律令制の制定へ2、白村江から壬申の乱

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白村江(はくそんこう)の戦い(663年)

 唐では太宗が亡くなり、3代目高祖(こうそう)(628-在位649-683)が後を継いだが、「むしごろし」の10年後、大陸で大事件が勃発した。

 朝鮮半島では、高句麗と百済が連合を深め、これに危機感を募らせる新羅が唐に近付きつつあった。新羅はこれがもとで国内を2分する内部争いが勃発して、一時不安定な状況に落ち入ったが、これを乗り切って唐との連携を深めることに成功。そんな新羅に655年、高句麗と百済連合軍が攻め込んだのである。皮肉なことに、この攻撃が発端となって、百済は滅亡への階段をうっかり歩み出してしまったのであった。

 この年倭国では孝徳天皇が亡くなり、退いていた女帝皇極天皇が再び即位して斉明天皇(594-在位655-661)となっている。2度即位する重祚(ちょうそ)が初めてなされたのは、中大兄皇子の策略であろうか。
 すでに649年に左大臣の阿倍内麻呂が亡くなると、その直後に右大臣の蘇我石川麻呂が謀反のかどで自殺させられる事件があったし、653年には孝徳天皇を難波の宮に置き去りにして、中大兄が官僚を連れて飛鳥に戻ってしまうという事件もあった。その時の孝も徳もなくした孝徳天皇のぽかんと放心した表情は、残念ながら記録には残されていないが、いずれにせよ、どうも中大兄の影がちらつく時代ではある。

 658年、孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのみこ)と蘇我赤兄(そがのあかえ)がクーデターを起こしたが、失敗に終わった。斉明天皇は阿倍比羅夫(あべのひらふ)に東国の蝦夷(えみし)討伐を行わせ、日本海側から水軍を率いて3回の遠征軍を組織した。これには朝鮮遠征のための兵力獲得の意味があったのかも知れない。東国の兵の強さはよく知られていた。日本書紀には「粛慎(しゅくしん)」まで平らげた事が記されていて、事実ならロシアの沿海地方まで攻め上ったことになる。これも658年のことである。

 そんな倭国に大陸から激震が伝わってきた。新羅の援軍要請に対して、唐の高祖は660年に大軍を派遣。これによって百済の首都扶余(ふよ)は陥落し、百済王義慈(ぎじ)は長安に連れられ、百済は滅亡してしまったのである。百済との同盟政策を貫いてきた倭国に衝撃が走ったことは疑いない。

 すぐに百済の残党達が、百済復興のために倭国に居た百済皇子、扶余豊璋(ふよほうしょう)を王に立てようとした。彼は百済と倭国の同盟の証として倭に渡来していたのである。斉明天皇と彼女を支える中大兄皇子は、百済を復興し朝鮮半島への優先権を獲得するために、661年に筑紫に向けて兵を進めた。

熟田津に

 万葉集でも非常に有名な歌である、額田王(ぬかたのおおきみ)の熟田津(にきたつ)の歌は、この途中伊与国の熟田津(道後温泉付近という説もあるが定かではない)からの出航に際しての歌だと云われている。少し脱線して歌の紹介をしておくのも悪くない。

「熟田津に船乗(ふなの)りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出(い)でな 」

(熟田津から船乗りしようと月を待っていると潮の具合もよくなった。さあ今こそ漕ぎ出そう。)

 額田王は万葉集でも代表的な歌人ではあるが、逆にもっぱら万葉集の中でのみ光り輝く女性であるとも言える。日本書紀には大海人皇子(天武天皇)の妻となり十市皇女を生んだとだけ残されていて、あとは万葉集に12の歌が残されているが、その歌の内容から大発展を遂げて天智天皇(中大兄皇子)と弟である大海人皇子(天武天皇)の間の三角関係が取りざたされているようだ。

