奈良時代1、平城京遷都

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平城京遷都

 さて大宝律令が制定された少し後のこと。703年に若き文武天皇(もんむてんのう)を支えていた持統太上天皇が亡くなった。その葬儀が薄葬令に則って、天皇として初めて火葬にされたのはよく知られている。記録に残る最初の火葬は、700年に僧として火葬された道昭(どうしょう)であったが、彼は遺言によって火葬を希望したのだった。この火葬にも道昭ら唐に渡った僧達の影響があったかも知れない。その後、実質的に政治を握った文武天皇だったが、彼は707年、わずか25歳で病に倒れてしまったのである。

 ここで一度血統を復習しよう。持統天皇が天武天皇の皇后(名称、盧鳥(合わせて一字)野讚良、うののさららorうののささら)だった時に生まれた子供が草壁皇子(くさかべのみこ)であり、草壁皇子は阿陪皇女(あへのひめみこ)を后として軽皇子(かるのみこ)を生んだ。ウノノサララ皇后は持統天皇として即位し、草壁皇子を後継者と定めたが、草壁皇子が亡くなってしまったので、代わりに軽皇子がわずか15歳で天皇として即位することとなる。その後、持統天皇は太上天皇(だいじょうてんのう・だじょうてんのう)となって後見人として政治を行って来たのである。

 文武天皇が亡くなった後、血筋から云えば文武天皇と藤原不比等の娘藤原宮子(ふじわらのみやこ)の間に生まれた子、首皇子(おびとのみこ・後の聖武天皇)が天皇となるべきだった。しかし彼は14歳であったため、叔母の阿陪皇女が女帝して即位、元明天皇(げんめいてんのう)(661-在位707-715-721)となったのである。彼女は天皇の皇后を通過しないで天皇に即位した、初めての女帝として知られている。

 即位した707年のうちに、遷都の協議がなされた。翌年には「遷都の詔」が出され、710年の遷都までに新たな都の整備が急ピッチで進められることになった。また同年708年には、武蔵国の秩父より和銅(わどう・にきあかがね)(精錬を要しない自然の銅)が献上されたので、これに合わせて元号を和銅(わどう)と改め、唐で鋳造されていた開元通宝(かいげんつうほう)に書体まで真似て和同開珎(わどうかいちん)という鋳造貨幣を作らせた。前に鋳造された富本銭(ふほんせん)は、一般流通貨幣として認められるかどうか曖昧なので、現時点ではこれが政府発行の流通貨幣第一号とも考えられる。しかし実際は、それ以前から無文銀銭(むもんぎんせん)が流通貨幣として使用されていたらしい。これは政府の公式通貨ではなく私鋳銭(しちゅうせん)である。

 これ以後、958年の乾元大宝(けんげんたいほう)の鋳造まで、合わせて12種類の銭のことを本朝(ほんちょう)(皇朝)十二銭と呼ぶそうだ。この貨幣鋳造は、唐を倣い先進国に足並みを揃えようとする意志と共に、遷都費用の支払いのために重要な意味があったとも考えられる。ワンコインが律令制度の金銭単位である1文にあたるとされ、米2kgぐらいの価値を持つというが、銭の流通は畿内を中心として限定的であった。当時は、米などの物品を金銭代わりに利用する経済の方が圧倒的だったのである。流通促進のため、711年には蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)も出された。これは例えば「和同開珎1万枚貯めると、あなたの位階が上昇します」というようなものだったが、枚数が多すぎるのと、銭を貯めこんで流通しなくなるという矛盾から、何の意味もなさなかったようだ。

710年、何と(710)大きな平城京

 710年、ついに都は奈良の平城京に移された。もちろんすべてがこの時移動できたはずもない。まずは内裏(だいり)など政治中枢部を中心にして新都が順次建造されていった。(ちなみに藤原京の宮は翌年711年に火災で燃えてしまったという資料がある。)

 この遷都の理由は所説あるが、669年以来しばらく途絶えていた遣唐使が702年に再開されたこともあり、律令制度の整備や、歴史書の編纂といった国家プロジェクトの進行とも合わせて考えると、唐風の都市プランとは少し異なっていた藤原京に対して、唐風の新しい都を建設する気運が高まっていたのかもしれない。藤原京では、ほぼ中心部に宮が位置していたのである。(ただし平城京も直接長安などを模したものではないとする考えもある。)

 また続日本紀に、「帝王が都を作って壮麗でなければ万国の使者をいかんせん」というような趣旨が書かれていることから、諸外国使者をも黙らせる優れた都を築き、これを中心に置いた中央集権支配を推し進める狙いがあったとも考えられる。律令制の整備や、都へ向かう直線道路の整備など、この時期の日本は、唐と対等に付き合えるほどの国家建設、つまり小中華帝国を目指していたからである。

 また元明天皇の言葉に「四禽図にかない、三山鎮をなす」とあるが、風水に則った四神相応(しじんそうおう)の地に都を置くべしという、呪術的な祈願が高まったのかもしれない。詳しく説明すると大変になってしまうが、要するに方角を司る四神(青龍・朱雀・白虎・玄武で東南西北)に対応して、「東に河あり、南に沼・湖あり、西に大道あり、北に山あり」といった地形のことである。「三山鎮をなす」の方は、春日山(東)、西ノ京or生駒山(西)、奈良山(北)によって鎮(しず)められている地形を指すそうだ。

