奈良時代3、遣唐使と藤原広嗣の乱

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この時期の遣唐使

 717年の遣唐使には、
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)(698-770)
吉備真備(きびのまきび)(695-775)
玄昉(げんぼう)(?-746)
大伴古麻呂(おおとものこまろ)(?-757)

といった留学生(るがくしょう)が乗り込んで唐に渡った。いずれも歴史に名を残す重要人物だが、同じ船には井真成(いのまなり、せいしんせい)(698?-734)という人物が乗り込んでいた。彼は最近まで名も知らぬ人物だったが、やはり留学生だったのだろう。次の遣唐使に乗って吉備真備達と日本に帰る予定だったのかもしれないが、734年に帰国直前に病気で亡くなってしまったのである。なぜこんなたわいもない人物が記されるか。それは2004年になって墓誌(ぼし)が発見(正しくは発表)されたからである。皇帝が彼の才能を哀れんで特別に墓誌を残して下さったために、彼の亡くなった年や祖国が「日本」であることが判明したのであった。この墓誌は、この時期「日本」という国号が公式に使用されていた証拠にもなっている。この貴重な資料のお蔭で、彼は一躍「歴史に名を残す人物」に格上げされてしまったのである。

 そんな彼も、あるいは阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と知性を競い合ったライバルだった、なんてこともあったのかも知れない。阿倍仲麻呂もやはり日本に帰れなかった組みで、唐の官僚登用のための試験である科挙(かきょ)に合格したとされ、優れた才能を買った玄宗皇帝(685-在位712-756-762)によって高官に任命されている。当時の長安はキリスト教のネストリウス派が流行するなど国際的な大都市であり、外国人が役人になることも十分に可能だったのである。阿倍仲麻呂は時の詩人、李白、王維らとも漢詩を読み合う友人であり、753年、彼が日本に帰国しようとした時には、二人とも別れの歌や弔いの歌を読んでいる。

 この時は、前年日本を発った遣唐使が、藤原清河(ふじわらのきよかわ)や2度目の渡唐となる吉備真備を連れて唐に到着し、やがて日本に帰るのに合わせて、その船に乗り込んだのである。それではなぜ、弔いの歌を読んだかって? それは仲麻呂や藤原清河(ふじわらのきよかわ)を載せた船が、帰国途中、暴風雨のために遭難してしまったからである。結局阿倍仲麻呂らはベトナムに流れ着き、長安に舞い戻ることとなった。特に藤原清河は名門藤原房前(ふじわらのふささき)の息子であり、日本から帰国の願いも高かったのだが、その後も帰る機会を得られず、二人とも唐で生涯を閉じることになった。この時の望郷の念が結晶化して、

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも」
(遙かなる天空を仰ぎ見れば、
春日の三笠の山にのぼる月と同じように、
あらわれる月であることよ)

という阿倍仲麻呂の歌が残されたという。この歌は「万葉集」には含まれず、大きく時代を下って「古今和歌集」に登場することから、(もちろん日本に伝わったのが遅れたとも取れるが)誰かが彼の思いを推し量って作った歌だとも考えられる。いずれ「小倉百人一首」にも含まれるほどの名歌には違いない。その後彼は、唐で官職を全うしながら、二度と日本の土を踏むことはなかった。

 一方この753年出航の日本行きの船には、鑑真(がんじん)(688-763)も乗り込んでいたが、彼は別の船に乗っていたため無事日本に辿り着いている。彼については後に記すことにしよう。

733年の遣唐使

 話を戻して、井真成(いのまなり、せいしんせい)が亡くなって帰れなかった[733-734年]の遣唐使に話を移そう。そもそもこの遣唐使の派遣は、698年に建国された渤海(698-926)が、728年日本に国書をもたらし、「渤海はかつての高句麗が再興した国だ」と紹介し、両国の国交を求めたのに始まるらしい。これは2代目渤海国王大武芸(だいぶげい)の時であり、彼は唐からの自立と対外政策を強めた結果、唐、新羅との関係が悪化したため、新羅牽制を兼ねて日本に軍事同盟を求めたようだ。大陸では唐と渤海の衝突の危機が高まり、その危機の中で政治的意味あいがあって、732年の遣新羅使(けんしらぎし)、733年の遣唐使派遣が行われたと考えられる。ウィキペディアでは、この遣唐使に留学生などの派遣が見られないことから、新羅や唐との戦闘に備えて、留学生の回収が計られた可能性が上げられているが、阿倍仲麻呂は留まっているし、はたしてどないなもんでしょう。

