奈良時代6、道鏡失脚と地方

[Topへ]

道鏡の政治と失脚

 道鏡の下で政界を支えた一人は、あの吉備真備であった。彼は恵美押勝の乱の功績により翌年正三位を得ていたが、766年に入ると中納言、大納言を経て、ついに右大臣にまで上り詰めたのであった。時の左大臣は藤原永手(ふじわらのながて)(714-771)、藤原房前の次男として藤原北家の代表的人物である。地方豪族の出身者が、学者から身を起こして、そんな名門貴族と共に政権の中枢を担ったのである。さらに真備は769年、正二位を授与されるのだった。真備だけでない、彼の娘か妹か不明であるが、血族の吉備由利(きびのゆり)は、恵美押勝の乱の後にすでに正五位上であったものが、770年に称徳天皇が崩御される時には従三位にまで出世している。律令制の官位は女性にも開かれていたからである。いずれにせよ、道鏡の影には吉備真備の姿がちらつくように思えてくる。

宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)

 しかしまた事件が起きた。769年。宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)である。何もうさぎが八幡さまで神託を受けたわけではない。宇佐八幡宮で「道鏡が次の天皇に付くべきだ」という神託があったと称徳天皇に伝えられたのが発端であった。これまでに皇太子候補が次々に謎の死を遂げていることもあり、道鏡と天皇が結託して仕組んだかと疑いたくもなるが、真実は分からない。(道鏡は積極的に関わっていない、宇佐八幡宮が進めた、続日本紀を信じてはならん、などの説が入り乱れ、深入りすると大変なことになる。)

 称徳天皇は、神託確認のため和気清麻呂(わけのきよまろ)(733-799)を宇佐八幡宮に派遣。ところが、清麻呂は神託が偽りであるという事実を持ち帰った。せっかくのプランが水泡に帰したためか、称徳女帝は大層お怒りになって、どうも驚く、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名した上で、大隅国(南九州)へ飛ばしてしまったのである。中年女の執念深さか知らないが、清麻呂の姉の尼僧まで、無理矢理還俗させられて、広虫という名前を「狭虫(さむし)」と改名された上で、備後へ流罪となった。今日なら「名前虐め」として、週刊誌を賑わせるような事件である。不遇の二人は、後に桓武時代に活躍することになるが、仏罰は天皇と道鏡の方に下されたようだ。

 すなわち、神託は無効となった上、翌年770年に称徳天皇は天然痘に掛かったのである。この時、介護のため天皇の近くに居ることが許されたのは吉備由利ただ一人だった。しかしほどなくお亡くなりて、後ろ盾を失った道鏡はさっそく下野国に左遷。造下野薬師寺別当の地位に付き、毎日不遇を嘆いたのだろうか。あるいはすでに悟りきっていただろうか。772年に当地で亡くなっている。そしてその年10月、女帝と道鏡の方針は却下され、大貴族や大寺院などの要求する墾田私有が再開されることとなった。

光仁天皇(こうにんてんのう)時代

 独身だった称徳天皇が皇太子を擁立せず無くなった。さっそく左大臣藤原永手、右大臣吉備真備を中心にして、次の天皇が選別される。これまでの政変と粛正によって、代々天皇を出してきた天武天皇系列から有力者を見いだせず、天智天皇の孫である白壁王(しらかべおう)にスポットが当たることになった。聖武天皇の娘である井上内親王(いのえのひめみこ)を妻として産んだ娘に、他戸王(おさべしんのう)(761?-775)と酒人内親王(さかひとないしんのう)(754-829)が居たが、これらの娘は天武天皇の系譜にも連なる。このことから、左大臣藤原永手が中心になって、まず白壁王を天皇として、他戸王(おさべしんのう)を立太子(皇太子に付けること)する方針がまとめられた。(実際は、天皇系列が意識されていたのかどうか、怪しい部分が多いようだが。)こうして白壁王は62歳にして第49代天皇、光仁天皇(こうにんてんのう)(709-在位770-781-782)となったのである。

 白壁王といえば、酒好きには聞き逃せない人物であることは言うまでもない。(本当か?)彼は、数々の反乱と粛正の荒波を乗り切るため、酒に溺れた振りを長年演じきったからである。白壁王の酔ったふりは天下一品だったのだろうか、見事都の政変を乗り越えて、しかも60歳を過ぎて天皇となったのだ。これが飲んべえ達のハートを捕らえて話さないらしい。「自分も今は白壁王を気取っているのさ」それが彼らのお気に入りの一言であった。(・・・また脱線したか。)

