さて、光仁天皇の皇后である井上内親王、その娘である他戸親王(おさべしんのう)(761?-775)が皇太子に立てられたが、謀反の嫌疑がかけられ謎の死を遂げたことは前に見た。これにより光仁天皇の別の妻である高野新笠(たかののにいがさ)、彼女は百済の武寧王(ぶねいおう)(462-523)を祖先とすると伝えられるが、彼女の息子達が皇太子の候補となった。彼女の息子には山部親王(やまべしんのう・やまべのみこ)と早良親王(さわらしんのう)(750?-785)があり、他戸親王の死後、藤原の藤原百川(ふじわらのももかわ)らの働きもあって、山部親王が皇太子とされたのである。781年に光仁天皇が退き、山部親王は第50代天皇、すなわち桓武天皇(かんむてんのう)(737-806)なった。一説では中国の辛酉革命(しんゆうかくめい)説に従って、天命を受けた私(わたくし)という立場を貫いて、干支(かんし)の辛酉(えと)の年を狙って即位したともされる。すぐさま、弟の早良親王が皇太子と定められ、同年即位を見届けた光仁天皇はお亡くなりたのである。
・50代目の桓武天皇は、
「なあ、みんなで羽織ろう(737-806)」
と叫んで、平安遷都と蝦夷討伐に明け暮れた。
遷都や蝦夷討伐を推し進め、勢力を増した旧仏教(南都六宗)に対して封戸を没収し[本当に旧仏教勢力を逃れようとしたのかは再調査が必要]、渡来系の血を引くことを誇りとするなど、独自性と自己権力志向を見ると、天皇として即位するまでのすべてが、むしろ桓武天皇のプランに従って進行したような気さえするが、これは分からない。はたして彼は、他戸親王の死にどの程度干与していたのだろうか。
しかし天武系の血を強く引く者が他にも居た。かつて藤原仲麻呂の乱で処刑された塩焼王と、聖武天皇の娘の不破内親王(ふわないしんのう)の間に生まれた氷上川継(ひかわのかわつぐ)である。果たして天武系を望むグループ[そんなグループが本当にあったのだろうか]に祭り上げられたためだろうか、782年に氷上川継の謀反の嫌疑が固まり、川継は逃亡しつつ捕らえられ、伊豆へ流罪となったのである。母親も流罪となったが、これに連座して藤原京家の藤原浜成(ふじわらのはまなり)が大宰府に左遷され、あの万葉集で有名な大伴家持(おおとものやかもち)や、後にアテルイと雌雄を決する坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の父親、坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)らがそれぞれ処罰を受けた。これを氷上川継の乱と呼ぶ。このとき家持や苅田麻呂はすぐ許されているが、代わりに藤原北家の右大臣藤原魚名(ふじわらのうおな)も後から大宰府に飛ばされてしまった。
大伴家持は782年のうちに陸奥に赴任し、783年に中納言となり陸奥按察使持節征東将軍(むつあぜちじせつせいとうしょうぐん)として蝦夷の討伐を任され、その間785年に亡くなった。この時期すでに蝦夷への征討強化は始まっており、蝦夷と政府軍の衝突が頻繁になっているが、この蝦夷への強硬路線こそ、桓武天皇の中心的政策の一つであった。それに対して、もう一つの中心的政策である遷都(せんと)は、すでに現在の京都南部に位置する山背国(やましろのくに)方面に視察を派遣していたが、反対の声をかわすため、副都を難波京から長岡の地に移すとして都の建設を進めていた。そして784年、天皇が行幸(ぎょうこう・みゆき)の最中に定住してしまう遣り口で、都が長岡京(ながおかきょう)に移されたのである。年号暗記は必要ない。何しろ、平安遷都のちょうど10年前の出来事なのだから。
さて、もし仮に、桓武天皇が781年の即位を讖緯説(しんいせつ)の辛酉革命(しんゆうかくめい)に従って執り行ったとするならば、784年に遷都を行ったのは、同じく讖緯説の甲子革令(かっしかくれい)に従って、天意が改まり天命が下る新時代の到来を、意識した上での行動かもしれない。現在の京都府長岡京市に造られた長岡京(ながおかきょう)は、東に巨椋池(おぐらいけ・現在は干拓して埋め殺してしまった)を控え、宇治川、木津川から淀川へ流れる河川の中継地点に置かれ、水上交通の便宜を優先した都だった。