 歌の内容は、熟田津(津とは港のこと)で出航しやすい潮になるべき月を待てば、今こそ出航すべき時が来たのだと、進軍する全軍の活気を表現したものだとされている。月という言葉は「憑き」に繋がり、最も呪術的な力の強い満月を待つという、言葉的な呪術が織り込まれて居るともされるそうで、放送大学の「上代の日本文学」の講義では多田一臣教授が、大軍の出発自体ではなく、老齢の斉明天皇の健康回復か、戦勝祈願などの祭事のための船出はないかと考察している。またこの歌はその斉明天皇自身の歌であるという説もある。

閑話休題

 そんな年老いた斉明天皇だったが、ついに筑紫の地で亡くなってしまった。それにも関わらず出兵は続行され、翌662年に朝鮮半島に渡ったのである。そして翌年663年に、白村江(はくそんこう・はくすきえ)の戦いが勃発した。そして唐・新羅の連合軍に、切ない大敗をきっした。大軍を失った倭軍だったが、亡命を希望する沢山の百済人を連れて、すたこら倭国に逃れたという。なお、豊璋の弟である禅広が日本に残り、彼の子孫はやがて持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の氏(うじ)を授かって血統を残すことになった。
そんな白村江の年号暗記法(663年)を一つ。

「む、無惨なり、白村江の戦い。」

なお、これにからんで、NHKの放送したドキュメンタリーがお粗末すぎて泣けてくるという苦情が上がっているので、折角だから紹介しておこう。

<<NHKの描く捏造白村江の戦い>>

<<時には古代の話を>>の中の<<こちらのページ>>

戦後体制

 唐と新羅の連合が倭国に進軍する危機が高まった。中大兄は664年に甲子(かっし)の宣(せん)を出して、豪族を「大氏・小氏・伴造」に再編し、同時に民部(かきべ)や家部(やかべ)といった私有民を部分的に許容し、豪族達の協力を仰ぐ政策を取った。さらに対馬、壱岐、北九州の要所に防人(さきもり)を配置し、狼火(のろし)によって緊急事態を知らせるという烽(とぶひ)を配置した。防人は戸籍に基づいて徴収されたが、西方では民衆を抱える豪族の反対があったのか、それとも東国の高い武力が求められたのか、もっぱら後に政権に組み込まれた東国の民衆から徴収されることになった。この防人は、特に武装と交通経費が自費である事が、非常に重い負担を強いたようだ。

 さらに筑紫では外国使節を向かえる鴻臚館(こうろかん)はそのままに、大宰府(だざいふ)(太宰府の漢字記述は地名)を内陸に移すと、これを護る防御施設として、百済人の技術を借りて水城(みずき)を築き、また大野城、基肄(きい)城を築いた。この水城は筑紫平野の一番狭まった所に長さ1kmにも渡って築かれた巨大な防御施設である。海側には幅が60m、深さ4mに渡る壮大な堀があり、これを渡ると巨大な盛り土15m(推定)が防壁をなし、さらに内堀が30mの幅で控えるというからすごい。土塁などは中国から朝鮮半島を経由して伝わったハンチクという技術で作成されている。一方大野城は、山の頂上に土塁を巡らせて、全周8kmにも及ぶ巨大な山城で、長期籠城に備える倉庫であろうとされる建築物が80軒も発見されている。このような山城は朝鮮半島で行われていたもので、今は無き百済に学んでこの時期各地に建造されたのである。

 665年に唐からの使者が2000人を連れて倭国に来ている。これは何のためであろうか、2000人というのは兵を引き連れて来たのかも知れない。667年にも白村江での捕虜を帰すために、唐から使者が訪れている。この時期、唐と新羅は高句麗との関係を悪化させていたため、むしろ同盟の要請があったのかも知れないし、牽制があったのかも知れない。新羅と唐はすでに666年から高句麗との戦争に入っていたのだった。

