード交易によるササン朝ペルシアやギリシア、ローマ帝国などの影響を持った国際的(コスモポリタン)な様式を持つ文化である。例えば仏寺の柱には、ギリシア建築の特徴である中央の膨らみ(エンタシス様式)が見られるし、すいかずらのつた草を文様化した忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)も、アッシリアの伝統が時と場所を越えて伝わった跡を見ることが出来るという。

まずは芸術よりも実務

文字と書物

 610年の『日本書紀』の記事には、高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が紙と墨の製法にたけていた事が記されている。これは何も、彼によって紙と墨がもたらされた訳では無いようだが、この頃から文字を本格的に使用し始めて、年代に沿って書き記すということが、初めて可能になった。

 五世紀になると、刀に文字を刻んだものが埋葬されていたり、明確な意味を持った文字を、意識して使用した例が幾つか見られるが、資料が少ないので、どの程度の理解がなされ、使用されていたものかは分からない。組織的な文字の使用は、すでに6世紀中頃には行政において開始していたようだが、それを使用できるものも当初のうちは限られていて、渡来人の存在が必要不可欠だったようだ。

 我が国には、朝鮮半島経由で「紙と木簡」に記録を留めるという方法が、同時に伝わって、状況に応じて使い分けがなされていくことになるが、(そのため中国で行なわれていた竹簡による記録はなされなかった、)木簡などの出土も七世紀に入って以降、本格化するようだ。

 とはいえ、当時の資料が出土するとしても、紙はいち早く腐って消えてしまい、残された木簡も、水の中など水分の多いところで、絶妙なバランスで、腐りもせずに朽ちもせずに残されたものが、もっぱら出土して解読がなされるようなもので、莫大な文字情報が損なわれたものと思われる。

 また我が国で執筆された書物の初期の例としては、厩戸皇子の記したとされる「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」がある。法華経(ほけきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんきょう)の三経の注釈書で、おそらく610年代に記されたとされている。特に615年に書かれたとされる、「法華義疏」は聖徳太子真筆の草稿とされるものが残されていて、もちろん当時のことだから、諸説あって決定を見ないが、もしそうであれば現存する日本最古の書物となる。また、他の2つの経典も、写本として今日伝えられている。

暦の使用

 暦というものは、6世紀中頃には倭(わ)に伝えられたようだが、やはり朝鮮半島経由で、特に同盟関係にあり、中国の先進文化をいち早く取り入れた百済(くだら)からの、さまざまな技術導入の一環のようである。おおよそ、この時代の特徴として、朝鮮半島と倭国との関係は、両方をひとまとまりとしたような渾然一帯とした様相で発展していくので、紙や文字や暦や仏教の伝来も、必然的であったとも言えるかも知れない。

 重要な出来事として、602年に百済の僧、観勒(かんろく)が暦法や天文・地理、また陰陽(おんよう)に関する占いの書などを我が国に伝えた。これによって中国で発達した暦法(太陰太陽暦・たいいんたいようれき)が、次第に朝廷の正式な暦として、使用されるようになっていく。

 太陰太陽暦(たいいんたいようれき)というのは、大ざっぱに言えば、平均29.5日で満ち欠けする月のサイクルに基づいて、それをひと月として数えるものである。それゆえ三十日の単位が「月(つき)」と呼ばれる訳だが、これを太陽の周りを廻る地球の運行に合わせると、365日に対して一年が354日となってしまう。これでは年ごとに季節がどんどん変化して、ある時は春が一月、ある時期は夏が一月ということになってしまう。これを避けるために、三年に一度の割合で[13番目の月]を設けて、これによって補正を行うものである。だからといって、「十三月」という名称があるわけではなく、例えば「閏の六月」という名称が「六月」と別に挟み込まれるような遣り方になる。

 この補正は太陽の運行によってなされるが、それは冬至と夏至、秋分と春分によって定められる二十四節気(にじゅうしせっき)によって定められ、月の運行による太陰暦を、太陽暦で補正するために、太陰太陽暦と呼ばれるが、もちろんこの名称は、後世のものに過ぎないから、当時は当たり前に、ただ暦として使用されていたものだ。日本では1873年(明治6年)まで、この太陰太陽暦を使用し続けることになる。

 やがて暦は陰陽寮(おんようりょう)によって作成される、「具注暦(ぐちゅうれき)」と呼ばれる暦として、貴族たちに使用されるようになるが、すでにここには太陽の運行に基づく二十四節気が記入され、私たちと同じような季節感も、年によって変動する月とは別に、把握されていたことが分かるが、もとより農事などは、年ごとに変動する太陰暦などでは栽培は叶わず、太陽暦的な意識は、古くから存在したものと思われる。よって時代が下ると、二十四節気が記された「具注暦」や、それに類する暦は、民間にも好んで使用されるようになっていく。また貴族たちにおいては、「具注暦」手帳のようなものに、日記を書き記して、守るべき有職故実(ゆうそくこじつ)[朝廷の行事の仕来りなど様々な決まり事]を残しておくような事もなされたが、時には感情の表出が見られるような日記もあり、後の日記文学の足がかりにもなっていくようだ。

時計の使用

 奈良県明日香村にある飛鳥水落遺跡(あすかみずおちいせき)は、「日本書紀」が述べるところの、660年に中大兄皇子が作った漏刻(ろうこく)、すなわち水時計ではないか考えられているが、現在定められている「時の記念日」(六月十日)は、671年に、
     「漏尅を設置し、鐘や鼓で時を知らせる」
ことが「日本書紀」に記されている、その該当の日を西暦六月十日に当てはめたものである。こうして、時の鐘に運命を縛られる、哀れな犬っころが、日本にはじめて誕生したようであるが、平城京に移る頃には、寺院まで鐘を鳴らして、人々に時を知らしめた。

