奈良時代2、長屋王の時代

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藤原不比等(ふひと)から長屋王(ながやおう)へ

 万葉集にも「あをによし」という枕詞で歌われる平城京。だからといって雅(みやび)でのどかな楽園だったと思ったら、そりゃあなた、大違いの勘五郎である。天皇の皇位継承問題と、それに絡んで勢力伸張を目指す藤原氏を中心にして、729年の長屋王の変を筆頭に、「天平のロマン」と讃えられる時代の影には、数多くの陰謀騒乱が渦巻いていたのである。

 710年の平城京遷都自体が、旧豪族の基盤を逃れ、藤原氏中心で新しい政治を行いたいという藤原不比等の狙いがあったとされる。さらに714年には、亡き文武天皇と藤原不比等の娘宮子の息子、首皇子(おびとのみこ)(701-756)(後の聖武天皇)が皇太子になった。右大臣となって政権を握っていた不比等だったが、天皇に娘を嫁がせて外戚(がいせき)関係を強め、政権の安定化を目差したのが成功したようである。

 ところが皇太子になった翌年、715年に女帝元明天皇は崩御(ほうぎょ)されてしまった。まだ首皇子は若すぎると判断したのだろうか、元明天皇は亡くなる前に自分の娘に天皇を譲位(じょうい)した。譲位とは天皇が他のものに天皇の位を譲ることである。これによって氷高皇女(ひたかのひめみこ)が元正天皇(げんしょうてんのう)(680-在位715-724-748)として即位した。聖武天皇が即位するまでのつなぎである。

ちょっと整理

 即位せずになくなったことでお馴染み(?)の、草壁皇子(くさかべのみこ)(天武天皇と持統天皇の息子)と、その妻であった阿陪皇女(あへのひめみこ)。この二人の長男であった珂瑠皇子(かるのみこ)が後の文武天皇(もんむてんのう)となり、次に妻であった阿陪皇女自身が元明天皇となり、次に二人の長女であった氷高皇女が元正天皇となった。他に二人の次女、吉備内親王(きびないしんのう)は長屋王の妻である。長屋王については後に記すが、それにしても説明するほど分かりにくくなってくるので、どこかで血統図でも見た方が早い気がしてきた。

 藤原不比等には後に奈良時代を震撼させる4人の息子、恐るべき藤原四兄弟が居た。しかし彼らがまだ若く十分出世する前に、720年、不比等は亡くなってしまった。この時期、不比等に対抗出来るほどの勢力を持っていたのは、天武天皇の息子である舎人親王(とねりしんのう)(676-735)、天武天皇の息子である高市皇子(たけちのみこ)の息子、長屋王(ながやのおおきみ、ながやおう)(684?-729)であった。長屋王は元明天皇の姉を母親とし、元明天皇の娘吉備内親王を妻とし、非常に天皇に近い人物であった。ここで右大臣の不比等が亡くなったため、長屋王が大納言から右大臣に、さらに左大臣に昇り、非常な勢力拡大を見せることになった。

長屋王の時代

 彼の邸宅が1980年代に発見され、その広大なスペースと居住地、工房、倉庫、厨(くりや・料理する所)や、従業員の住居など複合的な建築が明らかにされた。せっかくそれを復元して資本主義馬鹿一辺倒でない所を見せてくれるかと思ったら、平気で工事続行して、無駄にでかいだけのスーパーが味気なく建ってしまった。しかしこの発掘の時に、膨大な数の木簡(もっかん)が発見され、大いに研究に役立つこととなった。

紙と木簡

 ちょっと脱線すると、平城京出土の木簡は現在20万点にもおよび、日本の木簡は運良く水分が十分にある環境に置かれたものだけが腐敗せずに残されるそうだ。土中に地下水などがあり水分に満たされている環境で、木を腐らせる菌類の活動が阻害されるのだそうだ。一方で極端な乾燥地でも菌類の活動が阻害されるので、中国の砂漠地帯などでは乾燥した状態の木簡が出土する。運良く土の中から見つかった木簡も、ちょっと乾燥すると崩壊してしまうので、防腐剤入りの水に借り保管し、これを丁寧に保存作業するという根気の要る作業が続くことになる。

 さて、この時代は紙と木簡という筆記媒体が使い分けられていた。紙は以前から完成されたものとして倭に持ち込まれていたが、610年になると高麗僧の曇徴(どんちょう)が、製紙と墨の技術を持ち込んだことが日本書紀に記されている。やがて日本でも紙の作成が本格化することになり、正倉院には8世紀初めの我が国最古の紙が保存されている。日本での生産は律令制の制定頃から本格化し、特に中務省(なかつかさしょう)に置かれた図書寮(ずしょりょう)では国家的蔵書の管理と共に、紙や墨の製造が行われることになったのである。紙は各地の特産物税金「調」として納められるなど、次第に製紙技術が確立していくことになった。