 さてその667年、中大兄は都を大江(おおえ)の大津宮(おおつのみや)、または近江大津宮(おうみのおおつのみや)に移した。現在の滋賀県大津市である。そして翌年668年、ついに正式に天皇に即位したのである。これが天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)(626-在位668-672)であり、この王朝を近江大津宮にあやかって近江朝廷(おうみちょうてい)と呼ぶこともある。彼がこれまで再三の要請を断って天皇の地位に付かなかったかについては、諸説乱れ有力な定説が無いようだ。天智天皇は、668年に即位するやいなや中臣鎌足に命じて近江令(おうみりょう)という法令を出したとされているが、今日には残されていない。これは刑法にあたる律は含まれなかったとされる。また体系的な令の整備も、実際はなされていなかったとする説も有力である。あるいは天智天皇の一連の詔をまとめて、後に業績をたたえて近江令と呼んだのだろうか。

 ところがこの668年、朝鮮半島ではついに高句麗が亡ぼされてしまった。その王は長安に連行され、一応官位を貰って余生を送っている。高句麗に逃れて身を寄せていた扶余豊璋(ふよほうしょう)も、この時長安に連行されたが、彼は僻地に流刑となった。非常にダイナミックな人生である。(補足。これはウィキペディアの記事によるものだが、高句麗に行ったことも含めて彼の後半生は不明瞭だというのが実体のようだ。)この時滅びた高句麗から、やはり倭に沢山の渡来人が押し寄せている。

 翌年669年、天智天皇が唐に遣唐使を遣わしているのは、危機感の中で唐との友好を目指したものだろうか。しかし長らく彼を支えてくれた功労者、中臣鎌足(614-669)はこの年に亡くなってしまったのである。天智天皇は彼の死に際して、大職冠(だいしょくかん)の冠位と、さらに藤原の姓を与え、彼は藤原鎌足となったのである。

 しかしその墓碑銘には大職冠の冠位ではなく、ただ「我が友鎌足」とだけ記されているのだった。(嘘を書くな!!!!)・・・とにかくこれによって藤原氏が開始した。

[注意]
・この669年の遣唐使と鎌足の死を合わせて、
「検討した遣唐使をろくろっ首(669)に眺めて死んだ藤原鎌足」
と覚えるのは、語呂合わせの行きすぎである。

 670年には初めての全国的戸籍を調べた庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成され、これは永久保存すべしとされた。これは豪族や公民だけでなく、奴婢(ぬひ)にいたるまで登録し、さらに姓を定めているというが、現存はしない。

壬申の乱(じんしんのらん)

 しかし、672年に天智天皇は突然亡くなってしまった。扶桑略記(ふそうりゃっき)という書物には「狩りの最中に行方知れずになってしまった」というゴシップ記事(または道教的考えに基づく天帰りの逸話だろうか)が載っているそうだ。とにかく彼が亡くなったことによって、歴史上重要な壬申の乱が勃発するのである。

 すなわち天智天皇の同母弟であった大海人皇子(おおあまのみこ・おおあまのおうじ)(631?-686)が当初天皇を次ぐべく立太子(りったいし)されていたが、天智天皇は671年になると、自分の長男であった大友皇子(おおとものみこ・おおとものおうじ)(648-672)を太政大臣とするなど、自分の後継者に望み始めた。大海人皇子はそれでは御免と大友皇子に後継を譲って、吉野に出家してしまったのであるが、いざ天智天皇が亡くなると、672年の内に吉野を出て動き出す。この時大友皇子が正式に即位して弘文天皇(こうぶんてんのう)となっていたとする説と、即位はしていないとする説があるが、とにかく天智天皇の死後に後継者争いが勃発したのである。小説なら天智天皇の死を、暗殺として話を進めたくなる所ではある。大海人皇子は東国に脱出し地方豪族を味方に引き込み、一方都に残った大友皇子は西国で兵を整えきれず、近江大津宮に立てこもったが陥落し、ついに自害に追い込まれたのであった。

[投げやり暗記術]
「ろくな時代(972)じゃねえ壬申の乱」

天武天皇の即位

 673年、大海人皇子は飛鳥御原宮(あすかきよみはらのみや)で天武天皇(てんむてんのう)(631?-在位673-686)として即位。681年から律令制の整備に着手し、また同じ年に大規模な国家事業として、歴史書の編纂を開始。これが後の「日本書紀」に繋がっている。読み物としてはすこぶる面白い「古事記」の編纂の開始も彼に結びつけられているが、その性格はかなり異なっている。これについては別の機会に考えてみよう。