 さて、この天皇選抜に吉備真備が反対したという話は「続日本紀」には乗っていない。後の歴史書に登場する話である。しかし吉備真備が高齢を理由に二度に渡って辞任を申し出、771年、二度目の辞任が認められて引退したのは本当だ。彼は以来、775年に亡くなるまでの余生を送る。この日本史も密かに吉備真備の生涯を追っていたので、すこし寂しい気がする。また、771年には左大臣の藤原永手が亡くなり、皇太子となった他戸王(おさべしんのう)を後押しする中心が無くなった。政界の世代交代が劇的に進行する。これまで不遇だった藤原式家の藤原良継(ふじわらのよしつぐ)(716-777)、弟の藤原百川(ふじわらのももかわ)(732-779)は、藤原宇合の子供達であったが、彼らが中心となって光仁天皇の長男である山部親王(やまべのみこ)の立太子を推し進めることになる。この山部親王こそ、百済王族の末裔である高野新笠(たかののにいがさ)を母に持つ、後に桓武天皇(かんむてんのう)となる人物であった。

他戸親王(おさべしんのう)の謎の死

 その事件は772年に始まった。光仁天皇の皇后である井上内親王が、夫を呪詛した大逆罪で、皇后を廃され、連座して他戸親王(おさべしんのう)の皇太子が廃されたのである。さらに翌年、別の呪詛の疑いにより母娘共に幽閉されて、そろって謎の急死を遂げることとなった。その773年、山部親王が正式に皇太子と定められたのである。事件の被害者である他戸親王は、後に怨霊となって桓武天皇を苦しめることになるだろう。なに、怨霊なんて居るものかだって?それが居たのである。彼女の死後に起こる多くの天変地異を祟りと信じる人々の心に、怨霊は確かに居たのである。

 光仁天皇はそれまでの仏教中心政策を改め、律令の再編を行うなど、なかなか優秀な天皇だったらしい。やはり酒ばかり飲んでいたのは、駄目なふりだったのであろうか。思えば、藤原房前(藤原北家)の三男、藤原真楯(ふじわらのまたて)(715-766)なども、藤原仲麻呂の妬みを恐れて、仮病に伏して家で本を読み暮らしていたという。まあ、これほどの政権交代と反乱粛正が続けば、そうしたくもなるだろう。

地方の政治組織

東北方面ー蝦夷(えみし)政策の前線

 さて、724年に東北太平洋方面に多賀城(宮城県多賀城市)が完成したのは以前に見た。ここは陸奥国(むつのくに)の中心となり、以後東北地方北部から北海道の人々、すなわち蝦夷(えみし)に対する対策の要として、外交、軍事、交易の拠点となったのである。城とは言っても軍事施設のみではない。中心には政庁があり、つまり陸奥国国府が置かれていた。平城京の中心部と同様に役所が並ぶ一方で、中国から朝鮮半島を経て伝わったハンチク技法によって強固な防壁が築かれる。当然軍事担当の鎮守府(ちんじゅふ)も設置された。日本海方面でも733年には出羽柵(でわのき)が移築され、760年から秋田城と呼ばれるようになるなど、城柵の北進を見ることが出来る。

 これらの城柵から、年中北進の軍事活動を行っていたと見るのは誤りである。むしろ、通常は軍事活動ではなく、政治や交流の中心地として機能していたからである。このような拠点には、北陸や関東から戸(こ)ごとに移民が送り込まれ、蝦夷の文化圏にコロニーを築く政策も取られた。戸籍から抜け出た浮浪人たちも数多く流れ込み、さらに蝦夷たちも移住して、経済活動の拠点の様相を呈していた。(ローマとゲルマン民族の関係と対比してみても面白いかも知れない。)

対外政策の要ー大宰府

 次に遠の都と呼ばれた大宰府を見てみよう。防衛施設としての水城(みずき)、大野城や基肄城を持つ軍事拠点であった大宰府は、同時に博多湾岸に鴻臚館(こうろかん)という迎賓施設を持ち、都は条坊(じょうぼう)によって整備され、朝堂院形式による立派な政庁を誇っていた。外交の要である一方、国内統治の要でもあり、九州方面の政治の中心を担っている。鴻臚館は、7世紀終わり頃から11世紀中頃まで使用され、外交使節団の宿泊施設と、交易施設を兼ね揃えていた。施設は真ん中に堀を持ち、北と南に独立した建築が並んでいる。8世紀には国産の土器が見られるばかりだったが、9世紀以降の遺物からは、数多くの貿易品が出土している。特に中国製の青磁器の欠片が非常に多く見いだされ、他にも新羅の陶器やイスラーム陶器、そして銭として使用したのだろうか、砂金も見つかっている。