 とは言っても、この時期の紙は高級品である。したがって日常の雑事を記入する場合には、木簡が使用された。これは中国伝統を蹈襲したもので、おおよそ7世紀後半から10世紀頃までは、木簡と紙が共に使用されている。特に木簡は削って使い直す事が出来るので、貴重な永続的なものは紙に記し、日常的な荷札や文章には木簡を使用するといった、使い分けがなされている。木簡の種類も豊富で、荷札用の紐を通す穴の付いたものや、両側から挟んで中に紙を入れるための木簡などもあった。文字を習った学習帳のような木簡もある。最近では郡司の木簡など地方遺跡からの出土も増大中だが、そんな木簡が長屋王邸から3万点以上も出土したのである。

 これによって屋敷内で鶴を飼っていたことや、踊り手を専属に持っていたことや、離れの氷室(ひむろ)より夏でも氷を用いたことや、平城京内で商業活動まで行い米や酒を売っていたことなどが、続々と明るみに出た。日本書紀の中には「氷室の氷、熱き月に当たりて、水酒に浸して用ふ」といった記述があるが、長屋王も夏に酒を氷で割って飲んで居たのかも知れない。邸宅にはもちろん酒の管理者も務めていたのである。文化人としても大変なもので、720年には新羅の使者を招きもてなし、漢詩などを歌ったりしている。彼の邸宅は、万葉集に代表されるヤマトの歌や、漢詩を嗜む文化人の中心の一つを担っており、長屋王邸で生まれた幾つもの漢詩が、我が国最初の漢詩集「懐風藻」(かいふうそう)に収録されることになった。また仏教の信仰も深く、袈裟を千枚も作成して願文と共に唐の高僧に贈っている。後に鑑真が日本に渡来を決める時に、この長屋王のエピソードが頭に浮かんだという。長屋王は膨大な大般若経の写経まで自宅で行わせているのだ。

長屋王時代の政治

 この時期、田地開発と開拓された新田の扱いが問題となっていたようだ。722年には
「百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)」
(あるいは当時の農地全部を超える百万町歩の開墾をうたった意気込みだけの?開墾計画)が出され、翌年723年に三世一身法(さんぜいっしんのほう)が発布された。これは水路などの潅漑施設からすべて切り開いて新田開墾(つまり墾田)を行った者には、当人が死んだ後も田を取り上げず、三世(本人→子供→孫、または子供、孫、曾孫)の代まで所有が認められる。また既存潅漑施設を再利用した開墾では、本人のみの所有を認める。というものであった。

 この時期は、鉄製農具の普及が進み、西日本では人民の居住空間も竪穴式から次第に掘っ立て柱建築に変わるなど、生活の向上(?)が見られる。律令制の租税が各地の特産物を重要な税金としているように、地域ごとの特産品生産も高まり、政府は人口増に伴う口分田の確保が必要だったのだ。

 後に743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)が出された時、三世一身法ではいずれ田地を返すため開墾が十分になされないので永久私有を認めると説明されている。

 三世一身法の翌年、元正天皇(げんしょうてんのう)は首皇子(おびとのみこ)に天皇の位を譲位し、ついに聖武天皇(しょうむてんのう)(701-在位724-749-786)が即位した。妻である光明子(こうみょうし)は藤原不比等の娘。すでに718年に誕生した娘、阿倍内親王(後の孝謙天皇)についで、727年には基王(もといおう)という男子が産まれ、皇太子として成長のあかつきには天皇となる事が期待された。ところが基王(もといおう)は翌年わずか1歳で亡くなってしまった。これによって外戚関係強化によって政権を狙う藤原四兄弟の思惑が外れ、729年の長屋王の変につながっていくのだが、これは後で見よう。

対外進出

 この次期、周辺の従わぬ人々への進出も進んだ。すでに律令制の発令に合わせるように征夷将軍など周辺異民への侵略を行う将軍が誕生していたが、724年の4月には持節大将軍に任命された藤原宇合(ふじわらのうまかい)が蝦夷(えみし・政権の及ばない東北方面に住む人々)の反乱を平定。このような征夷(せいい)、あるいは征東(せいとう)と呼ばれる北方進軍の将軍名が、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という役職へ繋がっていくことになる。この724年には太平洋側に多賀城(たがじょう)も築かれた。場所は今日の宮城県多賀城市にあり、国府(こくふ)だけでなく鎮守府(ちんじゅふ)という東北に備える軍隊が設置されている。日本海側でもすでに712年、出羽国が置かれていたが、少し後に秋田城が築かれ、共に蝦夷対策の中心地となっていく。