 この頃から天皇の支配力が高まり、同時に天皇を神に比す神格化が始まっている。彼の政治は皇后や皇子達を配置し、血縁豪族を重く用い、皇族・皇親(こうしん)を中枢に置いた政治であり、これは皇親政治と呼ばれている。この体質は律令体制が成立するまで継続されていくことになった。いわば専制君主的時代なのかもしれない。

 万葉集にも
「大王(おおきみ)は神にしませば
赤駒の腹(はら)ぼう帯(たい)を都となしつ」
(天皇は神のようではないか。
赤馬がのさばっていた地帯を都にしちまったぜ!)
あるいは
「大王は神にしませば
水鳥のすだく水沼を都となしつ」

などと謡われているが、一説ではこの都とは飛鳥浄御原京のことで、神のような大王とは天武天皇のことだと言われている。(一方ではそんな話しがあってたまるかとも・・・つまり確定はされていない。)

 彼は中大兄(なかのおおえ)でお馴染みの天智天皇(626-672)の娘、大田皇女(おおたのひめみこ)と、その妹[盧鳥(合わせて一字)]野讚良(うののさらら、うののささら)を妻としていた。姉との間に大来皇女(おおくのひめみこ)(661-702)、大津皇子(おおつのみこ)(663-686)が生まれ、妹との間には草壁皇子(くさかべのみこ)(662-689)が生まれている。しかし即位の年にすでに姉の大来皇女は亡く、姉のサララが皇后となった。

 もちろん元気溌剌(?)の天智天皇が、たった二人の妻に満足するはずもなく、多くの女性と子作りを分かち合ったが、沢山の子供の中には後に長屋王の父親となる高市皇子(たけちのみこ)(654-696)や、舎人親王(とねりしんのう)(676-735) などもいる。高市皇子は壬申の乱で活躍し、また持統天皇が即位した後には太政大臣として政治を執り行った。

律令制への道

 氏族の私有民である民部(かきべ)がついに廃止され、また私有地から上がる税が豪族への食封(じきふ)となることも停止された。変わって官人個人へ食封を支給するように改編したとされている。

 684年には八色の姓(やくさのかばね)という新しい姓制を導入した。
「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・
宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・
道師(みちのし)・臣(おみ)・
連(むらじ)・稲置(いなぎ)」
の8つ新姓のうち、上位4姓が上級貴族層とされた。

 なおこの684年には、日本書紀に記すところ夏に飢饉があり、秋7月、東方に長さ7,8尺の星が現れたとあるが、これは76年ごとに世間様をお騒がせするハレー彗星の、日本での最初の記述だそうである。1810年の大接近では、私は泣きながらタイヤのチューブを買いあさったものだ。(毎度嘘を書くな。)

 なお天武天皇の時代、681年頃に中国の君主を示す天皇(てんのう・すめらみこと)という名称が初めて使われるようになったとされている。これまで紹介してきた天皇達は、実際は大王(おおきみ)と呼ばれていたのである。

 その間朝鮮では新羅が唐軍を駆逐することに成功、最終的に唐は新羅王を臣下とする冊封関係を持って和睦となし、675年に朝鮮半島を撤退。ここに新羅による半島統一がなった。倭でも統一当初は新羅と関係を結ぶ政策が取られたが、次第に関係が悪化していった。一方、高句麗の遺民によって建国されたとされる渤海(ぼっかい)(698-926)が朝鮮半島の根本から北に掛けて勢力を拡大すると、むしろこちらと外交を行うようになっていった。