 さらに都市排水や都市環境の整備上、より優れた都市を建設できると考えたからかも知れない。そしてそれ以外にも大きな意味があったとされる。それは藤原京が飛鳥に近く旧来の豪族精力が強く、律令的政治が行いにくいのを改めようとしたというもので、天皇の願いがあったかも知れないが、むしろ当時権力を拡大していた藤原不比等が、自らの政治基盤拡大のため、旧勢力からの離脱を狙った可能性も否定できない。現にこの平城京の移転後、藤原京に左大臣石上麻呂が管理者として残留し、右大臣の不比等が事実上の最高権力者となったからである。藤原氏がこの遷都に中心的役割を果たした可能性は否定できない。

平城京(へいじょうきょう・へいぜいきょう)

 奈良の地とは、ならされたような「平らな土地」の意味であり、この平らな城の字をあてた平城京の文字も、実際の名称は「ならのみやこ」と大和風に呼ばれていたとも考えられる。中心に南北に連なるメインストリートを置き、碁盤の目のように道を築く中国式都市プラン。これを条坊制(じょうぼうせい)というが、藤原京に続いてこのプランが採用された。もちろん藤原京に続いて、継続的な都市を目指したのである。

 都の玄関を担う南の羅城門(発音順番順、らせいもん→らしょうもん→らじょうもん)から北に続く朱雀大路(すざくおおじ)は幅74メートル。NHK高校講座ではジャンボジェットが着陸出来ると、わざわざCGで演出しているのが涙ぐましい思い出である。ただし中国の都市設計とは異なり、都市を張り巡らせる強固な羅城(らじょう)とよばれる城壁は完備されなかったらしい。その代わり羅城門から東西に向けて一部に城壁を築くとともに、この朱雀大路の両側だけは非常に立派に整え、外国使節が来ても恥ずかしくないように設計している。その朱雀大路を北に進みきった先に、朱雀門(すざくもん)という非常に立派な門が建てられている。この向こうが大内裏(だいだいり)、すなわち天皇が生活し政治が行われる平城宮(へいじょうきゅう)になる。その平城宮を起点に考えるので、北が上にくる一般的な地図だと、大路の左側が右京(うきょう)、右側が左京(さきょう)である。

 当然重要な役割を担う寺院も順次建築された。藤原京から大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺の四大寺が移築され、これに順次建設された東大寺、西大寺、離れた法隆寺を加えて南都七大寺と呼んだりする。他にも新薬師寺など多くの寺院が建造された。

 都市の人口はピーク時で約10万人。ただし五位以上の貴族は8世紀初めの資料で、わずか100人ほどだったというから驚きだ。一方下級官人は1万人にものぼり、彼らの家族その他の一戸あたりの人数を考えると、下級官人グループは人口のかなりの人数を占める。都の一般住民は大多数が役所、寺院、宮と何らかの関わりを持ったと考えられている。縦に走る朱雀大路に対し、横に走る通りは、南側から九条大路、八条大路と北に向かっていくが、下級官人はもっぱら九条、八条付近に住み、その屋敷は芝垣などで区画され、一区画に2、3棟の掘っ立て柱建築、それに井戸が置かれている質素なものだった。とはいえ、都市の抱える人口に相応しく、官営の市が東西に開かれるなど商業活動も行われ、また万葉集などの歌い手達が下級官人の中から誕生するなど、それぞれの生活水準の差もあるだろうが、皆が貧しい生活をひたむきに送っていたわけではない。

 一方貴族たちの邸宅は五条以北に立てられ、位に応じてかなりの土地を占めて贅沢な生活を送っていたようだ。特に1986年から発掘が行われた長屋王の邸宅は、家族のための複合的居住建築物に、工房や、倉庫や、使用人居住地や、さまざまな建築が並び立つ、いわば都市内の小町といった様相を呈している。

 

 もちろんもっとも優雅にしてもっとも豪奢(ごうしゃ)なのは天皇の生活し政治が行われる平城宮、あるいは大内裏(だいだいり)の中だ。その入り口は、朱雀大路の尽きるところに二階建ての朱雀門が置かれ、宮は周囲全体を城壁で囲んでいる。もちろん建築は礎石(そせき)造りの瓦葺きだ。政治政務の中枢である朝堂院(ちょうどういん)は二か所あり、朱雀門の内側にある二つの門から入ることが出来た。(東側の)朝堂院の奥には、天皇の玉座(高御座)があり重要儀式が行われる大極殿(だいごくでん)がある。中国で北極星を表す太極星(たいきょくせい)に由来する名称であるが、ここで天皇は中央の高御座(たかみくら)に座り、国家儀式や外国使節謁見の時、貴族達は朝堂に並び控えるのである。

 その奥には天皇の私的生活の場である内裏(だいり)が置かれている。内裏だけが掘っ立て柱建築で、瓦を使用していないのは、ヤマトの伝統を重んじる表れだろうか。(当時は居住空間は掘っ立て柱建築という意識があったらしい。)
 これらを宮城(きゅうじょう)の中心として、周囲には二官八省の官庁などが配備された。

 一方朱雀門の前の広場的空間でも、様々な行事が行われた。例えば715年には東北地方の蝦夷(えみし)と、中央アジアの方に住むトカラ人(トハラ人)が外国人として迎えられ、門の前に兵士が並び立って優れた都振りをアピールしたという。また、734年には貴族達の歌垣(うたがき)が大々的に催されたとある。歌垣とは、もともとは若い男女が求婚を兼ねて集まって歌い合う習慣のことだが、これが唐の伝統と結びついて、宮廷行事に取り込まれていたのである。このような行事が後にの宮廷での歌合に移行していったらしい。なお元来の民衆的歌垣の伝統は、今日ではカラオケという幾分歪(ひず)んだ文化に落ち入ってしまった。(・・・それが今回のオチか。)

2008/02/19

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