律令制の制定へ1、大化の改新

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舒明天皇の即位

 626年に蘇我馬子が亡くなると、息子の蘇我蝦夷(そがのえみし)が実権を握った。(「えみし」は東北の従わぬ人々の呼び名であるが、彼らが武力に優れていたため、勇猛な男として、「蝦夷・毛人(えみし)」という名称は、しばしば有力者に付けられているようだ。)その2年後、628年に推古天皇が亡くなると、後継者が定まっていなかったので、豪族間に対立が起こった。厩戸皇子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのみこ)と、敏達天皇の息子である田村皇子のそれぞれに有力者が付いて、即位を目差したのである。この時、一説では自ら望むままに、別の説では蘇我権力の増大と批判されるのを恐れて、蘇我蝦夷が中心になって田村皇子が即位することになった。こうして彼は舒明天皇(593?-在位629-41)(じょめいてんのう)となったのである。なお馬子、蝦夷、入鹿の傍若無人の態度はもっぱら日本書紀に記されているものだが、これは大化の改新を正統として後年に執筆されたものなので、かなりのデフォルメがあるかもしれない。

 すでに時代は隋から唐に移り変わっていた。630年には初めての遣唐使(けんとうし)が、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)を外交官にして行われ、彼は632年に第3次遣隋使として大陸に渡っていた旻(みん)らと共に帰国。隋から唐への変換を見てきた第3次遣隋使の留学生達、さらに遣唐使の帰国によって、新しい知識が次々にヤマト政権指導層に伝えられた。例えば藤原氏の私的な歴史書である藤氏家伝(とうしかでん)には、旻が塾を開き皆々学びに来たが、宗我大郎(入鹿)は最も優れていたと記されている。もちろん藤原氏の書物であるから、その後に「鎌足はもっと優れているぜ!」と旻に言わせているのだ。他にも640年に帰国した高向玄理(たかむこのげんり・たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)らも塾を開き先進知識を教授していった。

お騒がせな旻(みん)?

 そんな時代精神と関係しているのだろうか、舒明天皇の時代には幾つかの天文異変が「日本書紀」に記録されている。例えば634年には「秋8月に長い星が南方に見え、時の人は彗星(彗星=掃星・ほうきぼし)という」などある。

 635年にも彗星があり、639年の彗星では僧侶の旻(みん)が「彗星だ。これが見えれば飢饉が訪れるのだ」とはた迷惑な予言をしている。

 一方637年には隕石の落下があったかも知れない。日本書紀には
「大きな星が東より西にいたり、音は雷に似る。時の人は流星の音だ、地雷(つちいかずち)の音だと騒ぐが、僧旻法師が『あれは流星ではのうて、天狗(あまつきつね・天狐の意味)じゃ』と言った。」
と記している。この天狗は中国で流星や彗星に関連する物の怪であり、これが紹介されたことから、後に鼻高い日本の天狗が中世に誕生することになった。まさに天狗に歴史有りである(・・・意味が分からん。どうも君は脱線しすぎだ。)

乙巳の変(いっしのへん)

 舒明が亡くなり、その皇后が皇極天皇(594-在位642-45)として、2代目の女帝となる頃、蘇我氏も父親の座を奪い取った蘇我入鹿(?-645)(そがのいるか)に実権が移った。入鹿は大陸政策と中央集権を目差し、欽明天皇と蘇我馬子の娘の間の息子、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を次の天皇としようとしていた。このため山背大兄王と支持する豪族立ちの間に対立が起き、643年、山背大兄王を自害に追い込んだのである。

 こうしたことが反入鹿同盟を結束させたのだろうか。それとも百済と寄り添うべきか、唐との友好を重視すべきかなど、外交政策の違いが対立を産んだのだろうか。ついに乙巳の変(いっしのへん)が起きてしまったのである。

 すなわち舒明天皇と皇極天皇の息子に当たる中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)(葛城皇子)(626-672)を中心にして、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(614-669)、蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)らによって、645年にクーデターが勃発。三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢の使者が来た時、蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)に登った所を待ち受けて、ずたずたに切り刻んでしまった。翌日には蘇我蝦夷を攻め蘇我氏館を炎上させ、蝦夷を自害に追い込んでいる。この事件を乙巳の変というわけだ。奇しくも朝鮮半島では唐の大軍による高句麗遠征が開始される年であった。

 この後、皇極天皇は皇位を譲位して弟の軽皇子(かるのみこ)に譲り、彼は孝徳天皇(596-在位645-54)として即位。古人大兄皇子は退いて出家したが、同じ年に中大兄皇子に討たれて亡くなっている。

 新しい政治体制が整えられた。中大兄皇子は皇太子になり、左大臣に阿部内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣に蘇我石川麻呂、内臣(うちつおみ)に中臣鎌足、国博士(くにつはかせ)には僧旻(みん)と高向玄理(たかむこのげんり・たかむこのくろまろ・高向黒麻呂とも)を置き、同時に蘇我氏の台頭を生んだ大臣(おおみ)や大連を廃止とし、新しい政治の開始としたのである。これより先、律令制が確立するための一連の政策を「大化の改新」と呼ぶ。なお孝徳天皇の后は蘇我石川麻呂の娘であり、決して蘇我氏が滅亡したわけではないし、蘇我氏全体の排斥を狙っていたものでもないことを加えておく。その頃、高句麗攻防戦の方は、唐の太宗(598-在位626-649)自身がずたぼろになって引き上げ、高句麗は何とか進軍を退けたが、そのための犠牲は多大であった。

