律令制の制定へ4、遣唐使と白鳳文化

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702年の遣唐使

 こうして律令体制を整えると、政権使節としては長らく疎遠になっていた唐に対して、702年久しぶりの遣唐使が派遣された。第1回遣唐使は630年に犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)の派遣によって開始。しばらく往来が続いたが、例の白村江の戦いの直後に行われた669年の遣唐使から、30年ほど派遣がなかったのである。
 この時の使節は、粟田真人(あわたのまひと)(?-719)と共に、万葉集の初期の代表歌人である山上憶良(やまのうえのおくら)(660?-733?)らが同行。唐で学問や仏教に触れている。万葉集には彼が帰国に詠んだとされる、

「いざ子ども早く日本へ大伴の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ」
(さあ皆さん、早く日の本にある国へ、
大伴氏の治めたという御津[難波の港]の浜にある松さえも、
私たちを待っているのだろう)

という歌が残されている。山上憶良は仏教や儒教、漢詩などの影響を熟成させて万葉集に異彩を放つ歌人であり、通常(歌の品位の問題から)避けられたような社会的な歌を多数残している。「貧窮問答歌」は特に有名な作品だが、芸術的に優れた歌は他にもっと沢山ある。

 さて、ここで登場した「日本」という言葉は、恐らく大宝律令と共に生まれた言葉ではないかと考えられている。中国の「旧唐書」の中には、「倭国、自らの名称の雅でないことを憎み、改めて日本とする」と書かれているが、おそらくこの時の遣唐使は、大宝律令と共に、我が国の名称「日本」、それから国をおさめる「天皇」、採用された元号「大宝」などを報告して、海の向こうの独自の国家をアピールしたのかも知れない。698年には渤海(ぼっかい)(698-926)が旧高句麗の辺りに成立し、日本も新羅との関係を悪化させている頃なので、唐との結びつきが重要な意味を持つとの計算もあったのだろうか。

 この時の中国の皇帝は、中国史上唯一の女帝として、また漢時代の呂后、清の西太后と合わせて「中国三大悪女(ゴシップ的評価)」としても知られる、武則天(ぶそくてん)(在位690-705)(則天武后)である。彼女は、自らを一時「皇帝」ではなく「天皇」と名乗っていたことのある高宗(こうそう)(在位649-683)の皇后であったが、お病気なさる旦那に変わって政治を取り仕切り、高宗がお亡くなると、どろどろした政治闘争の後、690年に国号を周(しゅう)(後に武周と呼ばれる)として自ら帝位についたのである。しかし705年に譲位を迫られて退位し、再び唐に戻った。したがって正確を期するなら、この702年の大陸派遣使節は遣周使と呼ぶべきものかも知れない。

 この頃、唐との公式航海ルートに変化が生じた。これは新羅との関係の中で語られることもある。しかし、朝鮮半島全てが新羅に落とされた後、新羅との関係はたちまち悪化した訳ではなかった。遣新羅使(けんしらぎし)は779年まで行われているし、統一新羅は唐など大陸周辺国との関係が最重視されたため、日本との関係を悪化させたくは無かったのである。やがて8世紀に突入すると渤海が成立し、あくまで朝鮮半島を傘下気取りで接する日本と新羅の関係は悪化し、渤海を巡り、新羅と唐の関係が修復するなど複雑な動きを見せるが、それが航海ルートの変更の主因であるかどうかは疑わしい。実は始めは一隻、二隻で出航していた遣唐使の船はやがて4隻で出航するようになった。これに合わせて船も大型化し、収容人数も一隻あたり150人、総勢で400~500人にも及んだ。この大型船を座礁の危険を少なく、しかも収容者の食料問題などもあり、最速に唐に至らしめるために、大洋を航海するルートが確立したとも考えられるのである。

 すなわち、これまでの朝鮮半島から長安にいたるルート(北路)ではなく、北九州から直接揚子江下流に達するルート(南路)が取られるようになったが、これによって10日未満で唐に到ることが可能だったようだ。一方、九州南部から沖縄を経て上海方面に抜けるルートを(南島路)とみなす説もあるが、遣唐使の正式ルートとして認められていたか疑わしい。大陸との交流で言えば、関係良好の渤海(698-926)との間には、日本海沿岸各地から渤海使(ぼっかいし)の船が出されるようになったが、この渤海ルートを利用して大陸と往来することもあった。

 遣唐使船は煌びやかに修飾された、当時としては世界的に見ても異例な巨大船であり、このことが遭難、特に座礁率を高めていると考えられる。それでも巨大船にこだわったのは、日本の威信を唐に知らしめるためか、留学生を含む大人数を効率よく運搬するには、小型船を多数製造し船団を形成するよりも、有利な点があったのか、その辺りは分からない。ただ、役人だけでなく、仏教に興味を持つ僧侶や、学問に興味を持つ学者達など様々な人々が乗船し、唐の知識の吸収が国家的に推し進められたため、安全と効率を秤にかけて、最大限の巨大船が生まれたのかも知れない。遣唐使船は多くが夏の時期に出航し、帆を張った帆船であるから、季節風を十分理解して、航海を行ったと考えられる。航海については、4隻がつつがなく往復することはまず無かったが、生存帰還率は無謀といえるほど悪いものではなかった。