 すでに玄宗(げんそう)皇帝に謁見するより先に、渤海が唐の登州を攻め、唐と共に新羅も軍を派遣、登州の役が起きていた。この戦いは渤海を侵略するには至らず、雪に閉ざされて冴えない結果に終わったようだ。こうして北方の緊張は残されたが、ただし渤海は唐とは冊封体制を結んでおり、皇帝から国王に任ぜられる立場を取り、定期的な朝貢も行うなど、基本戦略としては唐との友好を重視していた。時の国王である大武芸が、やんちゃすぎただけかもしれない。

 話が進まなくなってきた。遣唐使の話だったはずである。この遣唐使に日本から派遣された判官(はんがん)、いわばナンバースリーの役人に平群広成(生年不明-753年)(へぐりのひろなり)という男がいた。彼は生涯国に帰れなかった悲劇のヒーロー「阿倍仲麻呂」に対して、最後に帰郷を果たすことに成功した喜劇のヒーローなのである。

 この遣唐使節が無事に謁見を果たして、帰路に付くのは734年の10月である。この時、井真成は船に乗れず唐で亡くなった。阿倍仲麻呂は唐での出世によって帰国を見送った。そして遣唐使の太守(使節のトップ)の船には、唐に渡ってた吉備真備(きびのまきび)、玄昉(げんぼう)らが乗り込んで、暴風に巻き込まれて種子島に漂着。苦難はあっても都に帰ることが叶った。では他の船はどうなったか。副使(ナンバーツー)の乗った船は一度唐に押し戻されて、ようやく736年に帰還を果たした。一隻は歴史から転げ落ちて行方不明になってしまった。そして平群広成らの船は、遙か南のベトナムの方にある崑崙国(こんろんこく)(チャンパ王国ではないかとされる)まで流され、現地民に捕らえられたり、戦闘で死んだり、マラリアなどにやられたりして、90人以上が亡くなって、平群広成ら4人だけが生き残って、王のもとに引き出されて、留め置かたのである。

 何とか商人の船で唐まで戻ることが出来たので、阿倍仲麻呂が玄宗皇帝に取り次いでくれたのだろうか、渤海国ルートで帰還することが許された。彼は渤海から日本に派遣される二艘の遣日本使船に便乗したのである。しかし、またしても、またしても海が猛威を振るう。大使の乗った船は日本海に沈み、広成も荒れ狂う波の中で、俺の運命はなんじゃらほい、と観念したかもしれない。しかし彼の船は奇跡的に秋田のあたりに漂着し、739年10月に都に戻ることが叶ったのである。その後の彼には出世の道が開けていた。様々な役職を経て、最後には従四位上を授かり、武蔵守の役職を持って生涯を全うしたようだ。時に753年。七五三のお年であった。(・・・なんのこっちゃ。)

 一方留学生において、立身出世の花形は吉備真備(きびのまきび)(695-775)である。岡山県には少し前まで、現在倉敷市に合併されてしまった真備町(まびちょう)があった。吉備真備の出身地であることから、町の名前が付けられたのである。5世紀に隆盛を誇った地方豪族吉備氏の血筋であった彼は、717年、阿倍仲麻呂や玄昉(げんぼう)と共に、留学生として遣唐使に加わり、734年の帰国船に乗って種子島に漂着し、翌年平城京に帰ってきた。「唐礼」と呼ばれる経書(けいしょ・儒教の書物)や、最新の唐の太陰太陽暦の暦である「大衍暦(たいえんれき)」、楽器や音楽書、武器などを天皇に献上した。大衍暦は764年から100年近くもの間、日本の暦として採用されることになる。彼はさっそく正六位下を賜り、大学寮の次官にあたる大学助(だいがくのすけ)に任命された。(つまり大学助は正六位下が付く役職なわけやね。)