 南への支配力拡大も進んだ。すでに今日の鹿児島あたりに住む隼人(はやと)と呼ばれる人々は、ヤマト政権に下った後もしばしば反旗を翻していたが、ついに713年に大隅国(おおすみのくに)が置かれ、721年に大伴旅人(おおとものたびと)(665-731)が隼人への征服軍を繰り出して、支配力を強化したのである。この大伴旅人は、「懐風藻」「万葉集」にも作品を残し、大の酒好きであったことでも知られるが、芸術界でも中心的な役割を果たす長屋王とは、親しい間柄であったようだ。

長屋王の変(729年)

 圧倒的支配力を誇る長屋王に対して、藤原不比等の息子達は打倒の気運を高めた。藤原四兄弟とは、年長から

藤原武智麻呂(むちまろ) (680-737) [のち藤原南家]
藤原房前(ふささき) (681-737) [のち藤原北家]
藤原宇合(うまかい) (694?-737) [のち藤原式家]
藤原麻呂(まろ) (695-737) [のち藤原京家]

であり、それぞれ後の藤原四家の始祖となっている。
その覚え方は、
『無知麻呂「ふう」佐々木、馬飼い麻呂』
あるいは、
『無知麻呂「ふう」佐々木「うっ、魔界麻呂!」』
という言葉の意味を、果たして馬飼いの麻呂が無知なので佐々木が「ふう」と溜息を付いているのかしらと、あれこれ悩みながら三回唱えるとあら不思議、頭の中に入ってしまう、という強引なものである(・・・強引にしているのは君ではないのか。だいたい魔界麻呂って何だ。)

 さて728年、不比等の娘である光明子(こうみょうし)と聖武天皇の皇子基王(もといおう)が亡くなると、藤原四兄弟は今度は光明子を聖武天皇の皇后(こうごう・天皇の正妻)に押し立てようと目論んだ。長屋王は反対するだろう。また権力の中心に立つ長屋王は邪魔でもある。現在聖武天皇には生まれたばかりの息子、安積親王(あさかしんのう)があったが、藤原家の血筋ではなく、さらにこの皇子が急に亡くなれば、長屋王と吉備内親王の息子が天皇にならないとも限らない。これは避けたい。そんな理由で殺害を企てたという明確な証拠は実はないが、729年、長屋王はあまりにもあっけなく転落することになった。

「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」
つまり呪詛によって国家転覆を謀っていると密告があったのである。さっそく藤原宇合(ふじわらのうまかい)が率いる六衛府(ろくえふ)軍が長屋王邸を包囲。その後、咎(とが)を無理矢理糾弾されたのだろうか、長屋王と妻の吉備内親王、さらに二人の間に生まれた皇子達が自刃(じじん)させられた。「続日本紀」には密告が偽りであったことが記されている。ここまで書いておいてなんだが、実際に藤原四兄弟がそろって事件の中心にいたとは断定できないのだ。長屋王がお亡くなると、さっそく光明子(こうみょうし)が聖武天皇の皇后であると詔(みことのり)が出されている。これは天皇血族でない臣下から皇后になった女性の第1号であり、これによって光明皇后(こうみょうこうごう)が誕生した。

謎の年号暗記法
「729年、何食わぬ顔で長屋王の変」

 一方、728年に誕生した安積親王(あさかしんのう)は、その誕生の年に基王(もといおう)が亡くなったために、聖武天皇の唯一の皇子となっていた。そのうち皇太子となる可能性が高い。母親は県犬養広刀自(あがたのいぬかいひろとじ・こおりのいぬかいひろとじ)であり、彼女の家系が外戚を強める危険があった。県犬養の氏(うじ)には橘諸兄(たちばなのもろえ)(684-757)などがいて、やはり政権を狙っている。そして橘諸兄の背後には、新興勢力である藤原氏に不満を持つ伝統的名門、大伴(おおとも)氏や佐伯(さえき)氏などが控えていた。この様な危機に対して、藤原四兄弟が中心になって、皇族以外の血筋である光明皇后を誕生させたと考えられるわけだ。

 こうしていよいよ藤原四兄弟が権力中枢を握る時代がやってきたのだが、それも束の間、なんと737年に九州からのこのこやってきた天然痘にやられて、四人とも相次いで亡くなってしまったのである。
「四兄弟病に死す」
これをもって藤原家の勢力は一時大幅に後退した。

2008/02/20

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