この工事には難波宮の各施設が淀川を利用して運ばれ移築され、建造のピッチを早めた。この遷都によって難波宮の大極殿や朝堂院がそのまま移されたと考えられ、(正式には793年に)難波京は副都としての役割を終えることになった。(もちろんこのことは交易都市としての難波が命脈を絶ったという意味とは直結はしない。)ところでこの移築には当時摂津職(せっつしき・難波宮のある摂津国を治める役職)だった和気清麻呂(わけのきよまろ)も関わっているが、彼こそ宇佐八幡宮神託事件の時に孝徳天皇から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて、泣きながら大隅国へ左遷となった例の男である。桓武天皇の元で名誉挽回を果たした彼は、続いて平安京への遷都に活躍することになった。しかし難波宮の解体によって摂津職(せっつしき)は廃され、摂津国には以後、国府が置かれることになった。
遷都はもちろん交通だけが理由ではなかろう。例えば、母方のルーツである渡来系氏族のうち秦氏(はたし)の拠点にも近く、彼らの協力を仰ごうとした側面もあるらしく、また道鏡と宇佐八幡宮神託事件の動乱に繋がるような寺院勢力の拡大から逃れようとした側面もあるらしい。長岡京の造営責任者は藤原式家の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)(737-785)が任されていたが、彼の母親は秦氏の一族であり、秦氏の協力を得るために、種継が抜擢された側面も見逃せないという。放送大学の番組などを参照に、ここでよく取り上げられる遷都の理由を箇条書きしておくのも悪くない。
①
讖緯説による甲子革令に合わせて
②
水陸交通の便
③
平城京と難波京という体制を一本化したい
④
山背(やましろ)の秦氏など渡来系有力貴族への接近
⑤
天智天皇系に属する桓武天皇に対して、天武天皇系を志す反対勢力の排除
⑥
政治介入の濃い寺院勢力の排除(寺院の移築は認めない)
⑦
前の天皇が没した所から去るという意味も
こうして遷都された長岡京は、平城京や平安京に匹敵する巨大な都であり、大内裏の作りや条坊の統一など、後の平安京に近い都だったと考えられる。しかし反対派を押しのけるように行った強引な遷都のツケが回ってきた。不穏の空気が高まり、都には鎮京使(ちんきょうし)が置かれるほどだったが、785年の9月に桓武天皇が一時平城京に戻っている最中に、造営責任者の藤原種継が眉間を矢で射抜かれて暗殺されてしまったのである。
実行犯から芋づる式に?犯人が連座した。大伴・佐伯・多治比などの氏族から関係者が捕らえられ、またすでに前年陸奥でなくなっていた大伴家持が、あの万葉集の家持が計画に携わっていたと発覚し、さらに早良親王(さわらしんのう)がこれに承認を与えていたとされたのである。死んだ家持は生前にさかのぼって除名を受けて、埋葬も認められず、恐らく隠岐にながされた息子と共に遺体のまんま隠岐に流されたと考えられる。その除名は桓武天皇晩年の詔によって806年に許されることとなるだろう。
しかし家持はもはや死んだ後のことである、生きたままの早良親王には悲劇の最後が待っていた。すなわち、乙訓寺(おとくにでら)に10日ほどの幽閉され、身の潔白を示そうと食を断ち、淡路島に島流しとなった護送の途中で餓死(がし)してしまったのである。一説によると水を与えられずに殺されたとも言われている。遺体はそのまま淡路島に島流しにされた。桓武天皇はさっそく皇后である藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)(760-790)との間の息子、安殿親王(あてしんのう・あてのみこ)を皇太子に付け、盤石(ばんじゃく)の体制を築く。まるで息子のために弟を排除したかのような鮮やかさ。だが真相は不明である。不明ではあるが、このことが、桓武天皇の心に「祟りの予感(今週も祟りかな?)」を植え付けたのだろうか、早良親王は怨霊となって桓武の元に帰って来るのであった。
すなわち桓武天皇の不幸は788年に始まった。妻の藤原旅子(ふじわらのたびこ)(759-788)が亡くなったのである。彼女は自分の即位に手を貸した藤原百川の娘で、786年には大伴親王(後の淳和天皇)を出産していたが、幼い息子を残して亡くなると、翌年789年には、皇太后の高野新笠が亡くなり、翌年790年には皇后の藤原乙牟漏まで亡くなってしまった。さらに安殿親王まで重い病気に掛かった時、桓武天皇の脳裏にははっきりと怨霊の影が浮かんでいたに違いない。それも一人ではなかった。早良親王を真ん中にして、自分が皇太子になる前に亡くなった他戸親王(おさべしんのう)と井上内親王の怨霊が手をたずさえて、あるいは仲良く呪いのダンスなんか踊ったりなんかして、桓武天皇の頭を悩ませたのかもしれないのである。(悪のりするな!)