 さて日本で初めての国家的首都として藤原京(ふじわらきょう)の造営を開始していた天武天皇だったが、686年にお亡くなり、代わって皇后のサララさんが持統天皇(じとうてんのう)(645-在位690-697)として即位。この時、サララさんの姉さんの息子だった大津皇子が、おそらくサララさんの差し金で、自害に追い込まれている。彼があまりにも優秀であり、自分の息子の草壁皇子に替わって天皇の後継者に成りかねないと判断したためかもしれない。そんな大津皇子は、万葉集でも懐風藻でも悲劇のヒーロー的存在であり、辞世の歌を今日に伝えている。

 歴史は悲劇のヒーローに構ってはいられない。689年には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が出され、翌年これに基づいて庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍が編纂されている。これは現存しないものの、6年に戸籍を作ることが定められ五十戸一里制(後述)に基づく人民支配の基礎を作ったとされている。これによって、程なくして全国的な班田収授が始まったと考えられる。

 694年にはついに藤原京が完成した。これは狭い飛鳥の地から出て、北西に広がる奈良盆地南端の地に設けられた巨大都市であり、昔は北に耳成山(みみなしやま)、西に畝傍山(うねびやま)、東に天香具山(あまのかぐやま)の大和三山に挟まれた小さな都市だと考えられていたが、最近の発掘によって実はこの3つの山を内包した5.3km四方にも及ぶ大都市であり、後の平城京、平安京を上回る規模であることが確認されたのである。南北に向かう中つ道、下つ道を取り込み、東西に大きな横大路を持ち、また東西に延びる山田道を取り込んで交通の要所に立てられた都は、碁盤の目のように直線で区画整備され、巨大な寺院の伽藍が並び、その寺院は平屋住宅を基本とする都に抜きんでておもむきを加えただろう。

 宮も、これまでのように天皇の住まう場所ごとに移動する宮ではなく、都市の真ん中に代々継承されるべき藤原宮が建造された。宮の周辺に区画された地域に集住するように定められた豪族達は、次第に中央官僚の性格を濃くしていくことになる。宮の大極殿(だいこくでん)や朝堂院(ちょうどういん)は、掘っ立て柱建築(穴を掘って柱を差し込む)という倭国的建造方法ではなく、礎石を置きその上に建築を行い、屋根には初めて瓦葺きがなされたという。また都市プランが直接唐の長安などを模倣したもので無いことから、朝鮮半島の影響を受けた中国的大都市プランではないかとも考えられている。

 なお醜き商品看板満ちあふれ、恥ずかしいほど安っぽい素材で景観を台無しにした上に、電柱醜くうねる最悪の日本式都市計画に反旗を翻し、藤原宮21世紀プロジェクトが発令されるのは、まだ今から10年も先のことである。正式名称は「条坊(じょうぼう)を備えた我が国最初の本格的都城(天子の居る都)の精神的復興と最新技術の融合に基づく都市景観、および市民生活、都市政治を包括するプロジェクト」という。これは未来の歴史書に載るので、ちゃんと覚えておくことをお薦めする。

 ・・・馬鹿な記述をしたせいでもあるまいが、持統天皇は697年に
「ろくな(697)時代じゃないわね」
と呟いて天皇を孫の文武天皇(もんむ)(在位697-707)に譲ってしまったのである。その上で太上天皇(だいじょうてんのう)として政治の実権を握ることになった。この時から上皇(じょうこう)による政治やら院政(いんせい)につながる伝統が生まれてしまったのだが、この太上天皇の位は直後に出された大宝律令によって、制度として認知されている。なおこの文武天皇の即位に功労のあった藤原鎌足の次男、藤原不比等(ふじわらのふひと)(659-720)が表舞台に登場、かつて100年前に蘇我馬子が築いたように、藤原氏の一時代を築くことになるのである。
 文武天皇即位の年にはさっそく娘の藤原宮子(ふじわらのみやこ)が天皇の后(きさき)となり、701年の大宝律令に合わせるように、首皇子(おびとのみこ)(後の聖武天皇)を出産したが、婚礼の翌698年には藤原姓を名乗ることが出来るのは不比等の家系のみとされ、それ以外の藤原鎌足の子供たちは中臣姓として、神祇官を司ることになっている。

2007/10/13

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