ワンポイントJ缶

 やあ、毎度お馴染みのJ缶だよ。今日は645年に起こった乙巳の変の覚え方さ。入鹿のことなんかもう無視して殺しちまって、政治を変革しようっていうんで、実際の改革者がどっちだったかは知らないけど、入鹿は天皇のまん前で殺されてしまったんだ。

 蘇我入鹿を無視殺し(むしごろし)(645)、乙巳の変を乗り越えて、大化の改新始めよう。

それじゃまた。

大化の改新

 さて入鹿を討って即座に開始されたとされてきた大化の改新だが、最近では入鹿暗殺を起点にして改革が始まったと言えるかどうか、疑問の声も上がっている。日本書紀の記述が政治改革が成し遂げられた8世紀前半を起点に、かつての蘇我入鹿を極悪人に見立てつつ、大化の改新が入鹿の暗殺を契機に始まったように潤色したのではないかというのだ。ただしこれ以後、大宝律令が制定されるまでの間、実際に各種改革がなされたことは事実だとされているから、細かいことは専門家にお任せして、ここでは棚の上に仕舞い込んで、大化の改新について記していこう。

 その645年の末に新しい門出を願って難波(大阪市の方)に遷都。これは蘇我氏など旧来の豪族達の勢力を逃れるためだったのか、それとも大陸との交易や戦争に備えてのことだったのか、私にはよく分からない。いずれこの難波宮(なにわのみや)は、655年に斉明天皇によって再び飛鳥の地、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)に移されることになった。

 同時に初めて年号制(元号制)を定めて、この年を大化元年とした。ただし制度としての元号は大宝元年(701年)に制定され、それ以前に制度としての年号があったかどうかは疑わしい。出土資料などからは、むしろ「大宝」以前に年号は使用されず、代わりに干支(かんし)(十干と十二支を合わせて60を数えるもの)によって年が記入されている。ついでに加えておけば、今日まで継承されることになった年号だが、天皇一代で1つの元号という原則は1868年になってから定められている。現在は日本ぐらいしかこんな遣り方で公の年を区切ったりしないそうだ。よくよく考えてみると、今日、国王でも元首でもない国の象徴であるという天皇の立場も、その天皇に合わせて公的な年号が制定され続けているという事実も、外国から見たらかなり「unbelievable!」なのではないだろうか。

 さて、大化の改新はおよそ大化年間(645-649)に行われたとされている。日本書紀によると646年の元旦、孝徳天皇が難波宮において、新政治の指針を示した。これが4条からなる改新の詔(かいしんのみことのり)と呼ばれるものである。ただし、これは後年になって日本書紀に記されたものであり、歴史の潤色が認められる、つまりこの詔と以後の実情が噛み合っていないとされている。まあ日本書紀の記述そのままではないにしろ、何らかの改革的な動きはあったのだろう。

まず第1条に

「子代の民と各地の屯倉、臣・連・伴造・国造・村首
の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。」
とあり天皇・豪族の土地・人民の私有廃止が掲げられている。これが土地と人民を私物として扱わない公地公民制(こうちこうみんせい)の開始だというが、天皇の直接耕作地である屯倉(みやけ)、豪族達の私有耕作地である田荘(たどころ)などはこの後も継続している。また豪族に食封(じきふ・ようするに給料)を与えることも記されて、豪族の官僚化を進めようとする意図を見て取れる。

第2条には

「京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・
駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、
国郡の境界を設定する」
とある。これによって650年、京師(けいし)すなわち首都が難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に置かれ、また倭の中心地区として畿内(きない)という名称が使用された。すなわち
「東は名墾(名張)の横河よりこちら、南は紀伊の兄山よりこちら、西は赤石(明石)の櫛淵よりこちら、北は近江の狭狭波(さざなみ)の合坂山(逢坂山)よりこちら」
が畿内とされ、
山城国(京都府南部)
大和国(奈良県)
河内国(大阪府南東部)
和泉国(大阪府南部)
摂津国(大阪府の大阪市と大阪府北部、兵庫県の神戸市以東)
を含む地域だそうである。

 さらに地方行政は
「国(こく)ー郡(ぐん)ー里(り)」
を単位に形成され、郡の名称は実際には「こおり」と呼ばれていた。しかし、この郡という漢字は701年の大宝律令で初めて使用され、それまでは「評(こおり)」という漢字でそれを表していたので、日本書紀の記述が後の完成した律令をもとに記されているとも、類推される原因となっている。

第3条

 「初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定する」
とあるが、初めて戸籍が作られたのは670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)であるとされている。遡って記されたか、あるいは戸籍調査の走りのようなことはなされたのか。

第4条

 「旧来の税制・労役の廃止、
新たな租税制度(田の調や戸別の調など)を策定」
とある。

 その他にも、従来の墓の規模を押さえるための薄葬の詔(薄葬令)は古墳の終焉に関係していくし、男女良賤(りょうせん)の法によって良民と賤民(せんみん)を区分したとされている。

征東(せいとう)政策

 蝦夷(えみし)(東北の方に住まう人々をこう呼んだ)に対する支配拡大も進行し、647年には今日の新潟県の方に渟足柵(ぬたりのき、ぬたりのさく)という一種の城(城柵・じょうさくと呼ぶ)を築いたことが、日本書紀に記されている。この記述が城柵第1号であるそうだ。翌648年にはやはり新潟の方に磐舟柵(いわふねのき、いわふねさく)が設けられ、658年に船を率いて蝦夷を打ったという阿倍比羅夫(あべのひらふ)に繋がっていく。この後も「柵(き)」あるいは「城(き)」という漢字を使用した施設が、東北方面に造られていくことになった。これらは政治を司る施設を兼ねていたため、城柵官衙(じょうさくかんが)と呼ぶことがある。

2007/10/13

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