792年。長岡京は2度にわたって洪水に見舞われ、安殿親王の病気の原因は早良親王の祟りであるという占いの結果が正式に出てしまった。(「祟り」ではなく「怨霊」という言葉は平安遷都の後になってからしばしば登場する言葉であるとどこかに書いてあったがので、祟りと記しておこう。)祟りが原因だとの発表には、あるいは桓武に反感を持つものの駆け引きなどもあるのだろうか。このことが平安遷都を決行する要因になったとされている。
そんな洪水の792年、律令制の成立と共に設けられた軍団が、蝦夷戦争や大陸諸国に対する防衛に必要な陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道を除いて廃止されている。国ごとに一つから複数置かれ、国司の管轄となっていた国民徴兵による軍隊は、この時期維持し続けるほど必要では無かったとも考えられ、徴兵される側にも、管理する側にも、負担を強いるものであったようだ。あるいは逃亡などが恒常化して名目上の維持すら困難になっただけかも知れない。桓武天皇はこれに代わるものとして、以前より名称はあった健児(こんでい)を募る「健児の制(こんでいのせい)」を布(し)いた。これは事実上の地方豪族である郡司や、地方の裕福な家柄の次男、三男などから志願を募り、職業的兵士として動員するものだ。
そしていよいよ平安京へ遷都となるのだが、その前に、桓武天皇の遷都と並ぶ政策である対蝦夷戦争について、平安京遷都前ぐらいまでをまとめておくことにしよう。
時は遡って、光仁天皇(こうにんてんのう)の時代。他戸親王が廃され山部親王(やまべのみこ)が皇太子となった翌年、774年に蝦狄(えてき・かてき)征討の命令が下された。按察使(あぜち)の大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられたのである。この時から、桓武天皇を中心とする対蝦夷戦争の時代に突入し、811年に嵯峨天皇が北上流域を完全掌握するまでの戦争を、時に「三十八年戦争」と呼んだりすることもある。
ここで蝦狄征討という言葉があるが、律令制下の朝廷は、特に東北太平洋側の従わぬ人々を蝦狄(中華思想の北の異民族を指す北狄に由来か)と呼ぶこともあり、様々な変遷を経て大ざっぱに、征夷大将軍が太平洋側から北上、征狄大将軍が日本側から北上、征西大将軍は九州方面へ南下というような大将軍の名称が成立していくともされる。ただし征狄と征夷の使い分けは厳格にはなされていないようだ。
また、蝦狄征討とはいっても完全撲滅を目差して北進する訳ではなく、蝦夷たちの統治に対する反乱、その鎮圧が絶えず繰り返されたらしい。また蝦夷に対しては、帰順したものには録を賜るなどの優遇策を取り、帰順しないものを軍事制圧。この場合には、録を授けた蝦夷に蝦夷を討たせるというシビアな政策も取られていた。蝦夷側が意義を見いだして帰順する場合もあり、異なる文化を持つものに対する偏見や軽蔑は何時の世にも付きまとうが、20世紀的な民族浄化(エスニック・クレンジング)と同質的に扱うのはお門違いである。
この蝦狄征討の時、夷俘(いふ)の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ、これはるのあざまろ)が協力し、蝦夷鎮圧に力があったとされている。夷俘とは俘囚(ふしゅう)の一種であり、俘囚とは征服拡大によって朝廷に下ったり、捕虜となって朝廷に服属した蝦夷たちの呼び名である。だから伊治呰麻呂は蝦夷の血を引く男であった。彼は鎮圧の功績が認められたためか、778年に外従五位下を授かった。しかし上官から侮辱されたのが原因で、780年に政府に反旗を翻し、伊治城を落とすと陸奥按察使の紀広純を殺害。こちらは伊治呰麻呂が中心にいたかどうかは不明だが、すぐ後に多賀城が蝦夷によって略奪放火される事態となった。