 共に帰国した僧侶である玄昉(げんぼう)(?-746)の方は、奈良時代平城京で栄えた南都六宗と呼ばれる宗派の一つ法相宗(ほっそうしゅう)を学び、五千余巻の教典と仏像を持ち帰り、737年には僧正(そうじょう)に任命された。僧尼の監督機関であった律令制の僧綱(そうごう)には、僧正・僧都・律師の僧官があり、対応する僧位も定められつつあったのである。

藤原広嗣の乱

 二人は聖武天皇や光明皇后に気に入られ、737年のうちに真備は従五位下、さらに従五位上を授かり貴族の仲間入りを果たしたのであるが、玄昉もこの年、聖武天皇の母親である藤原宮子の心の病を治し、褒美と共に大いなる信用を獲得。時代は急速に移り変わりつつあった。例の藤原四兄弟が、
「なあ、みんな(737)、一緒に死ねば怖くない」
なんてことは、まさか言わなかっただろうが、737年に疫病で相次いで亡くなってしまったからである。政界の強者の一人、舎人親王もすでに735年には他界していた。

 政治中枢にポッカリ空いた穴を埋めるように、橘諸兄(たちばなのもろえ)(684-757)が大納言に昇進。翌年738年には正三位を得て右大臣になったのである。以後彼は、743年には太政官の左大臣(太政大臣の鈴鹿王の亡くなった745年からは事実上のトップ)になり、左大臣の官位は正・従二位であったのだが、749年には正一位までも授かっている。いかに大きな権力を握っていたことか。この時期、政治は彼を中心にまわっていた。彼の活躍に合わせるように、認められた吉備真備と玄昉も、政界に勢力を持つにいたったのである。

 かつて四兄弟を排出した藤原組(とは言わないが)は危機に落ち入った。それでも738年には聖武天皇と光明皇后の娘であった阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が、皇子である安積親王を差し置いて、女として初めての皇太子に選別され、藤原勢力の強さを見せつける結果となった。しかし同年、藤原宇合(うまかい)の長男だった藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)(?-740)が、大宰府次官である大宰少弐(しょうに)に任命され、九州に向かうという出来事があった。これは事実上の左遷だったようだ。

 大宰府の長官は都に居るため、少弐(しょうに・次官にあたる)の広嗣が勢力を拡大。藤原広嗣は朝廷に対して、
「天地の災害が続くのは、吉備真備と玄昉のせいである」
と上奏文(じょうそうぶん・天皇にご意見する文)を送りつけ、彼らを登用させた橘諸兄もろともに批判してやった。聖武天皇の即位期間に含まれる天平(てんぴょう)という元号の時代は、729年から748年の間であるが、天然痘や各種災害が多発した。その原因こそ彼らにあるという批判である。天皇は広嗣を都に召喚(しょうかん)した。しかし、召喚させたのは橘諸兄に違いない。行けば殺されると思った広嗣は、ついに大宰府で1万あまりの兵を整え、政権批判を掲げて挙兵したのである。740年、藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)の勃発であった。もともと対外を意識した軍兵を持つ大宰府だったから、反乱の規模が巨大になってしまったのである。

 これに対して朝廷は。蝦夷地政策で功績のあった大野東人(おおののあずまびと)を総大将に遠征軍を派遣。その兵は1万7千であったという。万葉集に歌を残す安倍虫麻呂(あべのむしまろ)なども加わり、北九州で開戦が行われたた。ただし虫麻呂といえば、万葉集で有名なのは高橋虫麻呂だし、阿部といえば、広嗣をまさに捕らえた人物は阿倍黒麻呂(あべのくろまろ)だから注意しなくっちゃいけない。(・・・そんな無駄な知識ばかり植え込むな。)

 いくさは広嗣軍の敗走となった。広嗣は新羅に逃れようとしたが、神罰が下ったか逆風に押し戻されて、やがて捕らえられ、弟と共に斬殺されてしまった。こうして藤原広嗣の乱は終息したのだが、これによって都の藤原式家に連なるもの達が処分を受け、藤原組の政治勢力を大幅に後退させることになったのである。

2008/02/21

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