干支(えと)

 ついでなので、干支や陰陽について記しても良いかも知れない。(今は無理。

仏教に関連して

 蘇我氏が仏教にのめり込んだ姿は前に見たが、厩戸皇子(聖徳太子)も政権に参加した593年に、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)の建立を行っている。例の物部守屋との戦で、勝利したら四天王を奉る仏寺を建立すると誓ったからである。ここは聖徳太子建立七大寺の一つであり、倭国で最初期の仏教寺としての誇りから、1946年に天台宗から独立、現在は和宗総本山と名乗っているそうだ。

 厩戸皇子の建立が確認される仏寺はもう1つある。これが607年に建立されたとされる斑鳩(いかるが)の斑鳩寺(法隆寺)であり、その西院伽藍は世界最古の木造建築物群となっている。ただし現在残されている西院伽藍は670年に再建された後のものだ。

 一方蘇我馬子が建立した飛鳥寺(法興寺・ほうこうじ)は、日本書紀によれば588年から建造が開始された。百済からもたらされた釈迦の遺骨(仏舎利・ぶっしゃり)を納めるための塔を中心に、まわりに3つの仏像を安置した金堂が3方を取り囲むという伽藍配置は、高句麗の影響を受けたと考えられている。日本書紀には沢山の技術者が百済から訪れ、蘇我氏の氏寺を建立したことが記されている。このような氏寺は他にも、603年に秦河勝(はたのかわかつ)の発願(ほつがん)によって山城に建立された、広隆寺(こうりゅうじ)などがある。廃仏派として名高かった物部氏ですら、実は氏寺を持っていたことが最近明らかになった。624年には全国の寺院が46あって、僧816人、尼569人と記述が残されているが、尼の数が結構多いことに気付かされる。

 このような仏教は教義よりも、これまでにない最先端の建築技術による衝撃的ハイセンスと、仏を拝めばハッピーになれるという、分かり易い側面にスポットを当てて、広まっていったと考えられる。当時、倭の建築は掘っ立て柱に板葺きなどで建築されていた。また倭の神々を奉るやしろも、豪華な神社建築などはもっと後のことであり、信仰する大岩や大木にしめ縄をして、神社信仰の拠り所とするような場所が多かった。だから大陸からもたらされた最新技術によって、礎石(そせき)造りの瓦葺き建築が装飾豊かに建立された時のインパクトは非常に大きかったに違いない。

 639年には百済大寺(くだらおおでら)という巨大寺院が建立され、法隆寺の5重の塔の2倍の規模を持つ80m以上の高さの9重の塔が、百済河のほとりに高くそびえ立ったという。これは初めての国立の寺院であるとされ、奈良県にある吉備池廃寺という遺跡がそれにあたると考えられている。この寺は天武天皇時代には大官大寺となり、平城京遷都に合わせて新都へ移転、そこで大安寺(だいあんじ)となったとされている。

仏像など仏教芸術

 さて仏像自体にも感心が高まるところだが、実際今日まで代わることなく伝えられた仏像(飛鳥仏)はそう多くはない。特徴としては左右均整で平面的。アルカイックスマイル(古拙の微笑み)などがよく解説にのぼる。例えば飛鳥寺にある金銅仏(青銅の表面に鍍金したもの)である釈迦如来像は、後の火災などによって大きく修繕され、今日ではおそらく眼の辺りと、右手の先の部分だけに、当初の面影が残されているらしい。この仏像は司馬達等(しばだっと・しばたちと)の息子である鞍作鳥(くらつくりのとり・止利仏師)が作ったものだが、彼は中国の南北朝分裂時代の北朝様式を受け継いだ人物で、彼の作った北魏(ほくぎ)様式の仏像としては、他に法隆寺の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)などがある。

 一方南朝の様式を持った南梁(なんりょう)様式は、もう少しお優しい柔らかさを持っているのだが、623年に作られた法隆寺の百済観音像などがある。これは楠木(くすのき)で作られた木造仏であり、210cmの八頭身スタイルに、ギリシア的な傾向を見て取ることすら出来るのかもしれない。他にも中宮寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)と、広隆寺の半跏思惟像もやはり木造仏であり、右のホッペタに右手をあてるような仕草がチャーミングであると、仏像ファンお涙ものの一品である(?)。こうした仏像は当時は赤を基調にして彩られ、非常にカラフルなものであった。アテネのアクロポリスが当時非常にカラフルだったのと同じように、長い年月が色彩を落として、古代をセピアトーンの世界に代えてしまったのだ。

 仏教芸術としては、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)というものがある。厨子とは、ウィキペディアより抜粋するところ、
「仏像・仏舎利・教典・位牌などを
中に安置する仏具の一種。
広義の意味では仏壇も厨子に含まれる。
正面に観音開きの扉が付く。」
ものであり、宝石チックなグリーンに輝く玉虫(たまむし)の羽根を敷き詰めた修飾がなされていたために、玉虫厨子と呼ばれる。ただし、今日では羽根のほとんどは損なわれている。ここに描かれた須弥座絵(しゅみざえ)や扉絵も有名だ。また中宮時の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)などが当時を代表する仏教芸術として上げられるだろう。

2007/09/16掲載

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