この時は藤原南家の藤原継縄(ふじわらのつぐただ)が征東大使(征夷と征東は蝦夷討伐の責任者として時期によって使い分けられている。より正確には、将軍や大使の役職は臨時職なので随時名称を与えられるといったところ。)となったが、どうもこの方、ひどく優柔不断であったのか、都でぐずぐずしている内にうっかり罷免されてしまったのである。このことから罷免大使と陰口を叩かれたかどうだか分からないが、彼は桓武天皇のお気に入りの一人だったから、罷免されるように願い出ただけかも知れない。現に790年には右大臣になっている。そして藤原継縄が太政官を務めている時に、792年の健児の制が布かれているのだ。また、彼の妻は百済王明信(くだらのこにきしみょうしん)(?-815)だったが、彼女は桓武天皇のお気に入りで、継縄の死後は桓武天皇の後宮に入っているくらいだから、そんなことも関係しているのかもしれない。なぜ罷免から脱線したかというと、桓武天皇は彼女に限らず百済王の子孫の娘を何人も後宮に迎えているので、いかに大陸系の血を意識していたかを、参考のために述べたまでである。話を戻せば、蝦夷の方は別の人物が鎮圧に向かって、この蝦夷暴動は一段落することになった。
さて781年に桓武天皇が即位すると、蝦夷征討の機運が高まった。もっとも桓武天皇の気概だけは高まったが、なかなか成果は得られなかった。得られないまま788年に紀古佐美(きのこさみ)(730年代前半ー797年)が征東大使に任命された。「キノコサミ」、もちろんキノコが「寒みぃ」という訳ではない、「きの、こさみ」である。彼の時に歴史に名高い?第1次アテルイ戦争(この呼び名は明確に誤りである)が勃発した。それは朝廷軍にとって切ない負け戦であった。
すなわち789年3月から、反旗を翻す蝦夷軍の拠点の目される胆沢(いさわ)(岩手県胆沢郡)に向けて進軍する途中、おそらく岩手県平泉町の北にある衣川の手前で北上川の西に陣を敷き、おそらく蝦夷に手を焼いて進軍できないで居るところを、5月末に桓武天皇から「早く進軍しなさい君」と叱責が来たので、強行北進を行うことになったようだ。朝廷軍が負けたことは確かであるが、詳しい経緯は不明瞭である。ネットを徘徊したところ、これだという真実は見付けられなかったが、蝦夷軍の首長の一人であるアテルイという人物が、少数の兵力によって大勢力の朝廷軍を見事に討ち果たしたことは間違いないようだ。この戦いを、朝廷軍がコテンパンにされた場所を取って、巣伏の戦い(すぶしのたたかい)と呼ぶこともある。
このキノコ、じゃなかった、紀古佐美の雪辱戦は、794年に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が征夷大将軍(この名称での第一人者とされる)に、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷副使となって行われ、詳細は残されていないが一定の成果をあげたようだ。そして続く801年の蝦夷討伐へ続くのだが、794年が登場したところで、再び遷都の方へ話を移すことにしよう。
長岡京からのわずか10年での移転には様々な要因が挙げられる。責任者の藤原種継暗殺など、反対の運動もあり造営が進まなかったこと。前に見たように、早良親王の祟りとされる身内の不幸や天災が相次いだこと。792年には2度も大洪水に見舞われ、これに追い打ちを掛けることになったが、水の利がよくても洪水が頻発しては都にならない、という考えも生じたかもしれない。(そんなことは前から分かっているという反論もあるが。)他にも都市機能の整備が不十分であったと言われることもあるが真相は分からない。個人的な感想を記せば、やはり792年に2度の洪水があり、安殿親王の病気の原因が祟りと決定したことが大きかったように思われる。