南西方面ー隼人(はやと)政策

 九州南部はかつて、「日本書紀」「古事記」の中に見られる「熊襲(くまそ)」一族の住む世界であった。「古事記」の中ではヤマトタケルがその討伐を命じられ、女装して宴会の踊り子を演じて熊襲兄弟を打ち果たし、「クマソタケル」る「タケル」を貰って「ヤマトタケル」と名乗った逸話が掲載されている。実際の服属年代は不明であるが、古墳時代にはすでにヤマト政権の勢力が及んでいたことが、古墳から分かる。彼らは7世紀終わり頃には、「隼人(はやと)」と呼ばれることが多くなっていた。

 すなわち中央政権の実質的な支配力が増大していくのだが、蝦夷のように独自の生活文化を持っていた彼らは、しばしばそれに反発した。720年には政府に対する大規模な反乱が起こり、大伴旅人(おおとものたびと)が派遣されてこれを鎮圧し、服属に一定の成果を上げている。しかし、律令制に基づいて設けられた大隈国(おおくまこく)・薩摩国(さつまこく)においても、口分田制度が行われるのは800年になってからであった。8世紀の間は異民族的立場も強く、蝦夷(えみし)たちと同様、彼らは定期的に中央に朝貢を行っている。また中央の儀礼のために隼人集団が一定数留め置かれるなど、国家儀礼にもかり出された。

島嶼(とうしょ)政策

 その南である種子島には702年に行政組織が置かれ、夜光貝の貝殻などが重要な交易品となったが、政府の管轄が及んでいなかったであろう先の奄美大島、沖縄諸島などが、このような交易品と鉄器を交換していったと考えられる。島の行政組織ということで言えば、朝鮮半島に連なる対馬、壱岐も「島」を一つの行政単位とする組織によって、中央の行政組織に正式に組み込まれていった。

国々の政治体制

 この時期は、国ごとに国府(こくふ)、あるいは国衙(こくが)とも呼ばれる地方政治の中心施設が整備されていった。国府は中央から派遣された国司(こくし)が統治を行う中心であり、国庁を中心として、儀礼の場、官舎、厨(くりや)、国家的倉庫である正倉院、厩(うまや)などが建ち並ぶ施設であった。都のようにその周囲に条坊を備えた広大な都市が建設されるという訳にはいかなかったが、やはり人々が集住する都会的な空間が周囲に成立していく。(あるいは国庁を中心とする市的空間全体を国府、国衙という。)後には詔によって国分寺が国府の近くに建造され、また国庁は都の大極殿(たいごくでん)を真似た立派なもので、地方政治の中心であると共に、地方文化の中心でもあった。

 国府の下に置かれた群ごとの群家(ぐうけ)は、地方豪族が郡司(ぐんじ)として任命され、世襲がなされていたため、実際の人民支配は地方豪族の民衆支配の実体を、うまく取り込んだようにも見える。ただし建前上は、人格的支配は許されず、律令制に基づく政治を行うことが、群家たる条件だった。ここでも郡庁(ぐんちょう)を中心に、厨(くりや)や正倉院、しばしば寺院などが建造され、国府と共に10世紀頃まで活動が機能していたと思われる。遺跡からは郡符(ぐんぷ)と呼ばれる木管なども出土し、これは里長(りちょう)などに口頭ではなく、文字によって行政を行った証しである。つまりそこまで識字率が及んでいたと考えられるわけだ。

 律令制には規定されていないが、「日本霊異記」などには数多くの「村」が登場する。つまり律令制の役所的行政区分に対して、以前より自然発生的に人々が集住していた「村」に、民衆は住んでいたと考えられる。このような村には、豪華な建築は無いが、農村もあり、漁村もあり、地域の特産物を中心にして集住した村もあり、大きい村では市が開かれ、国家に認められていない私度僧(しどそう)達が活躍し、次第に仏教が民衆に浸透してしていったと考えられる。特に地方豪族や、寺院、勝者として富裕となった一部の百姓などが中心となり、近隣地域、あるいは沿革地域との交易が幅広く行われていたらしい。その経済は必ずしも国家発行の銭では行われず、金銭の代わりに米など、代替機能を果たしている現物がお金として使用されることも多かった。

2008/03/09

[上層へ] [Topへ]