白鳳文化(はくほうぶんか)

 大化の改新から、平城京への遷都頃までの文化を白鳳文化という。白鳳とは天武天皇(あるいは天智天皇)の頃に使用されたのではないかと考えられている、当時の公的歴史書である日本書紀に載っていない私元号の名称であり、天武天皇、持統天皇時代を中心とする時代を指す。その文化的特徴は、おおらかだとか、清心だとか、新しい息吹きだとか、華やかだとか皆さん言いたい放題。まあ「初唐文化の影響を受けた清らかな新しい息吹き!!!」とでも書いておけば、まさか先生も0点にはしないだろう。あるいは最近全貌が明らかになりつつある藤原京という都そのものが、白鳳文化の結晶なのかも知れない。

 この時期中国の漢詩などを咀嚼(そしゃく)した初期の自国漢詩が作られるようになり、また五音七音を基調とする和歌が誕生した。七五調のリズムは実際は倭の言葉から自然に生まれたものというよりは、中国の詩のリズム論などを元に生み出されていった可能性もある。これらの初期の漢詩や和歌は、後に編纂された漢詩アンソロジー集である「懐風藻(かいふうそう)」、膨大な和歌選集である「万葉集」に治められているが、特に大和言葉による独自の形式を持った詩が生まれたことは特筆に値する。

仏教

 後世、800年代初めに書かれたと考えられている「日本霊異記(にほんりょういき)」(正式名称は日本現報善悪霊異記)という仏法説話集には、白村紅の戦いに同行した豪族達の説話も治められている。例えば無事帰国できたら寺を建立すると誓った豪族が、百済の僧侶を連れて生きて帰れたので、三谷の寺を造ったとある。伊予の国の豪族が唐の捕虜になった時、唐で仏教信仰に目覚めて、これによって無事帰国できたなどという話しもある。白村紅の敗戦によって、地方豪族も中央集権的国家を持たないと危ない、大陸から進攻されるという危機感に目覚めたとも云われるが、この時期地方豪族達が氏寺を建立することが増加し、仏教が次第に地方に浸透している姿を見ることが出来る。

 また地方の遺跡から論語を学習した木簡などが出土し、地方豪族の知的水準の向上が思われるが、律令国家の建設に必要だった地方豪族の協力は、このように地方豪族側が新しい文化に感化され、中央に従う気運が高まったことでも得られたかも知れない。

 仏教の保護については、とくに天武天皇の時代、仏教を国家に結びつける傾向が強まった。この頃、天皇の神格化と仏教の国家宗教化の土台が作られたとも考えられている。国家による大寺として、百済大寺を移して大官大寺(だいかんだいじ)を築き、680年には鵜野讃良皇后(うののさららこうごう)の病気回復を祈願して薬師寺(やくしじ)が建立された。

 「国を守りたもう仏様の教え」を護国仏教(ごこくぶっきょう)という。この護国仏教の教典である金光明経(こんこうみょうきょう)などを全国で説く法会(ほうえ)が行われ、地方への仏教浸透を深めたという。護国仏教はもちろん大陸から伝わってきた仏教思想であり、護国三部経(ごこくさんぶきょう)と呼ばれることもある「金光明経」「仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)」「法華経(ほけきょう)」を経典として、国を守護する仏さまに対して、時の政権が寺を建てたり、仏教行事を行っていくものである。

 道昭(どうしょう)(629-700)という僧が居た。653年の遣唐使に随行し、玄奘(げんじょう)(602-664)に学んだとされる。彼は帰国後国家の僧として活躍したが、晩年になると民衆のための事業として各地を渡り歩き土木事業を行うようになった。このように仏教精神を民衆に対して開いていく流れは、その後も引き継がれ、彼の弟子であった行基(ぎょうき)がやはり土木事業などを行っている。律令制の名目上は国家の承認を得た者だけが僧であり組織に組み込まれるべきであったが、実際はそこから外れた私度僧(しどそう)と呼ばれる者達が、かなりの数、民衆の支持に根ざして活躍していたものと思われる。もちろん道昭の場合は、国家の認める僧である。この道昭が700年に亡くなったとき、遺言によって火葬が行われたが、この火葬が記録に残る最初の火葬である。

 こうして、仏教の浸透に合わせるように、火葬の奨励が行われ始めた。女帝である持統天皇(じとうてんのう)(645-在位686-697-703)は古墳に埋葬されているが、初めて火葬されて埋葬された天皇となった。この後、次第に古墳が廃れ、しばらく交錯した時期を過ぎた後にまるで造られなくなった。「もがり」という死者の魂を鎮め肉体が朽ち果てるまで死者と共に過ごすような古い習慣も、次第に短縮されていくのである。