恐らくそうした事もあって、京の名称は地名ではなく、「平安京(へいあんきょう・たいらのみやこ)」と命名された。(「たいらのみやこ」読みが当初の発音として相応しいらしい。)世が平安であるようにとの願いが込められているわけだ。桓武天皇は、平安京を風水や陰陽道などの知識を総動員して築いたが、その結果だかどうだか、この都は千年の都と呼ばれることになるわけだ。(後に平清盛が5ヶ月だけ都を福原に移しているが、これは見るも無惨な大失敗に終わった。)また、中国からの影響で以前より京(きょう)を京都(きょうと)と呼ぶこともあったが、この平安京は開始時から京都とも呼ばれることになった。現在に続く京都(きょうと)という名称の始まりである。
平安京の造営大夫には、「改名虐め」にも耐えたというあの和気清麻呂(わけのきよまろ)が任命された。平安京造営伝説によれば、和気清麻呂が狩りに際して天皇を東山にお連れし、高台から三方の囲まれた盆地を指し示せば、遷都の場所が決定し、また山が城をなすような地形から、この地「山背(やましろ)の国」を改めて、「山城の国」と呼ばせたという。東山から見下ろす京都の眺めは今日でもすばらしいものだが、奈良の都で述べた「風水に則った四神相応(しじんそうおう)の地」が、ここでも採用されたと見ることが出来る。その造りはもちろん長安などの中国に倣ったものだが、全体城壁は設置されなかった。これは首都が外敵に攻略される危機感の違いからかもしれない。その代わり山に都に風水や陰陽道を考慮して寺を配置するなど、悪霊や魑魅魍魎(ちみもうりょう)的なものに対する徹底した防御が張り巡らされることとなった。宮は793年から急ピッチで工事が進められ、同時に難波宮の摂津職(せっつしき)は廃され、難波宮は正式に副都としての役割を終えることとなる。
当時の平安京は、今日の京都の中心からは幾分西側にずれ込んでいた。京都駅の南西西に五重塔で有名な東寺(とうじ)がある。丁度その西側に、都の入り口である羅城門が置かれ、そのさらに西側に西寺(さいじ)が置かれ、東寺とあわせて二つの寺院が入り口近くに控えていたのである。西寺は残されていないが、唐橋西寺公園の辺りが西寺の一角であった。羅城門から北に朱雀大路が延び、今日JR山陰本線が北に向かって走っているあたりが、そのメインストリートのあった場所だ。朱雀門(すざくもん)を通って大内裏(だいだいり)に到るが、大極殿(たいごくでん・だいごくでん)のあったのも今日の京都御所ではなく、もっと西側である。今日には大極殿跡というさえない石碑が残される場所だ。(京都御所は南北朝以後にあの場所に置かれている。)
平城京にもあったのだが、政治中枢である朝堂院(ちょうどういん)の正門として応天門(おうてんもん)があり、今日の平安神宮は、平安京の応天門から朝堂院を越え大極殿までを、随分スケールを小さくして復元したものになっている。(この縮小の度合いこそ、日本人の文化に対する意識の度合いだと主張する人もいる。)このように今日の中心線とずれた理由は、平安京の西側部分にあたる右京が、湿地を含むこともありどうしても発展せず、左京ばかりが栄えまくって、さらに京を超えて東に住宅地や寺院建築が拡大していったためである。これは寺院名所のマップを見ても分かることだろう。全然関係ないが、調べ物のついでに、東京都を首都であると直接定める法令はないそうである。
「鳴くよ(794)うぐいす平安京」
以外にはないでしょう。
さらに加えるなら、
「桓武も怨霊に泣くよ」
と続けてもいい。
(・・・君は真面目なのか不真面目なのか。)
2008/12/9