 寺院建築としては、670年再建された法隆寺の金堂・五重塔などや、薬師寺東塔(とうとう)、さらに1982年に発見された、山田寺の回廊などが上げられる。この山田寺回廊は、倒れたままの姿で、すっぽり今日まで残されていたので、今日では資料館に復元されている。学者達は「めっけもの」と叫んで涙を流した。

 仏像には、薬師寺の金堂に納められた薬師三尊像や、薬師寺東院堂聖観観音(しょうかんかんのん)像などがある。絵画は高松塚古墳や、キトラ古墳の極彩色の絵や、法隆寺金堂の壁画などがよく知られている。滅びに向かう古墳が、7世紀末から8世紀初頭にこのような芸術的色彩を持って造られた理由は分からないが、これらの古墳を終末期古墳などと呼んだりする。

銭について

 飛鳥寺の東南の方に、天武天皇時代に稼働していた工房跡、飛鳥池工房遺跡というものが見つかっている。天皇木管やら銭の鋳造の後が発掘され、藤原京に移るまで国家的工房を担っていた。ここでは武器や装飾品など多様な金属製品から、漆器といった木製品などが製造されていたが、「富本銭(ふほんせん)」という古代貨幣がここで製作されていたことが明らかになった。683年には「今日から必ず銅銭を用いなさい。銀銭なんか使っちゃ駄目駄目」というおふれが出されたが、それが富本銭のことなのかもしれない。すでに7世紀後半には銀をコイン状の固まりにして、何の文字も刻まずにそのまま使用した無文銀銭(むもんぎんせん)というものが出回っていたので、国家が鋳造した富本銭だけを使用するようにしたのだという意見もある。一方で、この「富本銭(ふほんせん)」は流通貨幣としては一般使用されていなかったという説もあるので、確定できない。

 この遺跡からは4000近い木簡も出土して、その中には同時代の遺物の中で初めて天皇という文字が見られるものがある。それで天武天皇の時代に天皇という名称が使われるようになったのではないかと、考えられているわけだ。

史書と文学

 天皇の行事などとも関わる天皇の系譜を記した「帝紀(ていき)」や、伝承を記した「旧辞(きゅうじ)」は、「古事記」の編纂に利用されたともされるが、口承で伝えられていた内容が、すでに6世紀末には文字に書き落とされたのではないかとも考えられている。推古天皇時代にも、蘇我馬子(そがのうまこ)と厩戸皇子(うまやどのみこ)[=聖徳太子]によって「天皇記(てんのうき)」「国記(こっき)」および氏族や民について書かれた歴史書が、編纂されたようだが、これは今日残されていない。

 このような一世紀以上前から始まる史書への感心の後、ようやく初めて、今日まで残される最古の歴史書を登場するのが、「古事記(こじき)」「日本書紀(にほんしょき)」である。

 「古事記」(712年)は、序文が真実であるならば、712年(和銅五年)、太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)によって天皇に献呈されたとある。序文によるとこの編纂は「日本書紀」と同様に天武天皇に由来し、当時稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物が暗誦していた(それが仕事だった)「帝紀」と「旧辞」を元に記されたと云うことになっている。ただし、正式の勅撰(勅命によって作成された)史書ではないとされる。歴史的考察価値ももちろん高いが、「万葉集」のように大和言葉を漢字を借りてそのままの発音で残そうとする努力や、当時の歌謡を流用して取り込んでいるらしいなど、むしろ話される言葉、あるいは物語ることに対する、非常に高い関心が、非常にユニークな文学的価値をこの「古事記」に与えているように思われる。

 これに対して「日本書紀」(720年)は720年に完成し、勅撰による我が国最古の正史として知られている。当時は「日本紀(にほんぎ)」と呼ばれていて、起こった出来事を年号毎に記していく編年体と、全体を漢文で構成する方針は、我が国の歴史書を編纂しようと云う、明確な意図の元に生み出されたものだ。697年までの歴史を扱い、その編纂は天武天皇の息子である舎人親王(とねりしんのう)(676-735)を中心に進められたらしい。日本書記内の引用記述から、損なわれてはいるが、幾つもの歴史書が、これ以前に記されていたことも分かっている。「古事記」は長らく忘れ去られたのに対して、「日本書紀」はその後も日本の正しい歴史書として読み継がれて行くことになった。

 これ以後、朝廷編纂の歴史書が編纂されることになるが、『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』(901年)までの全部で六つの歴史書を合わせて、六国史(りっこくし)と呼んでいる。朝廷編纂の歴史書は、それを持って断絶した。

 さらに713年には各国に対して地名、産物から伝承までを記すように支持が出され、これが今日「出雲国」のものだけが完全に残る「風土記(ふどき)」の編纂となった。

 (これらの歴史書は、完成は奈良時代に入るが、構想が律令体制の整備と一致しているので、こちらで扱っておくことにした。)

 また完成は8世紀半ばになるが、日本人による漢文アンソロジーである「懐風藻(かいふうそう)」や、ヤマトウタのアンソロジーである「万葉集」には、この時期の作者達の作品が随分残されている。

2008/01/13

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